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悪魔と怪物

 追い詰められている人間が向かう場所は限られる。真っ当な人間ならば警察署。そうでないなら人気のない場所。

 子どもを誘拐した手前、大勢の人が行きかう路地は逃走経路としては最悪だ。初手の方向さえわかれば、そう難しいことではない。この街もローズマリーの庭だ。街での遊び方は知らなくとも、街での戦い方は頭に叩き込んである。

 よって、そこを見つけ出すのは苦でも何でもなかった。馬車を停止させ、路地裏へ入っていく。


「おっちょこちょいね」


 ローズはほくそ笑んで落ちているオモチャを拾った。リュンの家にあったものと同じ種類の木製人形。こんな手がかりを残すとはよほど焦っていたに違いない。それに雇い主は騙し上手でもあるようだ。祓魔師の家族を狙えば、警察とは一線を画す追跡技術を持つエキスパートに狙われることになる。彼らを雇った存在は、彼らにか弱い少女が相手だから問題ない、とでも言い聞かせたのだろう。少女であることは間違いないが、関わるのは凶暴な怪物だ。もし人質に手を出していれば容赦はしない。

 通路を進み、ローズは目当ての家の前でノックをした。


「ごめんください」


 反応はない。無言の肯定と受け取って、ドアを蹴破る。仮に間違いであっても、謝罪し弁償すればいいだけだ。命の危険があるのなら、どんな横暴的手段も許容される。

 もっとも、そんな下手を打つローズではない。案の定、焦った家主が怒鳴り込んできた。


「何するんだ! 家のドアを」

「随分、焦っているようね。予定外だった?」


 余裕の笑みをみせて、ローズは訊ねる。見る者を委縮させる怪物の笑み。健やかな笑顔こそ、喰われる側にとって真の恐怖である。


「何を言ってる? 弁償してもらおうか」

「……そうね。まず、私の友達の家を直してもらいましょう」

「はぁ? ふざけ――」

「るのは大概にしてもらえる? 今日は非番だったの。まぁ、私はこういうことしか知らないから、退屈しないで済むけどね」


 拳を叩き込むと、ただでさえ疲労と緊張で張りつめていた男はあっさりと撃沈した。物音につられて数人が飛び掛かってくるが、数人程度ではローズマリーを倒せない。少女であるという理由だけで、ローズを襲ってくる人間は数多い。荒くれ者、乱暴者、犯罪者。祓魔師として悪魔やその眷属と戦う訓練だけではなく、対人戦にも磨きを掛けなければならなかった。

 ゆえに、ローズは強い。正規軍人すら泣いて逃げ出すほどには強力だ。

 素人集団を一瞬で伸すことなど、造作もなかった。


「さてと。大丈夫?」


 別室へ入り、ローズは猿轡さるぐつわとロープで身体を縛られているリュンの弟たちと対面し、拘束を解いてあげた。ぷはぁ、と息を吐き出して子どもたちはローズに感謝を口にする。

 そして、次の瞬間には警句を放った。


「危ない!」

「知ってる」


 背後から包丁を振り下ろしてきた男の手首を掴んで、捻る。包丁が床に刺さり、ローズは腕を拘束したまま男をテーブルに叩きつけた。


「誰に頼まれたの?」

「い、いわねぇ……ぐぅぅ!」

「今言ってすっきりするのと、拷問されるの? どっちが好み? ああ、もし言わなければ死ぬ。残念だけど、あなたが話せばすぐにわかる、というだけで、私は時間をかけて調査してもいいの。殺したって、暇だった一日が、有意義なものに変わるだけ。どうする? 私はどちらでもいい」


 交渉で重要なのは真実を鋭利な刃物のように突きつけることだ。ローズは事実しか口に出さず、選択権を相手に与えるやり方を好む。嘘を吐くのはあまり好きではない。少し、つまらないのだ。

 男はローズの瞳に本気の色を感じ取り、呻きながらもテーブルの先へ視線を泳がせた。ローズが男の目線を辿る。――数枚置いてある、金色の輝きを放つ魔法の金貨。


「ありがとう」


 テーブルに頭を叩きつけて、男を轟沈させる。そして、リュンの弟たちを連れ立って、家の外に出た。


「ベン、メイ、エミリー!」


 リュンと弟たちが抱擁を交わす。リュンはローズの後を追って、ここまで辿りついていた。彼女が追ってくるということはわかっていたので、ローズは驚きもせずリュンが連れてきた警察を中へ招き入れた。すぐにウェイルズから命令を受けた下級の祓魔師か司祭、シスターも加わり調査を行うはずだ。


「帰りましょう。後ろに乗って」


 リュンが乗ってきた馬車の御者席に乗り後ろに彼女の家族を乗せる。馬車の中では家族水入らずの団らんが繰り広げられる。自分が届くことは絶対にない、優しい光景が。

 ローズは羨ましそうにその姿を見、馬車を走らせた。手綱を握る手には怒りが籠っている。


(マモン……!)


 羨望の眼差しを注ぐことはある。自分とは違う、温かい家庭に。だが、妬むことはない。幸せな人々が悪さをしたわけではないからだ。嫉妬しても、その幸福が自分の元に転がってくることは、ない。

 他者の不幸せを喜んだりはしない。幸せな人間を堕落させる者こそ、ローズが祓うべき敵だ。


 ――でも、あなたは、堕ちた人間を殺すことに快楽を感じるでしょう?


(黙れ)


 脳裏に響く悪魔の言葉。ローズは何度も何度も繰り返し、同じ言葉を反復しながら馬車を進ませていった。



 リュンとその家族は、一時的に大聖堂で身柄を保護することになった。可愛らしい小さな弟たちは口々にローズへ感謝の言葉を口にし、大好きな姉と共に指定された部屋へ入っていく。リュンはドアを閉める前、改めて謝罪をしてきた。


「ごめんなさい、ローズ。私の不注意で」

「いいの。これは私への挑戦だから」

「ローズ……?」

「今日はゆっくりして。私は壺娘のところに行く」

「ええ。後で寄ってね。美味しい紅茶をごちそうするから」

「楽しみにしておく」


 ローズはリュンと別れ、まずエントランスへ向かう。掲示板の周りには人だかりはなく、本来の姿である閑静さを取り戻している。しかし、相変わらず掲示板には依頼が殺到し、退魔教会の存亡を脅かす危機が迫りつつあることを物語っていた。


「くそっ」


 小さくその現実に毒づいて、掲示板を一瞥。近くにはエヴァンジェルヒムの地理を網羅した地図が設置されており、それと照らし合わせながら規則性を見出そうと目を利かせる。

 だが、退魔教会を崩壊させようという悪意以外、何も見えてこない。


(片っぱしからこの国を破壊しようと言うの?)


 快楽を元にする悪魔の行動に法則性を求めるのもおかしなものだが、何らかの兆候や傾向が、悪魔の動向には付随している。この地図にも、何かしらのヒントが残されているはずなのだ。台形であるヒムでは、東西南北全方位で堕落者や悪魔の仕業と思われる怪奇事件が発生している。

 何かを見落としている――ローズは思索の海を泳いでいたため、隣に忽然と姿を現したその男に気付かなかった。


「私に言わせれば、綺麗過ぎるな」

「……あなたは小説家の」


 学者風の恰好をした、眼鏡を掛けた男が横に立っていた。その男はローズと同じように地図を凝視し、北、東、南、西、と順序良く指をさしていく。


「悪魔は快楽で動くと私は聞いている。だが、このやり方は効率が良すぎるな。まるで、戦術家のようだ」

「効率的……?」


 小説家の男は語る。


「包囲戦だよ。大聖堂を中心として敵は各地に兵を派遣。戦力を分散させ、頭を取るつもりにも見える」

「悪魔がそんなことをするはずはない」


 ローズは男の考えに同調し、思考を続けた。悪魔はゲームを楽しんでいるのであって、戦争を行っているわけではない。マモンが各地に働きを掛けているにしても範囲が広すぎる。これでは、ゲームを楽しめないだろう。圧倒的戦力差で敵を屠るつまらなさを誰よりも理解しているが悪魔だ。

 そこから考えられるのは、マモンが満遍なく退魔教会にちょっかいを出しているのか、はたまた、偶然の産物として全体に攻撃を加える結果となったか。いや、それだけではない。一番最悪な可能性としてあげられるのは――。


「人間が関わっている……まさか」

「その続きは言わない方がいい。自分で否定することになるだろう」


 小説家はローズの心を見透かすように笑う。ローズは口を閉ざした。

 有り得ない話ではない。悪魔と人間の利害が一致し、国家転覆を狙ったケースもこの世には存在する。退魔教会を疎ましく思った人間が、同じように思う悪魔と手を組んだ。マモンは確かに逃げ足は速いが企てはほとんど祓魔師に潰されてきた。金の絡む話にマモンあり。ならば、金の流れを見張れば目論見を阻止できる。

 捕まりはしないが、成功もしていなかった。祓魔師に恨みを抱く、などと人間めいた感情は持ち合わせていないだろうが、邪魔者だとして排除に乗り出してもおかしくはない。

 マモンはまだ見つけられていないのだ。メフィストにとってのファウストを。悪魔少女にとってのローズマリーを。だから、面白そうなイベントに首を突っ込んで引っ掻き回そうとする。


「ありがとう。参考になったわ。もし執筆に困るようなことがあったら聞いて。手伝うから」


 思索を進めたくていても立ってもいられなくなったローズは急ぎ足で武器庫へと向かおうとした。武器の周りにいると不思議と頭が回るのだ。

 しかし途中で足を止めて、小説家へと振り返る。男の名前を聞きそびれたことを思い出した。


「あなたの名前は? 私はローズマリー」

「アジャクシオ・コルシカだ」

「……妙な名前ね」


 どちらも地名だったとローズは記憶している。コルシカは頷き、


「ペンネームのようなものだ」


 と答えてローズを見送った。


「じゃあ、機会があれば」

「あると考えるな。自分で創作する」


 コルシカと別れて、ローズは武器庫へと足を運ぶ。武器庫では、壺娘がご機嫌な様子でころころと回っていた。


「おお、ローズ。進展があったようですね」

「あなたは?」

「もちろんですよ、ローズ」


 壺娘は先にある大きな壺を示した。ローズは壺の中をまさぐってそれを掴み取る。


「イギリスの海軍が使用していたロープ発射用拳銃……」

「の発展型です。運ぶのもロープや小さな荷物じゃない」


 したり顔で、ローズの右手に収まる特殊拳銃を見つめる壺娘は武器商人のさがである解説を饒舌にし始めた。


「堕落者やビースト、悪魔はそれこそ縦横無尽に動き回ります。ローズ、あなたは前回の戦闘で、不利な状況下でのクライミングを強いられたようですね。危うく、真っ二つにされるところだったとか。でも、これがあれば――」

「一瞬で、好きな場所に移動できる」


 ローズは天井へ、銃身にロープが搭載された奇天烈な銃を向けた。撃鉄を起こして、引き金を引く。ロープ先端の金具が天井に固定され、銃身の横にあるスイッチを押した瞬間、天井に身体が引っ張られた。天井に手を置いて、天使の気分を味わう。羽があって空を舞うほど軽やかにはいかないが、それでも十分すぎる性能だ。


「祓魔師専門の道具ですよ。門外不出です」

「そのようね」


 ロープピストルの出来に満足したローズは、銃を観察して下降方法を模索した。だが、見つからない。困ったローズは下を見下ろして、壺娘に問いを投げる。


「どうやって下りればいいの?」

「さぁ……?」

「は?」


 首を傾げる壺娘に、ローズは真顔になるしかない。そこまで考えてはいなかったですね。快活に話す壺娘は閃いた降下方法を提案した。


「そうですよ、ローズ。飛び降りちゃえばいいんです!」

「……ふざけてるの?」

「あ、ばれましたか。どうしましょうね。武器庫の装飾品としてずっとそこにいますか?」


 愉快に壺娘は笑う。ローズは笑う気にならず、どうやって着地すればいいか思案した。そうして、壺娘の意見が最善であることを確認し、意を決して飛び降りる。地面に落下する寸前に再びロープを放つことで落下速度を軽減し、無事に床へと降り立った。


「壺娘……」


 ロープを巻き戻し、恨むような目で彼女を見る。なはは、と彼女は笑って話題を転換した。


「そう言えば、豪雨のせいで純潔イノセントが不発だったようですが」

「……ええ、そうね」

「可能性があるだけで使えなくなってしまうというのも困りますね」

「……」


 ローズは点検に出されていたリボルバーを見つめる。あの場で悪魔少女が絡んでなければ、この銃は撃てた可能性があった。あの悪魔は可能性遊びが大好きなのだ。

 厄介な相手だ、と思う。ずっとローズを狙ってきた悪魔。だが、だからこそ対処は容易だ。自分を突け狙うのだから、返り討ちにしてしまえばいい。

 問題は、金を使って国を瓦解させようとするマモン。それに協力する第三者。


「お悩みですか、ローズ」

「誰がマモンと協力してるのかしら」


 ローズは正直に吐露する。壺娘は笑みを湛えて何も言わない。

 しばらく黙考してみたが、今の段階では証拠が不足していた。もっと情報を収集しなければ真相は見えてこないだろう。

 今までの相手が簡単すぎただけだ。言わば、これはマモンの挑戦状。前座は終わり、本番がこれから始まるぞ、という暗示。各地に散らばる小さな火は炎となり、退魔教会を焼き尽くす。その前に、鎮火しなければ。


「やることは決まっているんでしょう? ローズ」


 壺娘はまた転がり出した。目当ての作業台の机に止まり、置いてある品へ手を伸ばす。

 そして、ローズの前へと寄って、それを手渡した。銀色の細長い銃だ。


「これは?」

「エアライフル。名前はファントムにでもしておきましょうか」

幻影ファントム? どうして?」


 二世紀ほど前にオーストリア軍に導入され、ナポレオンに恐怖の武器と形容されたほどの銃をモチーフとしたその長身銃の感触を確かめながら、ローズは訊ねる。

 壺娘は笑みをこぼして名前の由来を言い放った。


「この銃を使うあなたはもはや敵にとって、幻影と表現して然るべきでしょうから」




 武器を手にしたローズは初めてオモチャを貰った子どものようにそわそわして落ち着きがない。実際に、古くから悪魔という単語を肌で感じてきたローズマリーにとって、最良のオモチャが銃という殺傷道具だった。

 人を殺すために開発された武器が、悪魔を祓うための武器となる。銃に関しての記録は喪われているが、教会の悪魔学者が唱える説によれば、黒色火薬の発明も悪魔が関係していると言われている。もしそれが事実なら、痛快な反面、人類はまんまと策略に嵌まったことになる。銃はマッチロック、ホイールロック、フリントロック、パーカッションロック、そしてローズが主武装として使うシングルアクションリボルバーに変化を遂げるにつれて、より効率的な殺害方法を人類に与えてきた。

 次のステージで登場するのは、より使いやすくなったダブルアクションリボルバーとオートマチックピストル。機関銃のメカニズムを発展させた連発銃。より精度の向上したライフル銃。

 まさに悪魔の発明だ。銃器工たちはガトリング砲を考案したリチャード・ガトリングのように怪我人の数を減らすために銃を作るのではなく、儲けるために新しい虐殺兵器を試行錯誤して開発している。

 それ自体は悪くない。銃が必要となる局面はどうしても発生する。銃器の発達により、不必要な殺傷を忌避する動きも見られている。人間は人が考えるほど残虐性を兼ね備えていない。銃を持つからと言って、撃てるとは限らないのだ。先制攻撃を躊躇う軍人も世界には多く、各国の軍部はどうやって兵士たちを積極的に戦わせるか困り果てている。

 銃を撃てる者と撃てない者。その二種類が人には存在する。それでいいのだ。それでこそ多様性だ。敵を悪魔や化け物だと認定し、虐殺に奔るようになってはおしまいだ。前線で命を張るのは怪物で、後方で平和に暮らすのが人間。怪物は怪物らしく、戦いの中で果てればいい。

 だが、その境界線が曖昧になってしまったら――世界は戦火に包まれるだろう。大いなる嵐に呑み込まれ、大勢の人間が死ぬ。そのためのセーフティが退魔教会。

 マモンの戦争をしたい理由は吐き気がするが理解はできる。戦争は金になる。他者の命を食い物にする商人たちの懐が温まり、マモンの欲望は満たされるだろう。世界規模の戦争を起こす理由には十分だ。

 ――この世は悪魔の遊び場なのだから。


(だとしても疑問は残る。協力者はなぜマモンに手を貸す? お金がもらえるから? いや、まさか。金のために動くにしてはリスクが高すぎる)


 ローズは未だ見えない敵の正体に苛立ちを募らせる。時間はたっぷりあるので、推理を巡らせるには十分だった。

 謎の協力者がマモンに協力することに理由があるように、ローズが暇を持て余すのもれっきとした訳が存在した。

 彼女は今、敵が現れる時をひたすら待っている。見晴らしのいい時計塔の上で。星空と街灯りがマッチして、幻想的な光景が眼下に広がっていた。

 ロンドンにあったビッグベンに比べればささやかなものだが、それでも数十メートルの高さはある。ローズが高さに恐怖を感じないのは、生来きっての高所快楽症であるからだけではない。

 左腰のホルスターに収まる、ロープピストルのおかげだった。これで仮に転落したとしてもカバーが可能だ。祓魔師に必要なのは、度胸と大胆さ。恐怖を感じてしまえば、悪魔に付け入られる隙となる。恐れ知らずのローズマリーは、記憶の読み取りや怪物を内に秘めるという点を除いても、祓魔師として最適だった。

 ゆえに、既に上級祓魔師の仲間入りを果たしている。十七歳という若さながら、マスターのクラスに身を置くべきだとも言われたことがあった。もちろん、丁重にお断りさせてもらったが。


(何がしたい? 何で退魔教会を滅ぼしたいの?)


 ローズの思索は協力者の目的にシフトしつつあった。なぜ? どうして? 疑念は尽きない。

 退魔教会が清廉潔白な組織である、とはローズも考えていない。以前、ロンドンで警察を強引に動かしたように、祓魔師は歴史的分岐点ターニングポイントというべき瞬間に現れて、歴史を捻じ曲げる。

 十字軍の蛮行に辟易した祓魔師が、イスラム陣営を手助けしなければどうなっていたか? アメリカ独立戦争時、フランスに支援するよう手回ししなければどうなっていた?

 歴史は恐らく変わっていた。十字軍は悪名高い後年の軍よりもさらに悪辣となり、アメリカは独立に成功せず、無理な支援により発生したフランス革命は起きなかった。

 恨むな、とは言わない。憎むな、とも思わない。だが、悪魔が人々を狂わせることは頭に入れておいて欲しいのだ。

 もし悪魔が関わらず、人々の愚行の結果争いや災いが引き起こされるのなら、祓魔師は静観しよう。だが、人間の大がかりな悪事の裏には必ずと言っていいほど悪魔が一枚噛んでいる。それを食い止めるのが祓魔師だ。文句はこちらにではなく、悪魔に言ってくれ。常々ローズはそう思っている。


「……六時ね」


 喧しい鐘の音が、地響きのように唸る。ローズは立ち上がると、横に置いていたエアライフル幻影ファントムを構えた。圧縮空気を注ぎ込み、二十発もの発射が可能。だが、この銃の最大の長所は音がしない、ということだ。

 要人の暗殺や狙撃に最適なのがこの銃だ。この静穏性は、街を蠢く堕落者にも効果が期待できる。

 眼下には、鐘の音を合図に動き出した堕落者がふらりとした足取りで家から現れた。裕福な身なりのこの男性は、外部から侵入した強盗に身体を縛られて、目の前で娘を凌辱されたあげく殺されてしまったらしい。それも、身体の一部に切れ込みを入れ、ゆっくりと娘を衰弱死させるという残虐な方法で。

 またもや、外国人による堕落の誘発。ウェイルズ卿は問題が解決されるまでの間、外部からの渡航を禁じたが、どうやら独自のルートを使って外の人間が入り込んでいるらしい。退魔教会の監視を潜りぬけて現れる者たち。マモンと謎の協力者の息が掛かった連中。

 マモンはどうやら、退魔教会を遊び場にするようだ。世界は悪魔の遊び場であるから。

 しかし、だとすれば忘れている。確かに世界は悪魔の遊び場だが――。


「――世界は悪魔の遊び場で、私は悪魔を祓う怪物よ。やることは決まってる」


 エアライフルの引き金を引く。発射音を伴わない鋭利な弾丸が、人間を知覚すれば驚異的身体能力を発揮する堕落者を抵抗させずに始末する。

 男の記憶が流れ込み、またもやマモンの采配であることを確認した。頭を擦って、夜空を見上げる。

 星も月も煌々と輝いている。今は堕落者を祓うため人に出払ってもらっているが、すぐに街には喧騒が戻る。ローズマリーが住んでいた街。思い出の溢れる故郷。それを奪おうとするならば、ローズマリーは怪物として、成すべきことを成すだけだ。

 強い決意を胸にして、ローズはロープピストルを使い、地上へと降り立った。静かに、街の中へと溶け込んでいく。



 ※※※



 その姿を目視していたスーツの男は金貨を弄びながら嬉しそうに口元を歪めた。彼にとっての好敵手ではないが、やはり強敵の存在というのは心が躍る。


「メフィスト君も、ファウスト以来、いい相手を見つけられなくて嘆いている。姫様は良き相手と巡り合えたようだが……さて、僕はどうするかな」


 男――マモンはコインを投げてはキャッチする。屋根の上でアンバランスな姿勢を維持しているというのに涼しい顔をして、堕落者討滅の知らせを聞いた人々の安堵した表情を観察した。


「安心とは、人が構築する虚構に過ぎない。彼らは安心も安全もこの世に存在しないことを知りながら、視て見ぬふりをしている。世界とは非常に脆く、いとも簡単に崩れ去るのに」


 コインが舞う。手に収まる。


「人間は自らの弱さを自覚しない。ゆえに、強くなることもない。暴力や殺人という弱さを強さと誤解して、自身の強さを見誤っている。真の強者は、無闇やたらに他者へ手を出さない。そんなことをしなくても、自分を保てる強さを持っているからね。だからこそイギリスは彼女のお気に入りだ。どうしようもなく弱い。帝国という価値観に縛られて、己の弱さを露呈している。だが、弱い相手は観察するにふさわしいが、対戦相手として考えるとつまらない」


 煌めく金貨。その輝きはあまりに儚く、美しい。人の命でできたものだからだろうか。マモンはそんなことを思いながら、コイントスを繰り返す。


「君は彼女を買っているのか。彼女に何を期待している? ああ、言わなくていい。わからない方が面白いこともこの世にはあるからね」


 もう一度コインを投げて、手の甲へと収めた。右手で隠し、回答者に問う。


「人間には二面性がある。このコインのようにね。表と裏を持つんだ。君は、一体どっちだと思う?」


 出題者は笑ったまま、質問を投げかけた。暗闇で容姿の見えない第三者は静かな声で回答を行う。


「裏……残念、外れだ」


 笑みを振りまいて、マモンは地上へ視線を戻した。祓魔の花(ローズマリー)は己に潜む本性を押し隠して、人間の振りをしている。彼女が如何にして堕ちるのか。彼女とローズの勝負の行方はどうなるのか、マモンは多少なりとも興味があった。

 だから、じっと彼女の到達を待ち続ける。強者ゆえの余裕で、意図的な油断をしながら。


「君の驚く顔が楽しみだよ、ローズマリー。早く、僕のところへ来てくれ。――君の怪物が、僕の想像以上であることを祈っているよ」

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