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バルドルの死は神々を不幸に陥れた。
彼の妻であるナンナは、親しくしていた義弟のホズがバルドルを殺めたという現実を受け入れる事が出来ず、悲しみに打ち暮れて、とうとう心臓が張り裂けて亡くなってしまった。バルドルを誰よりも愛し、ナンナとも親しかったフリッグは堪え切れない悲しみにただ噎び泣くだけであった。冷静に見えたオーディンもバルドルの死に深く影響を受けていた。元々知識欲は旺盛であった彼であったが、異常なほど貪欲になっていったのだ。知識を得る為なら女を汚すことすら厭わないといった有り様である。ラグナロクを懸念してか、その準備に明け暮れていた。兵士を増やすために人間の世界へ赴き暗躍し、優秀な者を見つけては殺め、自らの軍に迎え入れ兵を肥やして行った。
人間界はひどい混乱に陥った。
オーディンは気づかなかった。自分の変わりようを嘆いているのは、死んだバルドルでも、妻のフリッグでもなく、かつて血を交わしたロキであることを。
バルドルの一件で立場を失っていたロキは、地下へと幽閉され自由を奪われていた。バルドルの死からしばらく経った頃、フッラが直接ロキの元を訪れ告げた。
「ホズ様が亡くなりました」
ホズの死を聞いても返事すらしないロキに構わず、フッラは続ける。
「オーディン様が復讐させるために設けた子がホズ様を殺めました」
ロキは別段驚くこともせず、静かに眼を閉じてからフッラを見ることなく言った。
「そう」
「……貴方にとって、それだけのことでしかないんですね」
フッラの目は涙も枯れて赤く血走り、隈が色濃く目立っていた。清楚な感じを受ける整った容姿も、今は怨みがましくロキを睨む眼だけがぎらぎらと輝いている。
「貴方は生きてるのに、なぜ!」
感情のまま首元に宛がわれたフッラの手を、ロキは黙って見つめていた。段々ときつく締まっていく手にも抵抗しない。酸素が足りず苦しそうに顔を歪めるが、それだけだ。
「なんで……」
「うッ――…ゲホッ、ック…はァ、はー……」
ロキの肺に酸素が送られる。フッラの手が首から離れる。ロキは床へ倒れ込んで咳きこむように空気を取り込んで、息を整える。静かにフッラを見上げた。
「なんで抵抗しないんですか……! 貴方は私に怨みすらも晴らさせないというの。死ぬなんて、簡単に死ぬなんて許せない……ホズ様の死が、報われないじゃない……あの方は、なんて、なんて不幸な方なの」
力なくへたり込んで、手で顔を覆うフッラ。彼女の言葉がロキの胸に突き刺さる。それでもロキは語ることなく、その眼を切なげに細めて言った。
「ごめんね」
ロキは誓う。言葉にはしないが、心に。
ホズの死を無駄にはしないと。
「ホズを殺めたのは僕のようなものだ。意思を奪い取って、やらせたんだ。それはもうホズじゃない。兄弟殺しをしたのはホズの意思なんかじゃない、それは全部僕の意図だ。全てが僕の思惑通りに運んだ結果だよ」
フッラは眼を見開いた。
「やはり、貴方は邪神……! 邪神にホズ様を託した私をお許しください、ホズ様……貴方を守り切れなかった私を、どうか……どうか……」
ふらつく足取りでロキの元を去って行った。ロキはその姿を痛ましそうに眺める。
「僕は最後まで嘘つきなんだろ、ホズ」
ふと、笑みを漏らして呟いた言葉は日ごろのペテンなんかよりずっしりと重く肩にのしかかった。
それならば、その嘘を最後まで突きとおそう。
「世界中を僕のペテンで翻弄しよう、勝負だよ。オーディン」
ロキの瞳から光は消えていない。
崩壊への足音が近づいている。
きつく縛られた鎖が解ける時、ラグナロク――その時が来ることをロキは知っていた。




