祓魔を終えて
戦いは終わった。個人的な戦いが。
しかし、世界は変わり果ててしまった。否、世界が変わったのではない。祓魔師が変わったのだ。
歴史から、人々の記憶から、祓魔師と退魔教会は失われてしまった。
だが、それでも諦めはしない。それが祓魔術だ。
これがウェイルズの教え。しかし、揺らいでいないと言えば嘘となる。
「おはようございます、ローズ」
「壺娘」
起床し、狭い船室から船上へと出たローズマリーは壺娘と出会った。しかし、もはや彼女は壺に入っていない。のびのびと肢体を伸ばし、発育の良い身体を誇示しているようにも見える。
「壺に封印されるのは飽きたの」
「まぁ、そういうことにしといてください。今日はいい天気ですねぇ」
壺娘改めソロモンの配下であるヴィネは、気持ちよさそうに海風に当たっている。ローズは空を見上げて、いい天気だと同意する。
全てが、綺麗だ。人を呑み込む海も、気まぐれな大空も。
「でも、私たちの存在は無に帰した」
「おかしなことを言いますね、ローズ。あなたは今、ここにいるじゃないですか」
「……ええ」
相槌を打ちながらも、素直には喜べない。教会は崩壊し、後は祓魔師が僅かに残るだけ。古い約定は喪われ、他国への介入も支援も受けられなくなった。一から始めなくてはならない。まずは何に手を付けるべきか。
悩んだあげく、ローズは自室へと戻る。そして、託された武器を持ってきて、文字を刻み始めた。
借りは返す、と決意を刻む。自身では祓えないだろう悪魔へ向けて。
「これ、預かってもらえる?」
「古きエクソシストから、未来のハンターへの贈り物ですか?」
「ハンター?」
「いえ、こちらの話です」
ヴィネは含み笑いを浮かべながら、水平二連の散弾銃とコイン弾を受け取った。いつかマモンを祓ってくれる、別の怪物に向けての贈り物。ローズができる最大限の支援だった。後は、その継承者に託すしかない。それがどんな怪物だったとしても。願わくば、他者のために命を張れる、少なくとも張ろうと努力する、正義の味方のような存在がいい。心の底からローズは思った。自分のことは棚上げにして。
そこから派生して胸中を巡ったのは、自分自身についてだった。
「怪物、か。私は……」
ローズは複雑な思いに駆られて、船の縁に身を寄せる。そして、水面に自身の顔を投影させた。
自分が怪物であることは主観的にも客観的にもわかっている。だが、もう一つだけ、解消されていない疑問があった。
自分が悪魔の子であるか否か。その答えをまだ、ローズは見つけられていない。みんなは違うと言ってくれるが、自分では完全に否定しきれないのだ。しかし、否定して欲しがっている自分も確かに存在している……。
「羨ましい悩みですね、ローズ。せっかくの力ではないですか。堕落者の記憶を読み取る」
「教会が存続してるなら、それでもよかったんだけどね」
でも、教会は喪われてしまったから。
落胆するローズにヴィネは快活な笑みをみせた。なら、問題ないでしょう? そう口添えして。
「チャーチはまさに今、目の前にあるでしょう」
「ヴィネ」
「私はチャーチが存続している限り、約束に従って援助を続けますよ。この銃を未来の希望に託すのも、その支援の一つです。ヴィネ武器店ですからね」
「そう……ありがとう」
ローズは寂しげな笑みで、感謝を述べた。いいってことです。ヴィネは笑いながら水平二連を持って蒸気船の中に戻っていく。
ローズは再び海を見下ろした。私とは、一体何なのか。解消されない疑問を頭にもたげながら。
※※※
「この地にいずれ現れる怪物に、お前は興味を示しているのか」
「今は、違う。私の怪物に、興味を持っている」
「退魔の花」
「そうね。ローズマリー」
リリンはテーブルの反対側に座る男に説明した。自身が焦がれる怪物のことを。
彼女はやはり気付かないまま、戦いを終えた。怪物同士の戦いに終止符を打ち、これからはまた祓魔師として祓魔を続けるのだろう。それが宿命だからだ。そう作るのには苦労させられた。
丹精込めて作った怪物。悪魔の子。
「しかしお前のやり方は……好ましくないな」
「そうかしら。まぁ、天然物より見劣りするのは確かね。情も出てしまうし」
少々失敗してしまったきらいはある。彼女を美しく創り過ぎた。純潔な少女は、見ているだけで心をときめかせ、リリンを欲情させてくるのだ。
流石、私の娘ね。リリンはほくそ笑む。
「血を分けた子どもだもの。赤の他人とは対応の仕方も変わってくるわ」
「子どもを教育するために、怪物を嗾けたのか?」
「まさか。敵がいなくなっては困るでしょう? 世界がつまらなくなってしまうもの」
「我が友を裏切る気か」
「マモンを? いやいや。彼はとっても愉快だもの」
微笑むリリン。しばらくして、その笑顔は道化師のような格好をする男に伝染した。
「ファウスト君のような怪物を見つけるのは実に大変だ。マモンもようやく理解したことだろう。彼は、自分の怪物を創造するために世界を混沌に陥れることにした。フランス革命のよりももっと大規模な嵐でね」
「その最中に怪物が生まれると、あなたは思っているんでしょう? あなたが拠点とする、ドイツに」
「今度現れる怪物は、ナポレオンよりも残虐で過激な男だとは思わないかね」
「例えばユダヤ人を虐殺したり?」
「それはどうかな。では、私はすべきことがあるのでね」
「ええ……メフィストフェレス」
男――メフィストは消えた。残されたリリンはハーブティーを呑む。
ローズマリーのお茶だった。じっくりと味わいながら、回収した本を読み始める。
新しい可能性に期待を膨らませながら。
※※※
鬱蒼とした森の中に、突如出現した異物。金であしらわれた空間の中で、一人の男が考え事をしている。
マモンは見繕った島の中心部に座りながら思案に耽っていた。金貨を弄びながら。
「コンバットスーツを作るのは良いアイデアだ。エクソシストの戦い方を見て思った。異形の存在と戦うためには、空間を縦横無尽に動き回らなければならない。だが、人間は脆い。攻撃を避けても、転落死してしまったら味気ない。事故死は……つまらないからね」
「はい、マスター」
部屋の片隅で待機していた少女が首肯する。が、マモンは落胆の眼差しを彼女に注いだ。
「ネフィリム……。ああ、シュタインは優れていた」
最後は主を庇って死んだ。これぞまさにマモンが求める反抗だ。いつの日も、マモンは人間を手なずけてきた。金は人の心をいとも簡単に制御する。幾人もの人間を堕落させた。祓魔師でさえも。
だが、それではつまらないのだ。それを楽しいと感じられるのは短命で弱い人間だけだろう。
悪魔は、強すぎる。これでは生き地獄ではないか。まだ地獄の方が楽しいというものだ。
「だから、僕は僕にふさわしい怪物を作るんだ。……銀の武器、か」
マモンは口元に手を当てて祓魔師の伝統武器に思いを馳せる。銀物質は悪魔とその眷属に効果が高いことで知られている。ずっと、脅威を感じたことはなかったが、思えば、初めてローズマリーは自身を殺す術を手に入れていた。否、結果としてマモンが自分でバラまいたのだ。自分を殺すための道具、金貨を。
「素晴らしい。与えればいいのか。金ではなく、殺すための道具を」
浮かんだ案に満足したマモンは指を鳴らしてテーブルに退魔道具を構築する。
銀の、腕。対悪魔用の義手だった。
「会社の構想はもうできている。後は、世界大戦を二度ほど起こし、マステマからゲートを簒奪し、相応しい怪物を見つければいい。……君たちに、見つけてもらうとするかな」
「ご命令とあらば」
ネフィリムが頭を下げる。そのつまらない従順さも、今だけは許容できた。
※※※
蒸気船の旅はそこまで長く続かなかった。
海は人を呑み込んでしまうほどには恐ろしい。ただでさえ疲弊している祓魔師とエヴァンジェルヒムの避難民をずっと海の上にいさせるわけにはいかなかった。
よって、まずはローズが見知った外国であるイギリスに立ち寄った。テムズ川に寄港し、休息を取り、今後の方針を考える。全ては自分に委ねられていた。相談できる相手もいない。
かつてはいたが、死んでしまった。自分で祓ってしまった。
「……」
黙しながら、数多の蒸気船が航行する航路を見つめる。ロンドンの日常風景の一端だ。
知り合いに会うことも考えたが、覚えているかは定かではないので止めた。世界は平常に回っているが、自分たちだけが切り取られたかのような疎外感を覚える。
「不可思議な格好をしているね」
急に男に声を掛けられて、ローズは顔を上げた。その男には見覚えがあったが、どうせ記憶は喪われているだろう。そうですね、と適当に同意した。
「戦士の装束だ。だが、疲れ果てている」
「ええ」
あしらうローズに気付かないのか、男は中腰になってローズの横に座った。蒸気船が汽笛を鳴らす音が聞こえてくる。街からは喧しい人々の雑踏も。しかし、誰もローズには気を留めない。
だが、男は違った。知的な風貌をする男はローズと同じ景色を眺めている。
「戦士にも、休息は必要だ」
「わかってる」
言われなくてもわかってる。だが、男はそんなローズの心を見透かしたように話を続ける。
「正直なところ、私はあまり女性が好きではない。男色家というわけではなく、女性は信用できないからだ」
「そう」
無関心を装うが、恐らく彼には露見しているだろう。もし本気を出せば、しようもない駆け引きに興じることもできただろうが、ローズは疲れていた。本当のところ、誰かと会話する気分でもない。そして彼はそれを一瞬で見抜いた上でわざと語り掛けているのだ。
「だが、君は聡明で、優れた戦士、専門家でもある。私は殺人事件の専門家で、未知なる脅威には対抗できない。だから、君の助けが必要なのだ。エクソシストのね」
「あなた……!」
「そう驚くべきことでもない。君の反応を見れば、私たちが既知の間柄であったことが窺える。だが、私は覚えていない。おかしなことだ。記憶力には自信がある。特に君のような女性を見れば、忘れることなどありえない。とするとだ。一見荒唐無稽な推理だが、何らかの超常現象が私に影響を与え、記憶を消去したと考えれば辻褄が合う」
「でも、それは……」
動揺するローズの前で男が立ち上がった。インバネスコートを羽織る鹿撃ち帽を被った男は笑みをみせる。
「不可能を消去し、例えそれがどれだけ奇妙なことだとしても、最後に残ったものが真実となる。推理の基本だよ、ローズマリー君」
「ま、待って!」
しかし男は待たない。停車していた馬車に乗ると、相棒に声を掛けた。
「では、ベイカーストリートへ」
馬車はベイカー街へと走り去っていく。ローズは呆然としてその姿を見送った後、再びロンドンの街を見渡した。
――私たちは、世界の理から締め出された。誰も私たちのことを覚えてない。
ならば、思い出させればいい。世界は悪魔の箱庭で、私は悪魔を祓う祓魔師だと。
方針が定まったローズは、祓魔師の残党が集うささやかな教会へと足を運んだ。その足取りに、迷いは微塵も残されていなかった。
※※※
一八八八年。ロンドンを恐怖が支配していた。猟奇的な連続殺人が起きたのだ。被害者は全員が女性で、売春婦である。既に五人が同一犯によって殺されたとされているが、まだ発見されていないだけで他にも被害者はいるかもしれない。
アバーライン警部補は警察署の一室で、新聞を読みながら頭を抱えていた。優秀な警察隊を動員しても犯人は捕まる気配が見えない。もはや人間の手を超えた力で犯罪を成しているようにしか思えなかった。
しかも最悪なことに、ロンドン一の探偵に調査を依頼したところ、早々に自分の管轄外だなどという返答が返ってきた。一体どういうことなのか。彼は殺人事件の専門家であるはずなのに。
これは暗に、ただの殺人事件ではないというメッセージなのか。いや、そうではあるまい。これは明らかに人間の手が加わった殺人事件だ。臓器を摘出された被害者の遺体はとてもじゃないが見るに堪えない状態だった。
アバーラインが苦悩していると、突然窓が叩かれるような音がして、目を見やる。
奇妙だった。そちらにはバルコニーはない。鳥でも窓を小突いているのかと近づくと、
「堕落者――切り裂きジャックは始末した」
「何っ!?」
背後から声がして、振り返る。黒衣に身を包んだ金髪の少女は、一方的に意見を突きつけると、そのまま別の窓から身を投げた。
「待て……エクソシスト!!」
投身自殺でもしたのかと慌てて窓の下へ目を落とす。だが、彼女は忽然と姿を消していた。
「今、私はエクソシストと呼んだか……?」
呆然と呟くアバーラインの部屋に、騒動を聞きつけた部下たちが集まってくる。彼はただ、一言部下たちに告げた。
「切り裂きジャック事件は解決した。もう市民が不安に脅かされることはない」
※※※
(世界には堕落者が溢れている。きっとこれからはもっと数を増やすだろう。世界を巻き込む戦争が起きるから。それも、一度じゃない。二度も、起きるから)
その頃までに自分が生きているかは定かではない。一度目の戦争もだいぶ後になるだろうし、その時にはもう年老いている。……そのはずだ。
ローズは未来へ思いを馳せながらロンドンの街を歩き進めていた。街並みは本質的には変わっていないが、細部は変わっている。これからもずっと変化をするのだろう。
馬車が奔るストリートには、今開発されているという新しい乗り物が往来することになる。未開の地であった空には、気球に改良を加えた乗り物や、それよりももっと自由に大空を羽ばたける鳥のような機械が出てくるに違いない。
そして、その人類を発展させるための機械たちが、より戦争を発展させるのだ。多くの人間が死に、多くの堕落者が生まれる。
祓魔師と教会に明確な線引きは消え失せた。文字通り何もない自分たち祓魔師は、以前よりもより多くの困難と、より多い自由を手にすることになった。
苦難は多い。しかし、自由に振る舞える。拠点がないのだから、責任を追及される謂われはないからだ。だが、その代わりにあらゆる問題は自分で対処しなければならない。後ろ盾はない。下がる場所も存在しない。
だから、不屈の闘志であらゆる敵と戦っていく。例えどんな結果になろうとも。
(もし、私が)
ローズは立ち止まって自分の手を見下ろした。人間の手だ。しかし、怪物の手であり、もしかすると悪魔の子でもあるかもしれない。怪物を創るには、何かを待つのではなく自分の手で作り出すのが早い。
あの探偵が言ったように、一見すると荒唐無稽な推理でも、それしかないのなら結論はそうなるのだ。
――私はリリンが創った怪物で、悪魔の子なのだ。
リリンは淫魔の姫のような存在だ。リリスの娘。可能性が大好きな悪魔。
彼女が細工すれば、自分の母親を無自覚に孕ますことも可能なはずだ。そうして生まれたローズは、最初から怪物だった。
悪魔の子に祓魔の花などという名前が付くとは、一体どういう皮肉なのか。
(でも、今はそれでいい)
教会は存続しているから、何も問題はない。むしろ好都合かもしれない。
この力を使えば、堕落者相手に有利に運べる。例え悪魔相手にだって遅れは取らないだろう。
だから、それでいい。悪魔の子でも。怪物だとしても。
「貴族のお姉さん、お恵み下さいな」
突然声を掛けられる。声の主は貧困にあえぐ子どもだった。ローズは青い瞳でその子どもを見返すと、首を横に振って否定する。
「私は貴族じゃない」
「じゃあ、何? 何なの?」
子どもは無邪気に訊ねてくる。丁度、ローズが思索を続けていた質問を。
ローズは微笑みながら、質問者に回答した。
「私はローズマリー。教会に所属するエクソシストよ」
子どもは首を傾げる。それもそうだ。祓魔師と名乗るには、ローズの格好は奇妙過ぎる。
女でありながら男物の衣装、牧師や神父に似た服装をしている。崩壊という名のレバーアクションライフルは背負っていないが、服の中にはナイフと純潔という名前のリボルバーが仕舞われている。
だが、それでも自分は自分。私は私。ローズマリーはローズマリーだった。
怪物で、悪魔の子である前に、祓魔師だった。
「エクソシストって何?」
「悪魔祓い」
「悪魔? じゃあ、みんなを悪魔から守ってくれるの?」
「どうかな。私が手を下す時は、いつも手遅れだから。でも、私は諦めない」
ローズはポケットから紙幣を取り出して手渡した。
「ありがとう、エクソシスト様」
「教会を頼りなさい。リリスに……リリンに魅入られるその前に」
ローズマリーは忠告を述べると、強い足取りで進んでいく。
ロンドンの街中へと。悪魔の箱庭へと。
悪魔祓いを続けるために。