道路交通法を守れないお前に世界は守れない。
不慮の事故、ではなかった。
1限に遅れるとヤバイ、そんなわけで自慢のロードバイクを時速36kmで飛ばした俺は、信号を無視した。普段はあまり車が通る事のない十字路の信号を無視した。焦っていたから。
しかし、焦っていた〜なんて事は理由にはならない。いつだって安全運転をするべきだった。
気がつけばクラクションが鳴り響き、音のなる方には軽トラックが。横からくる強い衝撃と共に世界は暗転した。
俺は、死んだ。
これは直感だった。
身体なんて無くなって、真っ暗な世界をふわふわと浮いているような、そんな感覚に陥る。そんな時に、声が聞こえた。
『汝は、死んだ。選択は2つ。今の世界で新たなる生を授かるか、別の世界で新たなる人生を歩むか』
まさか…まさか…
「い、異世界転移キター!!!?」
歓喜極まって声を上げて…いや声が出ることが驚きだが、俺は声を上げてしまった。
まさか…あれが世に言う「転生トラック」だったっていうのか…?
『汝、別の世界で新たなる人生を歩む道を選ぶか?』
「選びます!」
『早い決断だな。よかろう。新たなる世界へ進め』
そう声が聞こえると、辺りは暗闇から一転変わって眩い光に包まれる。
そして…
気がつけば俺は立っていた。
前の世界でいうところの…商店街。それも日本の下町の商店街だった。
あまりの唐突さに慌てて辺りを見回す。
左右は多種多様な店、パタパタとはためくのぼり、どこからか香る揚げ物の匂い。後ろを振り返ると、後ろは高い壁が立ち塞がっていた。足元はといえばコンクリートの地面。
異世界というには新鮮さに欠ける世界。ゴブリンもエルフもいない。レンガ造りの家が立ち並ぶ中世ヨーロッパ風の景色も広がっていない。
完全に、日本。
しかし唯一異世界らしいといえば、レザーアーマーを着用した男女が4人歩いている事と、俺の足元に広がっている大きな魔法陣のようなものだろうか。他はジーパンにTシャツとか、灰色のスウェットにドンキとかで売ってるクロックスの偽物履いてる人しか歩いてないし、異世界言語のようなのぼりはない。
「あれ、もしかして君…」
この理解できない現状に落胆していると、声をかけられた。無論日本語である。いや…これは俺が異世界に対応して言語機能に変化があったから日本語だと思っているだけかもしれない。本当はこれは異世界言語なのだ。そう信じて声の方を見ると
平たい顔の男がいた。
「いやぁ驚かせたかな?なんだか呆然と立ち尽くしてるもんだから、不安になっちゃって」
そこには歳は50そこらだろうか、スーツ姿の男が立っていた。手にはクリップボードとゼブラのボールペン持っている。
「すみません…付かぬ事をお伺いしますが…日本という国を知っていますか?」
「ん?日本?あぁ、知ってるよ。というのも、僕の故郷は千葉だから。あ、チーバくんで言うところの鼻らへんに住んでた」
やはり日本人だった。しかもチーバくんで自分の住んでるところを伝えるような千葉県民だった。
「そんな質問するって事は…やっぱり君も異世界に憧れて来ちゃったタイプだね?」
その質問に無言で頷くと、男は続けた。
「まぁそれは仕方ない事だ。僕もそうだったから。あ、名乗り遅れたね。僕はこういう者だよ」
男はそう言って胸ポケットから名刺を一枚取り出して両手で俺に差し出してきた。受け取って見るとこう書かれていた。
『異世界生活アドバイザー 落合肇』
「異世界生活アドバイザー…?」
「そう、君のようにこの世界に来て困惑する人を手助けする仕事さ」
「え…えーっと…」
「うん、困惑するのも無理はない。とりあえず何点か質問いいかな?」
落合と名乗るその男は手元のペンを回しながら聞いて来た。俺が無言で頷くと、落合はにっこり笑って質問を始めた。
「んーっとまず名前は覚えていますか?」
「あ…真坂太郎です…」
「あ、真坂君って言うんだね。なるほど」
落合はそう言いながら手元のクリップボードに記入をしていく。
「自分で選んでここに来た?」
「はい。新たなる生を授かるか、別の世界で新たなる人生を歩むかって聞かれて…別の世界で新たなる人生を歩むって方を選びました…」
「なるほどなるほど。うん、これなら大丈夫だ。もし良かったら一度事務所の方までついて来てくれないかな?まだ何が何だかわからないと思うから、手助けがしたいんだ」
落合はそう言うと、ついてくるよう手招きをしながら歩き出した。
トントン拍子で進んでいく展開にイマイチ追いつけていけないが、突然放り込まれた異世界で、何をしたらいいかもわからない。
俺は素直に落合についていくことにした。
落合の事務所は商店街をまっすぐ進んで八百屋とメンチカツの香りが漂う肉屋の間にあった。
「あそこのメンチカツ、凄く美味しいからあとで食べるといいよ」
落合はそう言いながらガラスの引き戸を開けて中に入っていく。
中に入ると、そこはテーブルとパイプ椅子、それから分厚いファイルの並んだ棚やら電話の置かれた引き出しなんかがある、いかにも事務といった風貌だった。
「とりあえず座ってて。今飲み物用意するから」
目の前のパイプ椅子に座ると、ギシッと音を立てる。
落合は事務所の奥の白い冷蔵庫から、茶色い飲み物の入ったペットボトルを出して湯飲みに注いでいた。
「やっぱりこの商店街に驚いたみたいだね。でもそれも無理はない。僕も最初来た時は驚いたよ」
落合はそう言いながら湯呑みを渡してくれた。冷たい麦茶だった。
「…なんだか、まるで日本人のために作った町みたいですね」
「日本人の為、か。それは少し違う。これは日本人が作った町だよ」
「え?」
俺が疑問の声をあげると、落合は事務所の棚からキングジムの青い分厚いファイルを取り出した。
「これが僕が営業を始めてから担当した顧客の数。んーっと…そうだね。君で6211人目だ」
落合はクリップボードに留めてあった紙をファイルに挟みながら言う。
「まぁ数字からもわかるように、今の異世界市場ってのは飽和している。数十年前までは魔王討伐やらなんやらでこの世界に選ばれた僕たちの住んでいた世界の人が活躍したみたいだけど、今はそう言うのもないしね」
落合はファイルを棚に戻すと今度は引き出しから何枚かの紙を持ってきた。
「んじゃこれ、住民票とかの発行に使う用紙だから書いといて」
細かい文字でびっしり書かれた読む気が無くなる注意事項をすっ飛ばし、枠線で囲まれた記入欄を書いていく。名前やら生年月日やら、何に使うのか前の世界の住所に携帯の電話番号まで書かされた。
「あの…この世界のこともう少し教えていただけますか?」
気がつけば俺の口からはそんな言葉が出ていた。異世界要素の無いこの世界は、一体なんなのか、それが気になってしょうがなかったのだろう。
「そうだね。話すとするか」
落合の話はこうだった。
数十年前、この世界は魔王と勇者の戦争が頻繁に起こる混沌とした世界だった。人間は魔物の恐怖に怯えながら過ごす日々が続いていた。
戦争が頻繁に起こる理由としては、魔王と呼ばれる者が周期的に生まれるからだった。
人間たちは魔王をこれ以上生み出さない為にも、「世界の理」を捻じ曲げる必要があると考えた。そこで、この世界とは別の世界の住民…つまるところ「この世界の理の影響を受けない存在」を呼ぶことだった。
偉大なる大神官が10人協力し、創造の神に願いを届け、3年に及ぶ祈りによって、神の加護を受けた異世界人を召喚することができたのだ。
異世界人は神から授かった力を使い、魔王を倒し、己の魔力を使い果たして世界の理を捻じ曲げた。
こうして世界は平和になったのだという。
「え…?異世界人って呼ぶのそんな大変なんですか?」
俺はてっきり、トラックに轢かれればいけるものかと…
「あ、いやぁ…これは数十年前までの話。問題はここから。ちなみに最初の異世界人の写真とかはこの冊子に乗ってるから見ると良いよ」
落合はそう言って机の端にあった小冊子を渡し、話を続けた。
世界が平和になり、勇者はお役目御免となって静かに暮らすことのなった。妻も手にし、子供も生まれた。だが、彼は一つだけ心に残るものがあった。
「故郷が恋しい」
勇者と言えども元は人間。しかも異世界の人間だ。
勇者は死ぬ間際まで、故郷のことを気にしていたそうだ。特に「ワンピースとHUNTER×HUNTERの結末が気になる…」と最後まで言っていたらしい。
「ちなみに完結した?」
「いいえ、ハンターの方はまた休載中です」
「そうか。あとで上の方にもそう報告しておくよ」
落合はさらに続けた。
一方で、勇者に魔王を倒された魔物たちは魔王復活の準備をしていた。
勇者を召喚した方法と同様に、こちらは邪神の加護を持った魔王を異世界から呼び寄せようと試みたのだ。異世界ならばこの世界の理の影響を受けないからだ。
邪悪な呪術師が10人協力し、邪神に願いを届け、三千に及ぶ生贄を捧げて、邪神の加護を受けた異世界人を召喚することができたのだ。
異世界人は邪神に神から授かった力を使い、多くの魔物を従い、己の魔力を使い果たして世界の理を変えた。
こうして世界は再び混沌の中に落とされたのだった。
「待ってください…人間が魔王になったんですか?」
「あぁ。それも魔物たちは邪悪な人間を呼び出したらしい。おそらく何か犯罪を犯したもの、しかも死刑囚とかそこら辺ではないか、と当時は噂されていた」
「当時は?」
「それも後で話す」
落合は再び話し出した。
世界の理は勇者召喚より前と同じ方向に捻じ曲げられたのではなく、真逆の方向に捻じ曲げられた。つまり、世界は新たな理を持ってしまったんだ。
それが、「無作為に世界自身がこの世界に異世界人を呼ぶ」という理。
それによって、不定期で何の加護も持たない人間がこの世界に突如現れるようになった。
ある者は「俺は異世界から来た勇者だ」と威張り私欲に走った上で魔物に殺されたし、ある者は森の中に召喚された挙句声を上げる間も無く魔物食われた。無知を利用され奴隷として生きるしかなくなった者も出た。
一方で、魔物として生まれ変わって召喚される者もいたという。言語を扱うスライムなんかは見世物小屋に入れられたし、人と和解しようとしても容姿ゆえに切り捨てられた人間もいたそうだ。
まさに混沌だった。
この世界の住民は、異世界人を守ろうと言う者と虐げるべきと言う者の二勢力に分断された。
そんな時、勇者となった異世界人と魔王となった異世界人が出会いを果たした。
お互いの見解は同じだった。
運良くお互い同じ日本人だと言うことがわかった2人は意気投合し、魔王と人間の戦争は終結。そして、残った問題である「異世界人の対処」として新たな召喚システムを構築し、そこを起点として日本人の見慣れた、それでいて利便性の高い商店街を作り上げた。
「召喚システム…それは異世界っぽいですね…」
「異世界だからね。まぁよくわからないけど、この世界に来る前に質問をして、相手の言質を取れればこちらに連れて行く、君も体験したアレだ」
「でも…よくここまで再現度の高い商店街ができましたね。それにさっきから冷蔵庫とかファイルとか…」
そう言ってチラッと奥の冷蔵庫を見る。
「それも召喚されてきている。たまにあるじゃん?気が付いたら無くなってるもの。消しゴムとか、鉛筆とか、靴下とか」
「靴下が異世界召喚されちゃうこともあるんですか!?」
「いやぁ、単にはぐれたものって運ばれやすいんだ。ここに」
それから落合は俺の手元にあった小冊子をめくり、あるページを開いた。そこには捻じ曲がった二本角の生えたおっさんと、頭皮の光沢の目立つおっさんが固く握手を交わしている写真があった。
「この角が生えている方が魔王。魔王・吉沢泰正。極悪人だと皆が思ってたその正体は、蕎麦屋の店主だった。悪い部分なんて酒癖くらいだった。で、その隣の禿げたおっさんが勇者・増田孝義。証券会社の部長だって。凄いもんだよな。普通のおっさんでも神の力があれば勇者になれたんだから」
写真の冴えないおっさん2人は明るい笑顔で握手を交わしている。勇者は美男子でもないし、魔王は残虐そうな顔はしていない。どちらもそこら辺にいるおっさんだった。
だが、彼らにも冒険があったのだろうか。勇者は鎧をまとってドラゴンと戦ったりしたのだろうか。魔王は反抗する他の魔族を八つ裂きにしたりしたのだろうか。
そう思うと、俺の口からは自然と言葉が漏れていた。
「俺も…冒険がしたいです…」
すると落合は少し困ったような顔をして言った。
「冒険か…なるほどね。でも…それは難しいかもしれない。
考えてみてくれ。君も僕も平和な日本からここに来た。それが急に戦闘なんてできるかい?よく言うだろう。「餅は餅屋」って。
戦いなんてこの世界にもともと暮らしている人に任せるのが一番。僕らはただ平和に暮らすのに限るんだ」
「で、でも、こんな冴えないおっさん2人でも世界を動かせたんです!!もっと若い俺だったら…!」
「君の言い分もわかる。どう見てもおっさんだよな。この二人。でも、彼らはお互いが神の力の一部を持っていたんだ。だから戦えたし。だから世界を変えられた。
君は、ただ死んで運ばれただけの市民Aなんだよ」
それから落合は窓の方を見るように俺に促した。
「あそこに見える男女4人のグループが見えるかい?」
そこには最初に見たレザーアーマーを着た4人だった。
「彼らは未だに冒険をあきらめきれずにああして鎧を着て街を歩いている。だが、決して街の外には出ようとしない。何故なら、彼らは一度魔物に殺されかけたからだ」
「魔物に…?それは一体どんな恐ろしい魔物が…?」
「スライムだよ。みんなが雑魚キャラの代名詞のように言うあの魔物。
スライムは実は凶悪なんだ。流動性のある肉体を持ち、地面を滑るように移動する。一度体内に取り込まれたたんぱく質を含む物体は、体内の消化液で溶かされ、吸収される。茂みの中を歩いていたら足を溶かされる冒険者は沢山いる。それは何も素人に限らない。熟練者だってあり得る事なんだ。
また、剣の攻撃じゃスライムを斬っても直ぐにくっつかれるか、2匹に分裂される。倒すには細かく斬りこんだ後に砂や土を被せて再びくっつくのを阻害するか、魔法で全体を焼いたり、凍らせたりさせるしかない。まぁ、体の90%が水分だから、氷系の魔法は有効だね。」
そう語る落合の顔は真剣そのものだった。
「あの冒険者になりたかった4人は、剣だけを持って草原に出た。で、草に隠れたスライムに襲われた。
幸い近くにこの世界の冒険者がいたから一命は取り留めたけど。
正直不思議だよ。どうしてそうまでして冒険に出たいのか。やっぱり歳取ってるとわからないのかね…」
確かに落合くらいの年齢では、異世界チート小説なんか読む機会は少なそうだ。だが、あのレザーアーマーを来たグループ然り、俺然り、自分で言うのも変だが若い世代には「異世界転移」にはグッと来るものがある。
そう思うと、「何故自分は勇者として転生できなかったのか」なんて思いが込み上げて来る。
仮に世界がもう戦いのない平和な時代であっても、訪れた村の近くで暴れる知性なき魔獣を倒したり、王様の願いを聞いて万病に効く薬草を取って来たりしたいのだ。
もっと細かく言うならば、イケメンに転生して、隣に世話好きな巨乳の幼馴染がいて、ひょんなことから一緒に冒険したい。で、道中獣人の娘と称するケモ耳美少女や、暗殺者の貧乳クーデレ美少女なんかもパーティーに加わって、この世界を闊歩したい。
お金がないときは宿も一部屋しか取れなかったりして、4人で一部屋、ベッドは1つしかなかったりして…自然と密着する肌、早まる鼓動…そんな異世界ハーレムライフもしたい。
異世界なんだから、今まで生きてきた夢も魔法もないコンクリートの世界じゃないんだから、もっと夢と魔法を見たかった。
「魔法…」
込み上げる思いからか、口から言葉が漏れ出す。落合はそれをしっかり拾ってくれた。
「魔法か。魔法適性は基本的に僕ら日本人は無いよ。研究結果として出ている。
この世界の住民にはある魔素を力に変える器官が僕らには備わっていないからね。移植手術でつけられるけど…非常に高額になる。もともと持ってないものをつけるわけだからね」
「なんて夢がないんだ…」
「夢も何も、現実がここだから仕方ない。夢っていうには寝ている時にしか見れないもんだよ」
そういう落合の目は、なんだか寂しそうだった。
「他に何か質問は無いかな?無いなら、さっき書いた書類を持って役所の生活相談課に行ってくれ。そこで住民票とか、生活に必要な必要最低限のものは手に入るから」
俺は落合にお礼を言って、役所に向かった
役所はメインストリート(商店街)の出口の向かいにあった。左右には団地が立ち並んでいる。役所はまるで要塞のようだった。
開け放たれた門をくぐって役所に入る。意外にも、日本人らしからぬ顔つきの人も多くいた。館内案内板を見ると「異世界生活相談課」「異世界年金課」「異世界税務課」など、といった文字が並んでいた。
「生活相談課は5階か…」
エスカレーターに乗って5階に上がる。整理券を取って待っていると意外と直ぐに呼ばれた。
「どうぞ、おかけください」
担当してくれたのは金髪ショートヘアの女性だった。赤いフレームの眼鏡が似合っている。だが、日本人の顔つきじゃなかった。
椅子に座って書類を渡すと、女性は気怠そうに書類を見始めた。
「えーっと、マサカさんですね。今日こっちに来て、住民票の発行…と」
独り言のように呟くと、テキパキとボールペンで書類にチェックを入れていった。それからダンボールから鍵を1つ拾い上げ、書類に何か書き込んでコピーを取る。
「今後の生活は住民票に記載された部屋番号でも生活となります。こちらがその鍵です」
渡された鍵には「2514」と書かれていた。
「最初の数字は館番号、次が階、そして部屋番号ですね。部屋数が多いので2桁になっています。間違えないように」
鍵を受け取ると、今度は引き出しから一枚の紙を取り出して俺に渡してきた。
「後は、今後の仕事のリストです。3日以内に提出してください」
紙には土木工事関係の仕事や、物品の輸送、農業といった仕事が書かれていた。どれも目新しくもない、前の世界でも見慣れたような仕事ばかりだった。
「異世界から来たからって優遇はされません。別に貴方方は偉くありませんのでお気をつけて。提出が無かった場合、処罰の対象となります。いくら平和な世界でも、何もせずに飯を食っていけるほど甘くはありませんよ?」
女性は酷く冷めた口調で言うと、後がつかえているので、と退くよう指示された。
俺は渡された鍵と紙を持って役所を後にした。
この世界は一体何なんだろう。
異世界という事はわかっている。だが、昔思っていたような世界とは大きく異なっていた。
俺に力はなく、魔法なんか使えず、優遇もなく、異世界人の扱いは悪い。
渡された紙に書かれていた仕事はほとんど誰でもできるような仕事ばかりだった。異世界らしい仕事なんか無かった。
改めて落合の言っていた「餅は餅屋」なんて言葉が頭の中でグルグルと回る。
あの対応してくれた役所の女性はこの世界にもともといる人なのだろう。前は冒険者ギルドとかに努めていたりしたのだろうか。
何にせよ、俺らがこの世界に来たのは間違いだったのかもしれない。
日は既に傾き、夕日が団地を照らしていた。ベランダには洗濯物を取り込む人や、タバコを吸う人が見える。平和な日常がそこに広がっていた。
階段を上がるとどこからかカレーの香りがする。子供のはしゃぐ声と机を片付けるよう言う母親の声が団地の廊下に響き渡る。
「家族のぬくもり」がそこにあった。
不意に涙が込み上げてきた。
俺は、もう家族には会えないのかと。寝坊して、信号無視して、トラックに轢かれて死んだ。
昨晩食べた晩御飯、豚の角煮とひよこ豆の入ったサラダ、それに豆腐とわかめの味噌汁。母の作った手料理。父のグラスに注いだビール。家族皆で食べたあの晩御飯。
俺はもう、あの場所には戻れない。どんなに願っても、一度死んでしまったから。
なんで最初に思えなかったんだろうか。家族に申し訳ないと。
なんで最初に思ったことが「異世界転生キター!!!?」だったのだろう。
俺は…馬鹿だ…
そもそも、前の世界でだって何かを成し遂げられたわけじゃないのに。そんな奴が、異世界に行って活躍できるはずがないじゃないか。
俺は特別なんかじゃない。俺は平凡だ。よく「平凡な主人公が~」なんて物語も見るが、それはそれ。
平凡な人間はいつまで経っても平凡だ。
自分の部屋番号を見つけ、ドアを開ける。ベッドと机くらいしかないワンルームタイプだった。
ベッドに横になり、目をつぶる。
これから先、どうしたら良いのだろうか。このまま誰にでもできるような仕事をして、歳をとって、知り合いも身内もいないこの世界で、孤独に死んでいくのか。
ただ、ただ恐怖だった。
もしやり直せるのならば、俺は異世界なんか望まない。
もし神がいるのならば、やり直させてくれ。
込み上げる涙で枕を濡らしながら、俺は眠った。
「…郎…太郎!!今日大学無いの?大丈夫!?」
眼を開けると、そこは自分の部屋だった。それも異世界の殺風景なワンルームではなく、見慣れた自分の部屋だった。
「え…夢…?」
「もう8時50分だけど!!1限は!?」
母の怒声を聞き、何故か安心感と嬉しさを感じる。
そうか。夢だったのか。あれは。
「母さん!!ありがとう!!!今日は1限あるよ!でも慌てて行ったら事故りそうだから、落ち着いて行くよ!!」
「え?何言ってんのよ!遅刻したら駄目でしょう!!」
急かす母に促されながら、俺は着替える。こんな何気ない日常が、こんなにも嬉しいものかと思いながら。
ゆっくりと用意された朝ごはんを食べる。みそ汁と炊飯器で炊いたご飯。ボイルしたソーセージに昨日の残りのひよこ豆のサラダ。
「ごちそうさまでした」
食器を流しに置く。
「あんた、大丈夫?なんだか朝から変じゃない?」
「大丈夫だよ。母さん、今日も朝ご飯を用意してくれてありがとう!美味しかった!!昨日の晩御飯もおいしかったし、ワイシャツ洗濯してくれて助かった!
じゃ、大学行ってくるわ!」
不思議そうな顔をする母に見送られ、俺は自転車をこぎだす。
時間はもう1限が始まる時間だ。だけど慌てしない。安全運転だ。
「世界は守れなくても、道路交通法は守らなきゃな」
朝の清々しい空気を吸いながら、俺は前へ進む。