沙良と文也4
翌日、私が登校すると、文也の姿はなかった。珍しいと思いつつ、彼のスマホにメッセージを送ってみたが、一向に既読がつかない。寝坊して慌てているのか、調子が悪いのか。後者だとしたら心配だ。電話をかけてみるべきか否か、迷っているうちにホームルームが始まってしまった。
「今朝、東を見たやつはいるか?」
開口一番、担任教師はそう口にした。思わず顔を上げた私のまわりで、クラスメイト達は首をひねっている。教師は一言「そうか」と言うと、今日一日の連絡事項についての話にうつった。
先生がああ聞くということは、学校のほうにも遅刻や欠席等の連絡は入っていないわけだ。いてもたってもいられなくて、私はホームルームの後、立ち去ろうとする教師を呼び止めた。
「文也さんに、何かあったんですか?」
私と文也の仲が良いことを知っている教師は、「それがな」と難しい顔をして言った。
「何も連絡がきていないんだ。これから、東の家に電話してみようと思ってるんだが」
気になって仕方がないので、私は教師の後について教務室へ向かった。電話を横で聞いているのはどうなのかと思ったので、廊下で待っていることにする。
少し経つと、何だか教務室内が騒がしくなった。すぐに、数人の先生達が慌ただしく廊下に出てくる。部屋の中から「警察に連絡は!?」という声が聞こえてきて、私は血の気が引くのを感じた。
担任教師が出てきたのを見て、私はもつれそうになる足を必死に動かして近付いた。
「先生」
声をかけると、教師は焦燥感の滲む表情で振り返った。私の顔を見て、驚いたような顔をする。
教師は周囲を見やり、「まだ誰にも言うなよ」と念押ししてから、電話の内容を早口で教えてくれた。
「東だがな、学校に行くと言っていつも通りに家を出たらしい」
「――」
文也は電車通学ではない。普段と変わらない時間に家を出発したのなら、とっくに着いているはずなのだ。なのに来ていないということは、何かあったとしか思えない。文也の身に、何かが――。
そうだ。
昨日、話したばかりではないか。――異なる時間へと続く、時の歪みについて。
私は面を上げると、逸る心を抑えて口を開いた。
「先生、急用ができたので早退します」
「え?」
「急ぎますので、失礼します!」
言うやいなや、教師に背を向けて走り出した。廊下を走るのは禁止されているが、気が急いて呑気に歩いてなどいられない。後ろから教師の呼ぶ声が聞こえたが、構わずに走り続けた。
階段を一段飛ばしで駆け下り、生徒玄関へと急ぐ。
外に出ると、私は目立つ青色の服装を探した。同じ服装である可能性は低いが、目で見て雨月を探すしか他に方法はないのだ。連絡先を聞いておかなかったことが悔やまれる。
多くの人は、連絡先も知らない、どこに住んでいるかも分からない相手に再び会うなど、無理だと言うだろう。そういう考えは、私の中にもある。
けれど、昨日だって会えた。ぶつかって、タオルを渡しただけの関係なのに。ならば、今日だって会えるはずだ。
汗が目に入り、視界がぼやける。私は瞬きを繰り返しながら走った。
息が切れるのも構わず走り続けて――ついに、特徴的な色合いの髪を見つける。
「――雨月!」
叫ぶと、人物はゆっくりと振り返った。
濃紺の双眸が、私を見つめる。男性にしては高めな声が、私の名を呼んだ。
「沙良?」
早く伝えようと思うのだが、息が切れて喋れない。懸命に呼吸を整え、待っていてくれた雨月に事の次第を話して聞かせた。
「時歪について、警察や先生達は知らないから……どうしても雨月に伝えたくて」
こじつけだということは分かっている。
けれど、何もしないで待っていることなどできない。僅かなりとも心当たりがあるのなら、それをあたってみるべきだと思ったからこそ、教師の制止を無視して学校を飛び出してきたのだ。
雨月は話を聞くと、「文也の家に行こう」と言った。考えを否定されなかったことに少しほっとして、私は雨月を案内する。文也の家に入ったことはないが、場所は知っていた。
「……ねぇ、聞いていい?」
歩きながら、私は雨月に話しかけた。雨月は無言のまま、顎を引いて促す。私は、昨日からずっと心に引っかかっていたことを聞いた。
「時間を移動したときの記憶って、現在に戻ってきたときに自動的に消えるの?それとも、雨月が消すの?」
「……調整者としての義務の範囲内で、消去の権限はボクにある。自然に消えてしまう、などということは起こらない」
返答は分かりにくかったが、雨月が消す、ということらしかった。だが、私が本当に聞きたかったのは、このことではないのだ。
「どうしても、記憶は消さないといけないの……?」
「ああ」
雨月は、一切の躊躇いもなく肯定した。整った顔には何の感情も浮かんでいない。背筋に冷たいものが押しあてられたような感覚を味わいながら、私は問いを重ねた。
「例えば、大災害が起きて、多くの命が失われるような未来に行ったとして……今の人々にそれを伝えて、対策をしっかりしておけば、全員は無理でも何人かは助かるかもしれない。そういうのでも、だめなの……?」
「駄目だな」
「救えるかもしれないのに?」
信じられない気持ちで聞くと、雨月は「救えるかもしれないからだ」と返した。
「救ってしまったら、未来は大きく変わる。本来はなかったはずの変化が起きる。――時は、より歪んでいく」
雨月の声は、ひどく冷たく聞こえた。
――雨月にとっては、人の命より、時を歪ませないことのほうが大事なのか。
立っている位置が違う。見えているものが違う。――考え方もまた、違う。
「雨月は……何とも思わないの……?」
怒りだとか、彼を責めたいだとか、そういったことは頭になかった。
ただ、気になった。救える可能性を切り捨てることに対して、何も感じないのだろうかと。
ぴたり、と雨月が足を止めた。
「……時の、調整者に」
――人の心など、いらない。
そう言って、雨月は再び歩き出したが、私は動くことができなかった。
何故なら――一瞬だけ見えた横顔に、苦悩の表情が浮かんでいたからだ。
「雨月……」
言いかけて、やめた。私は一度強く目をつぶると、遠ざかる背を追った。
◇◇◇
――時雨刀が反応したのは、文也の家からほど近いところにある、薄暗い路地だった。
反応に気付かないことはあるのだろうか、と心配していたのだが、杞憂だった。時雨刀は、布越しでも分かるくらいに青く光ったのだ。
通学路に面しているとはいえ、文也が何故路地に足を踏み入れたのかは分からなかったが、場所はここで合っているようだった。
「……過去だな」
「過去?」
雨月は路地に入っていく。あるところで立ち止まると、すっと片手をかざして目を閉じた。そこでようやく私は、白い靄のような揺らぎに気付いた。
「――繋がっているのは、七年くらい前の世界だろう。時歪に足を踏み入れたのはひとりだけ……気配からして、文也だな」
これには驚いた。どうしたら、靄からこんなに情報を得ることができるというのだろう。時雨刀も摩訶不思議な剣だが、雨月自身も世界からかけ離れた存在であるように思えた。
雨月は目を開けると、私を真っ直ぐに見た。
「ボクはこれから、時歪を通って過去に行ってくる。――沙良も来てくれないか」
「……私も?」
分からなかった。だって、私は雨月に、あんな苦しそうな表情をさせてしまったのに。
それなのにどうして、雨月は来てくれなどと言うのだろう。
「――人によるけれど」
「――」
「過去に居たいと言う者もいる。――文也がそうでないとは限らない」
雨月の話を聞き、私は遅まきながら気付いた。
文也が紛れ込んだのは過去ではないか。それも、七年前の。
七年前といえば、私と文也はまだ十歳で……小学四年生のころだ。
――文也の幼なじみの、美穂が生きていたころ。
雨月は続ける。
「文也を連れ戻すのは、気持ちを分かってやれて……文也のことを心から大切に思っている者にしかできない。ボクには……無理だ」
「……雨月」
何も感じないのかと問うことは、傷付く心を持っていないのかと聞くことと同義だ。
私の発した一言は、思っていたよりも深く、雨月の心を傷付けてしまっていたのかもしれない。
ひどいことを言って、悪かったと謝りたかった。でも、できない。
謝れば、雨月は私を許してくれるだろう。それは、雨月が自分の気持ちを押し殺すということだ。
謝って、救われるのはきっと自分だけ。なら、謝るべきではない。
「……分かった。私も行く」
頷くと、雨月は微笑した。
「時間が経てば経つほど、面倒なことになる。早く行こう」
雨月とともに、時歪に足を踏み入れる。眩暈のような感覚があり、時雨刀がひときわ強く光った。
そして――。
視界に、オレンジ色の光が飛び込んでくる。
息をのむような夕焼け空の下、文也と見知らぬ少女が立っていた。