沙良と文也5
文也視点です。
――本当に驚いた。
登校途中、何とはなしに目を向けた路地に違和感があって、近寄っていったらいきなり景色ががらりと変わったのだ。
まだ日は昇りきっていなかったはずなのに、太陽はだいぶ傾いていて、俺は夢でも見ているのかと思った。
だが、その後に訪れた衝撃を思えば、景色の変化に対する驚きは些細なものだったと言えよう。
「――?」
人の気配を感じて振り返った俺は、呼吸を忘れた。
だって、それは――その少女は。
「美穂……?」
――もうこの世にはいないはずの幼なじみが、きょとんと首をかしげて俺を見ている。
「――ッ」
どれほどの衝撃が突き抜けたのか、俺自身にも分からない。
たったひとつでも持て余してしまいそうなほど強い感情がいくつも湧き起こって、俺はしばし呆然と美穂を見ていた。
柔らかな面立ち。後ろでひとつにまとめた髪。よく似合う薄桃色のワンピース。――記憶にあるままの、美穂の姿だ。
突然、美穂が滲んで見えなくなった。熱いもので喉がふさがれて、声を出せない。
何度、描いたことだろう。何度、夢に見ただろう。――いったい何度、永遠に果たされることのない約束を抱えて、彼女の名前を呼んだだろう。
美穂が、驚いたように俺を見ているのが分かった。それについて、何かを思う余裕もない。胸中は感情の嵐で埋め尽くされて、息が苦しいほどだった。
数滴の涙が伝った頬に、滑らかな指先が触れた。
同時に、声が聞こえる。
「――大丈夫」
「――」
「大丈夫、だから。――泣かないで」
以前にも、同じ言葉をかけられたことがあった。
低学年のころの俺は何をやるのも苦手で、ひとり泣いているのがしょっちゅうだった。
みんなについていけない自分が悔しかった。簡単な問題をひとつ間違えただけで、自分を否定されたような気になった。
幼いながらに――いや、幼いからこそ、みんなができていることができないという事実は、ひどく俺の身体にのしかかっていて、いつも教室のすみっこで膝を抱えて泣いていた。
決まってひとりで、だけど本当は誰かにいてほしくて。
『泣かないで』
そんなときに、美穂は俺に声をかけてくれた。
隣に座って、俺が泣きやむまで背中を撫でてくれていた。
――彼女の言葉は、俺の記憶に深く刻まれていて。
足から、力が抜ける。
必死に抑えていた感情も、もう限界だった。手で顔を覆って、俺は子供のように声を上げて泣いた。
十七にもなって、情けない。みっともないのに、涙は止まるどころか勢いを増していく。
――ここは、過去だ。
とめどない涙を零しながら、俺は思った。
懐かしい景色に、死んでしまったはずの美穂。――過去に、やってきたのだ。
時歪や時雨刀について話を聞いたときは、正直眉唾ものだと思った。沙良があっさりと雨月を受け入れているのも、不思議でしょうがなかった。
しかし、もはや理屈はどうでもいい。過去に来た。それだけで十分だ。
――美穂に会えただけで、十分。
泣いて泣いて、ようやく涙が止まって、俺はゆっくりと顔を上げた。
「美穂」
掠れた声しか出なかったけれど、肩を揺らした美穂の反応から、ちゃんと聞こえたことを知る。
止まったはずの涙が、再びじわりと滲みそうになるのを懸命に堪え、俺は言葉を探した。
だが、俺が何かを言うよりも先に、美穂が声を発した。
「あなたは、誰?」
美穂の疑問は当然だ。彼女は昔の俺のことしか知らないから、成長した姿を見て分かるはずがない。ましてや、過去のこの時間には、小学生のころの俺がいるはずなのだ。
けれども、何と答えるか、迷いはしなかった。
「文也。――東文也」
美穂の両目が見開かれた。
信じては、もらえないと思う。分かっていても、どうしてもそう名乗りたかった。
――俺は君の幼なじみなのだ、と。
「文也、なの……?」
「――そうだよ」
俺は美穂に、未来から来たのだということを語った。
口に出してみるとどうにも嘘くさかったが、事実なのだから仕方がない。俺自身があまり理解できていないのもあって、たどたどしい説明になってしまったが、美穂はじっと聞いてくれた。
「……似てるな、と思ったの」
説明を聞き終えて、美穂はふわっと笑った。
「文也に雰囲気がそっくりで、顔も何となく似てて……おまけに、泣き虫なところもおんなじで」
泣き虫のくだりは、否定できない。今も昔も、涙もろい自覚はあるのだ。
ともあれ――こうまであっさりと受け入れてくれるとは思わなかった。俺だって、目の前に美穂がいなければ、時間遡行を信じていたかどうかも怪しい。
美穂が信じた根拠は何なのか気になって訊ねてみると、
「信じるよ。だって、文也が嘘ついたこと、一度もないから」
美穂の返答は純粋で、真っ直ぐで、それ故に俺の心を揺らした。
「……ありがとう」
感謝を伝えた俺の顔はきっと、赤くなっていることだろう。年は俺のほうが上になってしまったのに、美穂には敵う気がしなかった。
それから、俺は七年ぶりに美穂と他愛ない話をした。
俺にとっては懐かしく、美穂にとってはつい最近の記憶。覚えている限りのいろいろな出来事を話して、二人で笑い合った。
未来についても話した。
どこそこに新しい建物ができたとか、誰々が言った面白いこととかをふざけた口調で語ると、美穂は興味津々といった表情で聞き、ところどころ吹きだした。
奇妙で、不可思議で――とても幸せな時間。
しかし、美穂の発した一言で、和やかな雰囲気はかき消えてしまった。
「わたしも、今と変わってない?」
俺は、頬を強張らせた。
生まれた気まずい沈黙に、美穂が慌てたように取り繕おうとする。
「大したことじゃないの。文也があまり変わってないように見えたから、わたしはどうなのかなって思って……」
美穂の声は、ほとんど耳に入ってきていなかった。息がうまく吸えなくて、俺は胸のあたりを押さえる。
言えない。言えるわけがない、そんなこと。
――未来に美穂がいないなんて、言えない。
唐突に、怒りが湧いてきた。
何故、美穂だったのだ。どうして、美穂でなければいけなかった。
美穂が事故に巻き込まれた理由は何なのだ。運命を司る神がいるなら、胸倉を掴んで問い質してやりたかった。
俺はこれまで、いろいろな人に出会った。友人と呼べる人もいたけれど、顔も見たくないくらい嫌いな奴もいた。
そういう人に会うたび、思ってしまうのだ。
――何で、あんなに優しかった美穂が死んで、こいつらが生きているのだ、と。
自分の中の黒い感情と向き合いそうになるたび、俺は意識して目をそらしてきた。
見たくなかった。知りたくなかった。自分が自分じゃなくなりそうで怖くて、だから誤魔化していた。
けれど、それももう無理だ。俺は今、はっきりと醜い自分の心を自覚した。
同時に、自分は何をしたいのか、何をすべきなのかが、はっきりと分かった。
そのときだった。
「――」
背後で、空気が微かに動いた。
見なくても、分かった。誰なのか。
分かってしまったから、俺は振り返らない。振り返ったら、決意が揺らぐから。
しかしそれも、名前を呼ばれるまでのことだった。
「――文也」
安堵と憂慮がないまぜになった声に、俺は声の主の姿を見てしまった。
「……沙良」
見慣れた姿だ、見間違えようもない。沙良の隣には、雨月も立っていた。
――俺を、連れ戻しにきたんだろうなと思う。
「――俺は、帰らないよ」
口を開きかけた沙良に先んじて、俺は言った。
沙良の顔が翳ったのが分かり、そのことがちくりと胸を刺したが、決意は変わらなかった。
息を吸い、続ける。
「俺は帰らない。――美穂を、助けたいから」
沙良の顔から徐々に色が失われていくのを、俺はぼんやりと見つめていた。