第二話「仕事」
「…くそ…! くそ…!!」
この街「オズワール」で商売をしているマフィアのボス、クリンストは苛立っていた。それもそのはずだ。何せ、今朝、彼が殺したがっていた奴らのいる屋敷に、総勢400名の人間で攻め込んだにもかかわらず、1時間後にはその人数の4分の3が殺されてしまったのだから無理もない。
「…なんだよ。なんなんだよ!」
今、彼らの現状は拮抗とは名ばかりの膠着状態だった。彼らが奴隷として買った「ワーウルフ」達を使い、何とか、彼らの仲間を虐殺していったあの人形共を抑え込んでいる。しかし、それも圧倒されている訳ではなく、あの俊敏性と戦闘能力の高さから、とある国の戦争でも重宝されるという「ワーウルフ」の傭兵奴隷が、まるで掌の上で遊ばれるように、息を切らしながら何とか地に足を付けて立っているという現状なのだ。
「…どうしてこうなる…? 何で…。」
彼は早朝、怒りを覚えながらも意気揚々と、部下を従えこの場所までやって来た。その理由は、先日彼の経営する裏カジノが何者かの襲撃により壊滅されたからだ。
壊滅というのは、別に比喩でもなんでもなく、言葉の通りの壊滅だ。そのカジノは地下で経営されていて、集金をしに行った下っ端からの報告でそれらが明らかとなった。
知らせを聞き、彼は自分自身の足で現場へと赴いた。
「…なんだよ、これ。」
現場を目の当たりにし、彼はそれ以外の言葉が見つからなかった。そこは、正に地獄の様な有様、照明やテーブル、施設の内部を構成する物はことごとく破壊され、中にいたはずの人間、従業員、客、女男関係なく、全てが惨殺されていた。
ある者は顔面を粉々に潰され、あちらこちらに歯と眼球、それに加え脳味噌の一部とも思われる物体が散乱していた。
そして、ある者は、手足をもがれながら、顎から腹にかけてを引き裂かれまるで掻き出されたかのように内臓をそこら中にぶちまけていた。
暗くてわからなかった彼は懐中電灯を使い、部屋の中を見てみた。そこでは一つの例外もなく、床、壁、天井までもが、真っ赤な血で染められていたのだ。
もっと、その壁を見てみれば、壁にある血の一つ一つが、この虐殺から逃れようと必死になっていた人間たちの血液で打たれた手形で構成されていることに気が付くだろう。
腐臭と血の匂いがたちこめるその中で、彼だけが、何とか精神を保ちながら立ち続ける事が出来た。
彼に同伴してきた部下たちは、その光景とあまりの悪臭にその場で吐き出してしまった。
「…ボ、ボス…。これって…。」
「…ああ。襲撃だ。」
「ひ、人のやれることじゃねえですよ…こんなの…。うぅ!! おげー!!」
クリンストはカジノの中を進み、最も奥にある部屋へと歩みを進めた。
この状態はカジノだけではなかった。裏にある廊下、コックらが料理を作っている調理場、いつも自分が金勘定を見ている事務所。どこもかしこも、人だった肉の塊が打ち捨てられ、血の海で埋まっていた。
「…誰がやった…。」
「…へ、へ?」
「一体、誰がやったんだああああああああ!!!!!!!」
クリンストは、最早八つ当たり同然に近くにいた部下を殴り倒した。
殴られた部下は、真っ赤に濡れた床の上に倒れ込み、その近くにあった、緑色のドレスを着ていた女性の肉塊に突っ込む。
「ひ、ひいいいいいいいいい!!!き、きもちわりいい!! きもちわりいいいいいい!!!!」
クリンストは来ていた背広の内ポケットから、お気に入りの金の櫛を取り出し乱れた髪を整えた。
「…いいか。今日中だ。今日中に、これをやったやつらを見つけ出せ。…絶対に、そう絶対にだ!」
「へ、へい!」
そして、彼は早朝に、多くの部下と人外の傭兵奴隷を従えて、かの襲撃を命令した男の元へと赴いたのだ。
内心、彼の心の中は、子供のようなわくわく感で満たされていた。
復讐は蜜の味、という言葉はよく聞くが、彼にとってはそれは三度の飯よりも上手いジャンクフードのようなお手軽さなのだ。
されたことが大きくなればなるほど、彼の空腹はより満たされる。
そうやって、彼クリンストは、今の地位までのし上がった。ケチなマフィアと言えど、400人の人間をたった一声で集められるほどの規模を統率するほどの地位だ。
気に入らなければ、それが自分を育ててくれた親であろうとも、その場で金目の物を奪い惨たらしく殺し、自分の恩師ともいえる人間であっても、その娘を犯しバラバラにした。
その残虐性が、彼を出世させたのだ。
「…ボス、到着しました。」
「本当に、あそこのいるんだろうなあ。」
「ええ。確かな情報です。」
クリンストは、自分の乗ってきた車の窓から、目的のお屋敷を眺めていた。彼らがいた場所は、そこから少し離れたところで一応は肉眼で目的地を確認できるほどの地点だ。
お屋敷は、街から離れた小高い丘のてっぺんにぽつんと建っていた。屋敷の周りは整えられた芝生になっており、さらのそれを覆うように深い森がそこにはあった。
早朝でまだ日は登りきっておらず、少し不気味な様子にも見えた。
「…本当にあんなところに人が住んでんのかよ。」
クリンストは怪訝そうに部下に尋ねた。
「…まあ、信じられねえかもしれませんが、確実にあそこが、あの襲撃を行ったやつらのアジトです。」
「ほとんど焼けてるじゃねえか。でかいだけな所は立派だが…。なんなんだこの屋敷は。」
別の部下がクリンストに話しかける。
「なんでも、昔ここら一帯を治めてた貴族のいたお屋敷らしいですぜ。」
「貴族だあ? 一体いつの話だよ。貴族階級が廃止されたのは60年以上も前の話じゃねえか。俺もまだ生まれてねえよ。」
「そりゃあ、ボスはまだ30代ですからね。無理もないです。」
「…まあいい。…おい。」
「へい。」
「他の奴らに伝えろ。武器と、すぐにでもあそこにいる奴らを皆殺しにする準備をしとけってなあ。…このクリンスト様を怒らせたこと、後悔させてやる…。」
「分かりやした。」
そう言い、彼の部下は、彼の乗ってきた車の後方で待機していた部下たちの元へと走って行った。
「…行くぞ。」
「…へい。」
運転手に命令し、彼も車に乗り込む。彼の車が発進すると同時に、部下たちの乗っている車もそれに続いて走り出した。
おびただしい数の車だ。全てが黒塗りの高級車で、彼の財力の規模を示している。
そして、彼らは件の屋敷の前までやって来た。
「…ワーウルフの準備は?」
「はい、今のところはアヘンでいう事を聞かせてます。…どうしますか? 先にあいつらに襲わせますか?」
「…いや、その必要はない。」
クリンストは暗く、何処までも陰湿な笑みを浮かべる。
「これだけの人数だ。一気に攻め込めば、どんな奴らでもひとたまりもない。それに、あれを連れてきたのは別に攻め入らせるわけじゃない。」
「と、いいますと?」
「拷問だよ。」
「…はぁ。」
彼の後方にある檻付きのトラックの中では、10匹ほど「ワーウルフ」がひしめき合っている。そして、それぞれの顔にはガスマスクのような器具が取り付けられ、それと繋がっている管は彼ら自身が背負っているガスボンベへと続いている。
常に、アヘンの催淫ガスを吸入され続けることで判断能力を鈍くし、餌付けと拷問を繰り返すことで、従順な傭兵奴隷へと改造する技術だ。
「もちろん皆殺しだ。お前らの目につく奴らは全員殺しまくれ。だが、殆どの奴らは生け捕りにして、みんなここに連れてこい。そして、一人づつあの檻の中にぶち込んでやるんだ。飢えたワーウルフ達には、ご馳走だろう。一人づつ、あのいぬっころを使ってなぶり殺しにしていくんだ。」
「な、なるほど。」
「…見ものだぞう? 以前は野犬の群れを使って同じようなことをやったが、今日は少し贅沢に行こうじゃねえか。」
「万が一、相手がすげえ武器を持ってたら…。」
「そん時は素直に放せばいい。アヘンでらりってるとはいえ、腐ってもあのワーウルフだ。どんな武器を使ってこようが、あいつらには敵いっこねえよ。」
部下の一人が、クリンストの方へと寄ってきた。
「…ボス。準備できやした。」
「そうか。…よおしてめえらあ!!」
クリンストは振り返り、マシンガンや拳銃などを装備している大勢の部下たちに向かって叫んだ。
「この街は誰の街だああ!!?」
「「「「「クリンスト、あんたの街です!!!」」」」」
「そう、そうだ!! この街は俺の街!! サツも、他のギャングの連中も、だーれも俺には逆らえれねえ!!! 逆らったら最後、どんな惨い死に方をするかを十分理解しているからだ!!!」
啖呵を切りつつ、自らも拳銃を構える。そして、再び屋敷の方へと向き直り、銃口を向ける。
「だが、あそこにいる奴らはそこを間違えた!! こんなこと許されていいのか!!?」
「「「「「いいえ、許されません!!!」」」」」
「そう!! 許される筈がねえ!!! 何故なら、ここは俺の街だからだ!! 俺がルールだからだ!!! その俺が許さねえんだから、許されるわけがねえ!!!…だったらおめえら、やることは一つ、分かってんなあ!!?」
クリンストのその一言で、部下たちは足に力を入れた。
「行けーーーー!!!! 皆殺しだああああああ!!!!!」
「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!」」」」」
大勢の人間が、重火器を持ちつつ一気に屋敷へと突っ込んでいった。その雄たけびだけで、周りの空気が震えるかのよう。早朝の少し冷えた空気も、憎々しいどす黒い熱気に置き換えられていく。
マフィアの男たちが走るたびに、綺麗な芝生や草花は踏みつぶされていく。
もうすぐ、日が昇る。
「…ひひひ。待ってろよお。もうすぐだあ。楽にしてやるよ、世間知らずの屑どもがあ。」
クリンストは一人毒づき、もうすぐ屋敷へとたどり着く部下たちを後ろから見守る。
しかし、彼らがそこにたどり着くことは無かった。
「…おい、なんだあれ?」
「…え?」
前線を走っていた男二人が突如上空を見た。
二人の視線の先には、二つの黒い点があった。
「…あれ、落ちてきてるのか?」
「落ちてきてるって、何が。」
黒い点は次第に大きくなり、そしてだんだんと人型へと変わっていく。
「…人?」
「あぶねえ! みんな逃げろおお!!」
片方の男が皆に注意喚起をした。その瞬間、空から落ちてきて物は大きな土煙を上げつつそこに降臨した。剰え、先程最初に上空の何かに気が付いた男を踏みつぶしながらだ。
「…なんだ?ありゃあ。」
クリンストは遠くからのその様子を見ていた。しかし、一体何が起こったのかは理解できなかった。それもそうだ。こういった状況で、突如上空から得体の知らない物が降ってくるなど誰が予想できるのだろう。
大砲や、力自慢の豪傑が出てくるのならまだ彼の想像力の範囲に収まる。その為の備えとして、「ワーウルフ」という手札を用意したのだ。しかし、ここまで想定外の事が起こる事など、今の彼には到底予想できなかったのだ。
「…おい、大丈夫か?」
「ああ。何とかな。」
最前線の彼らは、突如発生した問題に対し多くの混乱は示さなかった。
「…これ、なんだ? 突然空から降って来たぞ。」
「……人形、か?」
そこにいたのは、全長2メートルほどの二体の木偶人形だった。顔も同体もすべて木で構成されていて、何の飾り気もないただの人形だ。例えを上げるのならば、絵描きの人間が使うモデル用の人形をそのまま大きくしたような姿形だろう。一つ違いを上げるとするならば、その両手がそれぞれ黒い鉄球に置き換えられているという点のみだろう。
大体1分が経過した。しかし、彼らの目の前にある人形には何の変化も見られない。
「…ただの、こけおどしか?」
男が一人、人形に近づく。
「おい、やめとけよ。」
「…いや、大丈夫だ。全く動かねえし。」
持っていた拳銃の底で、男は人形を叩いてみた。そこに響く音は、本当にただの木を叩い時の物と大差ない。
「ほら、なんともねえ。やっぱり、ただのこけおどしだったんだ。どうやったは知らねえが、これは俺らを驚かすだげべええ!!」
男が自分自身で考えた人形の考察を述べる前に、それは彼の頭上から振り下ろされる鉄球によって阻害された。結果、男は頭から全身を潰され、男のいた場所には正円状の綺麗な血の水たまりが出来上がっていた。
「…に、人形が動いたぞう!!!」
部下の一人が叫ぶと同時に、二体の人形は活動を開始した。両手の鉄球を巧みに使い、屋敷に攻め込もうとしていた人間達を一人づつ丁寧に潰していった。
「た、たすげでべえげ…。」
「ひ、ひいいいいいいいい!!」
「っや、やめろ! やめて!! お、お願いしますやめてくだぴぎゃ。」
一人ひとり、確実に、かつ丁寧に、丹念に潰されていった。最初の頃は、まだ反撃をする者達も多くいた。その手に持っている武器を過信し、人形に向かって乱射したりもした。しかし、その直後、それは無駄な行為だったのだと後悔し、そして死んだ。
「ボ、ボス!! 助けてください!!」
もはや全員が逃げていた。まるで、子供に弄ばれる蟻の群れの様。
「…なんだこれは。…何なんだこれは。」
自分の部下たちが簡単に殺されていくその光景を、一番の特等席で見せつけられたクリンストは唖然としていた。何がどうなっているのかわからなかった。
見た目的には、その時間はとてもゆっくりと流れているようにも感じられた。それは、人形があまり無駄な動きをせずに、せっせと淡々と殺戮行為に勤しんでいたことにも起因するのだろう。そっと、殺されていくその様は大変緩やかな時の流れを演出していた。
しかし、実際は違った。より確実に、人員は減っていた。見た目以上のすぴーとで、逃げ惑う人間が一人ずつ、しかし一切のおこぼれも許さないかのように、二体の人形たちで生み出された包囲網に男たちは囲われていった。
まるで、放牧用の犬が羊たちを追いやるように。それとこれを決定的な差と言えば、人形たちの定めた範囲の中から抜け出そうとする人間を一人残らず叩き潰している点だろう。
400が50減り、さらにまた50減る。そしてついには100になり、また更に50減る。それの繰り返しだ。
「ボス!! ボス!!」
「…は。」
部下の呼び声によって現実へと引き戻されたクリンストは、ようやく周囲の状況を理解しだした。
「ボス! ここはもう駄目です! 逃げましょう!!」
「…ふ、ふざけんな!! ここまで来て、引き下がれるかよ!」
「ですが、ボス!! もうこれ以上は…。」
「だ、だから、何のためにあのいぬっころ共を連れてきたと思ってんだ! もういい、あれを放て。とっととあれを開放しろう!!」
彼は部下に命じ、檻を開けさせた。
「おい! いぬっころ共!! い、今すぐあのくそ人形をぶっ壊してこい!! そう、今すぐだ!! いけえ!!」
号令を聞いた「ワーウルフ」達は、先程までの無気力な状態とは打って変わって、一斉に遠吠えをし始めた。そして、次の瞬間には檻を飛び出し、驚異的な速さで人形の方へと向かっていった。
最初に到着した一匹が、人形の喉元へとかみついた。続いて二匹目は腕へ。それにより、人形の動きが止められた。
「よし、いける。いけるぞ!!」
クリンストは歓喜する。
しかし、その希望は早速潰えた。
「くうぅぅん!!」
「きゃいん!!」
「ワーウルフ」達の悲鳴だ。
「ど、どうして…。」
クリンストは驚愕する。絶対的な力を持つ「ワーウルフ」の攻撃に、あの人形はびくともしていないのだ。
噛みつく攻撃をしていた「ワーウルフ」達は次々と引き離されていた。人形は、まるで重力を無視したかのような独特の機動で全身を振り回し、彼らを吹き飛ばしたのだ。
辛うじて、「ワーウルフ」達は人形の追撃をかわしていた。しかし、ここでも人形側の絶対的な力の差を見せつけられたのだ。
今、クリンスト達は何とか逃げ延び、丘の斜面を塹壕の様にして待機していた。そして、そこから「ワーウルフ」達の奮闘を静かに観戦していた。
残り少なくなった部下たちと共に地面に伏せ、事が収まるのただただ待っていたのだ。
「…くそ…! くそ…!!」
かれこれ、どれ程の時間がたったのだろう。もう日も登り始め、あたりも明るくなってしまった。周りののどかな雰囲気とは裏腹に、自分たちはこの場で殺し合いをしている。それも惨敗して、ずっと見下してきた人外の民によって何とか生きているという状況に陥っているのだ。
これは彼にとって最大の屈辱だった。最早、一体何が原因でこの醜態に耐えているのかもわからない程の屈辱の嵐だ。自分が築き上げてきた物、勝ち取って来たもの、金、多くの手下、そして地位。それをここまで踏みにじられ、プライドをズタズタにされ、それにあらがう術も今はない。絶望の中にある確実な怒り。それを発散するべく場所も取り上げられ、もう彼にはどうしようもない状態に追いやられていたのだ。
「…どうすれば…。どうすればいい…!」
彼は考えた。しかし、何も浮かばない。絶望に支配され、脳の働きが制限されてきているのだ。
「畜生…。ド畜生!!」
「どうもクリンストさん。おはようございます。」
彼の頭上から、男の声がした。どこかで聞いたことのあるような、しかし知らない声。記憶のどこかをくすぐられるような、どこか特殊で、懐かしささえ覚える、そんな声だ。
「…え?」
彼は、恐る恐る顔を上げる。そして、目の前には麻布をかぶった、奇妙な男が立っていた。その眼は赤く丸いガラスのはめ込まれたゴーグルによって守られ、それ以外の顔の情報は全て隠されている。言ってしまえば、一人の怪人物だ。
「来てくれると思っていましたよ。昨日から、ずっと待っていたんですから。まあ、こんなに朝早くに来てくださるとは思ってもみませんでしたが。」
「だ、誰だてめえ…。」
「あなたが殺したがっていた男ですよ。ええ。」
「…て、てめえが…!」
「まあまあ、そうカッカしないで。それに、もう勝負はついていますし。」
「何を…。俺にはまだ仲間が。」
「…後ろ、見てみてください。」
男に言われ、クリンストは恐る恐る背後へと視線を移していった。そして、そこにある光景に圧倒された。
「…み、みんなは…。」
「死にました。私の可愛いメイド達が、全て片付けてくれました。」
まるで、あのカジノ場の光景のその物だった。彼の後ろで待機していた筈の部下たちは、彼が一瞬目を離した隙に皆殺しにあっていたのだ。
「…ま、まだワーウルフが…。」
「もう制圧済みです。ほら。」
男が指し示す方向には、口から泡を吐き、意識を失っている「ワーウルフ」達の群れがあった。
「そ、そんな…。」
「…あなたには、来ていただきたい場所があります。」
クリンストは、生まれて初めて、恐怖を覚えた。
そして、男の後ろにはこの残酷劇を演出した張本人たちが立ち並び、彼をじっと見つめていた。
僕は一仕事を終え、再び食堂へと戻っていた。サキが入れてくれたコーヒーをまた飲み、今度は彼女が作ってくれて特製のクッキーを頬張っている最中だ。
「ご主人様、お客様がいらしています。」
「うん、わかったよ。てか、もう来たのか。早いなあ。」
ユリが僕に知らせてくれた。にしても速い。まだ朝の9時だというのに、せっかちなお客さんだ。
「とりあえず、玄関でお待ちいただいていますが…。」
「いや、構わないよ。先方も、そこまでここに長居するつもりはないだろうし。」
「…かしこまりました。でしたら、対応はわたくしかアズミが…。」
「いや、僕で行く。とりあえずは。…ユリは応接室の様子を見てきて、もし終わってるようなら彼を連れてきてくれ。もう少し時間が掛かるようなら、僕がお客さんを引き留めておくよ。」
「かしこまりました。」
そう言い、ユリは食堂を出て行った。
「とはいっても、このお屋敷半分以上が燃えカス状態だから、まともに使える部屋っていえばみんなの寝室と僕の寝室、それからキッチンと応接室ぐらいだもんなあ。」
だから、お客さんがここに来たからと言って、待ってもらうためのスペースなどどこにもない。燃え残った部屋の一部を使って辛うじて生活は出来ているものの、このお屋敷の本来の活用法は二度と生きることは無いのだ。
今回の依頼を完了することで、莫大な謝礼金が出る。それを使って、そろそろ新居への引っ越しを考えなくては。その為に、この仕事を請け負ったと言っても過言ではない。それに、メイドのみんなにはもう不自由な暮らしはしてほしくない。恐らく、それが一番の理由だろう。
「…とにかく、行くか。あ、サキ、ご馳走様。」
「…あ、ありがとう、ございます…。」
玄関に赴くと、やたら恰幅の良いおじさんがそこにはいた。口ひげは蓄えられ、それの両端は品よく上の方を向くように整えられている。身に着けている黄色の制服も、そのお腹の所為でボタンが取れそうだ。
この黄色の制服というのは、この街「オズワール」の警察の制服だ。まるで軍服のようなそれに、黒皮のブーツ。制服と同じ黄色と黒色のつばを持つ活動帽。これが、この街を守る為の任に付くはずの人間が着ている服だ。
だが、その実態は違う。
「やあやあ、またお会いできて光栄です!」
「…どうも、警察署長殿。私もうれしい。」
「…それで、依頼の進行状況は…。」
「もう終わっていますよ。今、彼ことクリンスト氏は私のメイド達によって丁重なおもてなしを受けている頃です。」
「ほっほお、それはそれは。なるほど、メイドのおもてなし…ほほお!」
この太った警察署長は、あからさまに何かよからぬ想像を巡らせている。僕はそう確信した。
「…そろそろ、応接室から出てくる頃かと。」
「では、少し待たせてもらいますかな。あ、外の待たせてある護送車についてはお構いなく。私が合図をするまで、ずっと待たせておけますから!」
そう言い、彼は高らかに笑い出した。僕はというと、それには一切反応せず、無視を決め込んだ。
「…来ましたね。」
「ほ! そうですか、では…。」
クリンスト氏は車いすの座らせた状態で運ばれてきた。そして、つい先程まで上機嫌な姿を晒していた署長は、今の彼の姿を見た途端に言葉を失った。勿論、車いすを押してきたエミリーとミザリー、それに同伴していたサキの容姿に驚いたという事もあるだろう。しかし、彼が本当に驚いたのはそこではないだろう。
血の気が引くというのはこのことだろう。もう署長の顔には生気が感じられず、だらだらと冷や汗がしたたり落ちてきている。
「…どうしました? 署長さん。これがご依頼の、クリンスト氏ですよ?」
「…本当に、これがあの、クリンストなのですか?」
「ええ。正真正銘の。…大丈夫です、この状態のクリンスト氏はどのような質問にも答えてくれます。…あなたの名前は?」
僕は、クリンスト氏の耳元で囁いた。その瞬間、彼は全身を痙攣させ、話し出した。
「…わ、わだじの…な、なばえば…く、くく、くり、くりん、す、とと、とと、で、ででず…。」
今のクリンスト氏の状況、それは完全に廃人、いや、すでに人ですらない状態だった。常に白目をむいた状態で、だらしなく口を開け、そこから舌がだらんと垂れている。肌は浅黒くなり、今朝まではまともに生えていた髪の毛は殆どが抜け落ち、よれた白髪へと変わっていたという変貌ぶりだ。頬はコケ、極限の飢餓状態の様に全身が瘦せ、筋張った腕や首筋にはくっきりと血管が浮き出ているのも最大の特徴だろう。
「…まあ、多少どもってしまう事もありますが、問題はありません。あなた達がこれから行うであろう拷問の数々の代理として、既にこちらで先に済ませておきました。ご心配なく。これに関しては追加料金など発生しません。」
「そ、それは何よりですな。はは、は…。」
「ただし、少し注意点が。あまり手荒に扱うと、そのままぽっくりと逝ってしまう事がありますので、移動の際や取り調べの時などは丁寧に扱ってください。」
「…わ、分かりました。」
もう余裕も何もないといった状態で、署長は応えていた。
「…あ、あの。少し訊ねても…。」
「…はい、なんでしょう。」
「彼は、一体いつ頃ここへやって来たのですか?」
至極当然な質問だろう。普通だったら、一人の人間がこのような状態に陥るのに相当な時間がいるはずだ。
しかし、僕は、彼が予想もしていないような返答をした。
「今朝です。今朝の6時に。」
「ろ、6時!?」
「ええ。彼が自身が、もっと早くからここに攻めてきまして。あなた方警察の協力の元、この屋敷の情報をリークしてくれたおかげですよ。迅速かつ正確に、まんまと罠に引っかかってくれました。」
「…一体、何を…。」
「なに、少しばかり脳をいじくっただけですよ。それと、ちょっとばかし傷めつけもしました。うちにはそういうのが得意なメイドもいまして。」
「ほ、ほほう…。それは…それは。」
「…あと、ここに攻め込もうとしてきた彼の構成員についてのリストも、こちらでまともておきましたので、悪しからず。あ、これについても追加料金はいただきません。」
僕は横に手をかざした。すると、何処からともなくキャリーが現れて、先程僕が言及したリストをまとめたファイルを手渡してくれた。
「総勢400人の個人情報がここに。今日死亡した人間についてのみまとめましたので、生き残っている残存組織に関してはそちらに一任します。」
「…ここで、400人の人間が…。」
「ええ。死にました。見事に掃除されているでしょう。流石は私のメイド達です。まるで何事もなかったかのようだ。もしもっと証拠が欲しいのでしたら、死んだ人間それぞれ耳や歯を揃えていますのでそちらも贈呈しま…。」
「い、いや! 結構、結構! このリストだけもらっておきます!」
「…そうですか。残念です。」
リストを受け取ると、署長はそそくさと屋敷を出て行った。彼が出て行った後に、待機させていた警察官がクリンスト氏を護送車に連れて行くその作業も、迅速、というよりも慌ててといった方が正しいだろう。
「…けっ。肝のちいせえ爺だ。」
キャリーは彼の後姿を見ながらそう言った。
「まあ、そう言うなよ、キャリー。彼だって、長生きしていたのさ。」
「はっ。あの腹の脂肪じゃスグにおっちんじまうだろうさ。」
「はは。かもしれないね。」
二人で話していると、エミリーとミザリーが僕の足元へと駆け寄ってきた。
「察しのいい方だといいですわね、ご主人様。」
「物わかりの良い方だといいですわね、ご主人様。」
「うん、そうだね。あ、死体の処理と血の掃除、ありがとね?」
「朝飯前ですわ、ご主人様。」
「というよりあれが朝飯ですわ、ご主人様。」
「署長、大丈夫ですか?」
署長は、護送車の前を走っている自身の車の中で青ざめていた。後部座席で静かに座り、隣にいる彼の秘書が心配そうに訊ねる。
「…私は、とんでもない奴をこの街に入れてしまったのかもしれないな…。」
「…確かに、あの仕事の手際の良さは荒ましいです。ですが、あれと我々はある意味協力関係、あの傭兵部隊をうまく使えば、この街は…。」
「分からんのか。お前は。」
署長は怒気の混じった瞳で、秘書を見つめた。
「え。」
「あれはな、いわばデモンストレーションだ。…その気になれば、私達でさえ、あのクリンストと同じ目に合わせられるぞという、脅しだ。…我々も手こずっていたあのマフィアをたった一晩、いや、ほんの数時間で壊滅にまで追い込んだ奴らだ。確かに、あれと手を組んでおけば私達の立場も、いや、この街における私達の生命も、保証されることは確実だろう。」
「でしたら…。」
「だが、それはいつまでだ? 一体、いつまで奴らと私達は仲良しこよしでいられるんだ? もし、あいつにとって私達が不要の産物にまで堕ちて行ったら? それからはどうなる?」
その一言を聞いた秘書は、全てを理解したかのように、その顔色を変えた。
「…今は、クリンストの裁判の事だけを考えよう。下手に動くよりは、安全だ。」
「…了解しました。」
こうして、二台の車は目的地へと向け、丘を降りて行った。