7
西日がホズの自室に差し込む。まだ就寝する時間ではないが、彼はベッドに横たわっていた。
ホズを襲う痛みは一度ではなかった。連日続いていたが、最近は間隔が短くなっていた。バルドルの身に何かが起きていることは間違いない。生まれた時からバルドルと繋がっていたのだ、ホズには何となく彼の気持ちの流れを汲み取ることが出来た。
それがホズを戸惑わせた。バルドルのことを憎んでいる。ナンナを奪ったつもりはなかった。逆恨みで視力まで奪っていったのだ。
(ぼくは彼女と友達でいたかっただけなのに)
バルドルのせいでホズは辛い思いをしてきた。母からは道具のように使われ、父は関心を示さない。体は成長をとめ、周囲からは気味悪がられる。何かとバルドルと比べられるが、誰もホズのおかげで彼が輝いていることを知らない。痛いのも、苦しいのも全てホズだ。
バルドルの感情が流れてくるのが気持ち悪かった。バルドルが不安や孤独を感じていることが何となく分かるのだ。
ホズは涙が流れてきた。自分の感情じゃないというのに。
しかしホズは自分も悲しいのだと気づいた。
同情しているのだろうか。
むしろ、同情されるのは自分自身だというのに、ホズは自嘲するしかなかった。繋がり過ぎたのかもしれない。
日はいつの間にか沈み、闇が世界を覆っている。月のやさしい光も、星たちのきれいな輝きも雲に覆われて見えない夜へと変わっていた。
鳥の羽ばたきが聞こえ、窓がゆれる。鷹だ。
嘴で器用に窓を開けると、鷹が部屋の中に入ってくる。
「やぁ。元気?」
鷹はそう言ってからロキへと姿を変えた。片手をあげて挨拶をする。
「見て分からないかな。最高に不調だよ」
ロキへと向けられたホズの顔色は悪い。目は窪んでおり、汗で前髪が額に貼りついている。
「うん。社交辞令だからね」
「用がないなら帰ってくれないかな。ぼく余裕ないんだ」
「用事ならあるさ」
「何?」
「君の生い立ちは聞いたよ。どうやらまた苦しんでいるらしいね」
「同情でもしにきたの?」
「同情されたいの」
「まさか」
「そうだろうね」
ロキはホズが横になっているベッドの側までやってきた。そこに腰掛ける。ホズの顔に涙の後を見つけ、親指でそっとぬぐう。
「明日、会議が開かれる。僕も呼ばれた。おそらくバルドルのことだ。オーディンは最近あちこち出歩いている。何かを調べているみたいだ」
「会議なんてする必要ないよ。どうせバルドルは傷つかない。ぼくが全部受け持っているんだから。ぼくにしてみれば、何で皆がそんなに慌てているか疑問だよ」
「慌てるさ。ラグナロクが予言されてから、彼らは皆おびえている。どんな小さな不安要素でさえも軽視できない」
「処分されちゃうかもね。ぼく」
ホズの声が響いた。内容に反して、そっけない。
ロキは言葉に詰まる。それが答えだった。
「バルドルに何かしようなんて、思ってはいなかったんだ」
ホズがぽつり、と語り始める。
「ただ、バルドルの感情がぼくの中で増幅していく。そして、あいつの感情まで流れてきて、自分が自分ではなくなる感じがするんだ。このままだときっとぼくはおかしくなって……君や、フッラや……ナンナに、危害を加えるかもしれない。でもぼくは臆病だから、一人で死ぬこともでききない。それなら……バルドルを襲えば、代わりにぼくが死ぬか、失敗しても誰かが殺してくれるかもしれない、とかね。考えてしまうんだ。なんでだろうね、もう狂ってしまったのかな」
悲痛な思いを吐き出すホズは、喋ってしまうと少し落ち着いた様子だ。ロキは彼の告白に眉一つ動かさない。知っていたからだ。
「……バレてるよ。オーディンには」
「ロキに感づかれているくらいだから、そうなんだろうね。やめろとかいわないでよ」
「言ったって、聞かないんだろ?」
ホズは笑む。彼はロキとの付き合いを思い出していた。いい思い出とはほど遠かったが、ロキと出会ってからは退屈はしなかった。旅の話や、突拍子のない思いつきを聞かされたり、時にはいたずらにも巻き込まれた。楽しかったのだと思う。
「ぼくね、きみになら利用されてもいいよ」
ロキは言葉に詰まり、目を丸める。
「ぼくだって、気づいているんだ。君が企んでるってこと。そしてその企みはいたずらなんて可愛い話じゃないこと。そしてぼくの行動を利用しようとしていること」
「……ごめん」
「謝るなよ」
「……」
「それからやさしいことも知っているよ」
「僕はやさしくないよ。甘いんだ、僕は。君を巻き込むことをいまだに躊躇してるんだ」
「馬鹿だな。ロキは。いたずらは種明かししちゃ面白くないだろう。最後までだまし続けろよ。ぼくも、ロキも」
「そうだね」
ロキはホズに手を伸ばし、静かに目を塞いだ。
「もう一度、聞くよ? 世界を見てみたくはないかい」
「君の美しい顔とやらを、もう一度拝んでおくのも悪くないかもね」
ロキの手から溢れる暖かな光が二人の周りを包む。やさしい光だった。少なくとも、ホズにはそう感じられたのだ。
光が引けると、ロキはホズの目を覆っていた手をゆっくりと避けた。
ホズの眼には新しい眼球がはめられていた。
眩しい光が彼を襲う。目を閉じたままでも入り込む光に彼は戸惑った。その様子にロキはくすりと笑い、促すように肩を叩いてやる。ホズはおそるおそる瞼を持ち上げる。そうして何度か瞬きを繰り返した。久しぶりにその瞳に映った世界は、昔の記憶となんら変わりない。まるで過ぎ去った時が嘘のような不変にホズは思わず笑ってしまった。
「この国は、世界は、全てが変わってしまったのに、景色は何一つ変わってないんだね……」
「うん」
「ぼくにはそれが、認めないと意固地に姿形だけを保っているようにみえるよ」
そうして、ホズは自分の手を見た。
小さな子供の手、昔の記憶のままだった。




