化け猫遊女とカレイの刺身(その5) ※全5部
◇◇◇◇
「さーて、ここで問題です! こちらの魚はどっちがヒラメでしょうか、どっちがカレイでしょうか?」
板前長さんが持ってきた二匹の魚を簡易テーブルに乗せて珠子さんは尋ねます。
それは茶色で扁平な魚、大きさは50~60cmくらいでしょうか。
少なくともヒラメかカレイであることは間違いないでしょう。
「そりゃ、こっちがヒラメでこっちがカレイだろ。腹を下側にした時、目が左にあるのがヒラメ、右にあるのがカレイ。”左ヒラメの右カレイ”ってね」
「左様、昔は混同されることもしばしばあったが、儂が生きている時にはその区別方法は確立しておりました。緑乱殿の言う通りでありますな」
ふたりはそう言いますが、あの珠子さんのやる事です。
そんなに単純ではないでしょう。
この展開は私たちを驚かせる演出と思った方が良いでしょうね。
「へ~、そうですか~、こっちがヒラメでこっちがカレイですかねぇ。蒼明さんはどう思います?」
やはり。
そのいやらしい顔は私の予想が正解であると確信させます。
「どちらもカレイでしょう」クイッ
「蒼明さん正解! さっすがぁー! でも、どうしてそう思ったのです? ひょっとして、このカレイをご存知でした?」
そう言って珠子さんは普通ならヒラメと間違えてしまう左向きの魚を指差します。
「いいえ、貴方の顔に書いてありましたから。そこから読み取りました」
「ぐぬぅ、さすが鬼畜名探偵眼鏡。あたしのことをよく見ていますね」
少し残念そうに珠子さんは言い、ひと呼吸おいて気を取り直すと、ジャジャーンと左を向いている魚を指さします。
「これはヌマガレイ! 川と海の交わる汽水域から時には川の上流まで! 淡水でも生息しているカレイなんですよ!」
「珠子さんの言う通りです。このヌマガレイはカレイの中でも左カレイとなる特殊な魚です。世界的に見ると右カレイとなる生息域もありますが、日本では100%近い確率で左カレイとなります。そしてこっちはイシガレイ。同じく汽水域に生息するカレイです」
この二匹の魚を持ってきた板前長さんが右向きの魚、右カレイを指して言います。
「イシガレイは普通に流通していますが、このヌマガレイは狙って漁獲するのが難しいのと、締めた後の味の劣化が激しいので流通していません。釣りで偶然獲った方が食べるくらいです。こんなに新鮮なのを用意できるなんて流石です」
続けて、珠子さんがイシガレイの珍しさとそれを入手する難しさを解説します。
「持つべきものは釣り仲間。ま、今日は運が良かったという所ですね」
二匹のカレイはピチピチと動いていて、それが新鮮そのものであることを示しています。
「でもこれって、ひょっとしたらひょっとするニャ!?」
「はい! これならこの左右の魚は見事に合わさります。これが”かたわれ魚のかたわれ”! はい合体! ジャキーン!」
そう言って珠子さんは二匹の魚の裏を合わせて一体の魚のように高く掲げます。
「しかも! このヌマガレイとイシガレイの交雑種オショロガレイってのもいるんです! 結ばれることがあるんですよ! この二匹は!」
「なるほど、楪さんの”かたわれ魚のかたわれ”にヒラメを持ってきた男は『ヒラメとカレイは似て異なる魚。結ばれることはありませぬ』と言われてしまいましたが、これなら結ばれるというわけですね」クイッ
「そうです。これが楪さんの出した条件の”かたわれ魚のかたわれ”だと思います。そしてその味は……」
そう言って珠子さんは板前長さんをチラリと見る。
「では、このヌマガレイを捌きましょう。珠子さんはイシガレイを頼みます」
「はい、勉強させて頂きます。実はあたしはヌマガレイを捌いたことがないので」
「ハハハ、右と左が違うだけで後は普通のカレイと同じですよ。ですが、締めた後、すぐに味が悪くなるのでスピード重視でやるのがコツです」
そう言ってふたりは簡易テーブルの上にまな板と魚をのせ、捌き始めました。
「ほっ! こりゃ見事なもんだ。包丁と一体化したようなシャープな動きでよ」
「美しいにゃ。所作の端々からその澄んだ洗練さが感じられるにゃ」
「見事です。それに比べ……」クイッ
「嬢ちゃんの方がカクカクしてんな」
「ちょっちイケてないにゃ。泥臭いにゃよ」
板前長さんの流れるような動きに比べ珠子さんの動きは遅い。
いいえ、遅いというより迷いが見えたり勢いが無いとでもいいましょうか。
普段ならそれでも上手といえるのですが、比較すると差が顕著ですね。
「んもう! しょうがないじゃないですか! そりゃ、日本一の板前さんと比較すると見劣りしちゃいますよ! あたしなんかじゃこの人には絶対かないませんってば」
「ハハハ、私は珠子さんより長く生きているだけですよ。それに珠子さんの腕も基本に則ったいい包丁使いです」
「それって基本しかできてないって聞こえるんですけど」
板前長さんの台詞に珠子さんは少し口を尖らせます。
「これは失礼。ですが、その基本すらできてないのに尊大な態度の料理人も多くってですね。失礼、ちょっと愚痴でした」
そんな会話を交わしながらも二匹のカレイは捌かれていきます。
そして、そこの石碑に記された”村上宗伯の娘”の話と私たちの仮説を折りませながらふたりの会話は進み、やがて”かたわれ魚と、そのかたわれ”は二皿のお造りに仕上がったのです。
「では、味わって下さい。ヌマガレイとイシガレイのお造りです」
板前長さんはそう言って私たちに醤油の小皿と箸を差し出します。
「よっしゃ。締めたての刺身ってのは旨いと相場が決まってるってね」
「私も頂きましょう」
「あたしもー」
「わっちも初めて食べるにゃ」
そう言って化け猫遊女さんの箸がヌマガレイの刺身を口に運んだ時、
「いいえ、貴方はそれを食べた経験がおありのはずですよ」
板前長さんはにこやかにそう言い、それを聞いてキョトンとする化け猫遊女さんの顔が、目が、驚きに変わります。
「こ、これにゃ! これはあの時の味にゃ! あの日、あの朝、楪が消えた時に食べた最高のカレイの味にゃ!」
私の口に広がる味は普通の美味の魚。
淡泊でスッキリとした良い味です。
ですが、最上の美味とは言い難いです。
これなら夜に食べた……。
「でもよ、これってそん時の遊郭のみんなが一番うめぇって言いたほどの味か? 俺っちはさっき店で食べた城下カレイの方がうまかったように感じるぜ」
私と同じ感想を緑乱兄さんが口にします。
「ああ、それはですね。江戸時代の方は現代より淡泊な味付けの方を好んだからですよ。脂の乗った城下カレイよりも、この淡泊なヌマガレイの方が舌に合ったんだと思います」
「左様、贅沢に舌の肥えた武士や豪商とは違い、遊郭の者の大半は粗食が常であったのであろう。儂もこちらの方が好みですな」
「江戸時代は大トロは”猫またぎ”と言われて、猫でも食べない下の部位って言われていましたしね。あー、その時の江戸にタイムトラベルしてお腹いっぱい安い大トロをたべたーい」
なるほど、そういうことですか。
「おいしいにゃ、おいしいにゃ、あの時の思い出の味が蘇ったにゃ」
「それは良かったです。ですが、まだその時の味には一歩足りないと思います」
満面の笑みを浮かべて刺身を食べる化け猫遊女さんに向かって、板前長さんはそう言います。
「へ? どういうことニャ? これはまぎれもない……」
板前長さんの言葉に化け猫遊女さんの箸が止まります。
「では、最後に仕上げといきましょう。村上宗伯の娘が楪さんであったという話は大体聞いています。それに少し補足するお話として、食べながらでいいので聞いて下さい。これも私の拙い仮説なのですが……」
そう言って板前長さんは語り始めます。
「吉原にとある遊女が居ました。生まれたころから吉原で育ち、吉原の中しか知らない娘です。外から来るのは女を買いに来る大人の男だらけ、同年代の子供は同じ遊女の娘ばかり。でも、そんな吉原にも外から来る同年代の男の子がいたのです。それは生活に必要なものを売りに来る行商や仕出し屋に食材を納入する業者の手伝いとして駆り出された男の子、とある魚屋の息子でした。そしてふたりは出逢い、仲良くなりました」
澄み渡る空のような朗々とした声で板前長さんは物語を語り始めます。
「その少年は、吉原では決して見ることのできない大海や河川の様々な生き物の話をを少女に聞かせ、少女は世界の広さを知ることになりました。中でも庶民の食べる下魚とされたカレイの話は彼女の心を強く惹きつけました。下魚なのに将軍に献上されるような城下カレイの存在、海のものでも川のものでもなく右を向くはずなのに左を向くヌマガレイは、自由を少女の心に抱かせました。そしてそんな世界の広さを教えてくれた少年に、少女は恋心を抱いたかもしれません」
村上宗伯は医者という話です。
楪さんがその娘だとしたら、生物の多様性に興味を持ったとしてもおかしくありませんね。
「やがて少女は遊女となりました。格子太夫という太夫の一歩手前まで。そんな彼女を身請けしたいという人もいましたが、彼女は幼いころからの少年が忘れられなかったのでしょう。だから彼女はあんな条件を出したのです。魚屋でもなければ知らないような不思議な魚の」
「かたわれ魚のかたわれ……」
「そうです。そして、成長した少年は”かたわれ魚のかたわれ”の話を聞き、彼女が自分を待っていて、自分も彼女が忘れられなかったことに気付きました」
魚屋の彼にとっては簡単な謎解きだったでしょうね。
「遊女の謎かけは簡単でしたが、お金の問題は容易くありません。少年は江戸城にも魚を納入する一流の魚問屋にまでなっていましたが身請けの金額はかなりのもの。そのお金を用意するころには彼女の遊女の任期を明ける直前になっていました。ですがやっと間に合ったのです。”かたわれ魚のかたわれ”と身請け金を手に彼は彼女の前に現れました。そしてふたりは結ばれ、その”かたわれ魚のかたわれ”は遊郭のみんなに、猫にまで振舞われました。そしてその猫はその味をずっとずっと、今でも憶えていたのです。」
板前長さんが語るこの物語が、もはや楪さんと半右衛門の馴れ初めであることは明白でした。
「この石碑には村上宗伯の娘、青木昆陽の母は享保15年、西暦1730年に没したと記されています。村上宗伯の没年が1670年、この少し前に生まれたと仮定すると、おそらく62か63歳頃に亡くなったと推測されます。この時代、還暦まで生き延びるのは稀。さらに石碑には晩年の母を看病する昆陽の孝行心は周囲の好評を買ったとも記されています。遊女の子として生まれ、遊女とならざるを得なかった前半生は辛い所もあったかもしれませんが、後半生は好いた男との子に恵まれ、その子も孝行息子に育ったとなれば、幸せに暮らしたのではないでしょうか」
「うんうん、これぞロマンスのハッピーエンドですね。あれ?」
板前長さんの物語に相槌を打っていた珠子さんが化け猫遊女さんの顔を見て何かに気付いたような声を上げます。
そこには頬を伝う一筋の涙。
「おいしいにゃ、このお刺身……さっきよりとってもおいしくにゃったのに、にゃぜだか涙が出るにゃ」
「料理の味を決めるのは3つ、料理そのものの味と、料理を作った者の心、そして料理を味わう者の心です。料理そのものの味も、料理を通じて貴方の幸せを願ってこれを造った私の心も変わりませんが、貴方の心が変わったのですよ。心のわだかまりが消えたので、よりおいしく感じるようになったのでしょう。そしてその涙は……」
板前長さんは懐から白いハンカチを取り出し、彼女の涙を拭う
「貴方がその楪さんを心から好きだった証ですよ」
ああ、珠子さんが『あたしなんかじゃこの人には絶対かないません』って言っていたのは料理の腕だけじゃありませんね。
こんな頭の冴えと素晴らしい演出を行う人間にどうやったら勝てるのでしょうか。
◇◇◇◇
「おいしいにゃ、おいしいにゃ! 涙を流し切ったら、一層このお刺身が美味しくなったにゃ」
「それはよかった。やっぱり美味しいものを食べる時は笑顔が一番ですから」
あの後、ひとしきり泣いた化け猫遊女さんはすっかりいつもの調子を取り戻し、おいしい、おいしいとお刺身を食べ続けています。
「むー」
「どうした嬢ちゃん」
その隣で珠子さんはむくれ顔。
「どうして板前長さんのお刺身ばっかり食べるんですかー!? みなさん、あたしのイシガレイの方はちょっと食べたっきりですよ」
私たちの目の前のふたつの皿の減りには明らかな差。
珠子さんの方はほとんど残っています。
「そりゃ、こっちの板前長さんの刺身の方がずっとうめぇからよ」
「そうにゃね。思い出補正を差し引いても、板前長さんの方がおいしいにゃ」
「えー、こっちのイシガレイの方がお値段が高いんですけどー」
「そんな事を考えて調理するから差が出るんですよ。少しは板前長さんのおっしゃってた”料理を作る者の心”を学んだらどうですか」クイッ
「ぐ、ぐうの音もでません」
そんな珠子さんを見てみなさんがハハハと笑います。
もう、化け猫遊女さんの目に涙も、曇りも消えていました。
やれやれ。
今回の件で私の中での人間の株が増々上がってしまいましたね。
元人間の鳥居さんに、珠子さんの助言、そして何よりも板前長さんの手腕が化け猫遊女さんの長年の心のしこりを取り除きました。
以前、珠子さんが『あたしは喰わせもんの女』なんてことを言っていましたが、それは人間全体がそうだと思っていいでしょう。
私が妖怪王となった時、”あやかし”と人との間でトラブルが生じることもあるかもしれません。
そんな時に鳥居さんや化け猫遊女さんのような人間に理解のある”あやかし”が増えていれば……きっとそこにはハッピーエンドしかない世界が生まれるかもしれませんね。
ザッ
「おっ、やってるやってる。あたしも混ぜてくれよ」
そんな時、砂利を鳴らし現れたのはひとりの尼僧。
「あっ、築善尼さん、おはようございます」
「築善でいいよ。腹が減りそうな名前になっちまうんでね」
なるほど、これが噂の築善尼さんですか。
「おや? あの馬鹿は?」
「緑乱さんなら、さっき『んじゃ、俺っちは急用がやってきたから逃げるわ』みたいなことを言って走って行きましたよ。でも安心して下さい。今日の払いはこのお財布眼鏡ですから」
『んもう、あたしもそっち食べる―』と言って板前長さんの作ったお刺身に突撃していた珠子さんが、無責任に言い放ちます。
まったく、人のお金を何だと思っているのでしょうか。
「本当かい?」
「ええ、その通りですよ」クイッ
「そうかいそうかい。そりゃよかった。んじゃ今日の支払いだけどね……」
そう言って築善尼さんは板前長さんと何やら相談して電卓をタタタと叩きます。
きっとお高いのでしょうが、覚悟しています。
ひとりあたり5万円×5名にこのカレイの出張調理分を考慮すると、30万円超くらいでしょうか。
財布には痛いですが、これで私の秘密の隠れ家が守られる上に、化け猫遊女さんの心を晴らしてくれた代金だと考えれば安いものです。
「ほい、お会計はこちらになりまーす」
スッと差し出された電卓の数字は100万円超えの7桁の数字。
「はあぁぁあ!? ど、どうしてこんな数字になるんですか!? ボッてるんですか!?」ズルッ
「ボッっちゃいないさ。こいつは正当な金額さね」
さも当然というようにこの尼は言い切ります。
「いくらなんでもおかしいです! お店のWeb情報を考慮した上で、このヌマガレイ代を含めてもここまで行くとは思えません!」スチャ
少し強めの口調で私は主張します。
ここは冷静に眼鏡をクイッとする場面ではありません。
「あら? 蒼明さんってば聞いていなかったんですか?」
「なにをです?」
「緑乱さんは『今日は今までのツケも含めて全部払うから、最高のもてなしをしてくれ』って言ってましたよ。蒼明さんの居ない隙に」
「左様。儂もしっかと聞いた」
「わっちも聞いたけど黙ってたニャ」
は?
…
……
「あの馬鹿はそういう所だけは知恵が回るのさ。さ、耳を揃えて払ってもらおうじゃないか!」
「く、クレカで……」
私はそう言う以外、手はありませんでした。
まったく、兄さんが『クレカを準備しておけ』なんて念を押した意味を完全に理解しましたよ。
そして、タダ飯をたっぷり堪能したこの3名(逃亡1名)は、
「「「ごちそうさまでした~、蒼明殿」さん」にゃん」
満足そうに、そう言って笑ったのです。
まったく、喰わせもんは珠子さんだけかと思いましたが、身内にもいたようですね。
今日の所は”ぎゃふん”とでも言っておきましょうか。
ただし、心の中で。
私にも世間体や妖怪王候補としての立場がありますから。




