堕落の真相
馬車を走らせて、ホテルへ急行する。ローズマリー、リュン、マーセは依頼主がいる部屋へと入り、それを目の当たりにした。
貴族の男が拳銃自殺をしていた。床には大量の血と、自殺に使用したリボルバーが落ちている。
「遅かったみたいだな」
「それはどうかしら」
テーブルの上には、遺書が置かれている。手に取って中身を見るが、大体予想できた内容だったので深くは読まなかった。全ての原因は私にあるだの、神の教えに背いてしまっただの、ありきたりな文字の羅列だ。
「ああ、エクソシスト様! 申し訳ございません。旦那様が自害を……」
ローズたちの到着を聞きつけた執事が部屋へと戻ってくる。ローズは二人と眼を合わせた後、リボルバーを突きつけた。
執事が困惑し、何事ですかと問いかける。
「なぜ私に銃を?」
「テーブルに置いてあった金貨は、誰からもらったの?」
ローズの詰問に執事は言葉に詰まりながらも応対する。
「旦那様から……」
「ああ、ごめんなさい。質問を変えるわ。あなたの旦那様は一体誰なの?」
「……チッ、エクソシスト風情がッ!」
ローズの確信を衝いた問いに執事の雰囲気ががらりと変わった。柔和な表情から、殺意の籠ったものへと変化する。懐からリボルバーを抜き取り、撃発。ローズも迎撃して執事の銃を撃ち落としたが、執事は止まらなかった。部屋から逃走する。老人とは思えない驚異的な身体能力だ。
「逃がさない!」
三人の祓魔師がホテルから脱出した執事を追いかける。ローズが一番先にストリートへと出て、執事が通行人の馬車を奪ったことを見て取った。二人を待つことなくローズは馬車の御者席へと飛び乗り、逃走を続ける馬車を追いかける。
「私たちは回り込むわ!」
「頼んだ!」
二人に叫びながら、ローズは馬車を御していく。馬車の扱いもローズは得意だった。執事は必死に逃げているが、見る見るうちにローズは執事の馬車へと追い付いていく。途中に一般馬車ともすれ違い、何度か激突しそうになったが、それを巧みな操作技術で回避した。
ローズは、馬車を横に付けた。ここは退魔教会だ。ローズにとっては庭でしかない。周辺の地図は叩き込んであり、どこへ誘導すればいいか手に取るようにわかった。
執事の馬車は狙い通り、川に架かる橋の上へ出た。そのタイミングを見計らい、ローズは屋根の上に乗る。そして、執事の馬車へ飛び移った。執事を御者席から引きずり出そうと奮闘し、屋根の上でもみ合いになる。そのままバランスを崩して、川の中へと転落した。
「くはっ!」
水面から顔を出して息を吸う。少し想定外だったことは否めない。川ではなく路上に落ちるつもりだったのだ。幸か不幸か、執事の方はきちんと陸に落ちていた。橋の下にある岸に落ち、折れたらしい左腕を庇いながら懐を探る。
予備の小口径リボルバーを取り出して、勝ち誇った笑みをみせた。
「どうしてわかった? 完璧だったはずだ。死者は何も語らない」
「残念だけど、堕落者は語るの。私の頭の中に直接ね。でも、私が記憶を読み取らなければ確かにあなたは逃げ果せていたかもしれない。優れた計画だったことは認めるわ」
銃に睨み付けられて、ローズは動けない。だから、代わりに口を動かした。
「あなたは奴隷を解放する名目でやってきた自分の主人とオーランを、奴隷を誘拐することで脅した。普通の貴族ならそんな脅しは通用しないだろうけど、主人とオーランは友人関係にあった。世にも珍しいまともな貴族だったのね。あなたはその関係性を逆手にとって、主人から金を強請った。そして、満足する金額を引き出すと、口封じのために恋人を殺してオーランを堕落させ、主人すらも自殺に見せかけて殺したのよ」
ローズが真相を話すと、執事は面白そうに顔を歪めた。そして、銃を揺らしながら得意げに語り始める。
「そうだ。だが別に、奴の利用価値がなくなったからじゃない。頼まれたんだ。奴を堕落させてくれ、と。奴から金を奪うよりも儲けになった。だから殺した」
「誰に頼まれたの?」
「ははは、言うかよ。お前を殺せば、少なくとも退魔教会からは逃れられる。だったら殺さない手はないねぇ。この世の沙汰も金次第。金さえあれば、何でもできる」
執事は銃口をローズに定める。
ローズは舌打ちした。この男はローズの嫌いなタイプだ。金のためならば何をしてもいいと信じてやまない狂信者。そんな男の思い通りに事が進むなど、耐えられなかった。
ゆえに、水中で密かに行動を起こす。腰に差してあるナイフを取り出し、構えた。
「さようならだ、可愛らしいお嬢さん。エクソシストじゃなくて娼婦になればよかったのになぁ!」
「冗談!」
執事が引き金を引く瞬間――ローズマリーは水面から右腕を晒しナイフを投げた。ナイフは執事の右手に命中。銃弾はあらぬ方向へと放出され、執事は慌てて落としたリボルバーを拾い直そうとする。が、横から声を掛けられて中断した。マーセが剣を構えて、執事の首元に突きつけている。
「どこにも逃げられないぞ。降参しろ」
「く、くそッ!」
執事は階段へと走り出した。橋の上に出れば逃げられると踏んだのだろう。だが、その足取りも強制的に止められる。銃弾が飛来し、執事の足元へ着弾した。橋上から、リュンがボルトアクションライフルを撃ち放ったのだ。
「だからマーセが言ったでしょ? どこにも逃げられないって」
「く……」
執事が逃走を諦めて、座り込んだ。ローズはその間に岸まで泳いで陸に上がる。
「びしょびしょになっちゃったわ」
「乾かさないと風邪引くぞ」
「着替えがない……どうしよう」
ローズはコートを脱いで、所持品がなくなっていないかどうかを確かめた。銃はホルスターに収まっている。点検の必要があったが、問題はない。
懐中時計もきちんと動作していた。紙の類はぐしゃぐしゃになってしまったが、重要な資料は全て頭の中に記憶されている。こちらも危惧すべき事項は見当たらない。
「お話を聞くとしましょうか。この街の教会はどこだったっけ?」
「橋の先にあるはず。だからしばらくは辛抱してね」
リュンのウインクに、ローズは水が滴る金髪をくしゃくしゃにしながら苦笑した。
幸いにもローズが風邪を引く前に馬車は教会へと辿りついてくれた。シスターに案内されて、ローズは先に着替えへと袖を通した。改良された黒衣はなく、正規品の神父服に着替える羽目となった。シスターは女物の服を差し出したが、丁重に断らせてもらった。
部屋へ訪れると、既にリュンとマーセが尋問を行っていた。しかし執事はしどろもどろの回答を繰り返す。
「全ては私個人の策略だ。誰の指図も受けていない。旦那様に友人の奴隷を解放する良い環境を紹介してくれと頼まれた時、この方法を思いついたのだ」
「教会関係者でもないあんたがか? 誰の悪知恵も借りずに? 冗談だろ。ローズの方がまだ面白いジョークを言える」
「それはどういう意味かしら」
失礼な物言いにローズがマーセを睨むが、彼女は気にする素振りもみせずに応じた。
「来たかローズ。このじいさんが白を切るんだ。……お前にまた記憶を読み取ってもらうかな」
マーセがテーブルに肘を乗せて、執事を見据えた。執事が息を呑む。
ローズが記憶を読み取れるのはあくまで堕落者だけだ。普通の人間の記憶は読めない。ローズが痛みに共感できるのは、悪魔と関わったものだけである。そうマリア女医の言葉を借りて自身の能力を分析していた。
だが、執事はその事実を知らない。常人なら信じないはずのローズの特殊能力に執事は動揺している。普通なら有り得ないと一蹴される超常現象に恐れを抱くことこそが、執事と悪魔の関係性を強く表していた。
「何も知らない、殺しても無駄だ!」
「何も知らないなら殺した方が有意義よ? あなたは悪魔と関わっている疑いがある。ならなおさら始末しなきゃね」
リュンがリボルバーを弄びながら言う。彼女の言葉は一理ある。
オーランは主人と共に脅迫されていた。記憶を読み取った時、テーブルの上に置かれていたのと同じ金貨を目撃している。あの金貨が何らかの鍵を握っていることは明らかだ。
「そもそもあなたは自分で言っていたでしょう? 頼まれた、と。オーランを堕落させるようにね。なら、そこには必ず第三者が存在する。普通の人間には知覚できない異形の存在が」
「あれは、ただの妄想の産物だ。本心ではない」
「……答えるのが難しいなら選択肢をくれてやる。生きるか、死ぬか。好きな方を選べ」
「どういう、ことだ」
執事の目線が泳ぐ。マーセの眼光が鋭くなった。
「言っただろう? 疑いがあるのなら殺す。放置しても仕方ないからな。でも、情報を持っているとすれば別だ。退魔教会が丁重に保護する。……人並みの生活ができるとは思うなよ? そういう意味で言ったんじゃない。でも、少なくとも生き残ることはできる。命あっての物種だ。せっかく愉しむために金を貯めたのに、死んだんじゃ元も子もないだろ?」
「あ、う……確かに」
ようやく執事は納得した。例え監禁されるとしても、死ぬよりはマシだと判断したのだろう。
深く息を吐いた後に、事情を説明し始めた。ある時、不思議な声が聞こえたのだ。そう言ってゆっくりと白状する。
「その声は奇妙で不可解だった。誰もいないのに、いや、誰も聞いていないのに、私にだけ声が聞こえてくる。最初は頭がおかしくなったのかと思ったよ。声は枕元に金貨が置いてあるから受け取れと促していた。言われた通りにその場所へ向かうと、そこには確かに金貨が置いてあった。そんなことが何度も続き、私はその声を認めることにした。……心のどこかで裕福な旦那様に嫉妬していたのだ」
「典型的なケースだな」
マーセが相槌を打つ。執事は紅茶を一口含んで、昔話を続けた。
「男の指示通りに行動すると、金貨が貰える。私は喜んで金貨を貰い続けたよ。最初は簡単で健全な仕事ばかりだったが、時が経つにつれて危険で邪悪な仕事が増えていった。だが、私は金欲しさに悪事に手を染めた。……金持ちは犯罪を見逃される。私も金持ちになれば、問題ないと思ったのだ」
「それで?」
浅はかな、と思いながらもローズは話に引きこまれていた。似たような事例を聞いたことがある。悪魔の候補を思い浮かべていた。
「そんなある時、その声はもっと楽に儲かる方法を教えてあげよう、と語りかけてきた。……奴隷であるオーランを利用する方法だ。奴を堕落させれば、全て旦那様のせいになる。人質を取り、遺産が自分に巡るよう手回しし、旦那様に罪を被せればいいと」
「……奇妙ね。何でわざわざ退魔教会に来たの? エヴァンジェルヒムで行うには、リスクが高すぎる計画だわ」
と呟きながら、ローズは執事の発言を思い返している。
――頼まれたんだ、奴を堕落させてくれ、と。その言葉が繋がり、真相が明らかとなる。
「頼まれたのだ。最高の見世物になると言われた」
「見世物ですって?」
リュンがリボルバーをいじるのを止めて、訝しむ。マーセも怪訝な表情を浮かべていた。
執事は対面席に座る二人ではなく、ローズマリーへと目線を上げる。
「そうだ。お前の……ぐ、ぅ……!?」
「何?」
突然、執事が苦しみ出した。何かが喉に詰まっているかのように、吐き出そうとしている。
リュンが駆け寄って、背を叩く。執事が大量に嘔吐した。きらきら光る、大量のコインを。
「これは……っ」
「あ、う、お、あ……」
執事は声を発せずに、自分が吐いた金貨へ目を落とした。そしてすぐにローズへと手を伸ばす。救いを求めるように。
ローズマリーは咄嗟に手を差し出した。だが、触れる瞬間に、執事は金貨の山へと成り果てた。
「これって――」
リュンが驚いて視線を彷徨わせる。マーセも驚愕していた。
ただひとり冷静なローズは金貨を掴んで、握りしめる。もう目星は付いている。今の錬金術で候補が絞られた。
「正体がわかった。……強欲の悪魔、マモンよ」
「マモンだって? ……おい!」
颯爽と退出するローズマリーをマーセが追いかける。が、リュンがもたもたとしていることに気付いて呼びかけた。
「早くしろ、リュン!」
「え、ええ……そうね」
リュンは金貨を見つめた後、一枚だけ手に取って二人の背中を追って行った。
※※※
「またしてやられたのね? うふふ」
「ああ。彼もいい手駒だったんだが……。まさか、僕の正体をばらそうとするとは」
スーツを着る男が呆れた口調で告げる。対面に座る紅茶を嗜む紫髪の少女はにこやかな表情で応えた。
「でも、ばれてるようだけど?」
「そのようだね。でも、ばれたところでどうでもいい」
「むしろ、ばれて欲しかった。そうでしょ?」
男は笑うだけで回答しない。その笑みを肯定と受け取って、少女はハーブを紅茶の中に淹れた。
「またローズマリーか」
「言ったでしょう? お気に入りだって。食べちゃいたいくらいにね」
「僕たちにとっては、忌むべき花だな」
「だから、私の心は高鳴るの。悪魔を祓う花だから」
「その気持ちは共感できるよ」
「でしょう?」
少女は紅茶を飲んだ。男は金貨を弄びながら立ち上がる。
「さて、仕事に行かなければ。僕は多忙なんだ」
「うふふ。働かなくても生活できるくせに」
「だからこそ、さ。金は僕にとって生活必需品じゃない。コレクションアイテムだからね。心血注いで頑張るんだよ」
男は金貨を仕舞うと、少女から離れていく。
「大丈夫なの? あなたは」
「もちろんだ。僕の協力者は一人だけじゃない」
そう応じて、男は忽然と姿を消した。誰も聞いていないと知りながら、少女は言葉を続ける。
「うふふ、頑張ってねマモン。追い詰められれば追い詰められるほど、花は綺麗に輝くのよ」
――そうして、紅茶を綺麗に飲み干した。
※※※
黒幕の正体を見破った三人は、大聖堂へ戻るべく馬車を進めていた。車内でローズは金貨を興味深そうに観察している。リュンも同じように、持ってきた金貨を取り出した。
「あなたも持ってきたの?」
「ええ。役に立つかと思って。本当はもう少し持って来たかったけど、それは処理係に任せましょう」
そう言ってリュンはローズに金貨を手渡す。人を錬成して創作された金貨を。不気味なほどに輝くこの硬貨は、通常の金貨よりも美しい。まさに、人の命の輝きだ。だからこそ、金に目がない亡者はこれを喉から手に取るほど欲しがって、マモンの策略に嵌まっていく。
金が関わるところにマモンあり。悪魔と敵対している通常の教会にさえもマモンは出没し、大勢の聖職者を堕落させたことがある。金欲は性欲の次に厄介だ。
イタリアでロドリゴ・ボルジアとチェーザレ・ボルジアの親子が名を馳せていた時代に頭角を現したマモンは、ローマを最悪な状況下へと導いた、と記録されている。色欲の悪魔であるアスモデウスと協定を結んで当時の民衆と祓魔師を苦しめようだ。
人心掌握の手腕もさることながら、錬金術という不可思議な技を持つ難敵。しかし、最大の特徴は逃げ足の速さにある。
今まで誰も、マモンを追いつめた祓魔師はいない。彼に辿りつく前にみんな殺されてしまった。国を、社会という在り方を崩壊させるのに彼ほどの適任者はいないだろう。ローズは気を引き締める。
「マモンはとにかく恐ろしい相手よ。エクソシストでさえ味方につけて、凶悪な同胞殺しを生み出したこともある。……気を付けないと」
「そうだな。私たちも連携を強めないと。……っと、そろそろだな」
まだ大聖堂まで距離があるというのに、マーセは馬車を御者に止めさせた。大聖堂のふもと街ではあるが、まだ遠い。近くには大聖堂よりも控えめな王城も見える。欲とは無縁の王であるバルテン王がエヴァンジェルヒムの統治者だ。ウェイルズは、言わばこの国の副王的存在である。
「どうしたの?」
「行けよ、リュン。弟たちが心配するだろ」
という問いかけで、ローズマリーは思い出す。リュンには家族がいるのだ。まだ小さい弟や妹たちが。彼女は彼らを養うために退魔教会に所属した経緯がある。
「ごめんマーセ。いつもありがとう」
「いいって。報告に三人もいらないしな。今度、遊びに行くよ」
世話焼きのマーセに礼を言い、リュンは下車して雑踏の中に消えていった。動き出した馬車の中で、いつもって? とローズが訊く。
「ああ、あいつ言ってなかったのか。私は生憎悲しい悲しい独り身だから、あいつに援助してやってるんだよ。使い道ないしな」
「ああ……なるほど」
合いの手を打ちながら、寂しがる。困っていたなら相談してくれればよかったのに、と。
「そんな顔するなって。リュンはお前のことを心配してる。下手したら全額寄越しかねないから、お前には黙ってたんだよ」
「私も金はそこまで入り様じゃないもの。衣食住には困ってない」
祓魔師は悪魔とその眷属である魔獣、そして堕落者を祓えている限り、生活に困ることはない。壺娘も成果を発揮する限り武器と弾薬は提供してくれるので、祓い道具が不足する心配もない。それこそマーセの言う通り、報酬金は全部あげても問題ないのだが、マーセはそれが問題点だと指摘する。
「お前は無欲すぎるんだ。もう少し、自分のことに気を使えよ」
「だからエクソシズムに身を投じてるんじゃない。私は怪物を持つ者。堕落者と戦うことが、私の原始的欲求よ」
「ひねくれるなって。お前には違う道もある。自分じゃ気付いてないようだけどな、お前の笑顔は悲しいんだ。敵と戦ってる時、確かにお前は笑っていることが多い。でも、それは涙を隠すための笑みだよ。お前は堕落者に共感し共振して、心の中で泣いている」
色んな人間に散々言われたことなので、ローズは反論しなかった。ムキになって否定するのが恥ずかしいという気持ちもある。
なので、そっぽを向いて無言の抵抗を行った。
「いじけるなよ。私の話を聞け」
「聞いてるわ。左耳から入ってきて、右耳に抜けていくけどね」
やれやれ、とマーセが呆れる。我ながら子どもっぽいとは思うが、ローズは取り合わない。
しかし同時に懐かしい想いに駆られていた。まるで昔のようだ。子ども時代を思い出す……。
※※※
「この世の在り方は人間が思うよりずっと理不尽で、残酷です。世界には見えない敵が跋扈し、人々は恐怖に怯えて生きている。聞こえますか? 世界の悲鳴が。人々の嘆きが」
年老いた女講師の言葉を聞いて、幼いローズマリーは眼を瞑った。教会学校では、悪魔がどういう存在なのかを徹底的に教え込まれる。祓魔師になるかどうかの自由は与えられているが、世界の真実について学ぶことは必須項目だった。
不思議と声が聞こえる気がする。人々の嘆きや悲しみ、怒りが。とある一件以来、ローズマリーの共感性は異常な高まりを見せていた。ウェイルズと出会ったあの日から。
「聞こえるかよ、そんなもん」
粗暴な態度で一人の少女が漏らす。クラス一の問題児。それがマーセだった。教卓の上でふんぞり返り、あろうことか足を乗っけている。
隣の席のリュンがその態度を注意しようと何度か口を開けたが、結局彼女は声を発さなかった。
「感じるのです、人々の声なき声を。でなければ、悪魔に呑まれてしまうでしょう」
「悪魔なんか怖くない! 来たらぶん殴ってやる!」
マーセは威勢よく言うが、そう上手くはいかない、とローズは密かに思う。自分を救った恩人であるウェイルズはとても強かった。それほどの男が悪魔にてこずるということは、よほど強大な存在なのだ。
しかし、マーセは祓魔師の強さを目の当たりにしたことがないから、必然的に悪魔の強さも理解できない。
「退魔を行えるのは、専門的に訓練されたエクソシストのみです。彼らでなければ、殺されるか、堕落してしまう。何度も教えましたよ、マーセ」
「うるせえ!」
マーセはテーブルを叩くとリュンにどけ! と一喝してそのまま教室を出て行った。教師は嘆息して、今日の授業を締めくくる。
ローズは祈りの言葉を口にした後、リュンの元へ歩み寄った。リュンは震えている。マーセが怖いのだ。
「大丈夫? リュン」
「だ、大丈夫……です……」
人見知りの彼女は他人によそよそしい。しかし、日々のコミュニケーションの賜物か、ローズには心を開いてくれていた。マリア女医の教えをつつがなく実践した結果だ。どうやって人とわかり合うのか。マリアは対話の全てを教えてくれた。
「本当に? 必要なら――」
「大丈夫、大丈夫だから……」
青ざめたままリュンは教室を出ていく。その後ろ姿をローズはずっと見つめていた。
元々あまり仲の良くなかったローズマリーとマーセがぶつかり合ったのは、それから数日後のことだった。
偶然、ローズはマーセがリュンを恐喝している現場を目撃したのだ。正義感に溢れるローズはそこへ割って入り、必然、喧嘩が勃発した。庭園の中に怒声が響く。
「何すんだよ!」
「それはこっちのセリフ! 何してるの!」
幸か不幸か、ローズもマーセも腕っぷしが強かった。ローズはある出来事以来、自分の身は自分の手で守れるよう努力していたし、マーセも何らかのトレーニングを行っていることはその動きから容易に推測できた。
「生意気な奴!」
「このッ!」
ローズが殴れば、マーセも蹴りを返す。蹴りを与えれば殴りが飛ぶ。歳相応の少女とは思えない男らしい喧嘩に興じたところで、新しい声がそこに加わった。
その声を聞いて、二人とも止まる。呆然とした眼でローズは声の主を見上げた。
「何をしている」
「ウェイルズ……さん……」
「ローズマリー。来い」
ウェイルズが呼んだのはローズだけだった。茫然自失のままローズは彼の後を追う。
沈痛な面持ちを浮かべている。怒られてしまうという気持ちよりも、心の中に大きく居座っているのは見捨てられるのではないかという不安だ。
あの時と同じように、ウェイルズも自分を悪魔の子と糾弾し、捨てるのではないか。
そう疑心に囚われていたので、彼が自分を一喝した時、ローズは心の中で安堵していた。
「なぜ殴った。他に方法はあったはずだ」
「……マーセはリュンの物を奪おうと……。話が通じない相手もいます」
ローズマリーは今までの経験と教会学校で学んだことを踏まえて反論した。ウェイルズはその言葉自体には同意したが、今回のケースには当てはまらないとして叱責を続ける。
「そうだな。否定はしない。どうしようもない事案もある。暴力でねじ伏せるべき時がな。しかし今回は違う」
「相手が子どもだから、ですか」
ローズが訊くと、ウェイルズはマーセの個人情報を諳んじた。
「……マーセ・オルフェン。両親から度重なる虐待を受け他者を寄せ付けない性格に。警察が彼女を保護した時、彼女は過度の人間不信に陥っていたが、度重なる説得の末学校に入学。しかし、まだ改善するべき点は多々あり」
「だから、マーセの愚行を赦せ、と。でも、普通は」
「それはどこの普通だ、ローズ。子どもを使い捨てにするイギリスか? インディアンを虐殺し、奴隷を商品として使い倒すアメリカか? 他にはどの国を挙げて欲しい?」
こうなってはもうローズマリーとしては黙るしかない。口を閉ざして涙を目尻に浮かべていると、ウェイルズはハンカチを取り出してローズに渡した。
「過ちを力に変えろ、ローズマリー。重要なのは失敗から成功の秘訣を学ぶことだ。……何をするべきか、わかるな」
「マーセのところに行ってきます」
涙を拭った後、ハンカチを返した。ローズはマーセの元へと戻り、開口一番彼女に謝った。
さしものマーセも面を喰らう。すぐにふんぞり返って、謝罪を強要されたんだろ、と声を漏らす。
「違う。私の意思で謝ってる。……殴ったことに関しては」
「ってことはなんだ? 私の邪魔したことについては謝る気がないのか」
「ええ」
「テメエ……」
マーセはローズを睨んだが、ローズは怖じない。しばらく視線を交差して、マーセは諦めたように座り込んだ。
「わかった。お前は他の奴と違うようだな」
「普通の子とは違う、とはよく言われる。両親にも言われた」
「……っ」
マーセの目つきが変わった。ローズは淡々と独白を続けた。近くで蹲るリュンも興味を惹かれたように顔を上げる。
「私とあなたの境遇は似てるみたい。いい友達になれると思うわ。あなたが粗暴な態度を改めればね」
「何だと?」
「私は悪魔の子だって言われた。あなたは何て言われたの? マーセ」
ローズがマーセへ視線を注ぐ。マーセは驚いていたが、すぐに小さな笑みを浮かべた。
「お前、私の過去を聞いたな。けど、そのことを隠さなかったのは褒めてやる。いいぜ、お前が私の友達に値するかどうか審査してやる。まずはお前の過去を教えてもらおうか……」
その後、ローズマリーはマーセと、リュンとも思い出を共有した。最悪な過去ではあるが、後に親友とも呼べる存在と仲良くなるきっかけを作れた。過ちを力に変える。ローズはウェイルズの教えを実践し、かけがいのない親友を手に入れた。
「ねえ、聞いてるの?」
しばらく後、ローズがマーセの素行を注意した時のこと。
どうしても抜けきれない暴力性をローズが咎めると、マーセはひねくれた態度でこういった。
「聞いてるよ。左耳から入ってきて、右耳に抜けていくけどな」