信頼と別れ
宜しくお願いします。
アルシアは、体を綺麗にされて、気持ちよくなってしまったらしく、湯船の中でウトウトし始めた。
夢心地のアルシアに言う。
「アルシア。お風呂で寝ちゃダメよ、温まったなら出て、ベッドで寝なさい」
となぜかお母さんみたいなことを言っていた。
心配すれば、自然とこんなことを言ってしまうものだと思った。
「はい。わかりました。もう少したったら、出まーす」
間延びした返事をした。
アルシアが少しなれた頃合いを見計らったように私は話し始めた。
自分ですら、この時を狙って話すことに嫌悪感すら抱いてしまう。だけど、私には、この時以外に時間がないのだと思い直した。
アルシアの服を用意しながら、話し始めた。
「——アルシアにお願いがあるの」
「はい! サキ様のお願いならなんだって聞きます。——お願いってなんですか?」
アルシアは、浴槽から出てきて、体を拭いていた。それから手渡された服を着ながらであるが、話を聞いていた。
「私は、サトシさんとカリーナとの間の契約をなかったことにしなくちゃいけないの。でも、私が……彼の近くにいたら、彼は際限なく力を使ってしまう。今日、そのことがわかったわ」
アルシアは、服の紐を結ぶために一度目を伏せた。
私が着ている時よりも、胸元の締め付けを緩くなっている。
「一瞬……、見ました。重契約者の姿です。あんな無理な力の使い方を続ければ、いつか人には戻れなくなります」
重契約者。あの時も彼はそう言われていた。
————重契約者とは、心臓や眼などに代表されるように大切なものを代償として差し出した者の総称。
代償の大きさは、パイプの大きさであり、精霊から多くの力を受けられる。その代わりに、大いなる力に当てられ、次第に人を維持できなくなるらしい。
そして、人を維持できなくなった者は、人知れず消える。それが契約で知られていることだった。
……。重契約者は、自身の身にあまる力を得ようとしたバカな人間だと多くの人は口を揃えて言う。————
「彼は、私を守ることを望んで、力を手に入れることでそれを叶えようとした。でも、違うの。それは、おかしいわ、間違っている。だけど、今の彼には私の言葉なんて届かない。だったら、私は隣にはいれない。それは私に力が足りないから、今すぐに、元に戻す方法がわからない。でも、必ず、彼の契約を破棄するために戻ってくるから、その間まで彼のことを頼めないかな?」
全てを着こなして、静かに聞いていたアルシアがこちらを見た。
「私の思っていることを言ってもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
アルシアの目は、非難する目。それそのものだった。
「サトシ様の事情を知らない私ですらわかります。サキ様と離れてしまったら、サトシ様は正気を保っていられるでしょうか。自分の大切な物を差し出すほどにサキ様のことを愛しておられるのに……。一緒にいてあげることをお勧めします。他人にしか契約の破棄はできないのも事実ですが、他人に契約の破棄が難しいのも事実です。破棄できることは、謂わば、偶然なんですから」
アルシアは言った後に目を伏せた。
大切なものを守るために自分のことを差し出した彼がこの先どうなるのか、この世界にずっといるアルシアは知っている。
だけど、それでも……。
「いいえ、あなたがそう思ったとしても、もう決めたの。——彼には、知ってほしい。大切な物を差し出したからって、それが愛の大きさなんて勘違いしてもらっては、困るの。愛は、正しさよ。愛だけが自分と他人を導ける。彼には、自分を信じる強さを持ってもらわなくては、困るの。大丈夫よ、彼は私が選んだ人なんですもの。彼なら、どんな困難だって乗り越えられる。そう信じていられるの」
胸を張ってそう言えた。
「……サキ様はずるいです」
「ごめんね。でも、あなたのことも信じられるから頼めるのよ」
アルシアの視線が定まらないことに気がついた。
口を開きかけ、そして、閉じる。それ以降の言葉が出てこなかった。
「何でも言ってよ」
この言葉を皮切りに、一度飲み込みかけた言葉を吐き出すようにアルシアは話した。
「でも……、私が、裏切ってしまうかも、しれません。サトシ様をおいて逃げ出してしまうかも、しれません。サキ様が裏切ったと思ってしまうかも、しれません。どうして、今夜あったばかりの私をそこまで信じれるんですか?」
小さく小さな声だった。
アルシアは、それからこちらを見ようとしない。下を向いて、暗い顔をするばかりだった。
「奴隷だったあなたが私たちと一緒に行きたいって言った。その言葉は、間違いなく、勇気がいる言葉よ。その勇気だけで、私はあなたを信じたいと思った。信頼ができると思った」
「それだってサキ様を利用しているだけかもしれません」
「そうね、そうであってもいいの。人が本当に人を信じる時って騙されてもいいと思えた時だと思うわ。だけど、騙された事実ってとても傷つく。だから、誰でも彼でもと信じることはしない。でも、あいつは、裏切り者だぞって後ろ指を指されている人でもね、一度心が決めたなら、信じ通す。いつだって信じる人は、心が決めてきたわ——」
「心ですか……」
「そう! 心!! 大好きって気持ちが信じさせてくれるの」
アルシアは、クスッと笑った。
「ふふ。サキ様は、すぐに騙されそうですね。——わかりました、サキ様のお願いを承りました」
アルシアが笑うので、つられて笑った。
だけど、笑い声が少し大きいんじゃないかと思った。でも、彼のほうを見ると、すやすやと気持ちよさそうに寝返りを打っている。
それを見てまたアルシアと静かに笑い合った。
「ありがとう。必ず、戻ってくるから」
「約束ですよ。信じてます。その間、サトシ様のお世話は任せておいてください。——少し、外に出ていますね」
アルシアが外に出た。
「気を使わせちゃったかな……、でも、ありがとう」
朝も間近だというのに、商人たちの仕入れの時の雑多な音すらも聞こえてこないのは不思議だった。とても、本当にとても静かな時間が流れていく。
ゆっくりと寝ている彼に近づき、あの時の彼のようにベッドの隅に座った。彼のすやすやと規則正しい寝息が聞こえてくる。
離れてしまう前に彼に言いたいことはたくさんある。彼の目を見て、それを言いたいところだけど、彼が起きるのを持っていたら、夜が明けてしまう。
そんなことをしていたら離れたくない私は、きっと、また明日、また明日と旅立ちを先延ばしにしてしまう。
それはできないし、しちゃいけない。
静かな時間に気持ち良さそうに寝る顔に次第に力が抜けていく。その寝息の静寂の中に彼と共に身を沈めたいと思ってしまう。
だけど、それは許されない。別れは先延ばしにしないほうがいい、きっと迷ってしまうから、他に方法があるかも知れないと、彼が彼でなくなるまで。
涙が頬を伝う、愛した人が知らない人になる恐怖に。
「私ね……、ちょっとあなたを救ってくる。あなたが寝ている時に出てしまうこんな女を許してね」
乱れた毛布を整える。その上に手を置いた。
ずっと誰よりも近くにいれるものだと思っていた。ずっといつまでも一緒にいれると思っていた。
誰も私たちを知らない世界で、ずっと一緒にいられるはずだった。でもいつかは……また一緒に。
月が雲に隠れた。再び、その姿を見せた時、辺りは青白く染まる。
ふたつの月は、互いに寄り添い合った。
月明かりが顔を照らした。
彼の顔にはまだ新しいかすり傷がある。知らない傷ばかりある。
「頑張って私を守ろうとしてたんだね。こんなに傷がたくさん……ありがとう。私も頑張るから……」
手作りのブレスレットが揃って反射した。
名残おしい彼の顔に触れた。
輪郭に沿わせて耳までたどる。指の腹で耳を象り、目のくぼみをまた象った。そのまま鼻筋を通り、鼻下にあるくぼみで彼の鼻息を感じた。
「離れたくないよ。離れたくない……」
何度も何度も彼に触りながら、旅立つ決心をつけようとした。最後だと思い、何度も触った。
だけど、決心はいつまでもつかない。離れたくない私は、いつまでも彼と一緒に居たかった。
「私の全ては、あなたのもの。あなたしか奪えないんだから。だから、安心して。すぐに取り戻すから」
一度大きく息を吸い、止めた。そのまま近づき、重ね寄り添わせて、楔のようなキスをした。
すぐにベッドから立ち上がり、そのまま静かに立ち去る。
部屋を出ても、彼の寝息だけが耳に残り、いつまでも私を引き止めた。
では、また




