第三十五話 ハプニング再び
まずは玉葱を微塵切りにする。
その後、予め用意しておいたボウルにパン粉を入れ、少量の牛乳を注いで染み込ませる。そして先程切った玉葱と、それから挽肉、塩、故障、ナツメグを適量投入して捏ねる。暫くして生地に粘りが出てきたら小分けにして成形し、油を引いたフライパンに投下。加熱処理を開始する。
キッチンに備え付けられたコンロは、火を使うタイプの原始的な仕組みのものだ。問題なく使用できるが、しかし今回は使用しない。
熱を持つフライパンの上で、ばちばちと油が弾ける。血の色そのものの色味を備えた新鮮な挽肉の赤色が、焦げ付いた健全な焼き色へと少しずつ変化していく。仄かな生臭い気配は消え、食欲を刺激する香りが辺りに漂い始めた。
「…………」
料理人――アラン・ウィックは、無言で調理を続ける。
フライ返しを使って出来上がったハンバーグを皿の方へ移動させ、予め並べておいたスライス済みの四つの丸パンの上に二段ずつ乗せる。
肉汁の残ったフライパンに酒とケチャップを投入し、暫しの間煮詰める。そこに頃合いを見てバターを一切れ投下し、溶かしながら混ぜた。
特製のソースが出来上がると、アランはフライ返しを使って器用にソースを掬い取り、ハンバーグの上に注ぐ。湯気の昇るどろどろの赤いソースが、料理を彩った。
後はその上にスライスチーズや薄く切ったピクルス等のトッピングを盛り付け、丸パンで挟み込む。
こうして、アラン特製のハンバーガーが完成した。
調理を終えエプロンを外し、手を洗って革手袋を両手に嵌める。
「むむっ、良い匂いがする!」
背後から聞き慣れた少女の声。それは物理的な衝撃を伴って、アランの背中に直撃した。
気怠げに目を細め、アランはじろりと眼球だけを転がして闖入者を見やる。
シャーロット・ウィックが彼の背中に張り付いていた。兄の首に両腕を回し、しっかりと抱き着いている。視線が克ち合うと、彼女は華のような笑みを咲かせてアランに頬擦りした。
「おはよう、おにーちゃん」
「おはよう、シャーロット」
親愛の情が覗く間延びした声に、自然体を装った硬い声が答えた。
アランとシャーロットは血の繋がった実の兄妹だ。二人の間には確かな信頼があり、家族としての愛情があった。けれど今はその関係に決して浅くない亀裂が生じている。
それは、一方的な断絶だった。
シャーロットに相手を遠ざける意図は全くない。壁を作っているのはアランの方だ。露骨に拒むような挙措こそないものの、それとなく妹との接触を避けている。
だからといって、委縮して距離を開けるシャーロットではない。
むしろ彼が何も言わないのをいいことに、普段以上に思うがままに振舞っている。彼女はアランの背中に張り付いたまま首筋に顎を乗せて、完成した料理を覗き込んだ。
「今日の料理当番はお兄ちゃんなんだね」
「ああ。……彼女の料理とは比べるべくもない、雑なものしか作れないのが心苦しいが。まあ、順番は予め決められたことだからな。すまないが我慢してくれ」
「もう、謙遜しちゃってー。少なくともこの前私が作った玉虫色に輝くどぅるどぅるのスパゲティよりは美味しそうだよ? たぶんお腹も壊さないと思うし!」
「アレを比較対象にされるのは流石に心外だ」
「率直にヒドイー! いや、失敗した私が悪いんだけど!」
当たり障りのない会話を演じつつ、アランは淀みなく朝餉の用意を進める。
ハンバーガーを乗せた皿と、調理済のハッシュドポテト、一口サイズのパンケーキが別々に且つ多量に盛られた二枚の大皿、それからケチャップやマヨネーズなど数種のソースが注がれた幾つかの小鉢、飲用水の入った大き目のウォーターポットと人数分のグラスなどを傍らのキッチンワゴンに移す。
アランは背中にシャーロットを張り付けたままワゴンを押し、台所を後にした。
隣接したダイニングルームには巨大な食卓がある。
表面に漆の塗られた紅いターンテーブルだ。三合会などで好まれている中亨様式のもので、大小の板が二段重ねになった特別な造りをしている。
食卓には四つの席が設けられており、その内の一つは既に埋まっていた。
席に着いているのは二人共が見知った顔の男だ。
男の名はエドガー・ボウという。彼等の住居である雑貨屋兼探偵事務所『ジグソウ』の所長を務めている人物だ。
事務所の開業時間はその業務内容から基本的に不定で、尚且つ午後に偏っているのがほとんどなのだが、既にエドガーは仕事着に着替えていた。
糊の利いた赤のシャツと榛色の背広一式という伊達な格好だが、しかし無精髭と伸びっ放しで放置された寝癖だらけの髪がどうにもだらしなく見える。けれど今朝は妙に真面目な面持ちをしており、足を組んだ姿勢でファイリングされた資料のページを捲くる姿とも相まって、辛うじて探偵のイメージ象に相応しい体裁を保ってはいた。
「おはよう、エドガーさん!」
「おはようございます」
「ん? ああ、おはようさん」
元気の良いシャーロットの声を皮切りに、三人で挨拶を交わす。
エドガーは顔を上げ、資料の紙面から同居人へと視線を移す。そしてシャーロットを背中に張り付けたまま黙々と食卓に配膳するアランの姿を見付け、僅かに目を白黒させた。
しかし直ぐにいつものことと納得して、並べられた料理の方に関心を向ける。
「おっ、今日の料理当番はアランちゃんだっけか。……って、凄いジャンクフードの山だな。朝から重くないかこれ?」
「これしか作れないもので」
「私は全然オッケーだよ! それに、朝っていうには少し遅い時間だし、そこまで変でもないんじゃない?」
エドガーは左手に着けた腕時計に視線を落とす。針が示す時刻は午前九時を半ば過ぎていた。確かに、朝食を摂るには少し遅い時間だ。
配膳を終え、アランとシャーロットがそれぞれ席に着く。
二人は片手にハンバーガーを持ち、反対の手に持ったフォークの穂先で思い思いに机上の付け合わせ料理を突き刺して次々と口に放り込む。その様子を眺め、エドガーは「若いなぁ」と苦笑交じりに呟いた。
エドガーは資料を畳んでテーブルの端に置くと、用意されたフォークを手に取ってサラダを突つく。
「お兄ちゃん、それ取ってー!」
「ああ」
「お兄ちゃん、お水取ってー!」
「ああ」
「お兄ちゃん、これ温めてー!」
「ああ」
シャーロットが差し出した皿をアランが受け取る。すると瞬く間に、皿に盛られたパンケーキの山からほくほくと湯気が立ち昇った。
興味本位から、エドガーはパンケーキの皿に手を伸ばして一切れ取り上げる。
温かい生地を口に放り込むと、しっとりとした甘みが口全体に広がった。どうやら生地にバナナが練り込んであるらしく、香り高く円やかな味わいを演出している。料理としては粗雑だが、確かに美味だった。
「ふんふふふーん♪」
分厚いパンケーキを自身の取り皿に盛り付け、そこにクリームチーズの塊を乗せる。そしてシャーロットは鼻歌交じりに白桃ジャムの瓶を手に取ると、蓋を開けようと両手に力を込めた。
しかし、開かない。
「あれ?」
間を置かずに再挑戦する。しかし、先程よりも熱心に力を入れているにも拘わらず、蓋は固く閉ざされたままだった。
「んんんんんんんんんんんんんんんんん!」
「開かないのか? どれ、貸してみ―――」
「―――うわぁっ!?」
見かねて助け舟を出すアラン。しかしその語尾は、シャーロットが発した頓狂な悲鳴によって掻き消された。
少女が発揮する剛力の前に屈した蓋は解き放たれ、のみならず、勢いのままに手に持っていた瓶が弾き飛ばされて高く空中を舞う。
瓶は中の甘い粘液を辺り一帯へ豪快にぶち撒けた後、床に落ちる前にアランの手で受け止められた。
瓶の中身はほとんど空に近い状態だ。そして奇跡的にも、食卓に並ぶ料理は一切の損害を被っていない。けれどその代償として、アランは頭からジャムを引っ被る羽目になった。
黄色がかった白濁の甘い粘液に塗れたアランが、半眼でシャーロットを睨める。
「わわっ!? ごめんねお兄ちゃん! ええっと、拭くもの拭くもの―――!」
「俺は拭かなくていい。シャワーを浴びてくるから、戻るまでにしっかり後片付けをしておくこと」
溜息交じりに告げ、アランは席を立った。
脱衣所へ向かう兄の背中へ向けて意気高く「了解ー!」と応答しつつ、シャーロットはキッチンへ移動した。そして絞った布巾と小型の洗面器を手に早足で戻ると、床や椅子に飛び散ったジャムの残骸を手早く拭いていく。
「……んん?」
一部始終を観察していたエドガーは首を傾げていた。
「どうしたのエドガーさん、お腹痛いの?」
「いや……アランちゃんは魔術で物体が持つ熱量を自由に操作できるんだろ? どんな物質だろうと融解させるも蒸発させるも思いのままだって聞いたぜ。ならよ、ジャムを被っても別にシャワーを浴びる必要はないんじゃないかと思ってな」
「んー……ジャムは蒸発させても砂糖とかでベタベタになっちゃうから、それが嫌だったんじゃないかな。お兄ちゃんってけっこう潔癖なところあるし」
「ふぅん、潔癖か……なるほど」
一先ず納得し、鼻を鳴らして頷く。
鼻歌交じりに片付けを続けるシャーロットを尻目に、エドガーはハンバーガーへと手を伸ばした。中身が食み出ることがないよう両手でしっかりと持ち、徐に噛り付く。分厚いパテから溢れる肉汁と、蕩けたチーズの旨味が口一杯に広がった。
久方振りに食べるジャンクフードの味は、美味かった。
* * *
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ
「―――……ん、ぅ」
聞き慣れた騒音に鼓膜を揺さぶられ、カルティエ・K・ガウトーロンは目を覚ました。
事務所の地下に建設した工房――その片隅に設えた、仮眠用の寝台の上で呻く。
カルティエは緩慢な動作で腕を動かし、顔に覆い被さっていた分厚いファイルを横に退ける。すると枕元に積み重なっていた資料の山にぶつかり、雪崩が発生した。無数の用紙が床に散らばる様を、少女は寝惚けた眼で呆然と眺めている。
紙面に刷られた印字の羅列。それが内包する情報を脳内で反芻し、カルティエは頭痛を堪えるように顔をしかめて溜息を吐いた。
(あの事件から、もう半月も経ったのですね)
そう遠くない過去に目にした、血の惨劇が脳裏を過る。
其は人為的な魔術災害。青空教会による愉快犯的テロリズム騒動。人智を超えた現象を生態機能として行使する神話生物――個体名『エレナ・S・アルジェント』を使用し、結果として延べ五百万人もの犠牲者を出した未曾有の大量殺戮事件だ。
失われた命はあまりにも多く、けれどヒュペルボレオスは未だ楽園の体裁を保っている。別けても、カルティエの日常に変化はなかった。
―――母親が、死んだというのに。
胃の腑の奥から吐き気が込み上げてくる。それを強引に飲み下し、カルティエは自嘲した。
「……は。なにを今更」
全ては終わったことだ。半月もあれば、十分に割り切ることができる。その程度の関係でしかなかったのだから。
ゆっくりと上体を起こし、カルティエは指を組んで腕を上げ、背筋を伸ばし筋肉の緊張を解す。豊かな胸がぐっと押し上げられた。
着ていた青いツナギの襟を崩し、寝台から降りて靴に爪先を突っ込む。そして散らかった資料には目もくれず、出口へ向かってのろのろと歩き出した。
カルティエは連日徹夜で趣味に没頭していた。
昼には家事をこなし、夜は研究に明け暮れる。この半月の間そんな生活を送っていたために、彼女の目元には濃い疲労の色が浮き出ていた。
半月前の事件――青空教会がもたらした大災害は、カルティエという人間に多数の衝撃を与えていた。
無限の熱量を持つ怪物――アラン・ウィック。
救済の自死を歌う魔女――エレナ・サスピリオルム・アルジェント。
常識外の生態機能を有した、これら二つの生物との接触。全く未知の現象を目の当たりにした若き碩学は、空前絶後の驚愕に見舞われつつも、それこそが極自然なことであるかのように。身を削ることすら厭わず、謎の究明に挑んだ。
その行動は、実母が犯した罪と、彼女の死に触れたことによる代償行為としての、強迫観念に背を押され追い立てられての行動でもある。当人は気付いていないが。
しかしその甲斐もなく、分かったことはほとんどない。
ただ解らないということが分かっただけだ。
膨大な数の資料には、到底理解できない情報が羅列されている。そのほとんどが意味を為さない雑音であったが、僅かにだが取得できたデータもある。しかし、それも常人ならば何かの冗談だと笑い飛ばす類の、荒唐無稽な代物でしかなかった。
けれど、カルティエはそうすることができない。
その身に魔術を宿す者の一人である彼女には、決して。
学問の本質は学ぶことではない。
その本分は、未知を既知へと解明することにこそある。そうであるが故に、碩学が全く未開の現象に遭遇すること自体はそう珍しいことでもない。荒唐無稽な内容の論文など、誰もが見飽きているものだ。
世界は奇妙な御伽噺で溢れている。
だからこそ、カルティエは発見した二つの魔術を究明すべく挑んだ。そして、惨敗した。だがそれは意味のある敗北だった。
奇妙、なのではない。
不思議な訳でもない。
ただ――解は出ているが、解法の分からない数式が目の前に転がっているだけ。
現在の科学技術では到底解明できない神秘。その解き方を探るためには、幾千幾万と、新たな機材と理論を零から創り出す必要があった。
―――魔素・外宇宙線。
二千年前の世界崩壊以降、一切の観測が不可能となった宇宙空間より地上に降り注ぐ、新たな元素。素粒子や原子・分子などといった複合粒子が持つ『粒子』と『波動』の二つの性質の他に、『色彩』と形容される第三の性質を持った未知の物理現象。この惑星の外――宇宙より来たる異次元の奇怪。魔術の根幹を成すと推測される要素の一つだ。
それが、膨大なノイズに紛れて確かに計測されていた。しかもその量が尋常ではなかったのだ。
アランにせよ、エレナにせよ。彼等は当たり前のように無から有を生む。故に場から計測された外宇宙線もまた、当たり前の如く異常数値。魔術の干渉を受けた物質からは悉く未知の元素が検出され、ただ歌を聞いただけの死者の脳細胞は、通常よりも高位の回路を形成するに至っている。しかもソレがどこから発生したものなのか完全に謎だった。
まるでサイエンス・フィクションのような超常現象。
故にソレを手足の如く自在に操る彼等はこの惑星よりも上位――宇宙の理の中に生きているのだと、そう結論付けざるを得ない。
深淵。
古来より、人類が遭遇してきた数多の神秘。考える生き物であるが故に理解できない存在と、その領域。アラン・ウィックとエレナ・S・アルジェントは、そういう世界から産み落とされた存在なのだと分類する他ない。床と寝台に散らばる資料の山は、そのことを証明する裏付けでしかなかった。
だから―――
「―――だから、何だというのでしょう。さあ今日も頑張っていきましょうっ!」
知るために全力を尽くした。知りたかったことは知れた。
ならばそれでいいのだと納得して、カルティエは徹夜明けのハイテンションのまま工房を後にした。
ベートーヴェン交響曲第九番第四楽章、『歓喜の歌』。
鼻歌を歌いながら歩く。
地下から這い出し、二階の事務所を経由して脱衣所へ向かう。
今日の食事当番はアランだ。ジャンクフードを嗜好する彼の料理は雑だが、エドガーやシャーロットのように食べられないものを出すことはない。寝起きに脂ものを取る形となるが、十代のカルティエにとってそこまで苦ではないので問題ない。
待ち構えているであろう油分を思い浮かべ、胃袋に臨戦態勢への移行を命じつつ脱衣所の戸に指を掛ける。そして引き開けた瞬間―――
「―――――」
「―――――」
―――なにか、見てはいけないものを見た。
一部の隙もなく鍛え上げられた肉体。視せるためではなく、魅せるために築かれたのだとしか思えない肢体。その美しさに見惚れる。
血の気のない白い肌は蝋を固めたように冷めていて、それこそ大理石から削り出された彫刻に酷似している。隆起した筋肉が描く生命の神聖且つ雄大な美しさは筆舌に尽くし難く、カルティエは一瞬、どこかの博物館から盗難された美術品が罷り間違ってこの場に現れたのかと錯覚した。
けれど、その芸術はあまりにも退廃的過ぎた。
瑕があった。
冒涜的破壊行為の極みとでも称するべきだろうか。その芸術は至高ではあったが、低俗に汚されていた。至る所に鑿を打たれて罅が入り、手足は一度砕かれた上で獣の四肢を模した形で繋ぎ直されている。そんな風に見えた。
なんて――痛ましい。
カルティエは感嘆する。弛まぬ努力の果てに培われた躯体に魅了され、その一方で、まともな治療も施されぬまま、歪に塞がった数多の傷跡から見受けられる痛ましさに動揺し、計らずしも、目尻に薄っすらと涙を浮かべることすらした。
アラン・ウィックがいた。
シャワー上がりと思しき、全裸のアラン・ウィックがそこにいた。
二人は無言で視線を交錯させる。
無意識的な反応か、カルティエは両手で口を覆い隠した状態で硬直していた。対してアランは胡乱に目を細めて闖入者に「出ていけ」と無言の訴えをしているのだが、しかし当人に気付いた様子は一切ない。
生命としての本能が故か、あるいは眼球を支える筋肉の疲労がもたらした結果か。カルティエの視線は次第に下方へ降りていく。
鋭角的な鎖骨のラインとその先に繋がる窪みから、固く張り出した胸筋を通り、見事に割れたシックスパックの腹筋、細くも力強く隆々とした脇腹の腹斜筋が描く輪郭を下って行き―――――
「ぴぃ―――――ッ!!」
沸騰した薬缶のような音を口から噴き出して、一瞬にして茹蛸と化し全ての知性を喪失したカルティエは半ば叩き付けるように脱衣所のドアを閉めた。




