黄泉醜女と活け造り(その1) ※全4部
天国のおおばあさま、お元気ですか。
今日の珠子は元気に登山スタイルで坂を下っています。
「ひー、ひー、けっこう辛いですね」
「頑張れ、嬢ちゃん。残り半分くらいさ」
あたしの隣で励ましてくれているのは、普段の千鳥足とは違う、しっかりとした足取りの緑乱おじさん。
「はっ、はい。頑張ります」
おばあさまがここにいらっしゃるようでしたら、ちょっとだけでもご挨拶したい所ですが、今日は遠慮しておきます。
帰りもここを登るのかと思うと、ちょっと体力を温存しておかなくてはなりませんから。
まあ、おばあさまはきっと天国にいらっしゃると思うので、あたしは仕事を頑張るだけですけど。
ここは”黄泉比良坂”。
あたしは今、黄泉の国へと出張中です。
◆◆◆◆
「ん~~~、おいしーい」
あたしの口に広がるのは天上の口福。
それはサーモンのように脂がのっているのに、しつこさなど微塵も感じない。
あたしではこの味は出せない。
「どうだい嬢ちゃん。このホッケの刺身は。俺っちも食べるのは久しぶりだが、昔、北海道で食べたどのホッケの刺身より旨いねぇ」
あたしの隣で同じくホッケの刺身に舌鼓を打っているのは緑乱おじさん。
ホッケは傷みやすいので、その刺身はかつては北海道でしか食べれなかった。
今は輸送技術が発展して、関東でも食べられる。
だが、お高い。
だが、だが! 今日はおじさんのおごりっ! というかタダ!
夏に緑乱おじさんが、ここの板前さんの命を救い、今日はそのお返しらしい。
ここは『魚鱗鮨 新宿店』、グルメガイドの星を持つ、あたしのあこがれの一流店だ。
「どんどん食べて下さいね。大恩ある緑乱様のお連れ様なら私の恩人も同然ですから」
「はいっ、遠慮なく食べます! 次は太刀魚の刺身と焼きを!」
「はい、よろこんでっ!」
愛想の良い声で板前さんが返事をする。
味、接客、お店の雰囲気、どれもが超一流。
「いやーもう、最高ですね。世界的タイヤメーカーの星の名に恥じないおもてなしです」
「嬢ちゃんも気に入ってもらえたみたいで嬉しいねぇ。この兄ちゃんの腕は日本一だからさ、たっぷりと堪能してくれよ。ロハなのは今回だけだからさ」
「はいっ! 封印されしスイーツ用の別腹を解放してでも食べ続けます」
乙女のみに許された禁断の秘儀、それがスイーツ別腹!
だが、あたしは普通の女の子じゃないの、いざという時にはお魚だって別腹に収めることができるのよ!
「ははは、愉快なお嬢さんですね。日本一だなんて烏滸がましい。私なんて師匠の足下止まりですよ」
「謙遜するなよ、その師匠って銀座の本店の大将だろ?」
「ええ、ご存知でしたか」
「ああ、昔、何度か行った事がある。俺っちの見立てじゃ、お前さんのはそのお師匠さんと肩を並べる腕だぜ。いや、少なくともお師匠さんがお前さんくらいの年だった時なら、今のお前さんの方が上だと思うぜ」
まるで食べたことがあるような口ぶりで緑乱おじさんが言う。
いや、食べたことがあるのかな?
「ははは、嬉しいことを言ってくれますね。でも、それは師匠が私に自分の技術を教えてくれたからですよ。偉大な先人が道を拓いてくれたおかげです」
「技術と知識の継承こそ、人類の叡智の本領ですからね」
あたしは続けて出てきた太刀魚の炙りと刺身に惚れ惚れしながら言う。
合わせて出てきた、同じく太刀魚の炙りと刺身とそのお寿司も絶品。
炙りは脂がとろけるようで、刺身は青魚臭さなんて全く感じられず、旨みだけを舌に残す。
寿司にするとそれは酢飯の甘味と酸味と相まって、季節の美味という福音をもたらす。
うーん、炙りと刺身で薬味だけでなく酢飯の味付けを変えているみたいですね、勉強になるなー。
いったいどんな素材で作っているのかしら?
あたしは視線をカウンターの内側のおひつに向ける。
「炙りの方が柑橘を加えた酢飯で、刺身は米酢と甜菜糖の酢飯ですよ」
やばっ、バレた!?
「いいですよ。存分にご覧になって下さい」
「すごい自信だな。味が盗まれてもかまわないってか」
「盗むも何も、手取り足取り教えても、なかなか習得してもらえなかったりもしますからね。というか、私も身に着けるまで十年近くかかりましたから」
「おめぇさんでも、そんなに掛かったのか。そりゃ、あれだな、こんな酢飯が店に出せるか! なんて床にぶちまけられたりしたんだろ」
どばっーっと、バンザイをするようなポーズで、前時代的な寿司職人あるあるを緑乱おじさんが語る。
「師匠はそんな事しませんよ。ただ、一緒に同じ酢飯で賄いを作ってくれるだけです。その師匠の賄いの方が私のよりずっと旨いんですよ。ほんの少し味付けを直すだけなんですけどね。あれは堪えたなぁ」
少し懐かしむような感じで板前さんはにこやかに語る。
「あー、わかるわかる。あたしも天国のおばあさまに似たようなことをされましたから。どうやっても敵わない、みたいなことを何度も感じると少しへこみますよね」
「へぇ、嬢ちゃんの婆さんは結構厳しかったんだな」
「厳しいというか、料理に対しては真摯というか、理想を体現しているような感じなんですよ。どんなに上手にスケッチしても、目の前のダビデ像の方がイケメンみたいな」
「わかります、わかります。己の未熟さや至らなさを否応なしに思い知らされるんですよね」
あたしと板前さんはウンウンと同じポーズで頷く。
「へぇ、活け造りなんてスゴイ技を持つお前さんでも、そんな時代があったんだねぇ」
「活け造りが出来るんですか!?」
「ええ」
「造ってもらうかい?」
「うーん、遠慮しておきます」
「どうしてだい?」
「活け造りは最もスゴいお魚の造り方であっても、最も美味しくする造り方じゃないからです」
活け造りは生け簀から出した後、魚を気絶させ、内臓を傷つけないようにしながら、速攻で身を刺身にする技。
速さ優先なので鱗を取らなかったり、捌き方も雑になる。
そうやっても、魚を生かせられるのは数分。
少し残酷な面もあり、あたしはあまり好きじゃない。
味を犠牲にしてまでやりたい演出じゃないの。
…
……
「わりぃ、気ぃ悪くさせちまったか」
板前さんが黙るのを見て、おじさんが口を開く。
「そんなことはありませんよ。私の師匠も同じようなことを言っていましたから。私もお客様が板前の腕前のパフォーマンスを楽しみたい時には活け造りをお出ししますが、そうでないなら最も美味しく仕立てます」
「んじゃなぜ、ちょっと黙ってたんだい?」
「それはですね……、”最もパフォーマンスに優れ、最も美しく、最も美味な活け造り”なんて料理を作れないか考えていたんですよ」
「あたしもです。でもねー、そんな都合の良い料理なんて早々ないですよ。あったら是非教えて下さい」
あたしでは無理でも、この人なら出来るかもしれない。
それくらい、この人の腕は見事なのだ。
そして、それを教えてもらったら『酒処 七王子』で振る舞うの。
えっ!? それは盗作じゃないかって!?
ご安心を! 料理レシピに著作権はありません、パクるのは自由!
だけど、パクっても同じ味が再現できないのが料理の良い所でもあり、悪い所でもあるのよね。
「いいですよ。代わりに、もし、あなたもそれを見つけたら、私に教えて下さい」
「ええ、もちろん!」
あたしはふたつ返事でOKした。
まあ、きっとあたしよりこの板前さんの方が先に見つけると思いますけど。
それほどまでに見事な料理の数々を堪能しながら、あたしはそう思ったのだ。
◆◆◆◆
「ふいー、くったくった。ごっそさん」
「嬢ちゃん……そういうのは俺っちの台詞だぜ」
あたしたちは、その後も食事を続け、結局、閉店近くまで、素敵な料理を無敵のおごりで不敵なまでに楽しんだ。
酔った緑乱おじさんが「メニューの右から左まで持って来い!」みたいなバブルオヤジみたいな事を言い出して、
「だったら、あたしは日本酒を上から下まで全部!」と対抗して、
おじさんが「リミッター解除!」とベルトを最大解放し、
あたしが「目覚めよ! 第三の胃!」と新たな特殊能力を叫んだ所までが、今日のハイライト。
結局、夕刻から閉店間際まで楽しんじゃいました。
「ういーっく、わりぃなぁ。結局、こんなにタダ飯を食らっちまって」
あたしより遥かにパカパカ飲んだはずなのに、緑乱おじさんは軽い千鳥足程度。
すごいなー、あたしは、ほぼへべれけなのに。
「いいんですよ。緑乱様は私と家族の命の恩人ですから。なんなら一度っきりと言わずに何度でもごちそうします」
「そいつは頂けないな。俺っちは恩を売るのも、それを返してもらうのも大好きだが、自分で売った恩の価値は自分で決めるってのが性分でね。あの時の恩は一宿一飯の一飯程度さ」
おじさんが、決め顔でちょっとカッコイイことを言う。
おー、さすがは人生経験だけは高い緑乱おじさん。
人間ができてるぅ、というか”あやかし”ができてるぅ。
「あ、念のために聞いておきたいんだが、今晩の飯は普通に客としてきたら、いくらくらいになる?」
「一応、参考までに……今日のお代はこれくらいの料金になります」
板前さんはテテテと電卓を叩き、その液晶をあたしたちに見せる。
おおう……
酔いが醒めた。
「……なっ、それなりの価値だっただろ」
あたしは電卓に浮かぶ六桁の半ばに届きそうな数字を見ながら、ウンウンとうなずいた。
◆◆◆◆
「いやー、終電に間に合ってよかったですね」
「ああ、歩くのはしんでぇし、タクシーは高いからなぁ」
あたしと緑乱おじさんは駅からの家路を急ぐ。
夜風は少し肌寒い、そろそろ秋の気配。
「あれ? どなたかいらっしゃるようですね」
あたしは『酒処 七王子』の前に佇むひとりのあやかし影を見つけた。
「すみませーん、今日は定休日なんですよ」
「おや、あいつは……よっちゃんじゃねぇか。ひさしぶりだなー、元気か?」
よっちゃん?
あたしたちの姿に気付いた、そのあやかし影はタタタと駆け寄り、ガバッと緑乱さんに抱き付く。
「緑乱様! お逢いしとうございました! わたしはもう、どうすれば、どうすれば、いいか、いいか、わからなくて! 緑乱様を頼るしか!」
おおっ!? なんだか波乱の予感!
「おうおう、泣くな泣くな、かわいい顔が台無しだぜ。おめぇさんたちは笑顔が一番だって、前も言っただろ」
「はい、そうでしたね」
そう言って、その女性の方は緑乱おじさんの胸にうずめた顔を上げる。
「!?」
あたしの顔が一瞬驚愕に歪む。
なぜなら、その女性の頬ははただれのような崩れと、目の部分は夜の闇よりも深い虚空が開いていたのですから。
口裂け女さんのインパクトを遥かに超える、畏れ抱かせる顔。
くー
腹の虫の音が聞こえる。
「おいおい、相変わらず食いしん坊ちゃんだな。すまねぇな嬢ちゃん、ちょっくら臨時開店してくれねぇか」
「もう、やだぁ、緑乱様ったら。うふふ」
あれ? ちょっと可愛いかも。
◆◆◆◆
「なるほど! 黄泉醜女だから”よっちゃん”なのですね」
あたしは緑乱おじさんに彼女の正体を聞いて、ポンと手を叩く。
「そうそう、ちなみに”もっちー”とか”つっしー”というお仲間さんもいるぜ」
”黄泉醜女”、それはイザナギの黄泉下りの伝説に登場する”あやかし”。
日本の国生みの大神といえば、イザナギとイザナミの夫婦。
そのイザナミが出産のために死に、夫のイザナギはそれを取り戻そうと黄泉比良坂を抜けて黄泉の国に行くが、決して見てはいけないと釘をさされたイザナミの姿を見てしまったの。
腐敗して、蛆までわいたその姿を。
その姿に恐れおののいたイザナギは、ひとり地上に逃げ出してしまう。
夫のその態度に激怒したイザナミは、八体の追手を差し向けた。
その追手が”黄泉醜女”。
「それじゃ、黄泉醜女さんのために時間外労働といきますか。安直ですが、焼き筍と、葡萄のコンポートにしましょうか」
イザナギの黄泉下りの伝説の通りなら、彼女の好物は筍と葡萄と桃。
それはイザナミの命令も忘れて、イザナギ追跡の途中でうっかり食べるのに夢中になっちゃうくらい。
「タケノコ! 葡萄! あたしそれ大好きですっ!」
パアァと表情をほころばせ黄泉醜女さんが両手を頬に当てる。
なるほど、可愛いですね。
な、可愛いだろ。
そんなアイコンタクト会話があたしと緑乱おじさんの間で行き交う。
「しかし筍か、春だったら良かったのにな」
「んっふっふっふっ」
「なんだい嬢ちゃん、その笑いは。秋の今は筍といえばパックか冷凍か缶詰だろ?」
「それがあるんですよ! この時期に採れたての筍が! ちょうどアク抜きが済んだ所です。ジャーン”四方竹”!」
あたしは冷蔵庫から取り出した四方竹をふたりに見せる。
みずみずしい薄緑が残ったその細長い姿は、それが新鮮そのものであることを示していた。
「まじか!?」
「うわぁ、おいしそう!」
「この四方竹は高知県特産の秋が旬の筍です。以前は幻の筍とも呼ばれていましたが、流通技術の発展でわずかではありますが東京でも手に入るようになりました! ありがとう! 瀬戸大橋! ふっふっふっ、これはお客さんをびっくりさせようと思って、頑張って仕入れたんですよ」
「やったぁ! びっくり第一号!」
うわぁ、かわいい。
「それじゃあ、少々おまち下さいね。すぐに出来ますから」
10分少々で調理は終わり、焦げ目のついた筍と鮮やかな赤紫色の葡萄のコンポートがテーブルに並べられる。
「お待たせしました。四方竹の焼き筍と巨峰のコンポートです」
「相変わらず仕事が早いねぇ」
「仕込んでましたから。下ごしらえさえしていれば後は仕上げだけです」
料理は手間がかかる、お店で出そうとするなら特に。
だけど、下ごしらえさえしていれば、実際にお客さんに出すまではさほど時間は掛からない。
ま、その下ごしらえに手間の95%くらい掛かるんですけど。
「んじゃ、嬢ちゃんも一緒に……食べるつもりだな」
皿と箸の数を見て、何かを察したように緑乱おじさんは言う。
「もっちろん! あたしも今年の四方竹を食べるのは初めてですから。あ、こっちの皿は塩で、こっちは鰹節と醤油で食べましょ」
「うわぁ、削り節が焼きタケノコの熱気で踊ってる」
「熱々ですからねー、気を付けて下さいね」
「はいっ! いただきまーす、あちっち」
可愛らしくおちゃめに舌を突き出す、彼女の姿を見ながら、あたしたちも焼き筍を口にする。
ザクッ
筍の繊維が歯に断たれる音を骨を通じて感じると、その中から、筍の細胞という細胞から、旨みのスープがあふれる。
ザクッザクッ
塩はその味を引き立たせ、鰹節と醤油は旨みをさらに加えて、味の高みをさらに引き上げる。
冷凍や缶詰では出せない、竹の旬と書いて、すなわち筍!
なーんてお決まりの言葉が頭に浮かんじゃうくらいの美味。
「おいしいっ! 熱々のタケノコの身も、そこから生まれる汁も。あーん、みんなも連れてくれば良かった」
パクパクパクッと筍を食べるたびに両腕をWの文字にして、震えながら彼女は美味しさを表現する。
ねえ、ちょっと、この黄泉醜女さんって可愛すぎない?
だろ。
再びあたしたちのアイコンタクトが成立した。




