悪魔の誘惑
大聖堂へと戻ったローズマリーとマーセは、一目散にウェイルズ卿の待つ執務室へ向かった。
扉が音を立てて開く。ウェイルズはペンを紙に奔らせながら、面を上げる。
「報告しろ」
「黒幕がわかりました」
ローズは執務机に近づき、金貨を置いた。ウェイルズがペンを置き、興味深そうに手に取る。
「マモンか」
「はい。奴が関わっています。私が記憶の中で聞いた声も、恐らくマモンのものかと」
「マモンの声を聞いたのか」
「はい」
ローズは隠し事をしない。ウェイルズと情報を共有する。ウェイルズは頷くと追加の指示を出した。
「ならば、マモンを祓え。退魔教会を守れ、ローズマリー、マーセ」
「わかりました」
「了解しました」
二人は即座に了承すると、次の任務へ向かうため部屋から出ようとする。そして、突然入室してきた闖入者に足を止めた。不可思議な挙動をした意味不明な存在が転がってくる。壺娘だ。
「おや、ローズ! せっかく私が渡した武器を使わなかったのですか?」
「機会がなかったのよ。今、急いでいるから」
「それは残念ですねぇ。あなたがあまり会いたくない人がお待ちですよ」
ローズは足を止めて、壺娘を見返す。
「誰のこと?」
「ふふ、それは会ってからのお楽しみですよ」
壺娘は笑顔をみせて、ウェイルズの方へと移動していく。ローズは気になりはしたものの歩みは止めない。祓魔師の務めを果たすため愚直なまでに進む。
二人が去った後、壺娘はウェイルズに意味深な言葉を投げかける。
「予定通りですか? ウェイルズ」
「……何のことだ」
「何のことでしょうねぇ。うふふ」
壺娘の不気味にも取れる笑い声が執務室に響いた。
「ローズさん!」
元気のいい声が掲示板の前から聞こえてきて、ローズは咄嗟にマーセの後ろに隠れた。少年の声。壺娘の真意がわかり、ローズは小さく舌打ちする。
「最悪ね」
「いいじゃねえか。カワイイカワイイ後輩だ。おまけにお前のことが大好きと来てる」
「私に振られたのにまだ諦めないの? 冗談でしょ」
愚痴をこぼす間にも、少年はローズの姿を求めて声を上げている。あまりに何度も名前を呼ぶので、周囲の同僚たちも興味深げに視線を彷徨わせた。
ローズは降参しマーセの自分より一回り大きな背中から身を晒すと、少年は嬉しそうな笑顔をみせる。褐色の肌を持つ甘い顔の少年だ。
「ローズマリーさん! お久しぶりです」
「ええ……そうね」
ぎこちない笑顔をみせるが、少年の方はそう捉えない。
「会えて嬉しいですよ、ローズさん!」
「私も……嬉しいわ」
どう見繕っても苦笑を浮かべているのだが、彼にはローズが本気で喜んでいるように見えるのだろう。ローズはそそくさとマモン退治と関連のある依頼はないかと掲示板を眺めるのだが、マーセに肩を叩かれた。何? と問い返すと、マーセは受付のシスターの方へ視線を向けている。
耳を傾けると、シスターはローズとマーセ、そして少年の名前を呼んでいた。
「エクソシストローズマリー、マーセ、ケイの三名は至急、パフウ村行きの汽車へ搭乗してください」
「まさか……」
嫌な予感がしてローズが呟く。マーセは腕を組んで同調した。
「そのまさかみたいだ。勝手に私らを同行者として指名したみたいだな、あいつ。……邪魔して悪かった。せっかくのデートなのに」
「それ以上ふざけたらぶん殴る」
発注されてしまったのならどうしようもない。ローズは観念して祓魔師専用の駅まで向かう。そこへマーセは飄々とした態度で言った。
「昔みたいに? 勘弁しろよ。お前は強いんだ。ただでは済まない。お互いに」
パフウ村は漁村だ。人口は少なく主産業は漁であり、獲れた魚介類を売ることで生計を立てている村人も多い。
海は好きだが、嫌いである。人を飲み干すほど恐ろしいくせに、綺麗なカタチをしているから。
車内でのケイのお喋りは寝たふりをすることで回避した。その横で饒舌に話す親友を何度殴ろうか悩んだが、それでも直接会話するよりはマシだ。
マリア女医がいたらくすくす笑ってローズを窘めただろう――だが、もう先生はこの世にいない。
「着きましたよ、ローズさん」
「そうみたいね」
相槌を打って、寝ていたにしては素早い動きで汽車から降りると、用意された馬車に乗る。林を通る道では流石に狸寝入りは難しかったので、ローズは機転を利かして天候へと話題を逸らした。
「雨が降りそう。最悪ね」
「ケイ的にはラッキーだよな。もしかするとびしょ濡れになったローズを見れるかもしれない……いてっ」
狭い馬車の中で、ローズが隣に座るマーセを蹴っ飛ばすと、彼女は痛がった。
当然の報いだ。心の中で密かに思う。その横で、ケイはマーセに平然と述べる。
「とんでもない。僕はローズさんの傍にいるだけで幸せですよ」
「……っ」
「お、驚いてる驚いてる」
茶化したマーセを睨み付け、改めてケイを見直した。確かに、ローズはマーセの言葉通り驚いた。今までそんなことを言ってくれた人はいなかったからだ。いや言わなくとも、ウェイルズやマーセ、リュン、そして亡くなったマリア女医が自分を大切に思ってくれているのは知っている。
だが、こう面と向かって言われたのは新鮮だった。少し、意地悪が過ぎたかな、と反省する。
「変わってるわね、あなた」
「この肌色のせいもあり、よく言われます」
「そういう意味で言ったんじゃない」
応じながら、当然かとも思う。白人至上主義は世界は元より退魔教会内でも完全には排除できていない。外国から訪れた他国の貴族や白人は黒人や黄色人種を見つけると顔をしかめることも多いのだ。
いや、しかめるだけならばまだいい。酷い者になると罵声を浴びせる。それが悪魔の思惑であると知らないまま。
(人種差別は悪魔が広めたもの。なのに、多くの人は気付いていない。無自覚に、悪魔へ協力している)
差別が進めば悪魔は人を堕落させやすくなる。さらに、堕落者が差別対象であれば新たなる差別の口実が産まれる。悪循環。最悪の円環。それを止めるのも、祓魔師の義務だ。
マリア女医はエクソシストは世界のお医者さんだと言っていた。先生がクマのぬいぐるみのほつれを直してくれたように、ローズマリーも世界の歪みを正していく。もしや悪魔は自分を堕とそうとして、マリアを狙ったのかもしれなかった。だが、逆効果だ。マリアを殺したことで、ローズの怪物は強まった。ローズ自身の意思も強固となった。
「何か悩みでも? ローズさん」
「いえ、別に。大したことじゃないわ」
「でも僕、気になります」
ケイは困ったことを言ってくる。ローズがほとほと困り果てる横で、マーセは愉しそうな笑みを浮かべている。不愉快であることは否定できない。どうやってあの憎き笑顔を叩きのめそうか、と思索を巡らせた瞬間、馬車が止まった。パフウ村に到着。
下車すると、ローズの言葉が予言だったかのように雨が降ってくる。
「参ったわね……」
「雨宿りしましょう。ローズさん」
「ローズファーストか。羨ましいぜ」
もはや突っ込む気力も失せて、マーセの軽口を受け流したローズは促されるまま手近な民家に入った。しかし人気がない。漁にでも出ているのかと考えたが、どうやら違うようだ。
「妙ね」
「ああ。この村ちょっとおかしいぞ。男は漁に出払っていたとして、女はどうした」
偶然雨宿りに使わせてもらった民家の家主が独り身である可能性もなくはない。だが、急いで家へ駆けこむ喧騒も聞こえてこなければ、迎えが現われる気配もない。
無人の村だ。いるのは自分たちと外で待つ馬車の御者だけ。
そうローズが考えをまとめた瞬間に、雷鳴は轟いた。
「嵐ですね……」
「ええ。最悪よ」
ローズは民家の戸を開けて、外の様子を確かめる。不穏な存在を見て取った。
何かが村の中を蠢いている。堕落者かとも思ったが、違う。
「魔獣ね。いるわ」
「今回の依頼はビースト退治だったのか?」
マーセが訊ねたが、ケイは首を横に振った。
「いえ……。海に異常が見られるから調査して欲しいと」
「調査任務に私たちを同行させたの?」
思わず語調が強くなる。ケイは申し訳なさそうに顔を俯かせた。
「すみません……。でもローズさん、帰還してから毎日任務についてるようでしたから」
つまり、今回の任務はローズを気遣ってのものだったのだ。真相を聞いて、ローズも責めるに責められなくなる。マリアの死を受けてからというものの、休息は全て移動中に済ませ、まだ一度も腰を落ち着けていなかった。
「見てる奴は見てるなぁ」
「うるさいわね。でも、ありがとう。確かにそろそろ休むべきね」
ローズは自分を戒めるように呟いた。根を詰め過ぎたかもしれない、と自戒する。
「身体を壊してからでは遅いですから」
「わかった。……じゃあ手早く済ますために手伝ってちょうだい」
「はい!」
ケイの元気良い返事。マーセはなじみの間柄なので特に何も言わない。
ただ刀を構えて、行動で了解の旨を伝えてくる。ローズは頼もしい同行者に満足しながらも、降り注ぐ豪雨を険しい表情で見つめた。
(雨が強いと火薬が湿気る。長期戦は避けた方が無難ね)
パーカッションロックやフリントロックの時代に比べれば、雨は銃の天敵ではなくなった。しかし、長時間雨水に晒されれば、不発や遅発の危険性も出てくる。退魔教会が対悪魔用に拵えた銀弾と壺娘が製作した銃器をローズマリーは信頼していたが、なるべく危険性は排除しておきたかった。ローズ単独ならば、その危険性は自身の怪物を高める要因と成り得るが、仲間を脅かす可能性は好ましくない。
「短期決戦でいく。用意は?」
「できました」「問題ないぜ」
「行く!」
二人の即答を聞いてすぐ、ローズは村の中へ躍り出た。雨は冷たく、ローズのコートを濡らしている。遠方で煌めく雷が、天罰のように光っては消失する。その天罰は誰がために落ちるのか。人を堕落させる悪魔か。悪魔に堕落させられてしまう人間か。
どちらでもいい、とローズは思う。がむしゃらに祓魔師の務めを果たすのみだ。
マーセがしんがりとなり、ローズは前方を警戒して進む。ケイはレバーアクション式散弾銃を所持していたので、彼には索敵を任せた。散弾銃は強力な銃器だ。敵が突然近づいてきても強力な散弾を前に抗う術なく斃れ伏せるしかない。
(でも、ビーストは強力。通常兵器は効かず、有効手段は銀物質しかない)
堕落者は人間が基盤であるため、通常武器でもそれなりに戦える。もちろん、よほどの凄腕でない限り返り討ちにされるのがオチであるが。
異形の怪物も、銀弾を用いる人型の怪物には勝てない。退魔教会独自の製法によって製造・祝福された銀の弾丸は悪魔とその眷属に多大なる効果を発揮する。
だがそれも、あくまで命中すればの話だ。誰もかれもが銀弾を使って悪魔を屠れるのなら祓魔師は用無しである。魔獣は神話上の化け物や魔物の姿を模した恐るべき獣。対抗できる銃を持ってしてもやられた祓魔師は数知れない。
「狩りの時間ってわけだ。お前、本当はこうなることを見越してたんじゃないのか?」
散弾銃は狩人の武器なので、マーセが油断なくおどける。ケイもまた、索敵を続けながら返した。
「まさか。壺娘さんに持って行けと言われたんですよ。名前はスピエタートらしいです」
イタリア語で冷酷を意味する言葉だ。一体何の意図があって壺娘がそんな名前を付けるかは皆目見当もつかないが、今は銃の名前よりも獣の種類の方が重要だ。
先程ちらりと見えた魔獣は、下半身に鱗が見えた。水に縁のある魔獣だと推測できる。
(人魚……とは考えにくい。水陸両用のビースト。始めに思いつくのは――)
「敵です、ローズさん!」
ケイの呼びかけを聞いて、ローズは推理を中断する。ライフルを構えて、走ってくる魔獣に眉を顰めた。
「ケルベロス。分離体だな」
黒い体表を持つ巨大な犬が数匹駆けてくる。ケルベロスは地獄の番犬とも目される魔獣だ。書物では複数の首を持つ存在として描かれているが、退魔教会の記録に記される特徴はそれだけではない。複数の首を持つがゆえに分離し、増幅する魔犬である。
「私が見たのはこいつらじゃない!」
レバーを操作し銃を穿ちながらローズは伝える。まだ敵が潜んでいる。そいつを早急に見つけ出さなければならない。
しかし、眼前の敵にも対処しなければいけなかった。ケルベロスの分離体も油断ならない難敵。一度噛みつかれれば、そのまま身体を食いちぎられてしまう。
とはいえ、ケルベロスは比較的名が通った魔獣である。退魔教会の祓魔師として適切な訓練を受けていれば、そこまで恐れる相手ではない。
ローズは当然のこと、マーセやケイも訓練を怠ってはいないので順調に狩りを進められた。マーセは得意な刀でケルベロスの首を落とし、ケイも散弾でズタズタに引き裂く。ローズも卓越した射撃技術で、精確に頭を撃ち抜いた。五体いたケルベロスがあっという間に肉塊へと変貌する。
「問題なさそうね……っ」
唐突にふらついて、ローズは頭を擦る。ケイが心配したが、何でもないと応えて、村の中心部へと進行した。
「本当に大丈夫ですか、ローズさん」
「大丈夫よ。私は平気。怪物だもの」
「そんな……」
ケイの不安をよそに、ローズはどんどん先へ向かう。増援のケルベロスは確認できず、先程の魔獣も発見できない。だからと言って帰るわけにもいかなかった。魔獣は放置すれば数を増やす。悪魔が退魔教会を侵略する足掛かりとなる可能性がある。
そんなことは許容できなかった。これ以上故郷を穢させてなるものか。ローズの手に力が籠る。
「……っ」
「酷いな……」
村の中心へ辿りついたローズ一行が目の当たりにしたのは、大量の死体だった。全て、虫食いのように食い荒らされている。嫌悪感と怒りを胸に抱きながらローズは近づいて、検視した。だが、ほとんどケルベロスによる食事跡であり、謎の魔獣の手掛かりは残されていない。
「奴はどこに……く」
また立ちくらみを起こして、ローズはマーセに支えられた。すぐにその手を払おうとするが、強引に額へ手を当てられる。
「おいおい、熱があるじゃねえか。土砂降りの中、動き回ったのが祟ったな」
「私は、大丈夫……。退魔教会、守らなければ……」
ローズは自分の想いを吐き出す。マリア女医の時のような悲劇を繰り返してはいけない。それが今のローズの原動力だ。
ずっと嫌だったのだ。堕落した人間を祓うことが。人の記憶を読み取り、追体験することが。
もう誰にも堕ちて欲しくない。その想いが、疲労の蓄積し発熱すらするローズの足を動かしている。
「ローズさん……」
「一度撤退するべきか? こりゃ」
「認めない……。逃げるなら二人で逃げて。私はビーストを狩る」
ローズは強引に狩りを続けようとする。二人は窘めたが、ローズは取り合わない。
「誰ももう堕落させない……。私はもう、二度と……」
「ダメです、ローズさん!」
「ケイ……。ッ! ――離れてッ!!」
警句を叫ぶ。ローズは朦朧とする意識の中、ソレを認めた。顔部分にゾウの鼻と耳がありサイの角も備わっている。下半身は魚の尾ひれがあるが、ちゃんとした足があった。三種の生物を繋ぎ合わせた合成獣。しかし、大きい。民家ぐらいの大きさはある魔獣の正体は、ローズの知識の泉に存在した。
「べヒモス――!」
リヴァイアサンの対極と称された存在。悪魔にも区分されることがしばしばあるが、退魔教会では大型の水陸魔獣として記録されている。他宗教の教えでは、神が創生した最高傑作とも言い伝えられる強力な魔獣だ。資料ではしばしば二足歩行のゾウとして描かれることも多いが、イスラム圏のべヒモスが巨大な魚である影響を受けているのかいないのか、人々の持ち得るイメージを合体させたような容貌をしている。
その傑作魔獣がゾウの前足とも言える部分をケイの元へ振り下ろした。反応が遅れたケイを庇って飛びのくが、まともに着地はできず地面を転がった。その衝撃は鈍重に響く。重く、深く、ローズの意識を刈り取ろうとする。
(いけない……まだ、戦わなければ)
衝撃で落とした純潔へと手を伸ばす。だが、届かない。まるでローズが救えなかった人々のようにその距離は遠い。
「く……ぅ……私は……」
意識が混濁し、ローズの視界がぐらついた。マーセがローズを掴んだのだ。散弾銃が撃発する音も聞こえる。何よりうるさいのは雨音だ。そして、雷鳴。べヒモスの咆哮。奏でられる不協和音で、自分が生きているのかさえ曖昧になる。
反射的に言葉が衝いて出ていた。――心にいつも秘めている言葉だ。
「私は……悪魔の子じゃ、ない……。わたし、は」
眠るように、ローズマリーは意識を手放す。微睡みに落ちる前、少女の声が聞こえた気がした。
※※※
「今度は本当に患者として来たのね、ローズ。ふふ、お仕事ができて嬉しいわ」
「……う」
ベッドに寝るローズは顔半分だけを毛布から出し、警戒するようにマリアを見上げた。
マリアとは信頼関係を構築し、自分の秘密を共有できるようになっている。だが、頼れる先生マリアから不可思議な医療術を扱うマリアに変化するだけで、これほど不気味な存在に変わるとは思っても見なかった。
「あらあら。怯えなくていいのよ。変なことしないから」
「わかってる……」
マリアは怖くない。しかし、未知の医療術が怖ろしい。
いや、怖いのはマリアでも医術でもない。本当に怖いのは記憶だ。
親が自分を救済すると言って行おうとした行為。あれが脳裏に染みついて離れない。
ゆえに、マリアがお盆に布で隠された何かを運んできた時、ローズは悲鳴を上げてしまった。
「いやっ! やめて!」
「大丈夫よ、ローズ。落ち着いて。息を吐いて。深呼吸しましょう」
言われた通りにローズがすると、不思議と気持ちが落ち着いた。
「素直な子ね、ローズ。そんな子にはご褒美」
「クマさん」
マリアは新しいぬいぐるみをローズに用意していた。それが幼い子にとって有用な処方箋だと理解していたのだ。
「元気が出たでしょう? ローズ。今日は安静にしていて。眠っていれば、すぐによくなるわ。子守唄を謳ってあげましょう――」
その優しい歌は、ローズにとっての最良の薬となった。良薬は口に苦しとは言うが、甘い薬でも十分人を癒せるではないかと、幼心ながらに感じたことを覚えている。
※※※
「――はっ!」
ローズマリーは目を覚ました。薄暗い洞窟で寝かされている。身を起こし、辺りへ目を凝らすが、二人はいない。
どこへ行った? と疑問視し立ち上がった彼女へ背後から声が掛かった。
「ここですよ、ローズさん」
「ケイ……っ!?」
違和感を感じて、反射的にリボルバーへ手を伸ばす。すぐに戦闘態勢へと移行してしまう自分の怪物を蔑んで銃杷から手を離すと、ケイは微笑した。
「大丈夫ですよ、ローズさん。僕は気にしませんから」
「ケイ……。その腕、どうしたの」
ケイの右腕は淡く光を放っている。常人なら考えられない現象だ。それはつまり……彼が堕落したことを示唆している。
「マーセさんは助かりませんでした。あなたを救うのに精一杯で。僕自身の技量も足りなくて。だから、ごめんなさい。悪魔と契約しちゃいました」
「何を、言って……」
今度こそ、ローズはリボルバーを引き抜こうとする。だが、いつの間にか消えていた。左腰に差してあるレイピアも、後ろ腰のナイフも、背中に掛けるライフルもない。丸腰だった。
それだけではない。もはや一糸まとわぬ姿になっていた。ケイは慄くローズに近づいて、耳元でささやく。
「代償を払ってあなたを救ったんですから――その報酬として、犯してもいいですよね?」
※※※
「――――ッ!」
絶叫を上げて、ローズマリーは再び覚醒した。
夢を見た後にまた夢を見ていたようだが、寝かされていた場所が先程と同じ洞窟であるため咄嗟にリボルバーの存在を確かめる。だが、ない。
「焦らなくてもいいわ。どうせ、ここには来ないのだから。私がいる限りはね」
前方から声がして視線を定める。そこには奇妙な少女が座っていた。
どこから運んできたのか、白い椅子に白い丸テーブルが設置してある。白い茶器の一式もテーブルには並んでいる。対面席には空席があった。紫髪の少女は着席を促す。
「紅茶はいかが? 美味しいわよ」
「…………」
ローズは言われるがまま立ち上がり、洞窟内のお茶会に参加した。忌憚のない視線を向けて。
「怖い顔。私が誰だかわかってるの?」
「知らない。でも、悪魔だということはわかる」
「ふふふ。知名度が足りないのかしら。残念ね。名前で呼んでくれないなんて。でも、私はあなたを知っている。ローズマリー。家族に見捨てられた、カワイソウな子。清く美しい怪物を秘めたエクソシストでもある」
少女は天敵が目の前にいるというのに、余裕の笑みで紅茶を啜る。相手が丸腰だから油断しているのか。はたまた、ローズが攻撃しないと確信しているのかは不明だ。
しかし、いくら少女が優雅に紅茶を愉しんでいても、ローズの中の怪物は敵を殺す算段を整えている。陶器は割ることで鋭利な刃物となる。それに、人間は他者を殺せるように生まれつきできている。拳でこの悪魔を殴殺できるとは思えないが、不意は突ける。少女を怯ませた瞬間に、彼女の腰に刺さる古式銃を奪うか、それともすぐ先に置いてあるローズの所持品を回収して始末するか。エクソシズムに終わりはなく、また無数の手段が存在する。
「怖いわ。身震いしちゃう。せっかくの温かい紅茶を前にして、私を殺そうと画策してる。いいお友達になれると思ってるのよ?」
「生憎、友達ならもう足りてる」
「マーセ、リュン。そして、ケイ。壺娘はあくまで協力者かしら。あなたに友達は多くない。ひとりくらい悪魔の友達がいてもいいと思うけど?」
「そんなものはいらない」
ローズは反論して、手元にある紅茶の中身へ目を落とす。どす黒い紅茶だ。時間が経った血のような色合いのそれを飲む気にはとてもなれない。察するに、これは契約の儀式だ。紅茶を飲むことで目前の少女と契約は完了し、自分は理性を喪失し欲望を糧に生きる堕落者へと成り果てる。
「いい分析よ、ローズ。でも、それでいいの。まだあなたは堕ちないでいて」
「……何を」
「私はね、あなたを犯したくて犯したくてたまらない。でも、そう簡単に堕ちられても困るの。楽しくないもの。悪魔はね、良き競争相手を求めてる。それがかつては退魔教会だった。けれど、もうこの国はおしまい。中核に悪魔の侵入を許した。彼は本気で世界を遊び場にするつもり」
「お前たちの思い通りにはさせないッ!」
ローズは直立し、テーブルが揺れる。彼女の手前に置かれたカップが落下し割れた。そのまま荷物へと手を伸ばし、取り出したリボルバーを悪魔少女へと向ける。
殺意の銃口を向けられているというのに、少女は弁明を口にするのみだった。
「私のじゃないわ。彼の。或いは、彼らの」
「何……」
「私はね、ローズ――」
突然少女が掻き消えた。瞠目するローズの隣に少女は出現し、彼女の顎を手に取る。
「――ッ!」
「あなたが大好き。恐ろしい怪物。悪魔を祓う甘美な花。犯したい。屈服させたい。苦しみ喘ぐあなたが見たい。けれど、すぐに枯らしては味気ない。ああ、なんて罪深い子なんでしょう。私をこんなに悩ませるなんて」
「このッ!」
撃鉄を起こして、立て続けに撃つ。しかしまた驚異的な魔術を使い、少女は瞬間移動した。今度はローズの背後。古めかしいフリントロックピストルの銃口を彼女の後ろ背に突きつけている。
魅惑的な吐息を、ローズの首筋に吹きつけた。
「私があなたという誘惑に溺れるか、あなたが私に堕落するか。勝負をしましょう? 心躍るゲームをしましょう? 世界の命運を賭けて」
ふざけた提案。だがしかし、ローズは乗り気だった。
その回答をローズは射角を調整し、引き金を引くことで放つ。
「――望むところよ!」
跳弾した弾丸がローズの右側頭部すれすれを通って、少女に当たる。少女は一瞬驚いた表情をみせたが、すぐに笑みを浮かべた。
「素敵なお茶会を楽しみにしてる。ふふ、うふふ。ひとつだけ、忠告。金の亡者を追うならば、金の流れを追うしかない。ああ、彼に怒られてしまうわね。はは、あははははっ!」
悪魔少女は眉間に穴を開けながらも、平静な様子で消えていった。不気味な笑い声を残して。
ローズは不穏な空気を感じつつも行動を開始した。装備をかき集めて、洞窟の外へと走り出す。
「二人とも、無事でいて!」
悪魔を欲情させるほどの怪物を発揮するために、駆けていく。




