三尾の毒龍と酒をふんだんに使った料理(その4) ※全5部
「溶き卵でお召し上がりください」
兄ちゃんのその言葉に続けて、俺っちの前に椀が差し出される。
「なるほど、すき焼きみたいに溶き卵で食べろってことかい。しかしね、卵には醤油が付き物だ。この鍋はすき焼きとは違って砂糖も醤油も入っていない、出汁すらもさ。これで美味いもんかねぇ」
というか、水すら入っていない。
この鍋の中にある水分は酒と野菜から染み出た分だけだ。
「お試し下さい」
なんだい、そんな嬢ちゃんが真剣になった時と同じような顔して。
まあいいさ、匂いは美味そうだしさ。
俺っちは豚肉と白菜を椀に盛り、それをパクッと口にする。
ジュワッ、グッ、シュワ―
具材を噛み締めた時、俺っちの口に広がったのは……、野菜の旨みをたっぷりと含んだ汁と、豚肉の旨み、溶き卵の甘み……、そして何よりも口に広がる酒の甘味と旨みだった。
「なんだいこれは!? 酒だけなのにこんなに深い味が出るってのかい!?」
「はい、他の具もお試し下さい」
兄ちゃんに言われるまでもなく、俺っちは他の具に手を出していた。
「これは!? 鶏肉は固くならずに柔らかな弾力の中から美味い汁があふれ、葱は香味と旨みが重なりあっていて、厚揚げときたもんにゃ、衣がすべての具材の旨みを吸い込んだ上で豆腐の味が染み出てきちまう!」
この『美酒鍋』の美味さはそれだけじゃない、何よりも汁だ。
この汁がたまらなく美味い!
俺っちはたまらずお玉で直接汁を飲み込む。
ズッ
「ほう!」
その汁は当然ながら酒の味がした。
だけど、それは酒の旨みが凝縮されたスープのようで、そこに溶け込んだ肉と野菜の旨みが喉を鳴らすごとに口から鼻へ、鼻から頭へ広がっていく。
「うんめぇー!」
他に言いようがなかった。
今日日、出汁や醤油が使われていない食事なんて滅多にない。
それほど、そいつらは日本の食事の中に浸透しているんだ。
だけど、この『美酒鍋』は素材と酒だけでも美味い物は美味いという事を思い出させてくれる。
「お気に召されたようで何よりです。この『美酒鍋』は元々、この賀茂鶴酒造の杜氏や蔵人たちの賄いでした」
料理に使った賀茂鶴の上等酒を手に兄ちゃんが説明する。
「美酒鍋が生まれたのは戦後間もないころですので、比較的最近。一般的に広まったのはさらに最近です。ですが、ここまでふんだんに酒を使い、酒の旨みを活かしながらも口当たりの良い料理はないかと」
そっか、俺っちは明治から全国を旅して土地の名産とやらも知っている。
だけど、ここ最近は東京中心に暮らしているもんな。
この広島の名物料理『美酒鍋』を知らなかったのも無理ないってことさ。
やっぱすげぇや、人間ってのは。
こんなに短期間で新たな”酒をふんだんに使った”極上料理を生み出しちまうなんてよ。
「貴方様が懸想なされているその珠子様は人間の女性とお見受けしました。でしたら、酒寿司は少々敷居が高く、こちらの美酒鍋の方が喜ばれるのではないかと思います」
部屋の中には酒の匂いが充満している。
それはこの美酒鍋のアルコールはほとんど飛んじまってるってこと。
確かに、酒を、清酒よりもアクの強い灰持酒をそのままかける『酒寿司』よりかは、この『美酒鍋』の方が一般向けかもしれんな。
逆に言うと、『酒寿司』は酒に慣れた上級者向けってことさ。
「なるほど、兄ちゃんの言う通りかもしれないね。だけどさ、酔わせてイイ事したいって俺っちの目的に対してはどうだい?」
本当はね、そんな事は考えていないさ。
酔いつぶれた嬢ちゃんには何度か遭遇したけど、手を出したりはしていない。
後が怖ぇからな。
だけど、この兄ちゃんの腕があまりに見事なもんなんで、俺っちはちょっくら意地悪を言ってみたくなっちまった。
「それはこちらをお試し下さい」
俺っちの前に溶き卵が差し出される。
いや、これはさっきの溶き卵とはちょっと違いそうだねぇ……
俺っちは美酒鍋から肉を取り出して、溶き卵をくぐらせて口に入れる。
トロッ、ギュツ、フワッ
国の中にひろがった味は、溶き卵の濃厚な旨みだけではなく、美酒鍋に残る酒の甘さと旨みだけでもなく、酒そのものの香りと味が広がった。
「これは……溶き卵じゃなく卵酒かい!?」
「はい、それも通常の卵酒と違い、アルコールを飛ばさない温度で作りました」
「こいつはいい。溶き卵ってのはともすれば白身の部分が十分に切れずにまとわりついちゃうこともあるが、この卵酒は口当たりが滑らかになっててスルスルと入っちまう」
俺っちの手は次の具に伸び、卵酒の付けダレでスルッパクッ、スルスルっとそれを食べる。
「酒寿司はともすればアルコールの香りが強すぎることもありますが、この卵酒の付けダレなら口当たりも良く、また具と一緒に食べる事で気付かぬ内に食が進むかと」
ホント、この兄ちゃんはやるねぇ。
こいつは嬢ちゃんが大喜びだ。
「ホホホ、いかがでしたか? この美酒鍋なら貴方様のお眼鏡にかなうのでは?」
三体の女が口では笑っているが、目だけは笑わずに言う。
「ああ、いい料理だったぜ。こいつは気に入った」
「ありがとうございます」
兄ちゃんが頭を垂れて礼を言う。
「ホホホ、では約束通りにご兄弟たちの説得を……」
まあ、そう来るだろうな。
この美酒鍋も含め、この兄ちゃんが作る料理は確かに極上だった。
嬢ちゃんも大喜び間違いなしの。
だけどな、お前さんが悪いんだぜ。
「やなこった」
「ホホホ、それはどういう意味で? まさか約束をお破りになると」
「先に約束を破ったのはお前さんたちの方だろ。気付かないとでも思ったのかい? 酒に毒を盛られているってことに」
「ほほほ、どこにそんな証拠が?」
まったく白々しいねぇ。
「嘘じゃないって言い張るなら、この美酒鍋を食ってみな」
新たな椀に美酒鍋をよそい、俺はググイっと差し出す。
「ボボボ、わたくしはちょっと酒寿司でお腹がいっぱいで……」
そう言って三体の女は口を扇で隠す。
声が震えてるぜ。
やっぱり、ここらの数々の酒に毒を仕込んでたのか。
「女将、どうしてこんな真似を!? 私の料理の腕を信用されてなかったのですか?」
「人間風情を龍種たるわたくしが信用などするはずがなかろう! 東の大蛇、どうして気付いた。この毒は無味無臭なのに」
やっぱりこいつは馬鹿だねぇ、味や臭いが無ければ気付かれないとでも思ってるのかい。
嬢ちゃんのような料理人や、その料理を毎日食ってくれば気付くようになるってのに。
「そんな……そんなことをしたら気付かれるに決まっている……」
おっ、やっぱりこの兄ちゃんは気付くか。
「馬鹿だねぇ、無味無臭だからに決まってるだろう。酒、特に日本酒ってのは水を数滴入れただけで香りがガラリと変わっちまうのさ。飲みやすく花が開くように香りと味が変化してね。この広島は銘酒が豊かだからさ、その酒を何度も飲んでいりゃぁ、どんなに無味無臭だろうが気付くってもんさ」
偉そうに言ったが、俺っちがこれを覚えたのはここ最近のことさ。
これも嬢ちゃんが『こういう飲み方も美味しいですよー』って何度か進めてくれたおかげかな。
「まったく、最初に『俺っちの身の安全が第一』と言っといたのにさ、それを反故にされちゃぁ、俺っちも約束を守る気が無くなるってもんよ」
「ホホホ、気付いてたのなら何故にお逃げにならなかったのですの? ま、逃がす気はなかったけどね!」
おお怖い、だから逃げたくなかったのさ、お前さんたちを相手に戦うってのは大変だからねぇ。
ま、だけどさ、今後も考えると今は嘘でも空勇気ってのを出す時かな。
どうやら、あと少しみたいだしな。
「それに俺っちを甘く見てもらっちゃ困るぜ。こう見えても八岐大蛇の息子のひとりさ。毒なんて効かないぜ」
嘘です。
正直、手足が痺れちまってるんだな、これが。
「ホホホ、嘘だねぇ。お前さんの妖力は相当弱まっているじゃないか」
「そりゃま、ちっとは効いてるさ。だけどな最初にあんなに旨い料理をご馳走になっちまったら、そのお返しせにゃならんと思ってな。安心しな兄ちゃん、お前さんたちは助かって、こんな食べ物の価値のわかならいズベ公の所からはおさらばさ」
「誰がズベ公だってぇ!!!」
三体の女の顔が蛇のように変わり、口と牙が突き出る。
「おっ、正体がにじみ出ているじゃないか。三尾の毒龍さんよ!」
「おのれぇー! 最初から気付いていたのかぁー!」
俺っちは百年ほど前、日本中を旅していた。
だから、ある程度は知ってるんだぜ、各地に伝わっている”あやかし”の話を。
この”三尾の毒龍”ってやつは、美しい女に化けては農家の嫁として潜り込み、人を喰らっていた悪いヤツさ。
ある日、正体を見破られたこいつは三尾山の岩洞に逃げ込み、そこの清水をその毒で汚染した悪龍さ。
怒りで膨れ上がった妖力がカタカタと館を揺らし、館のかしこからざわついた声が聞こえ始める。
人だけでなく”あやかし”の声も。
こりゃ、こいつの妖力のせいだけじゃなさそうだ。
どうやら間に合ったようだねぇ。
「やっぱズベ公じゃないか。本当の美人ってのは怒った顔も綺麗ってなもんなんだぜ!」
嬢ちゃんの怒った顔は綺麗じゃなく可愛らしいけどな。
「ぶっ殺す!」
「お願いです! 私はどうなってもいいから、妻と娘を助けて下さい!」
怒りに牙をむくズベ公の隣で哀願するように兄ちゃんが言う。
やっぱ人質を取られていたか。
だけど、ごめんな。
「すまねぇなぁ。悪りぃが、俺っちじゃ助けられそうにないや」
そう言って俺っちは力なく肩をすくめる。
「そ、そんな……助けてくれるって言ったじゃないですか!?」
「そんなことは言っちゃいねぇよ。俺っちが言ったのは『お前さんたちは助かる』って言ったのさ。つまり……」
ダダダダダと廊下を何者かが駆ける足音が聞こえる。
スパーン
「女将! 大変です! 高野のたいま……」
勢いよく障子を開けて飛び込んで来た小鬼だが、可哀そうに。
お前さんの後ろに立っているヤツはそこのズベ公みたいに間抜けじゃないぜ。
ゴッ
真夏のスイカ割りのような音が響いて、小鬼の身体が霧散する。
その下手人は俺っちにとっても因縁のある相手。
「いよう緑乱、あたしの取り立てから逃げられるとでも思ったのかい?」
「遅かったじゃないか築善尼」
「尼はいらないよ。なんだか美味しそうな名前になっちまうからね」
現れたのは、こわーい退魔の姉ちゃん。
歳は60は超えてるはずだが、ババアって言っちまったら殺されちまうからな。
そうさ兄ちゃん、お前さんたちは助かるさ。
だけど、助けるのは俺っちのような”あやかし”じゃない。
人を救うのは、やっぱり人のお仲間なのさ。




