僕と契約
宜しくお願いします。
彼女が洗い場に向かうと、僕と牧師は二人になった。
だから、率直に話してみることにした。牧師ならば、悩みを聞いてくれて、その最適解を持っているかもしれないと思ったからだ。
「牧師様、一ついいですか?」
「なんですか?」
「僕は強くなりたいんです。彼女よりも速く……強く……。二人で一緒に同じ速度で強くなっていては、いざという時に彼女を守れないとそう感じました」
「そうでしたね、わかります。サトシくんは、いつもサキさんを案じておられる。それは自分で彼女を守れる自信がないからですね。未然に防ごうとする現れ」
牧師は、否定から入らず、はじめに僕の悩みを真摯に聞いてくれた。
そして、はっきりと自分というものを認識する手伝いをしてくれ……ようとした。それが牧師という職業柄なのか、正しい道というものを知っていた。
「……そうです。昨日のことも僕がしっかりしていれば、彼女を無傷で守れたと思います。彼女に傷を残すこともなかったんです。それがたまらなく悔しい」
しかし、牧師は一つ誤った。それは牧師として神に仕えるものが犯してはならないものだったのかもしれない。
牧師は、神の教えではなく、自らの考えのもと人を正そうとしてしまった。
万物にも通用しそうな考えから、千差万別の考えで僕を正そうとしてしまった。本来の牧師ならば、きっとしないことだった。
だから、牧師は誤った。僕を正せなかった。
「……はい。弱いあなたにも責任の一端はあります。————ならば、強くなりなさい。どんなことをしても守ってあげなさい。サキさんは、あなたの大切な人なんでしょう? 次にどうするかが重要なのです。先を見なさい」
牧師は、切れ味のいい言葉でスパッと切り捨てる。その切られた傷口から血が噴き出し、血の気が引いて目の前が暗く視界が狭くなるのを感じた。
牧師の言う通り、大切な人すら守れない僕は何よりも“悪”だ。
何よりも、彼女を幸せにすると誓った。彼女を守ると誓った。彼女に相応しい男になると誓ったんだ。
この世界にも男は、星の数ほどいる。もちろん、僕の代わりになる男もいる。ただそれだけだ。
牧師の諭すような視線と言葉。
それが僕を更に彼女しか見えなくした。
「サトシくんは、これからも誰と一緒にいたいのですか?」
「もう答えは出ていました。でも、少し考え事をしたいので、散歩をしたいと思います。できれば彼女にそう伝えてください」
「はい、わかりました。確かに伝えておきます」
ゆっくりと立ち、おぼつかない足取りで家を後にした。
扉を出る時に牧師が言った。
「悩むことも人生です。悩み苦しみ出した結論なら、悪いはずがない。私は、そう思いますよ。良き1日を」
声を出すことが億劫で、その代わりに頭をさげることで応えとした。
街に出ても、ふらふらとした足取りは、土煙のように行く当てなどない。ただでさえ、弱い僕なのに、心までも弱い。
教会から出て、街から出て、目的地もなく、さまよい歩く。その間、ずっと視界は狭くなり続けた。見えない部分がただ灰色になり、黒く、ただ黒くなった。僕の見えないところだけが大きくなった。
『ただ好きだとか、ただ愛しているだとか、そんなものは陳腐なものだった。そんなことを大声で言う奴なんて恥ずかしい』
牧師は、僕がいなかったら、サキは死んでいたかもしれないと言った。けれど、それはまるっきりわかっていない。僕がいなかったら、彼女はこんなところに来ることさえなかった。僕がいなかったら、彼女は傷つきさえしなかった。
やっぱり、彼女をあの結婚式から連れ去るべきではなかった。この世界では、彼女を守ることができない。
一つの誤りが彼女の人生を大きく変えてしまった。
この世界で彼女が生きていくと決めたのなら、僕はそれを過保護に守らなくてはならない。そうでなくては、僕が彼女の隣にいる意味はない。
頭の良くない僕でもわかってしまう。彼女の不幸の元凶は、全て僕だという事実だけがどうしようもなく重くのしかかった。
僕がいるから、彼女は傷つき、不幸になる。それが僕の出した結論だった。
これが悩み苦しみ出した結論なら、悪いはずがない。なんて嘘っぱちだ。この答えのどこに良いことがあるのだというのか。
そんなことを考えていると、いつの間にかどこかわからないところにいた。————いや、本当は違う。直感のままにそこに向かっていた。そうすれば、この灰色の世界が少しはマシになるのではないかという錯覚だった。
街から一歩出れば、護られていない世界だ。青の国の国土であるが、獣は、もちろん魔獣が現れ、魔法現象が起こる場所になる。
当然、弱い僕にはそれらを退治したり、乗り越えたりすることはできない。万が一、そういった場面に遭遇してしまえば、死んでしまうだろう。でも、そんなことで歩みを止めることはない。
この空間が僕をどことなく安心させてくれる。どこか呼ばれているような気もする。惹かれている。
この時は、死んでしまってもいいと思っていたかもしれない。だって、僕さえいなくなれば、彼女が傷つくことなんてなかったんだから……、その不幸の連鎖が途切れるのだと思った。
僕が向かおうとしている場所は、きっと、誰も立ち寄らない危険区域。
大きな文字ででかでかと“Danger”と書かれている場所は、地元の子供ですら、遊び半分で立ち行ったりすることのない場所だろう。ここに立ち入るのは、きっと自殺志願者くらいのはずだ。
草木の手入れが全くされていない森へと入っていく。
鬱蒼と生い茂るものが心のモヤモヤした部分と同調した。それはまるで、小さな水と小さな水が合わさって、一つの大きな溜りを作り上げるような感覚だった。それは心の安らぎと似ていた。だから、より危険な場所へと入ってしまったのだ。
森の中は、暗く太陽の光を遮っている。
その中で、陽射しを反射する場所があった。いや、あたりが暗いから遠くからでもそこは輝いて見えた。僕は何となくそこを目指し、ガサガサと無造作に膝ほどに伸びた草を踏み倒して奥へ奥へと進んで行く。
別にそこに求めている何かがあると確証を持っていたわけではない。
しかし、何もないと思って進んでいたわけでもない。何か不思議と強く惹かれた。そこに何かしらの答えを望んでいたのかもしれない。
導かれるまま、目印のように見える光の塔の前に来た。
そこだけはきれいに整えられている場所で、森にある水辺の安息のオアシスだった。
その目の前に僕は立っている。
そこには泉があった。そこには水があった。そこには僕がいた。
泉に淀みはない。泉に深さはない。泉にくすみはない。そこに僕が映った。
なんとみっともない顔だろうか。そこには弱い僕が映っていた。
「人をここに迎え入れたのは、遠い昔。随分と長い間一人だった。このまま消えてしまうのかと思っていた」
水のように透き通る声が聞こえた。
僕の知り合いにこんな声の人物はいない。といっても、この世界に僕の知り合いは、彼女しかいないのだが……。
声の主は、小さな泉の真ん中にある大きな岩の一角に片膝を立て、頬杖をついてこちらを見ている。
「あなたは誰ですか?」
「私は、ここの主カリーナ。お前は?」
「僕は……、サトシです」
カリーナは、こちらから目を離さず、何も言わずにじっと見る。そして、鼻を鳴らし、遠くから匂いを嗅ぐような仕草をする。たまらず僕は言葉を交わした。
「なんですか?」
「お前、匂うな」
「え? 臭いですか?」
僕は、昨日から着ている服が臭うのかと思い、匂いを嗅いでみる。自分自身の匂いであるので、それを感じることができなかった。
「ああ、臭い、とんでもない異臭だ。ただの人間の匂いじゃない。いや、この世界の人間の匂いじゃない。お前、異世界の人間だな?」
「……? はい、そうですが?」
カリーナは楽しそうに笑う。
その笑い声は何者もいない森に響き渡り、不気味な深緑の森に飲み込まれた。
「面白い。こんな偶然があるのか? 水の導きに感謝します」
カリーナは、天を仰ぎながら瞳を閉じた。そして、瞳を開け、再び僕を見据えた。
「サトシよ。私は、ここに縛られている精霊。だが、随分と昔から退屈していた。今、世界はどうなっている? 聞かせてくれないか?」
「う〜ん。 も昨日こちらに来たばかりなので、よくわかっていないんです」
「ああ、そうなのか。ならば、お前が私を世界へ連れ回してくれ。そのための力を私はお前に授けてやる。————何が欲しい? 富か? 名誉か? それとも、ただ純粋に力が欲しいか?」
カリーナは、こちらを値踏みするように見た。
僕は強くなりたい。それは、彼女を守れるくらい強くなりたい。彼女が傷つかないほどに強くなりたい。どんな手を使っても強くなりたい。たとえ、それが他人の力を借りて強くなろうとも……強くなりたい。彼女を守れないような役立たずにはなりたくない。
強くなることが彼女の近くにいてもいい条件だ。彼女の近くにいたい。
カリーナの提案は、僕の願いをすぐに叶えてくれる、実現させてくれるモノだった。だから、僕が迷う理由なんてない。
「僕は強くなりたい……。強くなりたいんです。そんなことでよければいくらだって!! 僕の彼女を守れれば、いくらだって!! もう、彼女が傷つくところを見ないで済むならいくらだって!! 強くなりたいんです。それができるんですか?」
カリーナは、ニヤリと笑う。
「力を所望か。容易い願いよ!! その願い、このカリーナが請け負った!!」
カリーナは、一瞬で僕の目の前に飛んできた。ブワッと正面から強烈な風が吹く。目を閉じたくなるが、その逆に大きく見開いた。
目線を合わせるカリーナ。
「お前は、私との契約で何を代償とする?」
「僕が支払うものは——」
答えを聞いて、カリーナは嬉しそうに笑う。
「その覚悟、気に入ったぞ」
僕は、得体のしれない精霊と契約をした。そして、力と精霊を得た。
「契約が終わるまで、私はそばにいよう。そこから世界を見てみるとしようか……」
「……。—————。……」
「何、気にするな、人の寿命は短い。私にとっては砂時計の一粒の砂と大差無い」
森にある泉が一つ忽然と消えた。
また投稿します。




