救済のために
――君がもし友人を大切だと思うのならば、ひとりで来たまえ。
差出人不明の手紙にはそんな短文と指定座標が記されてあった。ゆえにマーセは約束を律義に守り、目的地へと向かっている。
全ては友のためだったが、彼女はきっと恨むだろう。嫌われてしまうかもしれない。
でも、それでいい。それで友が救えるのならば。
(ローズには借りがある。大きな借りが)
ローズマリーのおかげで、マーセは真っ当に生きることができた。シスターや神父たちは皆マーセのことを考えてはいてくれたが、自分と似た境遇の、いやもっと酷い目に合った彼女がいたからこそ、マーセは更生することができた。感謝してもしきれない。もっとも、彼女は違うと即座に否定するだろうが。
「……ははっ」
まだ会敵すらしていないのに、たくさんの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡っている。死期を悟り達観しているような気分だ。実際に、死を覚悟してここに来た。これは罠である。しかもマーセを倒すことが目的ではない。
ローズマリーを狩るための罠なのだ。ローズはいろいろ口ではひねくれたことを言っているが、本質的には優しい奴だ。そんな可憐な、綺麗なローズの心を敵は黒く染めようとしている。そんなことはとてもじゃないが許容できない。
赦せない。どうしても。私の親友を狙うなら、一切の容赦はしない。
「遅いな……」
街外れの空き地に着いたマーセは、予定時刻を過ぎても現れない敵に苛立ちを募らせる。友が偶発的事項によって約束に遅刻するならば容認しよう。しかし敵の遅刻にはほんの僅かにも同情心は芽生えない。
或いはマーセを振り回すこと自体が目的なのか。マーセが別の可能性を考慮しようとしたその時だ。
「何……!!」
街の中心部で、火の手が上がっていることに気付いたのは。
※※※
「お前はいつもエクソシズムだな」
マーセは頬杖をついてつまらなそうに呟く。彼女の表情には退屈という文字が全面に渡って張り付いているが、ローズマリーはそれでいいと考えていた。つまるつまらないの問題ではない。これは自分が学ぶべきことであり、人生の命題でもある。
――私の運命は悪魔に狂わされた。直接的でなくとも、間接的に。だから祓魔師見習いになれた時、心底安堵したものだ。
なのに、同じように立候補したマーセは、祓魔学の勉強を疎かにして、真剣に学習しているローズの邪魔をしようとしてくる。勉強する気ないならあっちに行って。ローズは軽くあしらった。
「つれない奴だな。ただお前を見てるだけだぞ」
「気が散るから止めて」
「自意識過剰な奴だな」
「それとは違うでしょ」
ローズは嘆息して本を閉じる。図書室から別の場所へ移動しようと立ち上がる。するとマーセも我が物顔でついてくた。ついて来ないで、と邪険にしても全く彼女は聞く耳を持たない。私たちは友達だろ? などと言ってくるが、友達だから何でも許すというわけでもない。
「邪魔しないで」
「邪魔はしてない」
「してる」
「してない」
「……もういいわ」
根負けしたローズは庭のベンチに座って、本を隣に置いた。それでいいのさ、とマーセはしたり顔を浮かべる。
「お前は勉強のし過ぎだ。みんなこんなに勉強してないぞ」
「私はみんなとは違う」
「やっぱり自意識過剰だ」
「そういう意味じゃない。私は……化け物。怪物よ」
「自分を怪物と思ってる奴は怪物なんて言わないぞ」
「何とでも言いなさい。私は普通じゃない。だから、みんなとは違うの」
「強情な奴め」
「あなたに言われたくない」
ローズは呆れる。マーセとの会話はいつもこんな感じだ。二人だけで過ごすと、どうでもいい言い合いとなってしまう。なので、いつもは間にリュンがいた。だが今日は偶然リュンがいない。仲介役がいないので、ローズは勉学の邪魔をされっ放しだ。
だが、心のどこかで喜んでいる自分に気が付いている。誰かとどうでもいい諍いをすること。行為を妨害されること。本来なら不満を抱くはずの事象に、ローズは幸福を感じている。
一人だったらこんなことはまず起きない。スムーズに事は進み、黙々と勉強に打ち込んで一人前の祓魔師となり、悪魔を祓って祓って祓って、後は怪物らしく果てるのみだ。
その邪魔が、妨害が嬉しい。自分でも少し変だと思うのだが、それでも心の動きにローズは抗うことができなかった。他人から見れば奇妙でも、ローズにとっては正常だ。例え疎ましくても、面倒に想っても、誰かが傍にいるというだけでローズは幸せだった。
「お前は美人なんだ。陰でいろいろ言われてるんだぞ」
「陰口とは感心しないわね」
「それが悪口ならな。だが、残念なことに全部褒め言葉だ。そりゃあお前を不気味がってる奴は何人かいるよ。だが、お前は不思議な奴だ。自然とみんなを手助けしてる」
「自分の目的のために動いてるだけよ」
確かに偶然が重なって、クラスメイトの手伝いをしたことがままある。重い荷物を持っていた子に手を貸したり、用事があって当番の子の代わりに花に水をやったり。そういう些細なことの積み重ねが祓魔師になるための最短の道のりだとローズは思っているから、そのことを誇ったり、自慢するつもりはない。
だったらなおさらだな、とマーセ。彼女はなぜか得意げだった。
「お前は間違いなくいい奴だよ。心優しいいい奴だ」
「私はいい奴なんかじゃない」
「いいや、いい奴だ」
「だから――まぁ、もういいわ。勝手にそう呼びなさい」
「ああ、そうさせてもらう、ローズ。お前は、本当にいい奴で、私の親友だよ」
マーセは誇らしげに恥ずかしいことを臆面なく言い放つ。ローズは苦笑して、鬱陶しくも幸せな時間を満喫した。
※※※
「――マーセ」
目覚めた直後、ローズは親友の名を呼んだ。しかし応じたのはもう一人の親友だ。
リュンは申し訳なさそうな顔でローズを見下ろしている。
「ごめんなさい、ローズ」
「マーセは、どこ」
ローズは冷静な声でリュンに訊く。リュンは逡巡して押し黙った。
責めるに責められない複雑な状況だ。リュンもまたローズを案じてマーセと共謀したのだ。
それでもマーセの居場所を聞き出さなければならない。ローズは椅子に座るリュンへ語調を強めて質問する。
「マーセはどこ!」
「私は……私も、マーセが心配」
リュンは答えをはぐらかした。だったら、とローズも負けじと続ける。
「だったら、マーセの居場所を教えて」
「でも、あなたも大切なのよ、ローズ。あなたは私の、私たちの親友」
「だから教えて! マーセは私の親友でもあるのよ!!」
ローズはリュンに詰問する。マーセの命が脅かされている。一刻も早く彼女の救援に向かわなければならない。マーセがわざわざローズに睡眠薬を盛ったのは、単独で来ることが条件だったからに違いない。誰一人同行者を連れていないはずだ。その状況はまずい。敵は的確に弱点を衝いてくる。マーセは強いが、弱点もあるのだ。最悪の予想がローズの頭に燻って離れない。
「リュン、お願い!」
怪物は唸っている。マーセの堕とし方が手に取るようにわかるのだ。既に予想は導き出されているが、裏が欲しい。今度ばかりは推理間違いでは済まされない。バルテン王とミラ王女の時は既に故人だったが、こちらはまだ防げる。救える可能性が残されているのだ。
「マーセ……マーセは……」
リュンは目を泳がせながらゆっくりと告白する。咎人が罪を懺悔するかのような仕草だった。
「――っ!」
その場所を聞いたローズは、急いで部屋を駆け出す。大聖堂の外に停車していた馬車を強引に借りて、目的地へと飛ばした。
なぜか馬車の中にはローズの装備が置かれていた。全て計画通りのように。
「マーセ!!」
だとしても、悪魔の思い通りにはさせない。例え無駄足に終わるとしても。
街の郊外に向かうローズは道中、マーセと散歩した通りを抜けて、敵が示した場所へと接近した。残像が脳裏を掠る。面倒くさがってマーセとまともに会話しようともしない自分。その自分本位さに嫌気が差す。もっとマーセときちんと向き合うべきだった。そうすれば異変にも気が付いたはずだ。
「くそっ!」
自分自身に毒づきながら、馬車を猛スピードで走らせる。親友の異変には察知できなかったというのに、敵の臭いはすぐ嗅ぎ付けた。というより、誰でも異常事態を実感できるだろう。有り得ない出来事が街中で起きている。人々は逃げ惑い、或いは不安に駆られて肩を寄せ合っている。街には警鐘が鳴り響いて、警察や市民、祓魔師などの区別なく消火活動にあたっている者たちもいた。
ローズは馬車を降りて、呆然と呟く。火災元と思われる個所を見つめて。
「孤児院が……」
昼間訪れた孤児院は、煌々と燃え盛っていた。炎の勢いは猛烈で、水を掛けたところで鎮火する気配が見えない。否、何をしたところで火は消えないだろう。原因を祓うこと以外では。
ローズは崩壊を荷台から取り出して、炎上する孤児院に接近する。以前は屋敷に住まう堕落者を外に出すために意図的に放火した。その時とは炎の熱量がまるで違う。明らかに人外の力が加わっている。止める声を無視しながら、ローズは孤児院の敷地内へ足を踏み入れた。
「みんな」
ローズが呼びかける。だが、あの活発な子どもたちは誰一人として姿を見せない。いや、いた。最初からそこに転がっていた。少女らしき丸子げの遺体を発見。首はなぜか斬り落とされている。鮮やかな太刀筋。
マーセの剣筋だった。一切の苦痛なく少女は絶命することができただろう。
もしくは、苦痛から逃れさせるために首を切り落とした。
「……マーセ」
ローズは小さな声で呼ぶ。友の名を。しかし友は答えない。炎は熱いが、なぜかローズを襲うことはなかった。招かれているのだ。施設の中に。ローズは不自然に火が移っていない扉を押して中に入る。
そして、たくさんの焼死体を目の当たりにした。どれも見覚えがある気がするが、確信を持てない。顔を忘れてしまったという意味ではなく、どの遺体も首から上がないのだ。
「ごめんな、ごめん……」
マーセの謝罪の声が聞こえてくる。ローズはゆっくりとその声の元へ進み、小部屋へと進入した。部屋にはマーセが背中を向けて立っている。何かを見下ろしていた。これまた焼死体。首のない遺体だった。
「私が迂闊だったよ、ローズ。本当に、悪い」
マーセはこちらに顔を向けない。そしてローズも銃を下ろさなかった。
「平気だと言って、マーセ」
「そいつは無理だ。私はもう……手遅れだ」
「そんなこと、ない。まだ、間に合う……」
何を言っているのだろう、と疑問に思う。他ならぬローズ自身が気付いている。自分の質問の無意味さにローズは疑問を呈せざるを得ない。
「まんまと、してやられた。私は、私は奴の予想通りに――」
マーセがゆっくりと顔を向ける。顔は半分焼け爛れていた。身体のあちこちに火傷の跡が窺える。かつての親友の面影は残っていない。右手に持つ剣は血で真っ赤に染まり、発熱している。
「堕落させられてしまった。私は敵だ、ローズ。……殺してくれ。自分で後始末をできればいいんだが、無理そうだ。私は……ふざけたことに、お前を殺すことが救済だと思っているみたいだ。これ以上苦しむのなら、いっそのこと自分の手で。ああ、情けない。我ながら、ほんと情けない」
マーセは理性的ながらも右手はローズを切りたくて暴れ出そうとしている。それを彼女は左手で強引に抑えつけていた。剣が左手の平を浅く斬っている。
「そんなことない。マーセ、あなたは情けなくない」
「私も他人事だったら、そう言っただろうが」
マーセの言葉から知性が抜け始める。瞳にほんのりと宿っていた光が消え去ろうとしている。
「スマン、ローズ、わタしは、モウ」
「マーセ!!」
マーセが左腕を剣で叩き切った。瞬時に左手が生える。炎の左腕だ。燃え盛る腕でローズは太刀の柄を握る。そして、勢いよく抜刀した。
「私ハ、お前ヲ、救ウ。シンユウ、ダカラ」
「私もよ、マーセ。私もあなたを、救う」
ローズは躊躇いなくレバーを動かす。泣き叫ぶ心を黙殺して、全く意に介さない怪物に従い引き金を引く。
※※※
「トモダチを大切にするのは良いことよ。実に、良いこと。美しき友情は見てて惚れ惚れする」
悪魔少女は声を出した。独白のような、しかし他者に向けて語り掛けた言葉を。
瞬間、空間が歪んで一人の男が表出する。彼は不自然なほどに周辺と同化していた。完璧すぎるカモフラージュ。まさに狩人としての神業だ。
しかし彼は神ではないと少女は知っている。その真逆の存在であると。
「悪趣味だと言っておこう」
「うふふ、あなたは相変わらずね。本当に同類だとは思えない」
「異質さで言えば、お前も同じはずだ。……俺はこういう手合いは好まん」
「そうね、あなたは……あなたたちはそうね。でも、あなた以外の存在はほとんどが快楽的理由なのに、あなたはそう……修行僧のような思想を持っている。見た目こそ、ハンター以外の何物でもないのに」
「くだらないおしゃべりは止せ。俺は彼女の命令に従っている」
男は会話を楽しもうとしない。だとしても悪魔少女は気にせずに、狩猟用コートを着込む男へ話し続ける。
「序列順に並べれば、彼女の方が格下ではなくて?」
「そんな些細なことを気にするのは人間だけだ」
「ふふ、そうね。所詮は序列も人が考えついたもの。人は私たちを理解した気でいる。実際には、一端すらも把握できていないのに」
「だが、彼らは尽力している。俺はその姿に感銘を受けた」
「なら、彼女を助ける?」
「不要だ。独力で対処できる」
気遣うようで淡白な彼の返答に少女は笑った。男は身じろぎもしない。
「酷いわね、あなた」
「奴ほどではない。お前ほどでも」
「私が酷い? 私は知識と力を授けたの。彼女は気付いていないけど。私との関係性を誤解している。他人よりももっと近しい距離にいるのに、彼女は私を理解しようとしない。でも、だからこそ私は気持ちいいの」
少女は恍惚とした表情となる。彼女はいつ気付くだろうか。きっとずっと後のことだろう。徐々に違和感を感じ始めて、そしてやっと理解が追いつく。だが、それを愉しむのはだいぶ後だ。計画が終わった後、嵐が吹き荒れる最中だろう。
だから、少女としてはここで彼女が斃れるのは不本意だ。そう思いながらも、支援はしない。いや、求めればするが、きっと彼女は求めない。怪物だから。
「その本、何の書物? 小さな鍵?」
少女は男が手に持つ本について訊ねた。男は本へ目線を落とし応答する。
「大奥義書だ。彼女が使って俺を呼び出した」
「道理であなたがここにいるわけね。不干渉を決め込んでいるはずのあなたが」
「古い約定に従ったまでのこと。あのお方はお前たちの所業に憤りを感じている」
「私に怒っても仕方ないわ。そして彼に怒ったところで無駄。むしろ彼の方があなたたちが崇拝する王に怒りを感じているのではないかしら」
「それは無駄だ」
「でしょう? なら、くだらないおしゃべりはしないことね」
男を言い負かした少女は微笑して、再び闘技場へ視線を移す。
怪物とその友人が死闘を繰り広げる孤児院へ。
※※※
銃撃はマーセの大剣と太刀のセットで阻まれる。二発も撃てば、他の堕落者と同じく工夫を重ねて対処するべき事案だとわかった。
「無駄ダ、ローズ。無駄ナンダ……」
「無駄かどうか決めるのは私よ」
強気に応じながらも現状の装備で正面から戦うのは難しい。そして、跳弾も効きはしないだろう。マーセはローズマリーの戦い方を知っている。いや、ローズの全てを彼女は既知なのだ。従来の祓魔術では対応できない。そして、前以て倒し方を構築しているはずもない。マーセの堕落など想定外だった。
いや――心のどこかでそうなるような予感はしていた。睡眠薬を盛られた時、ローズもマーセも薄々勘付いていたのだ。もうまともに再会することは叶わない。以前のようにくだらないおしゃべりを交わすこともないと。
「…………」
「死……死ハ、救イナンダ、ローズ……」
「そうかもしれない」
ローズは堕落したマーセの言葉に同調する。純粋に、一理あると感心した。
そうとも、死は救済だ。だからこそ、ローズはマーセを祓わなければならない。
今まで祓った人たちと同じように、内側に潜む怪物を使って。
「……ッ!」
早速ローズは銃口をマーセから――手近な柱へと変えた。燃え盛る柱は非常に脆くなっている。適正な個所を撃ち抜けば、いとも簡単に崩壊させられた。柱が折れて、マーセに倒れる。マーセは予期しなかった柱の倒壊に対応し、両手の武器で柱を両断する。直後、グ、という小さな呻きと鮮血。ローズは純潔でマーセの腹部に風穴を開けた。
「痛イ……」
「そうね、私も痛い」
心がとても。しかし身体は正常に動作する。マーセは止血もせずにゆっくりと近づいてくる。再びライフルを柱へ向けたが、マーセは柱を守るように立ち塞がった。しかし想定内。ローズは右手でライフルをスピンコック射撃しながら、左手のリボルバーを跳弾させて柱に衝撃を与えていく。
バキリ、という異音がローズの射撃が精巧だったことを通達。マーセは大剣で切り払ったが、その隙をローズはライフルとリボルバーの同時射撃でマーセを撃ち抜く。太刀はライフル弾を防いだが、リボルバーの銀弾を捉えきれない。再度出血。だが、マーセは止まらない。
「無理ダ。私ハ倒セナイ」
「あなたはそんなにネガティブじゃなかった」
いつもローズを勇気づけてくれた。――ローズ自身に危害が加わることを除いては。
今の反応はローズを気遣う時のマーセのものだった。マーセはいつも大げさだ。私は平気と言っても、まるで保護者のようにローズのことを再三心配してくる。不要だ無用だと言っているのに、ローズの心の中に押し入って、独自の理論で説教してくるのだ。
本当に騒々しかった。ありがた迷惑だった。だけど、とても嬉しかった。
「いつも言ってるでしょ。余計なお世話、お節介だって」
「モウ苦シマナクテイイ。イインダ、ローズ」
「断る」
ローズは歩み寄るマーセから距離を取って、今度は明後日の方に銃弾を穿つ。銀弾は跳ね回りローズの後方へと命中して弾が切れた。継承を取り出して、マーセに向かって迎撃するが、容易く切り裂かれる。後ろへと下がり、もう後がないと悟ったローズは、あえてマーセに接近し、レイピアを使って格闘戦を挑んだ。だが、ローズとマーセなら、マーセの方が格闘術に関しては上だ。あえなくレイピアは弧を描き、しかしローズはステップを踏んでマーセの脇を通り抜ける。服が裂けたが、気にしない。
「次ハ、ナイ」
「そうね、次は避けられそうにない。私とあなたが喧嘩したら、お互いにただでは済まないもの」
小さい時ならいざ知らず、今本気で喧嘩したらどちらも無事では済まないだろう。それほどまでにローズとマーセは強くなった。お互いに。
だが……今のローズとマーセでは、結果は変わる。
「でも、今のあなたは弱い」
「……?」
「とても弱いわ、マーセ。昔のあなたとの戦いは避けるべきものだった。でも今のあなたとの戦いは、違う。……私は無事に済んで、あなたは負けるのよ」
ローズの発言をマーセはきょとんとして聞いている。理解が及ばないのだろう。もはやかつてのマーセの知性は完全に失われてしまった。強大な力を手にしたせいで、迂闊になった。周囲の状況が頭に入っていない。以前のマーセなら確実に気付けたであろう不自然な歪みを。
だからローズは気付かせてあげた。部屋を支えている柱、その最後の一本へロープピストルを放つ。
「柱を失ったら天井はどうなる!」
「……ッ!!」
ロープに引き寄せられて、天井が落ちてくる。瞬間、ローズは窓から外へと躍り出た。天井が抜けて孤児院の二階部分がマーセを襲う。轟音と共に崩れた小部屋を窓の外から一瞥して、燃え盛る炎を確認。瓦礫を吹き飛ばし、マーセは崩落でぐにゃりと歪んだ窓ごと部屋の壁を叩き切る。しかし、満身創痍だった。右腕はなくなり、太刀を喪失。炎でできた両腕で大剣をしかと握りしめる。
「マダ、終ワッテナイ……マダ、オマエヲ、救ッテナイ……」
「余計なお世話。……もういいのよ。あなたの気持ちは十分に受け取った」
ローズはマーセを案じる。もう十分なのだ。もうたくさん苦しんだ。炎の中で火傷を負って、子どもたちを苦しめないために始末して。
これ以上苦痛を味わう必要はない。もう、いいのだ。
「休んで――マーセ!」
ローズは継承を放ちながらマーセに切迫する。好機だと誤解したマーセが大剣を縦に放つ。それをローズは紙一重で回転しながら避けて、左手のロープピストルをマーセの後方、瓦礫の山へと撃つ。今一度マーセの眼前へあえて移動して、彼女の斬撃を誘った。後ろに下がって避けるが、今度は服だけでなく肉も斬られる。血が迸る。痛みを感じるが……彼女ほどではない。
「もう、いいから。もう、いいから……」
急にローズは立ち止まる。諦めたように。その明確な隙をマーセは見逃さず、ローズを首を刎ねようとした。救済するために。
そしてローズもまた、マーセを救うためにロープを収納する。巻き取った、太刀といっしょに。
「グゥッ!!」
「……ッ」
マーセの身体を貫通した太刀は、勢い余ってローズの右胸を浅く貫いた。だが、だとしても痛くない。それよりも強い痛みが身体中を這い回っている。
マーセは膝をつき、理性を取り戻した瞳でローズを見上げた。
「痛いか、ローズ……」
「痛いわ。どうしようもなく。どうしてくれるのよ」
と泣きごとのように語るも、ローズの表情は先程と変わらない。平常のままだ。
だというのに、マーセは違うものを見たように、憐みの表情となった。
「そんな泣きそうな顔するなよ……ローズ。私は……私が、悪かったから」
「いいえ、マーセ。あなたは悪くない。悪いのは……」
「ああ、他人事だったら、同じことを言った……すまない、ローズマリー……ありが、と」
それがマーセの最後の言葉だった。ゆらりと揺れたマーセの身体がローズの前で倒れ始めた。
※※※
「何で孤児院が燃えてるっ!」
マーセは蒼白となりながらも身体に喝を入れて、孤児院の中へと突入した。はめられた。理解しながらも、まずは子どもを救うために駆ける。助けて、お姉ちゃん! 少女の声がして、マーセはまず声の元へ向かった。
そして、燃えている子どもを目の当たりにする。慌てて火を消そうとして火傷を厭わずに手で払おうとするが、火は消えない。不自然な、異常な炎だった。子どもは身体半分が炭となっているのに、火は消えず、また命の灯も尽きることはない。
同じような悲鳴が辺りから聞こえてきた。皆、大火傷……いや、致命傷を負っている。なのに全員生きている。生かされているのだ。マーセを堕とすために。
「止めろっ!!」
いるであろう黒幕に叫びながら、マーセはどうにかして火を消そうと足掻く。だが、何をしても無駄だった。終いには、殺してと懇願される。ころしてころして。わたしをころしてお姉ちゃん! ぼくを、おれを、その剣でころして。
「く……ダメ……だ……」
剣の柄に手を伸ばして――マーセは躊躇する。殺すことはできないと諦める。すると苦痛から逃れるために必死の形相で、少女がマーセに抱き着いた。マーセが孤児院を訪れるといつもそうしてくれるように。
少女から炎が燃え移り、マーセにも地獄が門を開いた。全身が熱く、この世全ての痛みを与えられるような感覚。歴戦の退魔騎士であるマーセでさえ耐えがたいものだった。それを何の訓練も受けていない子どもたちが浴びている。意識を失うことも、死ぬこともできずに、永遠と痛みを与えられている。何も悪いことはしていないのに。
ここでは殺人こそが救済だと気付くのに時間はかからなかった。マーセは痛みに発狂しそうになりながらも、大剣を振るう。少女の首が飛んだ。活発な女の子だった。
「おお、おおおおおッ!!」
マーセは吠え叫んで、剣をがむしゃらに振るう。子どもの数だけ、自分が支援してきた子どもの分だけ、首を刎ねる。
だが、最後の一人になった時――とうとうマーセの体力に限界が来た。ころしてころしてと叫ぶ子どもの前でマーセは倒れて、ただその子の絶叫を間近で聞いている。
「動け……動いてくれ……私はどうなっても、いい……」
「その覚悟があるのなら、私と契約を結びたまえ」
「お前は……ッ!! 貴様!!」
マーセは地獄の業火の中でその男と対面を果たした。親友をつけ狙う忌々しき協力者と。
「お前か……お前……だったのか……」
「ああ、そうとも。彼女はどうやら私を見誤っていたようだ」
「いずれローズはお前に追いつく……だが、その前に!」
マーセは気力を振り絞って、立ち上がる。喉が張り裂けんばかりの怒号と共に男へ斬りかかったが、
「ああ、後一歩届かないだろう。そのように調整した」
「ぐ……ぅ……動け……」
中腰を保つだけで精いっぱいだった。身体が言うことを効かない。剣が動かない。たった一歩、一撃を浴びせるだけで全てが解決するというのに。
「無理だ。入念に練った計画だ。どうやって君のような勇ましい少女を堕落させるか、思案させられた。君は自分の命が尽きても契約を結ばないだろう。堅牢で、綺麗なまでの友情だ。だから……このような演出が必要だった」
男の背後では子どもが泣き叫んでいる。ころして! ころして!
マーセは憤怒と悲哀を混ぜた瞳で男を見上げる。男は笑みを浮かべていた。目には炎が写っている。
「私は犠牲をいとわない主義だ。無用な虐殺は好まないが、必要ならば容赦なく行う。逆もまた然りだ。奴隷が必要だと感じたら法を変えてでも奴隷を扱う。略奪が非効率だとわかればそう徹底する。まぁ、部下は命令を破ったが」
「お前……そうか、お前は……かつて……」
「そうとも、私はかつて。……私が味わった屈辱に比べれば、この程度の悲劇など軽いものだ」
「ふざけるな……お前は過ちを犯したんだ。多くの人間を犠牲に……」
「私はヨーロッパを、ひいては世界を一つにまとめるために動いてるに過ぎん。さて、長話は無用だろう。そろそろ背後の子どもが哀れになってきた。どうする? 彼を救うか? それとも友との忠義を果たすか? それはさぞ美しき友情だが、同時に非情でもある。苦渋の決断とやらを迫られているのだろう。物事の中で最悪なのは決断できないことである。さぁ、選びたまえ。私と契約を結ぶか」
男はマーセに手を差し伸べた。マーセは躊躇ったが、苦悶に悶える子どもが目に入る。
その手を掴むことしか、マーセには選べなかった。例え友を裏切る形となったとしても。
「――ああ、そろそろ君も私の正体に気付く頃合いだろう。待っているぞ」
男は帽子を取ると、いるはずのないローズマリーに向かって笑いかけた。
※※※
ローズは倒れ掛かったマーセの身体を受け止めて、綺麗な笑顔を浮かべる彼女を見つめる。
マーセは言っていた。――やってきたことが全て無駄に終わったとしても、私は後悔しない。きっと誰かが代わりにやってくれるからな。
「私は……やらないと言ったわね……」
だが、その言葉は訂正する必要がある。マーセの亡骸を抱きながら、ローズは強くそう思った。
もう標的は捉えている。後は祓うだけだ。それが例え誰かの陰謀や策略通りだとしても。




