蛇女房とブホブホグレゴリザンス(その1) ※全4部
世界は広い。
この日本で行われている妖怪王争いも、世界的に見ればな小さな出来事に過ぎないでしょう。
世界という三次元的だけでなく、時間も含めた歴史という四次元的な視点を持てば、さらにちっぽけなのは想像に難くありません。
ましてや、この『酒処 七王子』を訪れたひとりの”あやかし”の縁なんてものは、極めて矮小
ほんの少しの偶然が重なって生まれた取るに足らない出来事。
ですが、それが切っ掛けで動き出した歴史は、ひょっとすると大きいのかもしれません。
SF用語の”バタフライエフェクト”という所でしょうか。
地球の裏側の小さな蝶の羽ばたきが、因果を通じて嵐すら起こす切っ掛けとなることを示す言葉です。
今回のお話も始まりは小さな出来事でした。
梃子でも動かぬとある蛇の心。
それを動かした切っ掛けもシンプルなもの。
蛇の”あやかし”なら好物は蛙だろうという単純な考え。
誰だって思い着く工夫も意外性もない思考回路。
ですが、それが正解へと、歴史を動かすかもしれない一手になるとは……。
世界は意外と単純で、少しロマンチックなのかもしれませんね。
私は知恵と知識と知性こそ世界を動かすと信じる、ひとりの男。
八岐大蛇と得心の女神の落とし種。
『酒処 七王子』に棲む蛇の”あやかし”。
名は蒼明です。
クイッ
◇◇◇◇
ザッ、ザッと私たちは奥多摩の山奥を進みます。
「蒼明様、こっちでんちゅ、あの女が棲む沼はこっちでんちゅよ」
先導するのは私の近臣”赤殿中”。
『赤殿中さん、気をつけてくださいね。あの沼は今でも少し毒気が漏れているという話ですから』
私の掌の中からアドバイスをしている紅い宝玉が、私の側近”迷い家”さん。
これから行く先に危険が無いと言えば嘘になります。
ですが、まだその危険は生まれていないでしょう。
それよりも重要なのは説得です。
こんな手土産で彼女の心が解けるとも思えませんが、きっかけくらいになれば……。
手に持った紙袋から伝わる温かさを感じながら、私たちは夜の森を進みます。
ガサッ
木々が開け、森の中に黒くよどんだ沼が現れます。
そして、その沼辺の岩に座る”あやかし”がひとり。
月の光を受けた肌は雪のように白く、顔立ちは西洋のモデルを思わせるような美しい目鼻立ち。
その姿を見れば、百人が百人、彼女を美女だと評するでしょう。
ただひとつ、惜しい所があるとすれば、彼女の瞳が固く閉じられている点でしょうか。
「初めまして蛇女房さん。私の名は蒼明、この狸は赤殿中、こちらは迷い家です」
「こんばんはでんちゅ!」
『こんな姿で失礼致します。迷い家と申します』
私は彼女に向かって軽く一礼をします。
彼女のことは事前に調査済です。
彼女はこの沼を守護する”あやかし”。
はるか昔に人間の男と結ばれ、その正体が露呈し別れ、今は人知れずここに棲む”あやかし”。
「こんな辺鄙な場所にようこそおいでなさいました。おや、それは……」
整った鼻をこちらに向け、彼女の閉じられた眼が紙袋に向きます。
「これはお近づきの印です。お口に合うといいのですが……」
「温かいうちに食べるとおいしいでちゅ!」
私が紙袋を手に蛇女房に近づくと、彼女は一瞬ビクッとした反応をし、やがてホッと胸をなでおろします。
「貴方はこの沼の毒気が平気なのですね」
「私も蛇の”あやかし”ですから。この程度は平気です」
沼から発生している毒の気は、普通の人間や弱いあやかしなら体調を崩してしまいますが、私には効きません。
蛇のあやかしは毒に強い特性を持っているのです。
ガサッガサッ
「まあ、これは蛙! それもこんなに大きい!」
「そうです。食用蛙の唐揚げです。冷めないうちにどうぞ」
袋から出てきたのは蛙の脚の唐揚げ。
『酒処 七王子』のテイクアウトメニューのひとつ。
目が見えぬ彼女であっても、その匂いでわかったのでしょう。
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて失礼致します」
ザクッ
「おいしゅうございます。柔らかいのに歯ごたえが十分で、最初のザクッとした食感も食味を高めております。身離れがいいのは揚げ方が巧みだからなのでしょうね」
足先のヒレの部分を軽く持ち、彼女は蛙の唐揚げをカプリカプリと食べ進めます。
上品に、それでも口の進みは早く、蛙の唐揚げは、その姿を骨に変えていきます。
珠子さんでしたら『こういうのは、ガブッとかぶりつくのが美味しいんですよー』とか言うのでしょうね。
「ごちそうさまでございました。久しぶりに人里の食べ物を楽しめました」
骨だけになった蛙の脚を紙袋にしまいながら、蛇女房さんは恭しく礼をします。
「さて、噂に名高い八王子の大蛇様が参りましたのは、やはりこの沼が目的でございましょうか」
さっきまでの柔和を思わせる表情とは打って変わって、蛇女房さんは私を開かぬ目で真っ直ぐに見つめます。
おそらく、彼女にとってはこれが初めてではないのでしょう。
アレ目的の来訪者は。
「話が早くて助かります。この沼の結界を解いて頂きたい」
私の目にも視えます。
この沼に張り巡らされた十重二十重の結界。
おそらく、元々あった結界に彼女がさらに妖力を注いで強化したのでしょう。
多重構造が頑健なのは人間の建築物を見ても明らか。
この結界を力づくで壊すのは極めて難しい。
私や酒呑童子が全力を尽くしてやっと突破できるかどうかでしょうね。
「その申し出は、この沼に封じられているのが大きな厄災と知ってでございましょうか」
「はい、より大きな厄災を防ぐため、それが必要なのです」
「申し訳ありません。失礼な発言ではございますが、その言葉は信じられません」
まあ、そうでしょうね。
私がそこに至った理由や情報を伝えたとしても、簡単には信用されないでしょう。
ここはやはり足繁く通って、少しずつ信頼を得るしかないでしょう。
問題は、そこまで時の猶予があるかどうかですが……。
「わかりました。貴女の信頼を得るまで努力しましょう」
急いては事を仕損じます。
ここで争っても事態は好転しません、ならば、一歩一歩進めるのが吉です。
私は軽く礼をすると、クルリと踵を返します。
「お待ちになって下さい」
「何か?」
「貴方は今まで訪れた”あやかし”とは違うようです。土産に食べ物を持ってきたのも初めてでございました。わたくしがこの沼を守護しているのは、人の世の平穏のため。貴方がおっしゃる”より大きな災い”が本当なら、わたくしは貴方に力を貸したいとも思っています」
落ち着いた声で彼女は私に向かって語りかけます。
「貴女は人間のためならば、私に協力することもやぶさかではないと」
「はい。貴方は御存じでしょうか? わたくしが昔、人と子を成したことを」
私は知っています、蛇女房の伝説を。
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ある日、善良な村の若者が山の中で白蛇を助けました。
するとその晩、美しい娘が若者の家を訪ね、やがてそこに居付き、嫁となりました。
ほどなく、娘は妊娠しますが、娘は若者に向かって言います。
『これから離れで出産に入りますが、良いと言うまで離れを決して覗かないで下さい』
よくある話です。
ここで覗かないという展開はありえません。
若者は約束を守っていましたが、あまりにも長い時間が経過し、ついには赤子の産声が聞こえた時、
『生まれたのならよいだろう』
そう考えて覗いてしまうのです。
若者が見たのは巨大な白い蛇。
赤子を愛おしそうにとぐろの中で抱く蛇の姿でした。
正体を知られた蛇は『蛇でもいいので、ここに居てくれ』と言う若者と泣く赤子を残して山に戻ります。
赤子を育てる糧として己の片目をくりぬいて。
赤子はその蛇の、母の目をしゃぶって育ちますが、やがてしゃぶり尽くしてしまいます。
泣く赤子を連れて山に入った若者は、再び女房である蛇と再会し、事情を説明します。
しかし、やはり蛇は人里で暮らすことは出来ないと語ります。
ですが、彼女は赤子のためにと残った片目をくりぬいて与え、そして姿を消してしまうのです。
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「はい、知っています。貴女が両目を失い、悲しい結末を迎えたことも」
伝説ではその赤子は立派な若者に成長したとありますが、母とは二度と逢うことはなかったとも伝えられています。
「いいえ違います。わたくしの望みは息子の幸せ。たとえわたくしが光を失ったとしても、それが全てです。風の噂で息子は立派に成長し、街へ出て行ったとも聞いています。それだけでわたくしは満ち足りているのでございます。わたくしは、わたくしの脳裏に焼き付いた息子の姿だけで幸せなのです」
「失礼しました」
愛するものの幸せがあれば、自分の境遇は関係ないという考えは理解できます。
共感もします。
なぜなら、それは私も同じですから。
ですが、その境地に至っているのは私ぐらいだと……。
「どうされました? 少し悩まれたような気配を感じましたが」
「いえ、自分の増長を悔いていただけですよ。私は貴女の愛を、母の愛を過小評価していたようです」
私の言葉に蛇女房さんはクスリと笑います。
「ふふっ、正直な御方。貴方は今までこれまでの来訪者とは少し違うようですね。いいでしょう。ひとつわたくしのお願いを聞いては頂けないでしょうか」
「なんなりと」クイッ
私は少し芝居ががった素振りで眼鏡を直します。
「わたくしが夫と息子と別れて200年近い月日が流れています。息子は天寿を全うしたに相違ありませんが、その血脈は今も人の社会の中に続いていると信じています」
「おそらくそうでしょうね」
「そこでお願いがございます」
そう言って蛇女房さんはひと呼吸置きます。
「貴方が、わたくしを引き合わせてくれたなら、わたくしが息子の子孫と確信の持てる相手と引き合わせてくれたなら、貴方を信用します。”より大きな厄災”を防ぐため、ここの”大きな厄災”を解き放つのに協力しましょう」
彼女の望みは至極当然。
ですが……、いや、今はそれを考える時ではありませんね。
「わかりました。確約は出来ませんが、貴女のために尽力しましょう」
「ありがとうございます。あと……」
「さっきのごとうべ……いや、違いますね。先ほどの蛙、とってもおいしゅうございました。あんな大きな蛙を食べたのは初めてでございました」
「あれは牛蛙ですよ。牛蛙は100年ほど前に食用としてアメリカから輸入され、日本で野生化したものです」
珠子さんから得た知識を私は披露します。
「そうですか、やはり夫と一緒に調理して食べた蛙とは違うのでございますね……」
「よろしければ、またご馳走しますよ。他にも美味しい蛙料理をご用意します。これは確約できます」
「それは嬉しゅうございます。また、お会いできるのを楽しみにしております」
「はい、それではまた」
そう言って私たちは蛇女房さんが棲む沼から立ち去りました。
彼女は月の光の中、その白い肌をなお白く輝かせ、岩の上に佇んでいました。
◇◇◇◇
さて、どうしたものか……。
蛇女房さんの棲む沼から離れ、私は思案しながらザッザッと歩みを進めます。
『蒼明様、どうしましょうか? 東北中の”あやかし”に召集をかけて捜索させましょうか? それとも役所に誰かを潜入させて戸籍を調査させましょうか?』
「でんちゅもがんばるでんちゅ! 日本各地のたぬたぬたちに号令をかけるでんちゅ! 狸海戦術でんちゅ!」
「いえ、それにはおよびません」
迷い家さんと赤殿中の申し出を私は断ります。
『蒼明様には、何か策がおありなのですね!』
「さすがでんちゅ! 蒼明様は賢いでんちゅ!」
ふたりの称える声に、私は首を横に振ります。
「逆ですよ。この時点で私は無理だと確信しているのです。ですので、不要な労力は避けるべきです」
『どういうことでしょうか?』
「蒼明様が簡単にあきらめるなんて、少し変でちゅ」
「変ではありません。蛇女房さんの息子はおよそ200年前、江戸時代末期から明治の人物です。武士や名主ならともかく、ただの農民では戸籍が残ってはいないでしょう。戸籍を追うのは得策ではありません。ですが、それよりも大きな難題があります」
戸籍を調べ上げて、よしんば子孫が見つかったとしても、その難題を越えない限り、蛇女房さんの依頼は達成不可能。
『それは、どういったことでしょうか?』
「シンプルな難題ですよ。彼女は『わたくしが息子の子孫と確信の持てる相手と引き合わせてくれたなら』と言いました。確信を持たせなくてはならないのですよ、彼女に。戸籍上でそうなっている人物を引き合わせても、彼女は納得しないでしょう」
『なるほど……』
「な、なら、蒼明様が得意な科学はどうでんちゅ? でぃ、でぃえぬなんとか」
「DNA検査による説得はもっと難しいですね。科学というのは仮説と実験と再現実験による論理の積み重ねです。”あやかし”の遺伝子の系統や詳細は不明ですし、あったとしても、確実に親子関係がある人と”あやかし”とその子のDNAをサンプルとして調査し、サンプル数を増やして人と”あやかし”のDNA検査法の確立と信頼性を高めなくてはなりません。科学は一朝一夕には発展しないのです」
それに、科学による立証は、科学調査が正しいものと信じる思考の土壌が必要。
科学なんて根っこから信じないという相手に、いかに科学的に正しいと説いても無駄。
江戸時代の人間に、DNA検査で親子判定したと言っても信じてもらえないでしょう。
蛇女房さんもそれと同じ。
まだ、神や仏の啓示があったと伝えた方が信憑性は高い。
「でぃえぬえーはダメでも、明らかに子孫だってわかったらいいんじゃないでんちゅか? 蛇女房の血が混じっていれば、きっと色白で鼻筋が通った美男か美女になっているでんちゅよ!」
赤殿中の言う通り、蛇女房さんの容姿は日本人離れしています。
元が白蛇だからでしょうか、真っ白な肌に透き通るような白い髪、少し面長な顔は人の中では北欧系を思わせます。
「それでもダメでしょう。首尾よく蛇女房さんにそっくりな顔の人間を見つけて引き合わせたとしても」
「どうしてでんちゅ? そっくりさんだったら信じてもらえるじゃないでんちゅか?」
『あ、それは……駄目ですね』
迷い家さんの声のトーンが落ちます。
「気付いたようですね。困ったことに蛇女房さんは目が見えません。蛇女さんのそっくりさんであろうと、彼女の記憶にある息子の面影を十分に残していても駄目なのです」クイッ
私は傾いた眼鏡を直しながら言います。
「それじゃ、どうしようもないでんちゅか!?」
『残念ながら……』
「不可能と言わざるを得ないでしょう。今は特に力を入れて捜索する必要はありません」
『かしこまりました』
「わかったでんちゅ。でも、あの蛇女房は意地悪でんちゅ! 無理なお題をだすなんて!」
赤殿中がプリプリとキュートにプンプンします。
確かにそうかもしれません。
ですが、私には彼女の願いが意地悪ではなく、心からの望みであると感じました。
いや、そうであるなら、なおさら真摯に対応しなくてはなりませんね。
子が親に、親が子に逢いたいのは自然な流れ。
彼女が子孫に巡り逢いたいというのは、私も共感できるものですから。
「さ、帰りますよ」クイッ
森を抜けた所で、私は赤殿中を抱え大きく跳躍し、家族の待つ『酒処 七王子』へと空を駆けました。




