八百比丘尼とクワイ(その2) ※全4部
あれだけの大群だった外国の”あやかし”たちは皆、地面に突っ伏していて、残りは尻もちを付いてる山羊頭だけ。
八百比丘尼は山羊頭の首元に錫杖を突き付け、緑乱お兄さんは腕組みをしながらそれを見ている。
「さて、勝負は決したみたいだけど、まだやるかい? やるならトドメを刺すし、やらないなら尻尾を巻いて夷狄の”あやかし”連中に伝えるんだね。『日ノ本には手を出すな』と」
そう言って八百比丘尼は凛とした佇まいで山羊頭を見つめる。
その僧衣は激戦を物語るようにボロボロで、乾いた血の跡が見える。
だけど、彼女は出血もダメージもあるように見えない。
緑乱お兄さんに至っては、服すら破れていない。
圧勝。
「ふ、不死の八百比丘尼……、ふ、不的の大蛇……」
「おやおや、八百と俺の二つ名まで知ってって攻めこんだってのかい。この国は太平の期間が長かったといって見くびってたみたいだな。教えてやるよ、この国の太平は八百が全国を行脚して争いの芽を摘んだ、いや芽を正しい方向に導き続けていたからさ」
「私はそこまでのことはしていないよ。ほんの少し切っ掛けを与えただけさ。それにこれは贖罪でもあるからね」
「また贖罪かい。もうそれは終わってると思うけどね」
「終わりゃしないさ。少なくとも死ぬまではね」
ふたりは余裕の様相で会話を続ける。
そんなふたりにあたしは近づいた。
あたしの予想が正しければ、きっとどっちかに実体があるはず……
スゥー
あたしが八百比丘尼の肩に触れると、あたしの手はその身体を通過する。
実体がない、となると実体がある方は緑乱お兄さんの方か。
あたしが背後から指でトントンと叩くと、ん? といった風に緑乱お兄さんが振り向く。
「油断したな、ボケカスがぁ!」
山羊男の雄叫びが響き、何か黒いものがその影から広がる。
「あぶない! 緑乱!」
緑乱お兄さんは突き飛ばされ、ザシュと何かを貫く音が聞こえた。
「獲ったぞ! このバフォメットの悪魔の木、バオバブの呪いに!」
地面から生える木の幹のようなものが、八尾比丘尼を貫いていた。
「こっ、この野郎!」
緑乱お兄さんは崩れた体制を立て直すと、山羊頭に大地を歪めんほどの一撃を叩き込む。
ゴドンと大地が震え、山羊頭の身体は黒い灰となって崩れ去った。
「大丈夫か八百!?」
「すまないね、ポカしちまった」
「しゃべるな。すぐにこんなもの断ち切って……、くそっ、こいつ刻んでも刻んでも再生しやがる!」
緑乱お兄さんは木の幹に何度も手刀を叩きつけるけど、抉れた幹はみるみる間に再生していた。
「ああ、この木は私の生命力を吸っているみたいだね。聞いたことがある、阿弗利加には”悪魔の木”と呼ばれる木があるって話を。その呪いを受けると、やがて木と一体化しちまうってさ。まいったね、不死の私にうってつけだよ」
あたしも知っている、バオバブは太い幹の割に葉が少なく、そのシルエットが根のように見えることから、悪魔が引っこ抜いて逆さまに植えた”悪魔の木”という異名があることを。
「そんな、八百の生命力を吸ってるってことは、この木は不死身じゃねぇか!」
「だろうねぇ、私はこのまま悪魔の木と一体化して、ここで永遠に立ち続けることになるだろう」
「俺だったら、俺の迷廊の権能だったら、あらゆる物を正解させない迷いの権能だったら、こんな攻撃当たりはしなかったのに。どうして、八百も俺の権能は知っていただろ」
「どんな権能だろうと、大地に根差さないことはないだろうよ。足下はお前の唯一の隙じゃないかと思ったからさ、いや……」
八百比丘尼は身体から大地へと突き出る幹から緑乱お兄さんへと視線を移す。
「緑乱を助けたかったから体が思わず動いた。あの子供みたいだった君との旅は楽しかったよ。それに、ここいらで終わりたかったのかもしれないね。異国の”あやかし”の攻撃なら死ねるかもしれないと。ま、やっぱ死ねないみたいだけどさ。やっぱ私の贖罪は終わらないね」
「その贖罪って何だ? どんな罪を犯した? 八百はもう十分に救った。人を”あやかし”を。もう救われてもいいはずだ」
「私が死ねてないってことは、まだ私の罪は消えていないってことさ。ああ、でも、このまま木となって何も考えなくるのは悪くないね」
「そんなの俺は認めない。八百が罪を犯したというなら、俺が止めてやる。だから、話してくれ。これは俺の望む幸せな結末じゃない」
少し意識の朦朧としている八百比丘尼の身体を揺さぶり、緑乱お兄さんは語り掛ける。
「俺が止めるだなんて、まるで私が人生をやり直せるみたいな物言いだね。いいよ、本当は胸にしまったままにしとくつもりだったけど、あんたにならいいさ。どうせ眠るなら、胸のつかえを取った方がいいかもね」
これは夢。
緑乱おじさんが夢で見ている昔の記憶。
だからあたしはこれに干渉できない、ただ見ているだけ。
本当は誰かの記憶を勝手に見るのは気が引けるけど、あたしはふたりの会話から目が離せなかった。
そして、八百比丘尼は語りだす。
自らの誕生と、己の犯した罪を……
==========================================================
人魚の肉って知ってるかい?
ああ、知ってるだろうね、有名だからね。
私が生まれたのはまだ都が飛鳥にあった時でね、やがて都が奈良にに移る計画があるって郷長から聞いたよ。
私は若狭の近くの農村で生まれ、そこで育った。
そんな時代の小さな村でも人魚の伝説は伝わっていたよ。
伝説ではね、
『人魚の肉を人が食べれば、それは不老不死の薬となる』
そう伝えられていたのさ。
しかもご丁寧に私の郷長の家では人魚の肉が祀られてあったんだよ。
その肉はずっと腐らなくてね、幼心に本物だと思っていたさ。
後からわかった事だけどね、似たような話は全国の各地にあってね、人魚の肉があった村も私の村だけじゃなかった。
え? それだったら人魚の肉を食べて不老不死となったのは私だけじゃないだろうって?
鋭いね、だけどそうじゃないのさ。
私を除いて、不老不死になった人間はいないよ。
ある国司は、その人魚の肉を手に入れて、一部を下人に食べさせて、不老不死になったか試すために切り殺したって話もあるくらいさ。
だけど、その下人は死んじまった。
国司は人魚の肉の伝説なんて嘘っぱちだと吹聴したよ。
話が逸れたね。
ん? どうして私だけが人魚の肉を食べて不老不死になったかだって?
お前は気が早いね、それに私の話をよく聞きなさい。
いいかい、私はね人魚の肉なんて食べてない。
私が十六になった年、その年は最悪の年だった。
いや、前の年、前々の年からずっと最悪だったね。
奈良に造る新しい都の建造で郷の若い男はみんな駆り出されちまったよ。
秋から春までの間に田や畑の準備をしておかなきゃならんのに、男衆がいなくなったのさ。
労役の代わりに穀物や干し魚なんかを納めればそれを逃れることは出来たんだけどね、そんなのは郷長の家くらいさ。
私の家も同じでね、父は奈良の都の建造に駆り出され、事故で亡くなっちまった。
それでも税は払わなきゃならない。
父がいなくなって、労役に男が出せないからって、私の家は郡司や郷長にいつもより多く税を払えって言われちまったのさ。
母はひとりで何とかしようと必死で働いた。
だけど、駄目だった。
米は言うに及ばず、魚や山の獣を干した蓄えまで取られちまったよ。
一年ならいい、二年なら耐えられる、だけど三年目の冬は駄目だった。
その年は村全体が不作でね、冬が来た時、もう、母は骨と皮だけになっていた。
私は……少しはましだった、まだ動けるくらいはね。
実は母が自分の食べる分を減らして、私を生き延びさせようとしていたのさ。
それを知った時、私は母を救おうと最後の力を振り絞って食べものを探しに行った。
ここまで言えばわかるだろう……、
そう、私は郷長の家に祀られていた人魚の肉を盗み、それを母に食べさせた。
母はそれを食べて、ほんの少し元気を取り戻した、ほんの少し。
だけど、冬の寒さと飢えは非情で、やがて死んだ。
人魚の肉の伝説なんて嘘八百だと思ったけど、怒る元気なんてどこにもなかった。
私も死にかけていた、草は食べ尽くした、藁も食った、土さえ食った。
だけどもう、食べものを探しに行く体力は残ってなかった。
そして私は……、やってはいけないことをした。
まだ目の前に、肉があった。
ああ、そうだよ……それが私の罪さ……。
私は喰った、母の遺骸を。
きっと狂ってたのだと思う。
私は食べながら地獄に落ちるだろうとも思った。
地獄に落ちたいとも思った。
だけど、その肉は甘露だった。
私は夢中で食べ続けた。
我に返った時、自らの罪に耐え切れず哭いた。
そして、骨だけとなった母を埋葬して、墓の前で自分の喉を突いた。
噴き出る血は直ぐに止まった、血の跡を拭くと傷痕すらなかった。
……わかったようだね。
『人魚の肉を人が食べれば、それは不老不死の薬となる』
それは、『人魚の肉を食べた人間は、不老不死の薬そのものになっちまう』って意味だったのさ。
その後は伝承の通りさ、あたしは罪を償うため仏門に帰依し、全国を回り始めた。
人を救い、”あやかし”を救い、この国を救えば、いつか私の罪は消えて、地獄に行ける。
そうやって生き続けたのが、八百比丘尼の正体。
そして、これが罪深い女の末路さ。
==========================================================
話を聞き終えた時、あたしは泣いていた。
アリスさんも泣いていた。
緑乱お兄さんも泣いていた。
彼女は決してそうなりたくてそうなったのではない。
なのに、この過酷な運命はあんまり。
「ああ、そろそろ意識も消えちまいそうだね。この悪魔の木ってのは食べれるのかねぇ。あの時、ほんの少しの食べ物さえあれば……」
「食べれます。バオバブは若葉も果肉も食べられて、種からは油が取れます。現地では貴重な食料源なんです」
これは緑乱さんの記憶の風景。
あたしのこの知識が彼女に届かないことはわかっているけど、あたしは言わざるを得なかった。
「大丈夫だ八百。よく教えてくれた」
ぐしっと涙を拭うあたしの隣から、何かを決意したかのような頼もしい声が聞こえた。
「俺をあの昏い岩の中から救ってくれた八百を救ってやる。何もわからず戸惑うだけだった俺を導いてくれた八百を救ってやる。そして、お前を地獄になんて行かせない。お前が目覚めさせて鍛え上げてくれたこの権能で」
「なんだい、八稚女の一柱より受け継いだ、あらゆるものを迷わせる迷廊の権能で何が出来るってのさ」
「出来るさ、俺の権能の本質は”迷い”。それは攻撃を迷わすといったチャチなものだけじゃない」
緑乱お兄さんは体に光と闇をまとわせ、何かを決意したように気合を込める。
「出来るさ、俺は、時さえ迷わせてみせるさ。出来るさ、俺は、運命だって迷わせて見せるさ。出来るさ、俺は……八百の人生すら迷わせてみせるさ!」
光と闇の明滅があたしたちを包み、そして風景が一変した。




