美しき友情
「ちょっといいか、ローズ」
「マーセ」
ローズマリーが大聖堂へ入ろうとした時、マーセが呼び掛けてきた。彼女は普段通り片手をあげて気さくな挨拶を交わしてくる。
王女と猟師の記憶で出てきた敵が頭をよぎり無難にやり過ごそうとしたローズを、マーセは強引に掴んだ。
「おいおい逃げるなよ。ちょっとした休憩だ」
「まだ休む必要は」
「あるだろ? そう思わないか、シュタイン」
マーセはローズの背後に立つシュタインに問いかける。ローズは縋るような眼差しで彼女を見た。
シュタインは期待した通りの回答を述べる。ローズではなく、マーセの。
「エクソシストに休息は必要です。ローズは道中馬車内で睡眠を取っていましたが、それだけでは不足であると私は考えます」
「だろ? ほら、行くぞ」
「行くってどこに――」
「まぁ、そうだな。散歩だよ、散歩」
マーセは笑顔でローズの手を引っ張っていく。ローズの困惑も気にすることなく。
シュタインはそんな二人を見送った後、大聖堂の中へ向かう。薄情者、と心の中で罵るローズの言葉は届くはずもなかった。
「お前、街の歩き方わかるか?」
並んで歩くマーセが今更な質問を投げる。街の中心部を現在進行形で歩いているローズはうんざりしたように答えた。いや、実際疎ましく思っている。
「もちろん。今こうして――」
「ああ、わかってないな。全くわかってない」
「人の話を少しは」
「ちょっと待ってろ」
「マーセ!」
取り付く島もないマーセは自分の主張のみを突きつけて、喫茶店へと進んでいった。ローズは嘆息して待機する。マーセの質問の意図をローズは気付いていた。以前リュンに指摘されたことと同じことだ。お前は街での遊び方を知っているか。休日の過ごし方を理解しているか。そういう意味だ。
無論、ローズは知らない。自分の頭にあるのは祓魔術と悪魔。典型的な祓魔師だ。敵の祓い方だけを知っていればいいと常々思っている。今の自分は、機械なのだ。蒸気機関のように役目に応じてひたすらに動くだけ。動かなくなるその時まで。
しかしそれをダメだと文句を言う友人の一人は、手に二つのコーヒーを持って戻ってきた。
「ほら。あそこの店はコーヒーがうまいんだ」
「ありがとう」
顔に露骨な不満さを張り付けて受け取るが、マーセは気付かない。いや、気付いた上で無視している。マーセはローズのことをよく知っており、ローズもまたマーセのそういうところを知っている。
「本当はリュンも誘えれば良かったんだが、まだ怪我が完治してないからな」
「リュンの容体は?」
「無事だよ。ハーブが効いてる。二、三日もすれば傷も塞がるんじゃないか」
退魔教会の医療技術は他国に比べて進んでいる。しかし国王はその技術を輸出しなかった。それは自国の優位性を保つという理由もあるが、主な理由はその医療技術を使って戦争の頻度を上げようと画策する者を出さないためである。
優れた王だった。だが、どれだけ人格的に優れていても人は死に、堕落する。エイブラハム・リンカーンも人格的に優れた大統領だったが、彼はインディアンを憎んでいた。その憎悪は祖父を目の前でインディアンに殺された事件を起因としている。
人には二面性がある。善い面と悪い面。それはマーセにもあり、自分自身にも有り得る。それが堕落や犯罪行為の引き金となる。かつてマーセは暴力的だった。いや、今も粗暴な側面があることは否定できないが、対象は選んでいるし、自制もできる。
だが、もし。もしマーセに何かが起きてしまったら――?
「ボーっとしてないで、飲めよ。冷めちまうぞ」
「そう、ね」
ローズはコーヒーを啜る。紅茶と同じくらい需要の高い嗜好品でありながら、全く違う味のする飲料だ。イギリスは紅茶の味を知ってから今まであったコーヒーをほとんど飲まなくなり、アメリカは逆に紅茶を海に沈めた。元は同じ国、同じ人種。アメリカは独立した後も南北に別れて戦争した。
退魔教会を包む脅威が、それらと全く異なるものであるとは断言できない。
「どうしてそんなまずそうな顔できるんだ? 嫌味なのか素なのか」
「ごめんなさい、マーセ」
今度は本心から謝る。余分なことを考えて、コーヒーの味に集中できていなかった。
「昔からそうだな、お前は。まぁいい、飲んだら行くぞ」
「どこへ?」
問いを投げるローズへマーセは曖昧にぼかした。
「にぎやかなところだ」
マーセはローズの相手をロクにせず、自らの目的を果たすために先を進んでいる。ふと懐かしい想いが心を巡った。昔から、マーセはそういうところがある。
常にリーダーシップのようなものを執りたがるのだ。それは見栄っ張りという側面もあるが、彼女の幼少期にも強く影響を受けている。マーセは虐待を受けていた。両親から。そのため、彼女は何でも自分でやるようになった。自分で全てを決めて、自分の力で切り開く。親の愛情を十分に受けられなかった子どもが獲得した世渡りの秘訣。
そういう部分でも、やはりローズとマーセは似ている。片や両親に殺されかけて、片や謂われなき暴力を受けていた。
だから気が合い、そして気が合わないのだ。不服さを隠そうとしないローズの前で、マーセは止まる。
「着いたぞ」
マーセは身体を退けて、建物の全体が見えるようにした。その施設には見覚えがある。
「孤児院……」
「そうだ。行くぞ」
「でも、私は」
「いいから来いって」
マーセはまたもや強引にローズの手を引く。扉が開かれ、騒がしい声が響いてくる。そのほとんどが、マーセを歓迎するものだった。マーセお姉ちゃんが来た! 子どもたちがマーセの顔を見て喜び、はしゃいでいる。常日頃から足を運んでいるようだ。
「よう、みんな! 今日は友達を連れてきたぞ」
「マーセ、これは」
「リュンお姉ちゃんじゃないから……あなたがローズマリー?」
小さな女の子が訊ねてくる。ローズが対応に困っていると、次々と子どもたちから情報が提供される。主に自分自身に対しての。奇妙なことに、どの情報にも誤りや偏見が含まれていた。
「意地っ張りの?」「小生意気な?」「魔性のおんな?」「人づきあいが悪い人?」「無礼なエクソシスト!」
「マーセ……」
マーセを睨むと、彼女はわかりやすく慌てた。いつものシュッとした印象はどこかへと吹き飛んでしまっている。
「いや、いやいや違うんだ。こいつらが勝手に……」
「えーっ、全部マーセお姉ちゃんが言ったんだよー?」
マーセの弁明を無効化するかのように、女の子は追い風を立てる。有益な証言を得られた。それも純粋で無垢な少女から。となれば、被告人の有罪は確定したも同然だ。これは魔女裁判のような不確かなものではなく、確実性を持った論理だ。
「待て、待てよ。別に私が悪口を吹き込んだわけじゃ」
「詳細を話してもらおうかしら……っと」
裾が掴まれる。今度は男の子。彼はじっと何かを求めているようにローズを見上げた。それはロンドンで出会った貧しい子どものように切実だが、決して貪欲というわけではない。
「……何? 何か欲しいの」
「遊んで、ローズマリーお姉ちゃん」
「遊んでやれよ、ローズ」
「私には無理。知ってるでしょ」
ローズはマーセだけに応えたつもりだったが、男の子もしょんぼりした。予期せぬ反応に戸惑う。こういうことには慣れていないのだ。自分の遊び方すらもわからないのに、どうして子どもと上手に遊んでやることができるというのか。
しかしマーセはにやにやしながら応えた。ああ、知ってる、と。
「お前はできるってな。私は知ってる」
「マーセ」
「いいから、行け。これも社会勉強だ。将来子どもができた時に役立つかもしれないだろ」
「そんな先のこと」
そもそもそんな予定もない。恋愛沙汰に現を抜かす時間も。
しかしやはりマーセはローズの気持ちなど無視して、無理やり子どもたちの中に放り込んだ。誤って子どもの手が触れたら危険だと判断し、リボルバーをマーセの方へ投げる。マーセはキャッチすると、椅子に座って静観を始めた。
子どもたちは丈夫な神父服を引っ張り回す。女の子なのに、男の子みたいな格好してるー、と子どもが囃し立てる。好奇な視線に晒されることには慣れていたが、純粋な、好奇心に満ちた子どもの視線の荒波に直面するのは初体験だ。
「この方が動きやすいのよ。機能的なの」
「なら、お外でも遊べるね」
「いや、そういう意味じゃ」
「行こう、レッツゴー!」
「待って、私は……」
施設の外へ出ようとする一団に振り回されるローズは、最後に縋るようにマーセを見つめた。しかし彼女はにんまりとした笑顔で手をひらひらと振るばかり。
「行ってこい、ローズ。私は手続きがあるから」
「手続き……あっ」
「行こう、ローズマリーお姉ちゃん!」
「ローズ。ローズって呼んで」
自身の愛称を子どもたちに教える。両親や親しい友人、忌むべき悪魔まで共通して使う符丁だ。ローズマリーと呼称するのは同僚の祓魔師たちやシスター、育て親であるウェイルズだけだ。
「じゃあ、ローズお姉ちゃん!」
女の子が眩いばかりの笑顔で言い直す。ローズはほんのりと微笑して、元気な子どもたちと共に庭へ出た。
※※※
「ああ、楽しそうでいいですね、ローズ」
「ローズはここにいません」
そうでしょうとも、と壺娘が応える。シュタインは不審に思いながらも、ボルトアクションライフルを作業台の上へ置いた。
「銃剣を」
「了解しました」
壺娘はころころ回って台の前で止まると、あらかじめ所持していた銃剣をライフルの銃身に装着する。シュタインは怪訝な表情で工房内を見回した。
「アレはまだ残っていますか」
「ガーディアンですか? 使うのはおすすめできませんねー」
曖昧なシュタインの問いを、壺娘は即座に察する。……察せた。最初から答えが与えられているように。
「あなたはあの銃がどういうものか知っているのですか」
「知っていたらどうするんです? 作れと命じますか? シュタイン。感心しませんね」
シュタインがかつてマモンの情報を白状しようとした貧民を抹殺した時、使っていた未知の銃。あれはこの世には存在しない。短小の機関銃を片手で扱える武器など、世界のどこにもありはしなかった。皆、こぞって開発している最中だ。現在の技術力では台座に設置して撃つタイプがせいぜいだ。
だが、マモンはいとも簡単に錬金した。この世にはない、悪魔の武器を。
「使えれば、ローズの助けになると私は考えます」
「それは誤った認識だと私は思いますよ、シュタイン。ローズの欲望を阻害する要因と成り得る」
「ですが」
「ああ、欲望に忠実というのも困ったものですね」
壺娘は妖艶に笑う。銃剣を取り付け終わった彼女はシュタインに銃を差し出した。
「あなたは自我で、ローズを支援すればいいんです。それがローズの命令。あなたはマモンが欲した通りの自我を獲得しましたが、強すぎる自我は味方の足を引っ張る可能性もあるということを覚えておいてください。ちょうどあなたのお父上たちが人を愛したあまりに大勢の人々を死なせてしまったようにね」
「……あれは未来の武器でしょう。あなたなら、あれほど高性能ではなくとも、優れた連発銃を作ることが可能では?」
「はて、どうでしょう」
壺娘はあしらう。シュタインはもどかしさを感じて口を開いたが、先程の忠告が脳裏をよぎり口を閉ざした。代わりに、遠くに置かれた壺を見る。中には一冊の本が仕舞われていた。
「小さな鍵をローズは受け取らなかったのですね」
「まぁ、癪なのでしょう。それに怪物が弱まってしまいますからね。もし、鍵を使えば私たちも支援を止めていたでしょうし」
「快楽的動機で動くからですか。あなたは。あなたたちは」
「ええ、その通り」
壺娘は決して人間的ではない青い髪を揺らしながら言う。満面の笑みを浮かべて。
「そういう関係、ですからね。私たちとエクソシストは」
※※※
子どもたちは好奇心が強く横暴だ。暴れ回って手が付けられない。無邪気に笑い、純粋に遊ぶ。
自分とは全く異なる幼少期の群れにローズは疲れて室内へと戻ってきた。
「なんだ、もう降参か? 射撃の名手たるローズらしくない」
「射撃の名手は関係ないでしょ。それに疲れたのは私だけじゃない」
マーセに言い返すローズの後ろには眠たげな目をする複数の子どもたち。皆、遊び疲れてしまったのだ。
「よし、みんなお昼寝の時間だろ。後は頼む」
「任せてください、退魔騎士マーセ」
シスターが子どもたちの世話を引き継ぎ、大広間へと誘導していく。その背中を見送った後、ローズは椅子に座った。テーブルには、マーセが書きかけの書類が置いてある。その中身を一瞥し、ローズは神妙な顔つきとなった。
「言ってくれれば」
「だから、お前には言わないんだ。有り金を全部使っちまうから」
マーセは書類にサインした。寄付金の手続き書だ。マーセは孤児院に援助していた。自分と似た境遇の子どもを救うために。
「これで世界中の恵まれない子どもたちが救えるとは思えない。所詮は自己満足の一端だろう」
けどな、とマーセは続ける。清々しい表情で。
「だからと言って何もしないのは耐えられないんだ。自己満足でも、できることをしたい」
「あなたみたいな人がたくさんいれば、子どもたちはみんな救われるのにね」
こちらも皮肉ではなく本心から呟いた。単純に、世界中の大人たちが子どもを尊び守ろうとすれば、子どもたちは救われる。病気や事故というどうしようもない事案はともかく、飢えやその派生から行われる窃盗や、殺人なども減少する。
だが、現実的な考えではない。人というものは本当に愚かだ。だが、だからこそローズは人を救う。
「どいつもこいつも自分のことしか考えてない。その弊害が自分に返ることを都合よく忘れている。まぁ、こうしている私もいつまで無事か知れたもんじゃないけどな」
マーセは遠い目をして語る。その瞳はローズの心を不安にさせる。
「けど、もし、やってきたことが全て無駄に終わったとしても、私は後悔しない。きっと誰かが代わりにやってくれるからな」
「……私はやらないわよ」
「つれないな、ローズ」
マーセはにやりと笑って、それ以上何も言わなかった。奥にあるお広間からは子守歌が聞こえてくる。優しい場所。優しい想いが詰まったところ。でも、そういうところに悪魔は現れて、人々を堕落させる。
ローズは凛とした表情となり、口火を切った。
「例の協力者のことだけど」
「ここでもその話か。幼少期を懐かしんだりしなかったのか?」
「……初めて、だからね」
「お前もそうか。私もそうだった。だが、羨んだりしない。ただひとつだけするとすれば……後悔だ」
「後悔?」
「ああ。私は自分の不幸の八つ当たりをリュンにしてしまった。そのことが心残りだ」
マーセは悔恨を携えて、目を伏せる。その心情は手に取るように察せた。友人として、恐らく一定の理解を示す大人なら誰でも言うであろう慰めを彼女に言う。
「でも、子どもだったんだから仕方ないでしょう」
「ああ、そうだ。で、済めばいいんだが。他人に対してだったら、私もたぶん同じことを言った。精神的に未熟な子どもだったのだからしょうがない、とな。でも、当事者となる別だ。それも、加害者となると。子どもだったのは被害者であるリュンも同じだ。私は小さい時の私が恨めしいよ」
「やっぱり私とあなたは似てる」
性格ではなく境遇という意味で。ローズは幼い自分を殺したく、マーセは昔の自分を赦せない。
親近感を再度抱いたローズは、そこで会話を元に戻そうとする。自分が話したいのはあくまで敵についてであり、マーセとの共通項ではない。
「で、協力者については」
「まぁ待てって。それなら、この後リュンのところに寄る予定なんだ」
「……わかった。待つわ」
不本意であることは否めないが、その方が効率的だ。ローズは推理を誤った。自身でも半信半疑だったので、当然と言えば当然だが。
コルシカには既に一度頼り、それで失敗した。改めて別の角度から物事を整理する必要がある。その必要性を感じながらも心の中に燻るのは協力者の言葉だった。
――君が望めば、私は君の友となろう。だが、君が拒むのならば、私は君の友を堕とそう。さて、そろそろ君のせいで無実な人間が堕落する時間だ。
孤児院を後にしたローズマリーは、マーセが立てた予定通りにリュンの入院する医務室を訪れた。が、リュンは既に退院したという報告を聞いて、リュンの部屋へと向かう。
部屋には、リュンだけがいた。彼女の妹や弟はウェイルズの命令でもっと安全な場所へ移されたという。
「もう退院したの。傷は……」
「痛むけど、それだけ。平気よ」
紅茶を注ごうとするリュンをローズは制したが、その直後マーセにローズ自身が止められる。私が注ぐからお前は座ってろ。先に何を議論するかまとめておけ。そう言って、マーセはローズを椅子に座らせた。
反対側に座るリュンがローズを見つめてくる。どうしたの? と問うと彼女は微笑んだ。
「いいことがあったって顔してる」
「そうでもないわ。二人が子どもたちに根も葉もない噂を流してることに気付いたし」
「孤児院に行ったのね。あれは全部マーセが吹き込んだの」
「違うって言ってるだろ、ったく」
マーセが紅茶を全員分用意して、着席した。ローズは紅茶を手に取る前に、本題について切り出す。
「謎の協力者について。それが本日の議題」
「あなたが見たのは男だったのよね。古めかしい服を着た男――」
「赤い服を着てた」
「赤服ならイギリスか? イギリス人を洗うか?」
マーセの提案にローズは首を横に振る。短絡的な推理は冤罪を生む危険があった。
「あれはヨーロッパ製ではあることは間違いないけど、イギリスの一般兵が着込むようなものじゃなかった。王族用のもの。資料を漁ったけど……フランス製だと思う」
「トリコロールじゃないのにか」
「ええ、トリコロールじゃないのにね」
ローズは顔の見えない男をもう一度思い返す。古めかしい軍服を着込んだ軍人風の男。王として君臨していた時期もあったと言っている。そんな条件に合致する人間がたくさんいるとは思えない。しかし、その正体が看破できないというのなら、偽装している可能性が高い。
その偽装がどちらなのか、審議判定に困っている段階だった。記憶で見た男の姿がブラフなのか、それとも記憶の正体が正しく退魔教会内で全く別の姿に変装しているのか。どちらにしても容疑者が多くなりすぎる。特定は困難……いや、不可能に近い。
「古いっつってもどれくらいだ?」
「十七世紀から十八世紀ね」
「誰かの共鳴者とか。過去に殺された偉人の信奉者で、復讐するために教会を崩壊させようとしている」
「有り得るだろうけど、それなら自分が国を率いていたなんて言うかしら。ミラ王女を安心させようと嘘を吐いたなんて線は考えられないわね」
まだまだ謎は多い。中途半端に正体を晒したのは、ローズが間違って無実な人間を殺すか期待してのことだろう。彼も楽しんでいるのだ。このゲームを。悪魔の協力者という肩書ではあるが、実状的にもう悪魔とそん色ないほどの力と悪辣さを身に着けている。
現状では、こちらから仕掛けることはできない。理性ではそう考え、怪物はその方が面白いと愉悦しているが、感情は素直に受け入れることができなかった。
その許容しがたい理由の一人が、意見を提唱する。
「じゃあ、向こうから仕掛けてくるのを待つしかないな。それが一番の――」
「それではダメ。私から攻勢に出ないと」
「犠牲者が出ることを危惧してるの、ローズ」
理由その二であるリュンがローズに訊ねる。ローズの気持ちは高ぶっていた。自分のせいで誰かが死ぬ。もううんざりするほどその感覚を味わっていたところに、敵は追い打ちをかけようとしている。今度はローズの仲間に手をかけるつもりだ。身内も外野も全員救う。それがローズの意思だ。
「奴の狙いは私だけど、私を苦しめるという名目で関係ない人間まで狙うつもり。それは避けなきゃダメ。絶対に。だから私は――」
と興奮気味に信念を吐き出すローズを、マーセが諫める。とりあえず紅茶でも飲めよ。そう言って、紅茶を顎で示した。
「落ち着け。息を吐き出せ。頭を回せ。そうすれば解決策も見えてくるさ」
「それは……そうね。わかった」
マーセの助言通り、ローズは紅茶を口に含む。そして、二人のカップを見比べて訊いた。
「二人は? 飲まないの?」
「ああ、まだいい。帰ってから飲むよ。冷めちまうだろうが」
「帰ってから……っ!?」
ローズは身体に異変を感じて、カップを手落とす。驚きの眼でマーセを見たが、彼女は全く動じていなかった。すぐに気づく。はめられたのだ。思えば少し妙な風味が混ざっている。何らかの薬を盛られたのだ。
「悪いな、ローズ」
「なに、何を……」
ローズはテーブルに突っ伏した。不自由な身体を強引に動かして、ローズはマーセへ視線を合わせる。ぐらつく視界の中で、マーセは本を取り出した。手紙といっしょに。
まさか、とローズは声を漏らす。そのまさかだ、とマーセが肯定。
「お前の推測通り、私だ」
「マーセ……ダメ……」
ローズは手を伸ばしたが、マーセはその手に触れようともしない。立ち上がって、本をローズの隣に置く。
「次の標的は、私なんだ。だからお前には眠ってもらう」
「ダメ、ダメ……あなたも……殺されて、しまう……」
「大丈夫だ。私は退魔騎士だぞ。これでも剣の腕前は自信があるんだ」
と述べるマーセには決死の覚悟が宿っている。ローズは止めようとするが、彼女は強情だ。
「お願い……行かないで」
「お前の願いは聞けない。きっとお前は無茶をする。赦せ、とは言わない」
マーセは共犯であるリュンに目配せする。リュンは全てを知っているように頷いた。
「じゃあ、後は頼むぞ。私は例のクソ野郎を祓ってくる」
「無事でいてね、マーセ」
「もちろんだ。……ローズを頼む」
マーセはローズの言葉を無視して部屋を出ていく。懇願するローズは椅子から倒れ堕ちながらもマーセの背中を追いかけて這っていく。
「マーセ……聞いて、マーセ……私を、置いて行かないで」
そこでローズは意識を失った。手が弛緩して床に落ちる。
「私を友と思ってくれてるのね、マーセ。ありがとう。でも、私に頼むなんて」
ローズを見下ろしながら、リュンはひとりごちる。常に持ち歩いている不思議な魅力を持つ金貨を、ポケットの中で弄った。




