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ヴァーラスキャールヴという宮殿にロキは来ていた。オーディンの館である。どうやら主はいないようであった。
重い扉を開け、謁見の間に入る。広い空間が広がるが、階段が遠目からでも視界に入る。
壇上には玉座、フリズスキャルヴが据えられている。そこに就いていたのは思わず息を飲んでしまうような、美しい女性だった。亜麻色の髪は上半分がまとめられている。
「オーディンは留守ですか、フリッグ神」
ロキは階段下まで進み、彼女を見上げ声を掛けた。フリッグの黄金の瞳は一点を見つめたまま、ロキの方を見ることなく口を開いた。
「ええ。出かけているわ」
柔らかで穏やかだが芯のある声だ。返事はするのだが、ロキの方を向くことはしない。
「どこへ?」
「さあ。放浪癖のある方だから」
「そうだとしたら僕を連れて行かないのが気に食わないな」
「貴方は彼のよき理解者、彼の影、彼の弟、彼の友。何を不安に思う必要があるのです。あの方だって一人で出歩きたいときもありますよ」
フリッグは幼い子に説くように言った。慈悲深い微笑みは絶やさない。ロキはその顔を見ると片眉をひくりと動かした。どうにも胡散臭さを感じ、居心地の悪さを感じる。全てをその表情で隠していて、感情が読み取れない。
ロキはフリッグが全てを悟ったように語るのにも我慢がならなかった。オーディンと自分の関係が彼女の言葉で、安っぽくなるように感じたのだ。それから私の方がオーディンをより理解している、という態度。彼女が実際どう思っているかは分からなかったが、ロキにはそう感じられたのだ。
「そうですね。彼と僕は血を分け合った義兄弟です。貴女のいうとおり、不安になる必要などない。僕たちは昔誓い合ったんだから」
「ええ。またいらしてくださいね。ロキ神」
彼女は最後まで笑顔だった。
「くそっ、言い負けた!」
部屋を出て、ロキは壁を叩きつける。
屈辱だった。態度には出さないように退室するまで頑張ったが、口元のゆがみは抑えられなかった。それも見抜かれていたのかと思うと、苛立ちは止まらない。どうやって発散したものかと、考えていると不意に声を掛けられた。
「ロキ神」
背後からの声にロキは一瞬呼吸を止めた。
「フッラか……」
ロキは後ろを振り返り、声の主を確認した。相手がホズと親しいフッラだと知ると少し警戒を解く。
「フリッグのところにいなかったな。フェンサリルの方に?」
「いいえ。奥様の館ではなく、ホズ様の館に」
「……名のない館ね」
ロキは微笑した。
フッラはロキの皮肉に、不快気に表情を顰めたが、何も言うことはなかった。感情に流されて、目的を見失うことは彼女の本意ではないからだ。
「ロキ神、お話が」
「いいのかい。フリッグは今フリズスキャルヴに座しているよ。あれが『全世界を見渡すことが出来る椅子』っていうことを忘れていないかい?」
「フリッグ様は今バルドル様しか見ていらっしゃいません」
「……バルドル、ね」
ロキはバルドルの名に片眉をぴくりと上げる。
不在のオーディン。フリッグの胡散臭さ。ホズの館にいたフッラ。そしてバルドル。何かあったのか。緊迫した空気が充満する。
「それに私の主はフリッグ様だけではありません。一家に仕えている身でもあります」
「移動しようか。ここでは出来ない話のようだ」
フッラは頷く。二人は宮殿を後にした。
「ロキ神はホズ様のことを何処まで知っていますか」
フッラがカップへと茶を注ぎながら尋ねた。
二人はフッラの自室へ来ていた。人払いはさせてある。
ロキはフッラのいれたお茶で喉を潤すと淡々と答えた。
「神々の失敗作」
躊躇ない言葉にフッラは眉をひそめた。
「……世間ではそう言われていますね。でもロキ神。貴方のことだから知っているでしょう? ホズ様は失敗作どころか、思惑どおりに出来た最高傑作だってことを」
「詳しくは知らないよ。いくらオーディンと旧知の仲だからって、彼の家庭のことまで関与はしないさ」
「では少し昔話にお付き合いください」
「……いいね。時間はたくさんある。ラグナロク、その時までは」
フッラは息を呑んだ。しかし、それについては何もいわなかった。今はまだその時ではない。
「全てのものに望まれてバルドル様はお生まれになりました――」
フッラは話し始めた。