第十一話 Long long ago (?) 1
気が付いた時――私はひとり、夢の世界へと落ちていた。
照明の落とされた劇場は仄暗い。黒一色の視界を一瞥してみれば、ずらりと並んだ座席の輪郭が薄っすらと見て取れた。
私はその最前列の、真ん中の席に座っている。
―――ここは、映画館だ。
漠然とそう思う。
すると、目の前にある空白の壇上に、するすると天井から銀幕が下りてきた。そして遠い背後から、白い光が飛ばされる。
どうやら、映写機が起動したらしい。ジジジ、と虫の羽音じみた機械音が鼓膜へと染み込む。闇を切り裂く白い映像が、銀幕の表面に灯った。
映像の中央では、黒い人影が映写機のハンドルを回している。
その人影は洒脱な礼服を着ていて、何故だか頭が時計だった。
青空教会ロードショー。
そんな文字が浮かび上がる。
どことなく懐古感をくすぐるオープニング。その後に映し出されたのは、白い廊下だった。
眩い白、清潔な白、完璧な白。
床、壁、天井に至るまで、全てが白く染め上げられている。清潔感に満ちた内装には、汚れの一つもありはしない。それは健全でありながら病的という、実に矛盾した造りだった。
そのまっさらな白の中を、私はずんずんと進んでいく。
そこで、はたと気が付いた。
私が見ているのは、誰かの記憶なのだ。
瞬間、銀幕と網膜が連動する。私の視界は座席からの俯瞰ではなく、カメラが映す光景そのものへと変異した。
誰かの映像を、直接脳に流し込まれている。
廊下の途中には、いくつかのスライドドアがあった。半ば壁と一体化したそれ等の傍らには、全てカード式の電気錠が設えられている。
ここはどこかの病院か、もしくは研究所といったところだろうか。
無限に続く白に視界が焼ける。延々と続く終端のない景観――しかしそれも、不意に終わりが訪れた。
廊下の先は未だに続いている。
しかし真っ白な右手側の壁には、先程までと異なる特徴があった。
壁は長方形に四角くくり抜かれ、分厚いガラスが嵌め込まれている。その透明な隔たりの向こう側には、広い部屋があった。
四方八方を緩衝材で埋め尽くされた、精神病院の隔離室を思わせる内装。そこには簡素なパイプベッドが一つあるだけで、生活感の欠片もない。
そんな空間に――ひとり、小さな子供がいた。
齢は十にも届いていないだろうか。幼く愛らしい中性的な顔立ちには、しかし濃密な影が差している。肌は不健康に青白く染まり、落ちくぼんだ眼窩に嵌る赤い瞳は、深い絶望で濁っていた。
子供は膝を抱えてベッドの上に座り込み、背中を壁に押し付けている。簡素な手術衣から覗く腕には、幾つもの鬱血した注射痕があった。
その姿を認めて、私は薄っすらと笑う。
私は誰かの行動を主観的に直視すると同時に、客観的に認識してもいた。まるで幽体離脱でもしたかのような、不可思議な意識の二重構造。それを平然と受け止めて、私は夢の続きを垣間見る。
誰かは首から紐でぶら下げたカードキーを指先で摘み取り、手近な扉に近付く。どうやら先程の子供がいた部屋に入るつもりらしい。
電気錠の読み取り機の溝に、カードキーを滑らせる。
ピッ、という簡素な電子音。それにより0と1は切り換えられ、固く閉ざされていた分厚い扉が音もなく開いた。
誰かは無言で部屋へと入り込む。
侵入者に対して、子供は何の反応も示すことはなかった。ただ呆然と虚空を眺め続けている。誰かが目の前に立っても、その様子に変化はない。
誰かは子供の顏を覗き込む。
「はじめまして。君が■■■だね?」
私とは違う、低くて男性的なさばさばした声音。
それが優し気な語り口でそう告げる。すると、子供は緩慢な動作で顔を上げた。
炎のように赤い瞳に、誰かの顏が映り込む。不安げに揺れる双眸が、ゆっくりと瞬いた。
誰かは子供と目線を合わせるため、その場に屈みこむ。
そして掌を子供の頭に乗せた。白く細い指先が、乱れた子供の髪を解きほぐす。
「―――――君は、今日から私の生徒だ」
子供は目を見開き、瞬きを繰り返す。
まるで時間が止まったかのように、穏やかな空気が流れる。誰かはそっと微笑みを浮かべて、あやすように子供の頭を撫で続けた。
次の瞬間、私の視界は暗転する。
一瞬だけ訪れた暗い世界。
その次に待ち受けていたのは、闇に溶けるような夜空だった。
傍らには、あの子供がいる。
白く凍て付いた大地の真ん中で、誰かと子供は寄り添い合って座っていた。焚き火に照らされた横顔は初対面の頃よりも随分と健康的になっているが、しかし頬には痛々しく血の滲んだガーゼが張られている。
彼の負傷はそれ以外にも多くあり、服の下は擦り傷や打撲で溢れ、中でも三角巾で首から吊り下げた右腕の存在が大きく目立った。
右腕を覆う包帯の下には、穴が穿たれている。魔物によって負わされた手傷だ。
「今日の報告……学習は順調。認識の齟齬、性能面の劣化は見受けられず、と」
そうひとりごちて、私は携帯端末の画面に表示された項目にチェックを入れる。その間、子供は無言で炎を眺めていた。
けれど不意に、彼の頭が揺れ動く。
子供は焚き火が放つ赤い光の輪の外円に顔を向けた。
目を凝らし、そこに浮かぶ茫洋とした輪郭を眺める。
そこにあるのは、魔物の死骸だ。
星暦以降、この惑星上に現れた異形の生物群――魔物。蜥蜴と蛸を掛け合わせたかのような異形の肉を、機械によって駆動させる見るも悍ましい怪物。その恐るべき怪異は討滅され、無様にも亡骸を晒している。
炭化した骸は、あまりにも惨い。
「……ボクが、殺した」
ぽつりと子供が呟く。事実を確かめるように。
子供は誰かの命令で魔物と壮絶な死闘を演じ、これに打ち勝った。故意に命を奪うという形で、だ。それに対して幼い心が何を思うのか――分からないでもないが、その真意までは計り知れない。
誰かは子供の頭を、そっと優しく撫でた。
子供がこちらを向く。彼は首を引っ込ませて、くすぐったそうに眉を困らせた。その仕草が殊更愛おしく見えて、誰かは彼の頭を胸に掻き抱く。
「経過は順調だ。よくやった、■■■。ハナマルの成果だよ。何かご褒美をあげたいところだが……欲しいものはある?」
「う、うん……久し振りに、あの娘に――妹、に会いたい、かな。でも……」
「でも、なんだ?」
「……あの娘とは、まだうまく話せない。なにを話したらいいのか、ぜんぜん分からないんだ」
誰かが問い質すと、子供は俯きがちに答えた。
これは難しい問題だ。たとえ血の繋がった実の家族であろうとも、些細なことで関係がぎくしゃくしてしまうなんてことはままある。ましてやそれが幼い子供なら猶更だろう。
携帯端末に表示された電子書類の備考欄に、『依然として記憶障害の改善は認められず。対人能力に難あり。愛玩目的での観察には堪えるが、目新しい反応ではない、投薬の増量を検討すべきか』と誰かは追記する。
誰かは備考欄に感想を書く癖があるようだ。
それから誰かは、生徒を諭すべく、いいかい、と努めて優し気な語調になるよう意識して口を開いた。
「そういう時は、君の『好きなこと』を語ればいい」
「好きなこと……?」
「ああ――なんでもいいから、君が話したいことを話すといい。あの娘にしていたように、ね。彼女は君の妹なんだから、変に気後れする必要はないよ」
からりと笑って、誰かは手の中の端末をくるりと回す。
子供は暫く考え込むように難しい顔で俯いていたが、不意に丸い頬に朱を散らした。そして彼はくすぐったそうな表情で、口を開く。
「ボクは……先生に歌ってもらったり、本を読んでもらうのが好き、です。それから……褒められながら、撫でられるのも」
「―――は、はは。そうか。愛い奴だなぁ、もう。それなら、あの娘にもこうしてあげなさい。きっと喜ぶだろう」
そう言って、誰かはいつかのように、子供の頭を愛おし気に撫でた。子供は子犬のように心地良さ気に目を細めて、されるがままに身を任せている。
暖かな情景を、煌々と輝く焚き火の焔が炙る。すると視界は燃える飴のように朱が滲み、やがて闇の中へと黒く溶け消えた。
そうして再び、私の視界が暗転する。
その後も私は誰かの記憶を見続けた。
傍らには常にあの子供がいた。時には小さな女の子も輪に入れて、誰か達は多くの時間を共有する。時の流れと共に子供は少しずつ成長し、枯れ木のようだった矮躯は逞しく育ち、中性的な容貌は年相応に引き締まっていった。
様々な情景が、網膜を駆け巡る。
ヒュペルボレオスを防衛する外壁の外側――どこまでも続く塩と雪で凍った白銀の大地を、誰かと子供は一台の大型バイクで駆け抜けた。
世界中を旅しながら、誰かは子供に様々な知識と技術を与えた。時には再び、名状し難い悍ましい怪物と相対することもあった。―――それは、まるで愉快な冒険活劇。御伽噺のような辛くも温かくて愉快な時間を……とても多くの日々を、誰かは子供と共に過ごしてきたのだ。
いつしかわたしは、子供のことを愛おしく思うようになっていった。
そこでふと、気が付く。視界が暗転し場面が切り替わる度、私は、私と誰かの区別が曖昧になりつつあったのだ。
空想と現実が融和している。
主観と客観が混同している。
まるで自分が自分でなくなってしまうような感覚。けれど私は不思議と、全く悍ましさを感じなかった。なぜなら――これは、夢、だから。
夢ならば、怖いことなどなにもない。
そんな風に考えて、私は唐突に思い知る。流し込まれる他人の記憶をこんなにも楽しく感じてしまうのは、それは自分の現実があまりにも辛いものだったからだ。
それこそ■■でも、してしまいたくなるほどに。
そう思考した次の瞬間、私の視界は真っ赤に塗り潰され―――――
「…………?」
―――――私は、目を覚ました。
ぼんやりと滲む視界を押し上げる。すると、見知った少年の顔が視界に飛び込んできた。
炎のように赤い瞳と、視線が交錯する。
不意に少年は詰まらなさそうに顔をしかめると、小さく舌を鳴らして私から離れた。その手には水性の黒マジックがあり、彼はそれを手の中でくるくると回して弄んでいる。
どうやら、私の顏に落書きをする心算であったらしい。
「―――っておい、君。今なにをしようとしてた?」
「暇つぶし。……安心してよ、未遂だから」
水性マジックに蓋をして、少年は無実を主張するように両手を挙げた。しかし女性的な、やや長めの髪に縁取られた面差しは白々しいものであり、誠実さとはまったくの無縁であったが。
私は左手側の窓に視線を移し、茫洋と浮かぶ自分の顔を確認する。
白い肌には汚れ一つない。どうやら本当に未遂であるようだった。
「まったく……悪戯自体は別に構わないが、流石に人目のあるところでそういうのは勘弁してくれ」
重く溜息を吐き、肩を落として脱力し深く椅子に腰かける。毛羽だったクッションとよれたスプリングの安っぽい弾力に身を預け、私は肘掛けに頬杖を突いた。
現在、私達はヒュペルボレオス首都を走る蒸気機関車に乗っている。
車両には向かい合わせになるよう設置された質素な座席が壁際に二列ずつ並んでおり、その内の一組に私と少年は向かい合って腰掛けていた。
車内を照らす橙色の明かりの輪に浮かぶ人影は、二つしかなかい。
「ヒトなんて、誰もいないよ」
「ん―――? ああ、本当だ」
頷いて、私は小さく欠伸を漏らした。
平日の昼下がりであるにも拘わらず、この車両には私達以外の利用客は人っ子一人存在していない。そのあまりにも寂しい光景を一瞥してから、私はぐっと背中を逸らして、背筋を伸ばし筋肉の緊張を解した。
彼と出会ってから、既に多くの月日が流れている。
しかし枯れ木のように細く小さかった身体は、今も尚、そのままだ。その性根も先程の通り無邪気な子供のままで、その証拠に端整な面差しには年相応な幼さが残っていた。―――少なくとも、表向きには。
少年は窓越しに空へと視線を向ける。
煤けた灰色の空には、雲ひとつない。
「…………青空、ねぇ」
ぼんやりと、何の気なしに少年は呟いた。
青空。
かつてこの色のない空は、美しい青で満たされていたのだという。文字通り、言葉通りの蒼穹だ。けれどそれだけでなく、天気や時間に応じて空は様々な色彩へと美麗に百面相した、ともされている。
星暦以前、世界が公害と災害で滅ぶより以前の話だ。今現在、この世でその秀麗なる空の輝きを知る者は誰一人として存在していない。
―――まあ、何事にも例外というものはあるもので。
その例外は、実は私だったりするのだけれど。
だけどそれは秘密だ。だから私は白々しく、そして意地悪く少年に訊く。
「どんなものか想像できない、って顔をしてるな?」
「そりゃ、昔の映画でしか見たことないし。そもそも空が青くなったからって、何かが変わる訳でもないでしょ?」
「変わるさ、色々とね」
そう答えて、私も空を見上げる。
私と少年は、青空教会に属する人間だ。
青空教会が掲げる理念はたった一つである。―――この薄汚れた灰色の世界に、青空を取り戻すのだ。
灰色の空は、須らく偽物の空である。
星暦が始まって以来、成層圏より上は完全な不可侵領域へと陥っているのだ。既存の人工衛星は全て消失し、打ち上げられた飛行物体は悉く消滅する。毎日毎夜昇る太陽と衛星の群れは、本当にかつてそこにあったものなのかすら疑わしかった。
故に私達は、かつて天を彩っていた蒼穹を、この空に奪還すべく行動している。
そしてそれを目指すものは全て教会の傘下にあり、そうでない者の悉くが不信心者として線引きされるのだ。
その思想は紛れもなく宗教だ。私達はこの二千年の間ずっと、死んだ神を信仰して生き続けている。
それはなぜか?
なぜなら―――
「青空を取り戻した時、全人類が幸せになれるから――この世界は、そういう風に出来ているんだよ」
「幸せに……?」
「そう。そしてなぜ幸せになれるのかというと、それは当然、今の状況が誰にとっても不幸極まりないからだ。楽園と名高いこの国――ヒュペルボレオスの住民だって、もちろん例外ではない。そもそもほら、『灰色の空の下、機械に管理された檻のような社会都市』だなんて、君の言う昔の映画なら暗黒郷としか形容されないだろう?」
「それはまあ……確かに」
「そうだろう、そうだろう。……人間という生き物はな、この灰色の空の下では満足に生きていけないんだよ。だから私達は、繁栄の証であった青空を取り戻そうとしている」
「……それだけ?」
「それだけだとも」
少なくとも、現段階で私が示せる根拠はそれだけだ。
だから私は胸を張って宣言する。それに対して少年は、特に訝しむことも、疑うこともせず、ただ「ふぅん」と、小さく鼻を鳴らした。
随分と関心が薄いように見える。
とはいえ、それも仕方がないことだろう。彼は青空教会の掲げる思想を知った上で、自ら組織の末席に名を加えた訳ではないのだから。
自分の意志とは関係なく、与えられた人生をただ無心に全うする。
とはいえ、子供とは大抵そんなものだろう。産まれ育った環境から得られる教養が全てであり、他者に流され埋もれるものだ。子供は大人から言われるがままに学習し、躾けられるがままに行動する。その性質はある意味で人形に近しい。
けれど、彼は人間だ。
いつまでも人形のままではいられない。もし彼が真に自意識を獲得し、人形でなくなる日が来るとすれば、きっとその時は―――――
「―――――あっ、そうか。それなら、あの娘も幸せになれるんだ」
嬉しい誤算に気付いたように、小さく驚きを呟く。そして心底安心したとでもいうように――少年はほっと息を吐いて、窓越しに走る景観へと視線を傾けた。
ぶつ切りにされた私の思考に、ちくりとした痛みが差し挟まる。
彼は窓の外を見ているようで、その実何も見ていないのだろう。彼にとって大切なものは血の繋がった家族だけであり、それ以外の物事は些事程度にしか認識できていないに違いない。
「……君自身は、幸せになるつもりはないのか?」
思わずそんなことを口にする。答えなど分かり切っているというのに。
少年は苦笑を湛えたまま黙り込んだ。泣きそうに眉を困らせて、沈黙を選び取る。その表情は諦観による悲哀で満ち満ちていた。
汽車がトンネルを潜る。
窓から昏い影が這い出し、視界を舐める。
濃密な闇に犯され、少年の貌が黒く喪失した。白い肌に、ぽっかりと穴が空いてしまったかのように錯覚する。私は強く瞼を閉ざし、目頭を押さえた。
目の奥で赤い火花がちかちかと明滅する。
これはあまりに私らしからぬ反応だ。これから大事な仕事があるというのに、煩わしい感情が頭の中をずっと渦を巻いて離れない。私は余計躍起になって雑事を脳の片隅へ追いやろうと試みるが、それがどうにも上手くいかなかった。
無言のまま、とても長い時間が過ぎる。
ああ――何も、聞こえない。その事実が何よりも苛立たしい。せめて何かの煩音が耳に届いたなら、こんなに考え込むこともないだろうに。
「着いたみたいですよ、先生」
暫くすると、そう言って少年が私の肩を揺すった。
どうやら眠っていると思われたらしい。……いや、目的地で汽車が停止したにも拘わらず目を閉ざしたまま動かなかったのなら、それは寝入っていると見做されても仕方がないか。
私は礼を言って席を立つ。未だに、こんなにも雑事に気を取られたままで。
私は、少年を愛している。
けれどきっと、私は彼に愛されてはいない。