5
バルドルとナンナが結婚し、子も生まれた。神界は変わらぬ平和が続いていた。フッラの心配は杞憂に思えた。
だがフッラの予感は遠からず的中した。ホズの屋敷にバルドルがやってきたのである。銀色の長い髪に隠れて、ホズからは表情を窺い知れない。ナンナも一緒だ。ただし、彼女は彼を止めるように腕を引っぱている。顔面は蒼白だ。異様な雰囲気である。
「やめて! 違うの、ホズと私はそんなんじゃないわ」
ナンナの悲痛な叫びが響く。
「ナンナ? ……バルドル?」
状況の分からないホズは狼狽える。何事か事情を聴こうとしたとき、覚えのある激痛に襲われ膝から崩れ落ちた。
「うるさい! 私に黙ってこいつと会っていただろう!」
バルドルが声を荒げる。ホズが床から見上げるとバルドルの額には青筋が立っており、憎悪に満ちた顔をしていた。初めて見る表情だった。
皮膚の内側を食い破るかのような苦痛にホズは肩で息をする。今までに感じたことのない壮絶なものだった。
ホズはそれを吸い続ける。しかし吸っても、吸ってもバルドルの怒りは収まらなかった。ホズは額に脂汗を流し、噛みしめた唇からは血がにじむ。
「バルドル! お願い、心を静めて。このままじゃホズが、ホズが!」
「何故ホズをかばう! お前はこの私よりもこいつの方がいいのか!」
「どうしてそうなるの? 愛しているのはあなたよ! バルドル」
「ならばなぜホズをかばう!」
「ホズは大事なお友達なの!」
「私より大事なものなどあるのか!」
「あああああああ!」
その時ホズは一際大きな声を上げた。ナンナはバルドルの腕を手放し、泣き叫びながらホズに駆け寄る。
「ホズ、ホズ!」
ナンナがホズを抱きかかえ、必死にホズの名前を呼ぶ。
バルドルから怒りの表情が消えうせた。ナンナの様子を呆然と見つめていた。静かに自分の腕を掴む。先ほどまでナンナに掴まれていた腕だ。今、その彼女は目の前で弟の名を呼んでいる。
「ナンナ、お前の顔など見たくも無い」
バルドルはつぶやく。
か細い声だった。ナンナに届くことはない。
バルドルは産まれて初めて、自分に関心が向けられないことを体験した。全て自分の思う通りに回りが動いたはずなのに、ナンナはバルドルのことを視界にすら入れない。
バルドルの心は激しい感情に揺さぶられた。
バルドルが両手で顔を覆う。
その光景を二度と見ないように。
ずり落ちるように手が下がる。
指先が、目の下にたどり着いた。
「うがあぁ!」
一瞬の出来事だった。
ナンナには何が起こったのかわからなかった。
時間が止まる。
ホズの目からは血。
なにが、おきた?
今の声はどちらの悲鳴だったのか。
ナンナは後ろをゆっくり振り向いた。
バルドルが、無邪気に笑っていた。
動き出した時間が一気に彼女に押し寄せる。感情とともに。まるで津波だ。彼女は有らんばかりの力で声をあげた。理解が追いつかない。叫ぶ以外どうしたらいいのか分からない。
やがて、彼女は意識を飛ばした――。






