首吊り狸とタヌキケーキ(その4) ※全7部
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「わたしは有栖院アリスの祖母でございます。ひと月半前に命を失いましたが、孫が心配でこの世をさまよっておりました」
「話には聞いているわ。彼女は貴方がとっても好きだったって言ってたもの」
彼女に『ただ生きているだけでいい』と言い続けていた祖母の話をあたしは聞いたことがあった。
「それは、とても嬉しいです。アリスはわたしの宝です。だから、身体が弱く、今も死病に侵されている孫を想い、あの世へ行かず、そこの狸の身体を間借りして見守っておりました。孫によくしてくれて本当にありがとうございます」
祖母の霊はそう言ってアタシに頭を下げる。
「貴方と逢ってからアリスは本当に毎日が楽しそうで……、でも、その孫が縊鬼に騙されそうになっているのを見て、身代わりとなろうと必死に化けたのでございます。依り代となった狸には悪い事をしたと思っています」
「あの狸ちゃんなら無事よ。ギリギリだったけど、アタシが活かしたわ」
「そうですか。ありがとうございます」
そう言って、再び祖母の霊はアタシに深々と頭を下げた。
「なるほどな、お前さんは”首吊り狸”になったってわけかい」
「はい、おっしゃる通りです」
「緑乱ちゃん、”首吊り狸”って?」
「江戸時代の旗本根岸鎮衛が聞いた怪奇譚をまとめた”耳嚢”って本に登場する化け狸の話さ。大店の手代と下働きの娘が恋に落ちるんだが、周囲の反対や娘の実家からの縁談で引き裂かれそうになって、ふたりは心中を決意するのさ」
そう言って緑乱ちゃんは木にぶら下がった縄を指さす。
「ふたりは桜馬場って所で待ち合わせして、そして首を吊った。だが、紐が短かったのか男は足先が地面に着いてしまい、横で死んでいく恋人を見ながら、もがき苦しんだ。だけどよ」
緑乱ちゃんはそこで一呼吸。
「苦しむ男の視界の先に映ったのは、こっちに向かって走ってくる恋人の姿じゃねぇか。娘も驚いたさ、心中の場所に遅れてしまったら、待ち合わせ場所では恋人と自分そっくりの女が首を吊ってるんだからよ。悲鳴を上げる女の声に周囲の人が集まり、首を吊ってるふたりを助けた。やがて騒ぎを聞きつけたのか大店の旦那もやってきて事情を聞いた。そして心中するくらい好き合っているいるならと、ふたりの仲を認めたのさ。普通ならここでハッピーエンド。だけど、あの娘そっくりの死体はいったい何だ? とみんながそう思った時、その死体はやがて毛むくじゃらになり、狸の姿になった。あんな風にさ」
そう言って緑乱ちゃんは地面に横たわるタヌキを指さす。
「狸が娘に化けていた理由については、娘に助けられた狸の恩返しだとか、狸が手代に恋していたとか、色々噂になったが、結局のわかんねぇ。ああ、娘に縁のある者の魂が宿っていたという話もあったっけな。ま、娘のために、その姿に化けて代わりに首を吊って死んだ狸を”首吊り狸”って呼ぶようになったって話さ。おや、こっちの狸は気付いたみたいだぜ」
さっきまで気絶していたタヌキはブルブルと頭を震わせながら四本の脚で立ち上がる。
その胸元から黒い塊が落ちた。
それは、アタシが彼女と作ったタヌキケーキ。
タヌキはタヌキケーキを口に咥え、バクバクと数口でそれを飲みこむと、アタシたちを一瞬見て、夜の闇へと駆けて行った。
「すみません、本当なら孫の最期まで見守りたかったのですが、わたしはここまでのようです。無理に化けたことで霊力をほとんど失ってしまいました。もはや現世には留まれないようです」
そして、タヌキと同じように老婆の霊もここから離れていこうとする。
「いいわよ。後はアタシに任せて」
「ありがとうございます。病気のため、残された時間は少ないですが、アリスの事をよろしくお願いします」
残り少ない?
「そんなはずはないわ。アタシの能力で彼女の病気は治ってるはずよ。今日も彼女の身体を活かしたわ」
「いえ、アリスの病は治ってません。医者の先生が危惧していた通り、再発してしまったのでしょう」
再発!?
治してもまた病気になるってこと!?
「アリスが縊鬼に惑わされたのも、それが理由でしょう。扉越しではありますが、アリスが苦しみながら嘔吐しているような音が聞こえましたら。それが胃からの出血による吐血であったなら、もう長くありません。あの子はずっと病に苦しんでました。ほんの少し、あとほんの少しの間だけ、アリスが幸せでありますように……」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! もっと詳しくって、ああもうっ!」
老婆は、ううん彼女の祖母は祈るように天に昇って……そして逝った。
「藍蘭兄……」
「わかってるわ」
再発するですって!?
だったら、ずっと活かし続ければいいじゃないの。
少なくとも、アタシが彼女の断末魔を堪能するまでは。
───あの時のアタシは間違ってばかりいたわ。
この期に及んでも、間違っていた。
ホント、嫌になるくらいにね。
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公衆電話から彼女の家に電話しても、彼女は出なかった。
アタシは少し考える。
そうだ! 彼女は縊鬼に騙されておびき出されたけど、彼女に化けた首吊り狸が先に着いたんだわ。
だとすると、彼女は待ち合わせ場所に遅れてやって来たのかも。
赤好ちゃんが駅前で待ち合わせするふたりを見たって言ってたわね。
アタシは全力で駅前に向かった。
予想通り、彼女はそこに居たわ。
終電も終バスも終わって、誰もいない停留所の冷たいベンチ。
そこに彼女はもたれかかるように座っていた。
「ごめん。待った?」
アタシは彼女の身体を優しく揺らす。
彼女の顔は夜の闇に中でもわかるくらい白くなっていて、そしてゆくりと瞳が開いた。
「あ、ランラン。よかった、あたしが遅れちゃったから先に行っちゃったのかと思った」
「ううん、アタシこそごめんなさい。ちょっとトラブルがあって遅れちゃったの」
「でもよかった。まだ間に合いそう。あたし、ランランのために死にに来たのに、会う前に死んじゃったらどうしようもないもんね」
そっか、あの縊鬼はそんなことを言って彼女をたぶらかしたのね。
でも、好都合だわ。
ちょっと早いかもしれないけど、アタシも彼女を味わっちゃいましょ。
「ねえ、念のためもう一度確認させて、アタシのために死ねる?」
「もちろんよ、そのために来たんですもの。でも……」
「でも?」
「あたし、死ぬの初めてだからうまくできるかしら」
プッ
思わず噴いちゃったわ。
本当に面白い娘ね。
「いいのよ、ヘタクソでも。ううん、そっちの方が素人っぽくっていいわ」
「やだ、なにそれ。どこかの雑誌の初体験特集みたいじゃない」
「クスス、そうね。でも、その前に……」
アタシは彼女の身体をギュっと抱きしめる。
アタシの活かす能力を全開にして。
「ちょ、ランラン!?」
「いいから。もう少しこのままで」
時間にすれば数十秒かもしれないわ。
だけど、アタシの能力は彼女の細胞隅々まで行き渡ったはず。
ほら、彼女の顔に赤みが差して、頬もほんのりピンク色。
「言ったでしょ。アタシにはアナタを活かす特別な能力があるって。病気なんてチョチョイのチョイよ」
彼女はキョトンとして彼女の掌をじっと見て、それを何度か握ったり開いたり。
「ホントだわ。身体が軽いし、ちっとも息苦しくない!」
わかるわ、彼女の心が喜びに満ちていることが。
「よかったわね。さ、それじゃ、さっき言ったことを守ってもらいましょうか」
「え?」
ズブリ
彼女の視線が掌から下に落ちる。
そこにあるのはアタシの腕。
お腹を触っているように見えなくもないけど、アタシの腕を伝って流れ落ちていく夜闇に赤黒く映える血の色が、それが間違いだと示すわ。
「い、痛いわ」
「でしょうね、それがアナタが生きている証拠。そして、その痛みを感じなくなった時がアナタが死ぬときよ。ごめんなさい、実はね、アタシは悪い”あやかし”なのよ」
地面に落ちる血は、血だまりと言えるくらいに広がって、アタシの足をピチャリと濡らす。
「ふふっ、どうかしら、病で死なず生きられるかもしれない希望から、眼前にある死という絶望にさらされる気持ちは。さあ、アナタの断末魔を! 絶望を! 聞かせてちょうだい! 味合わせてちょうだい! 全部食べてあげるわ!」
「お……」
「お? お願いかしら? ダメよ、言ったことは守ってもらうわ」
「お……、お味はどうかしら? お、おいしい?」
!?
「ちょ、ちょっと何を言ってるの!?」
「あたしね、嬉しいの……。あたしはずっともらってばっかりだったから。お父さんやお母さん、おばあちゃんや先生、みんなからずっと……、いっぱいもらってばっかりだったから。何かを返したいって思ってて、『ただ生きているだけでいい』って言ってくれたおばあちゃんのために、おばあちゃんに少しでも幸せになってもらいたくて生きてたけど、おばあちゃんが死んじゃって、誰に何をあげればいいかわからなかったの……」
彼女の掌がそっとアタシの肩に触れ、その腕が首の後ろに回り込む。
「でもね、あたしは何も持ってなかったの。お金も健康な身体も、男の人を誘惑する魅力も。持っていたのはいずれ来る”死”だけ。でも、あたしの”死”なんて誰も欲しがっていなかったの……、当たり前よね。だからランランと出逢った時は嬉しかったわ。貴方は、貴方だけは、”死”を欲しがってそうだったから」
彼女の目は出逢った頃と同じように輝きを失い、だけど真っ直ぐに、アタシを見つめる。
違う。
輝きを失ったんじゃない、彼女はアタシに希望を見出していた。
今までもらうばかりの人生だった彼女のささやかな願い。
もらった愛の分だけ、お返しをしたい。
何も持たない彼女の、彼女が唯一持っている、誰にも『要らない』って言われた、彼女自身の”死”を受けとって欲しい。
その願いを叶えてくれる相手としてアタシを見ていた。
「ねえ、お腹を空かせた老人と、熊と狐と兎の話って知ってる? 月の兎の話」
「知ってるわ」
彼女が言うのはインドの説話。
行き倒れて食べものを求める老人に、熊は魚を、狐は果物を持ってくるけど、何も持って来れなった兎は自分を食べてくれと火の中に飛び込んだというお話。
「あたしね、疑問に思ったことがあるの。あの焼けた兎の魂は月に昇ったけど、焼けた肉はどうなったのかしら。みんなでおいしく頂いてくれたのかしら。あたしはね、きっとみんな兎の肉は食べなかったと思うの。だって、みんな心が優しいんですもの。そんな残酷な真似は出来ないに違いないわ。でもね、それは兎の願いとは違うの。食べて欲しいって願いとは」
彼女の口から赤いものが垂れる。
「ランラン。貴方は悪い”あやかし”よね。だったら、あたしを最後まで食べてくれるわよね」
アタシは間違えていた。
彼女は辛いながらも気丈に振舞おうとする女の子なんかじゃなかった。
彼女は女の子。
心の壊れた女の子。
”生きたい”という自然の摂理に反した女の子。
それが病に侵され続けた日々のせいなのか、愛してくれた家族からの別離からなのか、それとも自分は他の誰かに必要とされるものを持っていないという孤独からなのか、それとも、それら全てが彼女の心を壊したのか。
アタシにはわからない。
だけど、壊れながらも、アタシに”死”すらも与えようとする彼女を、アリスを、アタシは……。
───失いたくないと思った。
アタシはアリスの身体から腕を引き抜き、その傷を殺す。
「……どうしたの? 貴方もあたしの”死”がいらないっていうの?」
「違うわ。誰にも渡すもんですか。アリスの”死”も何もかも、アタシは欲しいわ」
「ならどうして……」
「言ってなかった? アタシは好きなものは最後まで取っておくタイプなの。これからいっぱいもらうわ。アリスちゃんの笑顔も喜びも、人生も頂いちゃおうかしら。そして、最期に”死”を食べてあげる」
「絶対よ。言ったことは守ってくれなきゃ、嫌いになっちゃうからね」
アタシの申し出にアリスは笑顔で応えた。
ゴパッ
……そして、口から大量の血を吐いた。
どうして!?
傷もダメージも殺したはず。
身体だって活かしたはずなのに……。
「あれ? あれれ。もう、約束なのかしら……」
「そんなはずはないわ。待ってて、今、活かす」
アタシは能力をアリスに注ぎ続ける。
その度に彼女の身体は大きく脈打つけど、その度にアリスは苦しそうにせき込んで、胸を、お腹を押さえて赤い血を吐く。
「なんで!? なんでよ!? なんでなのよっ!!」
ハァハァと彼女の息は荒くなるけど、その顔は青白く、目も虚ろになっていく。
いやよ! アタシが望む約束の時はもっと先なんだから!
アタシは全ての能力を振り絞ってでも、アリスを活かそうと手を伸ばした時。
ガシッ
その手が誰かに止められた。
「……ダメ。それだとアリスさんは死んじゃう」
「橙依ちゃん!? どうしてここに」
「……説明はあと、今必要なのは救急車」
手の主は橙依ちゃん。
部屋に居るはずだった今日の予定を変更した橙依ちゃんだったの。
■■■■
病院の処置室は戦場のようだったわ。
大声で医者の先生が『輸血! 血小板! 早く!』と叫び、アリスは血を何度も吐き、胃まで押し込まれたホースからはジュースサーバーのように赤い液体が流れ落ちる。
彼女の苦しみようは見てられなかったし、見ることも出来なかった。
アタシは早々に処置室から追い出され、明け方前の薄明かりに照らされたリノリウムの床をじっと見ていた。
ガチャ
処置室の音が静かになって、しばらくすると、先生が部屋から出てくたわ。
「ご家族の方……ですか?」
「そうなりたいと思っている男よ。彼女は? アリスの容態はどうなの?」
「……そうですか。有栖院さんは身よりがないはずでしたが、この数週間であなたのような人が出来たのですね」
「質問に答えて、彼女はどうなの? お願いだから教えて……下さい」
アタシはそう言って、頭を下げた。
「今は峠を越えました。ですが、次の峠は越えられるかわかりません」
血しぶきの跡が残る眼鏡の奥から神妙な面持ちで先生は言う。
その裏にある気持ちを察したけど、アタシはさらに尋ねざるを得なかった。
「次の峠は、いつくるの?」
「わかりません。今日かもしれませんし、明日かもしれません。ですが、遅くとも数週間後には来ると思われます」
「峠を越えられなかったら?」
「死にます」
「峠を越えれたら?」
「また数日から数瞬間後に次の峠が来ます」
「その峠ばかりの道はいつまで続くの?」
「彼女の命が尽きるまでずっとです。ですが……」
そして、その先生は昇ってきた朝日の方向に目を逸らして次の言葉を続けた。
「数か月はもたないでしょう」
アタシは、この医者を憎んだわ。
彼に罪がないのは百も承知だけど、彼をズタズタに引き裂けばアリスが助かるのなら、百遍でもそうしたでしょうね。
でも、それに意味がないこともわかっていた。
数分後、アリスは病室に移送され、アタシは意識を失っている彼女の側でパイプ椅子に座っていた。
アリスの細い呼吸音以外、何も聞こえなかった。
何も興味がなかった。
だけど、橙依ちゃんが申し訳なさそうにドアを軽く叩いた音だけは憶えているわ。
「……兄さん、入っていい」
「ええ。ありがと、アリスちゃんが持ち直したのは橙依ちゃんが助けてくれたおかげよ」
「……礼なんていい」
「さてと、まずは聞かせて。橙依ちゃん、あなた、何周目」
アタシの問いに彼は『……2周目』と答えたわ。




