はらだしと天邪鬼とナミダのかたおもい(後編)
◇◇◇◇
「おっまたせしましたー! 珠子特製のお寿司の登場でーす」
原田さんの恋バナの余韻をぶち抜いて、珠子姉さんがガラガラとカートを押しながら登場。
「おいお前。お前、今『あれ? あたしまた何かやっちゃいました? なんてねっ』って思っただろ」
「せいかーい! 心で橙依君の好きなアニメの真似してみました!」
心はここにあらず、異世界にあり!
そんな事を考えながら珠子姉さんは寿司下駄を配膳。
下駄の上には葉っぱで巻かれたにぎりと巻き物と軍艦。
「本日は古代ローマスタイルですから、手でつまめるようにしました。醤油もジュレにして乗せていますから、そのままどうぞ!」
状況を理解せず、珠子姉さんはいつもの調子で料理を説明。
「これが。”嬉しい涙と辛い涙が同時に出るような料理”なのかしら」
「それに”天邪鬼に花を持たせる”料理だそうだ。そんなの天が許すのかな」
九段下さんと若菜姫さんが首をかしげながら寿司を見るけど、珠子姉さんはそれに微笑。
「……油断しない方がいい」
僕は珠子姉さんの心を読んで、この寿司の正体を理解。
美味しいのも理解。
だけど覚悟が必要。
「くひっ、考えてもしょうがないですぅ。自分はこの寿司を知っていますから、ちょっとはわかるですよ。ふひっ、おいしいっ!」
濡れ女さんが、葉にくるまれたにぎり寿司を一番乗り。
僕は二番乗り。
パリッ、ピリッ
柔らかく撒かれているのに葉にはしっかりとした弾力。
そこから香ばしい燻製の香りと特徴のある魚の味、燻製鮭。
甘い酢飯との相性抜群、美味。
でも……
パリッ
パリッ
パリッ
「くっ、これは効くでござるな!」
「ツーンと来るわ!」
「涙が出ちゃう!」
この山葵の刺激は僕の目を濡らす。
「ふひぃー、この山葵の葉で巻いた”わさび寿司”の刺激はキますですぅー! わかっていても涙がちょちょぎれますぅー!」
「ああ、濡女子さんは四国出身でしたね」
「はひっ、そうですぅー! ですから和歌山名物の”わさび寿司”は知っていたですよ」
”わさび寿司”
珠子姉さんの心によると、それは山葵の葉で巻いた名物寿司。
山葵の葉で巻くことで保存性を高め、内陸でも食べられていた寿司。
「なるほど、これは涙が出る。しかし、これで大体理解した。この若菜姫なら次の展開を読むのは容易。この巻物は”涙巻き”とみた。醤油ジュレで巻き物の中心を隠しているのが小憎らしい」
「あら、バレていましたか。そうです、その巻き物は”涙巻き”。巻かれているのはワサビだけです。これでもちゃんとした寿司メニューのひとつですよ」
”涙巻き”を口に入れると、鼻を抜けるツーンとした刺激。
だけど、それはスッキリとして、酢飯と海苔、そして山葵そのものの豊かな味が口内に拡散。
「ふっ……どうやら雨が降ってきたようだな。おい渡雷『まーた何かの中二ネタでござるか』と思っただろう」
「……雨だよ」
佐藤と僕が降らないはずの室内の雨に目を濡らす。
もちろんネタ。
「刺激が強いけど、おいしいね天野君。あとはトロロの軍艦かな。珠子さん、これもワサビが隠れているんですか?」
「いいえ、それにはワサビは含まれていませんよ。ただ、秘密をちょっとばらすと、その軍艦の酢飯は麦飯です」
「麦飯? ああ、そう言えば今日は節分でしたね」
「原田さん節分と麦飯と関係あるの? 節分は豆とか恵方巻じゃないの? ねえ、ヒーロー。私と恵方巻でポッキーゲームしない?」
「……無理、無体、無茶。それじゃ恵方が向けない」
節分に太巻きを幸運の方向、恵方に向いて食べる習慣とポッキーゲームは論理的に破綻。
どっちかが恵方を向けない。
「心の清い橙依の言う通りだ。道化だな九段下は」
「これだから胸の大きい女は。知恵が浅いですぅ」
「あら、知らないの? 私の恵方はヒーローの方角よ」
「……なにその超理論」
「超ヒモ理論よ」
ヒモの深い意味は考えたくないから、頭から除外。
「ポッキーゲームはさておき、九段下さんが知らないのも無理ないわね。最近は恵方巻の方が広まっているから。でもね、昔は節分といえば麦飯や麦トロ飯を食べる日だったの。栄養のある麦飯を食べて無病息災を祈るとか、麦飯と相性バッチリのトロロを食べて健康を保つとか、山芋を鬼の金棒に見立ててそれをやっつけるとか。ふふふ、天野君はこれを食べられるかしら」
鬼をやっつける。
その言葉に天邪鬼の天野の耳がピクン。
「はっ、こんなもんで俺がやられるかよ。それに知らないのかい。天邪鬼は金棒なんて持たないのさ」
「そうね。天野君は乱暴な鬼じゃなくって、とっても優しいもんね」
天野と原田さんのふたりがそろって麦飯とトロロの軍艦を口に輸送。
「ほあっ、なんだこれは!? これはトロロじゃねぇ!」
「すごい! おいしいっ! 磯の香りと! 海の旨味と! コクたっぷりのほろ苦さと!」
軍艦を食べた瞬間、ふたりの目が拡大。
そして、次の軍艦に手。
「こいつはいけねぇ! 手が心の言うことを聞かねぇ! 手が天邪鬼だ!」
「あたしも心が天邪鬼!」
ふたりの寿司下駄からは軍艦は瞬殺。
行き場の失った手は行ってはいけない所へ。
その目標に気付いたのか、みんなが自分の軍艦を守護。
「……いいよ。僕のをあげるよ。ふたりには助けられたから」
僕は僕の寿司下駄をスッ。
”さまようのろい”の襲来、酒呑童子との飲み比べ対決、ふたりがいなければ僕の勝利はなかった。
だからこれはそのお返し。
「橙依! 俺の体だけの心の友よ!」
「ありがとう橙依君! おかげであたしと天野君の初めて心がひとつに!」
ふたりの動きと心は完全に一致。
僕の寿司下駄の軍艦は瞬時に消失。
「まったく天野殿だけでなく原田殿まで意地汚いでござるな。橙依殿、拙者のトロロ軍艦をひとつ分けてへっぇぇぇえー!?」
トロロ軍艦のひとつを口に入れながら、僕に残りひとつを分けようとしてくれた渡雷の口から変な発声。
「ヒーローだけが食べられないなんて可哀想よ。私のをひとつ分けるから、あー……んんんんふぅ!?」
「心の清いお前に、この若菜姫からごほうびを……をおほぉーー!?」
「あなた。自分と一緒に分け合って食べるですふぅうぅぅう!?」
他の女の子たちも同様、ちょっと喧騒。
「おいおい、どうしたんだよ? 橙依にわけてやるんじゃなかったのかよ」
ひとつ残ったトロロ軍艦を前に身悶えする4名を見て、天野がニヤニヤと笑う。
「くっ、拙者は橙依殿との義があるとはいえ、これはしんどいでござる」
「試されてる! 私のヒーローへの愛が試されている! なんて苦しいの!」
「この美味を食べて喜ぶお前が見たい! だが、それ以上に食べる悦びに震えたい! 嗚呼、若菜姫の決断やいかに!?」
「ふひっ! 自分は、自分はあなたのためなら何でも捧げる覚悟があったのに! 弱い! 弱い! 心の弱い自分が辛いですぅーーーー!!」
口を、頭を、腕を、胸を抑えながらトロロ軍艦を食べているみんなが苦悶。
それだけで理解。
軍艦の味は極上確定。
「まったく、こいつの前には俺達の友情も女どもの愛情も形無しだな。ほら、橙依。一個食えよ」
そんな中でも僕の前に差し出されたのは佐藤の軍艦。
「……いいの?」
(いいのさ。俺はこういう精神攻撃耐性のスキルがある。それに俺はみんなの『うめぇ!』って心の声で腹がいっぱいなのさ)
僕は覚の佐藤からいつでも心を読んでいいって許可を所有。
その許可と僕の能力が、佐藤のプレゼントの真意が伝達。
「……わかった、ありがと。珠子姉さんの料理は精神攻撃じゃないけど」
「似たようなもんさ。おおっ! すっげぇな! こりゃこいつらじゃ参っちまうのも無理ないぜ」
佐藤が美味しそうにトロロ軍艦を口にするのに続けて、僕も口へ。
パリッ、トロッ(ワクワクッ! ザブーン!)
「なにこれ!? 口の中が海水浴!?」
パリッとした海苔のサーフボードに乗って、僕の口に現れたのは海の化身。
ほどよい磯加減と甘い貝の旨味。
それは巻く波のように僕の口の中で螺旋を描き、舌をトロトロの食感が包み込む。
その波を受け止める米の大地はどこまでも芳醇で、海と大地の狭間の美味空間に僕は墜落。
「お、おお、おおお……、これ、とってもおいしい」
語りたい言葉は多数。
だけど、それを台詞にすると美味の記憶と言葉の齟齬で頭がおかしくなりそうで、僕が言えたのは極めて単純な感想限定。
このトロロ軍艦の正体を知っている僕でこれだから、他のみんなの衝撃はきっとそれ以上。
ポロロン
ミタマさんの琴の音が無ければ、もうしばらくトリップしてしまうような、そんな桃源郷。
あった! 桃源郷は本当にあったよ! 桃源郷は海の中にあったんだ!!
「心で何バカを言ってんだ。海にあるのは龍宮城だろ」
「……ごめん、ちょっと混乱。でもこのアワビトロロの軍艦。とってもおいしい」
僕は軍艦があった場所を凝視。
「これってアワビのトロロでござったのか!?」
「アワビトロロ?」
「この若菜姫も聞いたことがあるが、これほどとは……」
「あびぃ!」
軍艦の正体を知ったみんなの視線が、その創造主である珠子姉さんに集中。
「そう。これはトロロはトロロでもアワビトロロ! 殻を外したアワビからヒダと肝を切り取って、身も黒い表面を切って白い部分だけにするの。そしたら白い部分をおろし金ですりおろして、さらに黒い部分とヒダを煮て作った出汁を加えてすり鉢で滑らかになるまで擦るの。トロロになるまでね。あとは軍艦にして肝醤油のジュレを少し合わせれば完成! 金と根気は要るけど結構簡単!」
調理で残ったアワビの殻を手に珠子姉さんが説明。
「たったそれだけなのに、こんなに美味しくなるのでござるか……」
「新鮮なアワビを使わないといけないけどね。アワビのコリコリとした食感もいいけど、アワビの旨味を堪能するならこれが一番じゃないかしら」
「まったく、料理ひとつで俺達の友情を壊そうとするなんて、やっぱ人間の世界ってのは恐ろしいぜ」
覚の物語のありふれた終幕を口にしながら佐藤は肩をすくめる。
「愛情と肉欲の狭間の辛さで涙が出そうだったわよ。これが”嬉しい涙と辛い涙が同時に出る料理”ってわけね。ちょっと意地悪だわ。ヒーローもそう思うでしょ」
「……そう思わない。実はこの寿司メニューには第二段階がある」
「その通り! 実はこの料理のサブタイトルは”かたおもいのナミダ!”」
ジャキーンとアワビの殻を手に珠子姉さんがポーズ。
「ふひっ!? ”片思いの涙”!? 確かに辛そうな名前ですけど、どうしてそんな名なんですかぁ?」
「ああ、そういうことか」
「あら、若菜姫さんはわかりますの?」
「ああ、知ってる。”かたおもい”も”なみだ”も寿司の業界用語さ。玉子を玉と呼んだり、酢飯をシャリと呼ぶのと同じようなものさ」
「さっすが若菜姫さん。業界用語にお詳しいですね。寿司業界ではワサビのことを”ナミダ”って呼ぶの。涙が出る辛さがあることが由来ね。そしてアワビは”かたおもい”って呼ぶのよ。なぜだかわかる?」
アワビの殻を手に小躍りしながら珠子姉さんが僕らに質問。
ものすごいヒント。
「わかりましたっ! アワビは片側にしか殻がないからですね。だから”片側が重い”、転じて”かたおもい”なんでしょ!」
手をポンっと叩き、原田さんが正解を口にする。
「その通りっ! 今日の寿司セットは美味しさで嬉しさを、”かたおもい”の名前で辛さを、ワサビで辛さを表現してみました!」
珠子姉さんはそう言うと、天野に向かってフフン。
珠子姉さんの心が『どう? あたしの嬉しい涙と辛い涙が同時に出る料理は?』って言っているのが、能力を使わなくてもわかる。
「いいぜ、それくらいは認めてやるよ。相変わらずの腕だな。だが、最後に俺に花を持たせるって話はどうなった? まさか、ワサビのツーンという刺激で鼻を摘まませるとか言わないよな?」
天野も負けてはいない。
このお題の最後の一手、”花をもたせる”で対抗。
「いいえ、そんなことは言いません。あたしが最後に持たせるのはこれですっ! はいっ、おあがりよっと」
僕と一緒に見た料理アニメの決め台詞を口に、珠子姉さんはお茶を配る。
「ああ、そういうことか」
「若菜姫さん、またわかりましたの?」
「今日のメインは寿司だからな。寿司の業界用語で茶のことを”あがり”というのは知ってるな」
「聞いたことがありますわね」
「寿司屋で最後に出す茶のことを”あがり花”とも言うのさ。元は花街の言葉さ」
「そうです。元は花街でお客が帰る、つまりあがる時に出したお茶が語源ですね。あ、花はお茶の隠語です。茶という色はあまり鮮やかではありませんから避けられたのですよ。現代でも番茶も出花という表現で少し残っていますね」
「それがどういうわけかあがりだけで茶を示すようになったみたいだけどな。うん良い茶だ」
そう言って若菜姫さんはあがり花を飲む、寿司下駄は空。
というかみんな空。
僕達もあがり花を飲んで満足。
「ふふーん、これがあたしの『嬉しい涙と辛い涙だけじゃなく辛い涙までも流してしまう上に最後に花を持たせる料理』ですっ! どう? 天野君」
勝利を確信した顔で珠子姉さんが天野に質問。
僕らの舌にも珠子姉さんの勝利は一舌瞭然。
だけど……
「ああ、しょうがないなぁー、負けだ負け、俺の負けさ」
「おお、珍しい! 天邪鬼の天野君がこんなに素直に負けを認めるなんて。じゃあ!」
そう言って珠子姉さんは原田さんを見る、期待に満ちた目で。
報酬の天野と原田さんの恋バナを求める目で。
「ええと……、それがですね……」
「約束したからな。ちゃんとブツは渡すさ。へへっ、おい橙依。こういう時は何て言うんだったっけ? この前観たギャンブル映画のやつだとさ」
「……報酬は出す、出すが、今回はまだその時と場所の指定はしていない」
僕が口にしたのは、天野たちと観た鉄骨綱渡りギャンブル漫画原作の悪役の台詞。
「なにそれ! そう言っていつになっても支払わない気ね! この天邪鬼!」
「違うぜ、この天邪鬼の天野様は一味違う。ここのやつらはそれをわかってるさ」
「え、それってどういう……」
珠子姉さんはそこまで言って、何かに気付いたのかハッと僕らを見回す。
「まさか!」
「そう、お前の望む恋バナは話す。いや、さっき話しておいた。先払いってやつさ」
珠子姉さんが料理対決に負けることは稀に存在。
でも、そんな時は決まって”目的を達成する”という形で勝利。
いわゆる”試合に負けて勝負に勝つ”ってやつ。
今日、天野がやったのはそれ。
”スペシャルな料理”を代金に、”恋バナ”を話す。
なら、先に”恋バナ”を出してもいいという論理。
うーん、天邪鬼。
「こ……、このあまのじゃくー!!」
顔を真っ赤にして珠子姉さんは叫ぶ。
うん、初めてみたかもしれない。
珠子姉さんがやりこめられた顔。
そしてこんな天邪鬼満点の笑顔をした天野を見たのも初。
「え、えっと。原田さん、さっきの話をもう一度しては頂けませんか?」
「うーんと、きっと天野君が嫌がると思うからダメです」
天野の顔をチラリを見て、原田さんは口の前でバッテン。
「ね、みなさん、あたしに原田さんと天野君の恋バナを教えてくれません?」
「あら、私が協力するとでも?」
「この若菜姫も敵に塩を送る趣味はない」
「ふひぃ! あんな話はずかしいですぅ!」
「人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られるから嫌だね」
「拙者、口下手でござる」
「……天野には恩がある。いくら珠子姉さんでも友達は売れない」
ここに居るみんなは天野に借りがある。
”夢のせいれい”との闘いで、夢の中に連れ込まれた僕達の身体を守ってくれた借りが。
「ふ、ふーん、そういう気ならあたしにも考えがあるわ! 実はさっきの寿司まだおかわりがあるんでーす!」
ドドンッ
珠子姉さんがカートの下から取り出したのは何段もの寿司桶。
そこには緑の葉で包まれた大量の寿司と軍艦。
もちろん、追加のワサビ寿司とアワビトロロ軍艦。
さっきの極上の味を思い出して、みんなの口がジュルリ。
「わさび寿司の中身は燻製鮭だけじゃなく、戻り鰹のタタキや、鮎の燻製といったスモーク三昧! わさび寿司はスモーキーな味わいととても合うの! もちろんアワビトロロの軍艦のおかわりも完備! でも、それだけじゃない! ジャジャーン! ”ちっちゃなかたおもい”ーー!」
珠子姉さんが取り出したのは小さいアワビの殻。
「ふっ、ふえへぇえええー! あれは!? ”ながれこ”!? 」
「ながれこ? 何だそれは?」
「”トコブシ”のことですぅ! 見た目はちっちゃいアワビなんですか、味はアワビに匹敵するというか、トコブシの方がおいひぃって言う人も多いんでふぅ! ひょっとして、ひょっとするとほぉ!」
「はい、四国では”ながれこ”とよばれるトコブシを同じようにトロロにしました!」
「ふひぃぃぃぃーー! たべたはぁーーーーい!! あれ、ぜったいうまいやつぅぅぅー! ふっふっふひひぃ!」
トコブシトロロの魅力の前に濡尾さんが過呼吸。
珠子姉さんの心を読むまでもなく、あの軍艦もきっと美味。
「そしてぇ! 今日は濡れ女さんの歓迎会と聞きましたから、彼女の地元の魅力をしっかりわかってもらえるよう、四国の海鮮の他に酒もご用意しました! はいっ土佐鶴承平の菰樽ですっ!」
珠子姉さんがパチンと指を鳴らすと、緑乱兄さんがエッホエッホと酒樽を輸送。
「ほいっっと、祝いの席につきもんの樽酒おまちっと。おおっ、べっぴんさんばかりで羨ましいねぇ。俺っちも混ぜてくれよ」
「ひひです、ひひですっ、お義兄さんなら大歓迎ですっ! ああ、こんなに歓迎されるだなんて、自分とあなたの門出は祝福されたも同然ですぅーーー!」
「祝福するのは濡尾さんの来訪だけっ! ヒーローと祝福されるのは私! 彼だけのヒロイン月子!」
「違うぞ九段下! 心の清い君との門出の舞台に立つのはこの若菜姫さ!」
もう古代ローマスタイルなんて、どっかにいっちゃたように自称ヒロインたちが立ち上がって主張。
「ふふふ、こうやって美味しい料理と酒をたらふく食わせれば、上の口も緩くなるってもんよ」
そして、僕のヒロインはヒロインらしからぬ謀略。
「嬢ちゃんたち、そいつは乙女の台詞としてはどうかと思うぜ」
「……僕もそう思う」
ポロロン
「それでは、ここでひとつ詩を。この場面にふさわしいのを詠いましょう。お代はお酒を一献、ニ献、三献で。古いなじみの李白の詩」
「あ、ミタマさん。この場面での李白の詩といえば、アレですね」
「はい、前に一樽が有る詩、その第二章……」
ポロロン
そうしてミタマさんが紡ぎ出した詩は、珠子姉さんの心に浮かんだ通りの詩。
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前有一樽酒行 其二(前に一樽の酒が有る詩 その2)
琴奏龍門之?桐 琴は龍門の緑桐を奏し
(奏でられる琴は龍門の緑桐製)
玉壺美酒清若空 玉壺の美酒は清きこと空の若し
(玉壷に満たされた美酒は壺が空に見えるほどに透き通り)
催弦拂柱與君飲 弦の柱を払ふを催し君と与に飲む
(琴を爪弾くのを促し、君と共に酒を飲む)
看朱成碧顏始紅 朱を看て碧と成せば顏始めて紅し
(朱が碧に見えるくらい酔って、僕の顔は初めて紅くなる)
胡姫貌如花 胡姫の貌は花の如く
(胡姫の顔は花のように美しく)
當櫨笑春風 櫨に當いて春風に笑う ※櫨:古代中国の販売と飲食を兼ねた酒屋
(酒処の看板娘は春風のように笑い)
笑春風,舞羅衣。 笑う春風は、羅衣に舞ふ
(笑う春風は薄衣で舞う)
君今不醉欲安歸。 君、今酔わずして安くに帰らんと欲するや
(ここで酔わなければ、いつ酔うってのさ)
※僕の心情を込めた意訳
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ポロロン
僕は漢詩に詳しくないけど、珠子姉さんの心の解説で理解。
黄貴兄さんのような権能はないけど、彼女の美声からは、なんだか酔いたくなるような誘惑。
「んじゃ橙依君が音頭を取りな。なんせ、この観劇会の切っ掛けはお前さんって話なんだからよ」
肘で僕を軽く突きながら、緑乱兄さんが言う、おっさん仕草。
「……わかった」
昔の僕だったら、絶対に遠慮。
だけど、今の僕はそれを簡単に許諾。
僕も変わったのかな、それとも珠子姉さんが僕を変えてくれたのかもしれない。
少なくとも、昔の僕より今の僕の方が、僕は好き。
「ようこそ東京へ、濡れ女さん! ようこそ濡尾 名護美さん! 僕の棲む『酒処 七王子』へ! 愉快で素敵な料理の待つ店へ! さあ、それでは! 彼女の上京を祝って! カンパーイ!!」
僕が杯を掲げると、みんなが唱和。
「「「「カンパーイ!!」」」」
「ありがとう、みなさん! ありがとですぅーーー!」
濡尾さんはちょっとだけ嬉し涙を流した。
…
……
………
その後はもうむちゃくちゃ。
濡尾さんの歓迎会のはずだったけど、酔った緑乱兄さんが踊り出して、舞台の花はあたしだ!と若菜姫も踊り出し『負けるな原田!』と原田さんも踊り出した。
ちなみに”はらだしおどり”じゃない。
そして濡尾さんも踊ろうとして濡れた髪に足を取られてみんながすってんころりんするまでがワンセット。
”はらだしおどり”なんかなくても笑っていた。
”はらだしおどり”の幸運なんてなくても、今がハッピーエンドだってみんな思ってた。
佐藤がそう言っていたから、これは確実。
「んもう、どうしたの橙依君。飲んでる? 楽しんでる? あたしの恥ずかしい心をちゃんと読んでるぅ~」
「……珠子姉さん、緑乱兄さんみたいなこと言わないで」
「だって、楽しいんだもん。あとでこっそり原田さんの話を聞かせてね。聞かせてくれなきゃ、ぐへへ」
ポンッ
「うまくやれよ橙依」
そう言ってすれ違いざまに僕の背中を叩いたのは天野。
なるほど、これは天野なりの僕への友情の証ってわけ。
僕に珠子姉さんとふたりっきりで話をさせるための。
ありがと、天野、僕の最初の友達。
その日はとても楽しかった。
歓迎会が終わった後、珠子姉さんとふたりっきりで掃除をすることも。
終わった後、珠子姉さんに原田さんと天野の馴れ初め話をすることも。
こんな楽しい日々がずっと、ううん少なくとも人間の時間では何年も何年も、それが幾年と呼ばれるまでは続くだろうと思っていた。
……だけど、この時の僕は知らなかった。
やがて、僕は彼女のことを気軽に『珠子姉さん』って呼べなくなる日が来ることを……。




