されど艨艟は進む
「とぉーりかぁーじ…いっぱい!」
操舵室に通じる伝声管で号令を出しつつ、戦艦「三笠」艦長の伊地知彦次郎は困惑する心を沈めようとしていた。
艦の長たる彼の混乱が兵たちに伝われば、士気の低下に関わるからだ。
しかし、どうにも気が休まらぬ。
彼の後ろで金剛力士の如き立ち姿で敵艦を睨み据える東郷司令長官の命令とはいえ、敵との距離六五〇〇前後での取舵百八十度の逐次回頭は、このころの海軍戦術の常識を打ち破る禁じ手なのだ。
相手にしてみれば、回頭地点に砲撃を集中するだけで、たやすく当てることができる。
より一層死を予感させられる時間が回頭終了まで続いた。
敵艦はここぞとばかりに花火大会の佳境のように撃ち始め、艦のまわりにいくつのも水柱が立ちのぼり、水しぶきに包み込まれた。空気を引き裂き不気味な音を奏でながら飛来してくる砲弾が肉眼で確認できる。
被弾は、いまのところ殆どない。それだけでも救いである。
祖国が“生きる”か“死ぬか”それが決まる大海戦が始まった。
伊地知は、敗けとわかったとしても戦い抜く覚悟である。
―東郷長官を信じなければ。
砲弾の雨霰のなか、彼は思い直した。
回頭完了、砲撃開始だ。