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この身よ青に染まれ  作者: 璃依
第一話
6/8

沙良と文也6



――美穂を、助けたい。

文也の声を聞いた時、やっぱりか、と思った。

雰囲気からして、あの少女が美穂なのだろう。

誰だって、死んだはずの誰かに会えて、そのひとを救えるかもしれないチャンスを与えられたら、必死になって助けようと――過去を変えようとするはずだ。私だってそうする。


 けれど、まわりの者たちはどうなるのだ。


 仮に助けられたとして、その時点で未来は大幅に変わる。未来が変わって、文也と美穂が平穏な日々を送れたとして……私は文也と仲良くなれるのだろうか。

もし友達になれたとしても、それは私であって私ではない。沙良という名前の、同じ姿かたちをした、別の人間だ。

別の沙良が文也の傍にいて、この私は永遠に文也のいない世界を生きることになる。それは、どうしても嫌だった。


 私は文也に近付くと、彼の腕を掴んだ。自分の手が冷え切っていたことに気付いたが、構わずにぐいと腕を引く。聞けば帰らないと返されるのが分かっているので、口は引き結んだままだ。

当然、文也は強く反発した。


「な……何するんだよ!」


 声とともに、手が離れる。

乱暴に振り払われた腕が悲しい。気持ちが顔に表れていたのだろうか、文也は気まずそうな表情になると、「……悪い」と謝ってきた。

謝罪なんていらない。別の言葉がほしかった。だけど、それは無理だと文也の目が言っている。


「帰ろうよ、文也。帰ろう……」


――帰らないと言われ、手も振りほどかれて、私にできるのはひたすら懇願することだけだった。

仕方ないなあと笑ってほしい。分かったと言ってこちらに歩み寄ってきてほしい。いつもみたいに、他愛のない話をしたい。

私の願いに、文也は頷かなかった。感情を抑えるように短く「やめてくれ」と言うのみだ。


「お願いだから、一緒に戻ろうよ……」


「……沙良」


 今度は首を左右に振るまでに少し間があり、私は言葉を重ねる。


「文也が帰るって言うまでやめない。だって……」


「――帰らないって、言ってるだろ……っ!」


 最後まで、言い終えることはできなかった。

さっきまで気にならなかった風の音が耳につく。動きを止めた私達の前で、文也は握りしめた拳を震わせていた。


「誰に何と言われようと、俺は戻らない。もう決めたんだ……だって」


 声に震えが混じる。込められた感情に、胸が締め付けられた。


「俺のせいなんだ。俺のせいで、美穂は……っ」


 こんな顔をした文也を、私は見たことがない。

文也は息を吸い込むと、絞り出すようにして叫んだ。


「俺があの日、寝坊なんかしなければ、美穂は事故になんて遭わなかったんだ……!!」


 目を見開いた私の視線の先で、美穂の身体が震えた。

相当な衝撃だっただろうに、彼女は声を上げなかった。もしかしたら、声を出せなかったのかもしれない。


 文也は荒い呼吸を繰り返していたが、程なくして囁くような声で言った。


「――なぁ、何でだよ?」


 七年間だ。七年間、彼は後悔の中で生きてきた。


「何であの朝、俺は寝坊したんだよ?何であの朝に限って、事故が起きたんだよ?」


 どれほど、文也は自分を責めてきたのだろう。人ひとりの命の責を背負って、どれだけ苦しかったことだろう。

私は何も知らなかった。彼の心の、表面しか見えていなかった。


「先に、行かせなきゃよかった。美穂まで遅刻することになったとしても、待ってるように言えばよかった。そうしてたら、きっと……」


――美穂が事故に巻き込まれることもなければ、命を落とすこともなかった。

断片的な言葉だけでは、何があったのかを正確に推し量るのは難しかったが、それでも伝わってくるものはある。

切なさで、胸が苦しかった。いったいこれは、文也の味わった痛みの何分の一なのだろう。


「――俺はもう、美穂のいない時間に戻りたくない」


 想像は、ついていた。そう言うだろうなということは。

頭では分かっていても……聞きたくはなかった。


 もしも、私が文也を強引に連れ戻したら、彼の今後は。

自責と無気力に苛まれ、もう二度と笑ってくれることはないかもしれない。

私は、文也といたい。でもそれは、どんな文也でもいいというわけではないのだ。

私は文也に、笑顔でいてほしい。彼の笑い顔が曇ってしまうくらいなら、私は――。


「――それでいいのか?」


 横から話しかけられ、私は目を瞬かせた。

一歩下がった位置にいたはずの雨月が、知らぬ間に隣にやってきていた。彼は私のほうを見ることなく、同じ言葉を繰り返す。


「自分の心を誤魔化して、それで本当にいいのか?」


 いいもなにも、と言おうとして、私はかたまった。

いいと思っているのなら、この胸の疼きは。切なさは、なんなのだ。

――見抜かれていた。雨月に、全て。


 雨月は気負いのない動作で文也に歩み寄った。近付かれた文也のほうが、じり、と後ずさる。

雨月は文也の肩を掴むと、彼に顔を近付けた。


「文也がこれまで、どんな思いで生きてきたのかは分かった。それについて、ボクには何を言う権利もない。――だけど、これだけは言わせてもらう」


 文也は顔をそむけようとしたが、雨月は逃げるのを許さなかった。彼の頬に手を添え、自分の方に向かせる。


「文也。大切なものは……お前が真に目を向けるべきものは、過去にはない。――『今』にしか、それは存在しない」


 厳しい言葉だった。

けれど、私はそこに雨月の優しさを感じた。

文也のことを真剣に思っているからこそ、出た言葉だと。


「……過去を、美穂を忘れろって俺に言うのか。きれいさっぱり忘れて、帰ってこいって……!」


「――そうじゃない」


 感情を押し殺そうとし、殺しきれていない声を、雨月は否定した。

雨月は立ち尽くしたままの美穂に目を向けると、


「あの子のことを、忘れろと言っているわけじゃない。むしろ逆だ。お前だけは、絶対に覚えていなければならないんだ」


 あの子が生きていたという事実を、と雨月は付け加えた。

――忘れ去られるばかりの故人を、お前が覚えていなかったら、誰が思い出してやれるのだと。

「けれど」と雨月は続けた。


「過去にばかり目を向けて、今をおろそかにしては駄目だ。今のお前を大切に思っている者がいるということを、忘れるな」


 雨月の視線が、文也を外れて私に向いた。彼の表情が、ふっと和らぐ。

――ああ。

目頭が熱くなった。

何が傷付く心が無い、だ。人間離れしている、だ。――人間ではないか。

これほどまでに心を震わせた優しさが、人の心でなくてなんだというのだ。


 文也が、雨月の視線につられたようにこちらを見たのが分かる。

気が付いたら、素直な思いが口をついて出ていた。


「私……文也にいてほしい」


 文也が、小さく目を見開いた。


「もっと、いろんなこと話したいよ。一緒に、笑い合いたい。……もう会えないなんて、嫌だよ」


 文也の瞳が揺れた。唇が震えたが、音にならない。

彼の動揺に、私は目を伏せた。

たとえ、文也の幸せにならなかったとしても。文也を、苦しめるだけだと分かっていても。

――私はもう、自分の気持ちに見て見ぬふりはできない。


「俺は……」


 文也の声に、私は顔を上げた。

彼の瞳に浮かぶ、複雑に混じり合った感情の中に「どうして」という思いを見つけて、私は吐く息にそっと言葉をのせた。


「私、文也が好き」


 文也のことが、ずっとずっと、好きだった。

見ないふりをして、でもそんなことは不可能で。今も、どうしようもないほど好きだ。

呆然と己の頬に触れる姿ですら、愛おしい。


「沙良が、俺のことを……?何かの、間違いじゃないのか……?」


「――沙良だけじゃない」


 信じられないような顔で零された言葉を否定したのは、雨月だった。


「お前を思っている人間は、他にもたくさんいる。お前が気付いてこなかっただけだ」


――誰にも好かれず、思ってもらえない人間などいない。

世界でひとりぼっちになってしまったような気分になっても、大切に思ってくれる人は必ずいる。人は弱くて、ひとりでは生きていけない生き物だから。

あとは、気付けるか気付けないかだけだ。かけがえのないものの、大切さに。


「俺、は……」


 声には迷いがはっきりと表れている。――ここが分水嶺だ。

最後の一押しがほしかった。文也の迷いを断ち切れるような。

何を言えばいい。いったい何を言えば――、


「――戻りなよ、文也」


 一瞬、誰の声なのか分からなかった。

雨月ではない。文也でもなければ、残るは美穂だけだ。

初めて聞く少女の声は、高く澄んでいた。

ついさっき、死の未来を聞かされたばかりだというのに、もう立ち直ったのだろうか。


 美穂の言葉に、文也は弾かれたように顔を上げ、


「美穂、なんで……」


「文也の居場所はここじゃない。戻ってきてって、そう言ってくれる人がいるなら、帰るべきだよ」


 美穂の声には、躊躇いは欠片もなかった。幼くも整った顔は、笑みを浮かべてすらいる。

少女は、七つも歳が上の私からみても、大人びて見えた。


「なら……なら、俺たちと一緒に未来へ行くのは……?」


「――無理だ」


 美穂が何かを言うよりも先に、瞑目した雨月が口を開いた。


「そこにいるべきでない存在を、世界は拒絶する。――文也も沙良も、普段より身体が重たくないか?」


 言われてみれば、ずしりとした重さが肩にのしかかっているような気がする。

動くのに支障はなさそうで、これくらいなら問題はないのではないかと思ったのだが、雨月は首を左右に振った。


「長くとどまれば、負荷も増す。倦怠感はまだましなほうだ。意識を失い、そのまま、ということだって十分にあり得る」


 淡々と語られたことが、かえって恐ろしかった。

美穂を未来へ連れて行けば、彼女は苦しむはめになる。文也が過去に残れば、今度は彼が。

文也が美穂と私の願いを聞きとどけ、元の時間へ戻ったなら――心優しい少女は命を落とす。

文也の取った選択は――、


「……俺は、ここに残る」


 彼の意思は、変わらなかった。

自分が苦しむと分かっていながら、文也は戻らないと言う。

そうまでしてでも、文也は。

美穂を、助けたいと思っているのだ。


――ぱちんと、乾いた破裂音が響いた。

音はあまりにも唐突で、私は一瞬何が起こったのか分からなかった。

驚いたような顔で、文也が頬を――叩かれた部分を押さえる。

文也の頬を張った少女は、涙に頬を濡らしていた。


「自分だけが傷付けばいいだなんて、思わないでよ!」


 大人しそうな印象を与えていた少女が、叫ぶ。


「もし、文也のおかげでわたしが事故に遭わなかったとして、それでどうなるの?苦しんでる文也を、わたしに見ろって言うの……!?」


 美穂は、自分の死が文也を傷つけたと分かっていて、それでも言わずにはいられなかったのだろう。

自分のせいで大切な人がつらい思いをして、命も危ない。

そんなのは味わいたくないし、味わわせたくもない。誰だってそうだ。

――そしてそれは、文也もよく分かっているはずのことで。


「自分だけが、傷付けばいいだなんて……思わないで」


 繰り返された言葉に、文也が身じろぎした。

わななく唇から声が洩れる。


「……ごめん。ごめんな、美穂……」


 文也は、少女の心を傷つけていたことに気付いたらしかった。

零れた謝罪の言葉に、美穂は涙を拭うと、「あのひと……沙良さんにも」と言って私を見た。


「沙良、ごめん。俺……」


 謝ってほしいわけではなかった。

何も言わなかったのは、文也が何かを言おうとし、迷っているのを感じたからだ。

急かすことも、先回りすることもせず、私はただただ待った。


「……俺は、美穂を助けたい。だけど、本当は」


 彼の瞳に、私の顔が映っている。


「本当は……沙良とも、別れたくないんだ」


――別れたくない。

そう言われて、嬉しくないはずがない。私は瞳が潤みそうになるのを瞬きで懸命に堪え、頷くことで続きを促した。


「すごく迷った。けど……俺、帰ろうと思う」


 躊躇いがちに伝え、文也は横にいる美穂に目を向けた。

美穂は、微笑みを答えとする。――彼女は、それでいいのだろうか。

美穂の目を、仕草のひとつひとつを見ていれば分かる。彼女が文也に向ける感情が。

――私だけ、幸せでいいのだろうか。


「――わたしには、文也がいるから大丈夫」


 内心を読んだかのように美穂が言う。花が綻ぶように、笑いながら。

文也が、顔をくしゃりとゆがめた。見られたくないとでもいうように、顔を背けるのが分かる。

私は、差し出された手を握った。ぐいと手を引かれて、前のめりになった私の耳に、美穂の声が届いた。


「――ありがとう」


 感謝される意味が分からず、困惑する私に美穂は言った。


「文也を好きになってくれて。文也をひとりにしないでくれて、ありがとう」


 涙が溢れるのを、堪えることなんてできなかった。

美穂の頬にも、一筋だけ涙が伝うのが見えた。

――同じ時に、同じ場所で会えたなら、彼女と友達になりたかった。


 美穂は手のひらで涙を拭い、呼吸を整えると、


「文也。沙良さんのこと、大切にしないとだめだよ」


「分かっ……てるよ」


 ほとんど泣いているような声に、私達は微苦笑した。

文也はしばらく顔を俯けていたが、やがて赤い目のまま美穂を見た。


「前みたいに、過去に縋り続けるのはやめる。でも……俺、忘れないから」


 風が吹いた。

風は文也の前髪を揺らし、零れそうになっていた少女の涙をも連れていく。


「ありがとう、文也」


 風に涙を拭われた少女は、目を細めて笑った。



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