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北欧神話は語られない  作者: エイカ
ホズという神
8/18

5

 バルドルとナンナが結婚し、子も生まれた。神界は変わらぬ平和が続いていた。フッラの心配は杞憂に思えた。

 だがフッラの予感は遠からず的中した。ホズの屋敷にバルドルがやってきたのである。銀色の長い髪に隠れて、ホズからは表情を窺い知れない。ナンナも一緒だ。ただし、彼女は彼を止めるように腕を引っぱている。顔面は蒼白だ。異様な雰囲気である。


「やめて! 違うの、ホズと私はそんなんじゃないわ」


 ナンナの悲痛な叫びが響く。


「ナンナ? ……バルドル?」


 状況の分からないホズは狼狽える。何事か事情を聴こうとしたとき、覚えのある激痛に襲われ膝から崩れ落ちた。


「うるさい! 私に黙ってこいつと会っていただろう!」


 バルドルが声を荒げる。ホズが床から見上げるとバルドルの額には青筋が立っており、憎悪に満ちた顔をしていた。初めて見る表情だった。

皮膚の内側を食い破るかのような苦痛にホズは肩で息をする。今までに感じたことのない壮絶なものだった。

 ホズはそれを吸い続ける。しかし吸っても、吸ってもバルドルの怒りは収まらなかった。ホズは額に脂汗を流し、噛みしめた唇からは血がにじむ。


「バルドル! お願い、心を静めて。このままじゃホズが、ホズが!」

「何故ホズをかばう! お前はこの私よりもこいつの方がいいのか!」

「どうしてそうなるの? 愛しているのはあなたよ! バルドル」

「ならばなぜホズをかばう!」

「ホズは大事なお友達なの!」

「私より大事なものなどあるのか!」

「あああああああ!」


 その時ホズは一際大きな声を上げた。ナンナはバルドルの腕を手放し、泣き叫びながらホズに駆け寄る。


「ホズ、ホズ!」


 ナンナがホズを抱きかかえ、必死にホズの名前を呼ぶ。

 バルドルから怒りの表情が消えうせた。ナンナの様子を呆然と見つめていた。静かに自分の腕を掴む。先ほどまでナンナに掴まれていた腕だ。今、その彼女は目の前で弟の名を呼んでいる。


「ナンナ、お前の顔など見たくも無い」


 バルドルはつぶやく。

 か細い声だった。ナンナに届くことはない。


 バルドルは産まれて初めて、自分に関心が向けられないことを体験した。全て自分の思う通りに回りが動いたはずなのに、ナンナはバルドルのことを視界にすら入れない。


 バルドルの心は激しい感情に揺さぶられた。

 バルドルが両手で顔を覆う。

 その光景を二度と見ないように。

 ずり落ちるように手が下がる。

 指先が、目の下にたどり着いた。


「うがあぁ!」


 一瞬の出来事だった。


 ナンナには何が起こったのかわからなかった。

 時間が止まる。

 ホズの目からは血。


 なにが、おきた?


 今の声はどちらの悲鳴だったのか。

 ナンナは後ろをゆっくり振り向いた。


 バルドルが、無邪気に笑っていた。


 動き出した時間が一気に彼女に押し寄せる。感情とともに。まるで津波だ。彼女は有らんばかりの力で声をあげた。理解が追いつかない。叫ぶ以外どうしたらいいのか分からない。

やがて、彼女は意識を飛ばした――。

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