退魔教会
――ローズマリー。危惧すべき事態が発生した。急いで本国へ帰還して欲しい。情報流出を避けるため、詳細は到着時に通達する。
要約すると、内容はこんなものだった。
ローズマリーは潮風に金髪をなびかせながら、少し不満げに手紙を見下ろす。
テムズ川でロンドン支部が発注した祓魔師の蒸気船に乗船したのが二日前。船は欧州の上にある国、エヴァンジェルヒムへと移動している。そこが退魔教会の本拠地であり、悪魔たちと戦う人類最後の砦である。
各支部に所属する祓魔師たちは、全員もれなくヒムを訪れ修行を受けている。ローズは生まれも育ちもヒム上がりの純粋な祓魔師だ。
しかし、いくら世界の本当の姿を知る祓魔師たちが訴えても、愚か者というのは理解を示さない。
例えば、下世話な視線をローズに向ける船乗りたちのように。
「海は好きか? お嬢ちゃん」
「ええ。潮風は気持ちいいし。幸いなことに、私は船酔いしない性質だから」
ローズは爽やかな笑みを浮かべる。期待を含んだ笑みだ。
すると、男たちもにんまりとした笑みを浮かべる。こちらにも期待は添えられている。
「もっと愉しいことをしようか、お嬢ちゃん。航海は大変だ。昔に比べれば幾ばくかマシになったが……それでもいつ沈没しちまうかわからねえ。不測の事態はいつでも起こる。だから、俺たちはなぁ、自分に正直に生きてるんだ」
「いい心構えね。自分の欲望が何たるか、理解をするのはいいことよ。じゃないと、気付かなかった欲望に呑み込まれてしまうから」
ローズは自分の欲が何なのかをよく理解している。聖職者にとって重要なのは禁欲ではなく、欲の肯定。欲をないものにするのではなく、欲望へと目を凝らしそれが如何なるものかを理解する。その上で、堕ちないように節度を守るのだ。一般的な教会の聖職者とは、退魔教会所属の聖職者は考え方が違う。そのため、別の教会とトラブルを起こすこともしばしばある。
だが、船乗りたちは本質的には同じであるものの、根本の考えがローズとは違うようだ。ローズは欲望を把握して、無実な人間を巻き込まないように戒めるが、彼らは異なる。
自分の欲望を満たすため、無実の人間に牙をむく人種だ。
「ならよ、性欲発散に付き合ってもらおうか」
「直接的な表現ね。私は、どちらかと言うと詩的な言い回しの方が好みだわ」
ローズマリーは微笑を浮かべながら男たちと向き直る。男たちはそれを肯定と受け取ったのか、油断して気が緩んでいる。
が、不幸なことにローズマリーに深く根付く欲望は性欲ではない。性欲ならば、誰も不幸せにならなかったのだけれど。ローズマリーは悲しそうに呟いて、
「カワイソウだけど、私は戦うことが大好きなの。だから、あなたたちの提案には乗れないわ」
「なら、力づくで言うこと聞かせるだけだぜ」
「ありがとう」
ローズは感謝を口にして、手始めに男へ一発ぶちかました。
不測の事態。そう男の顔が物語っている。ただのか弱い少女だ、と男たちは睨んでいたはずだ。同時に処女だとも。
最悪な思考回路だが、こういう思考を持つ男は多い。少なくとも、ここに五人ほどいる。多くの男たちは異論を唱えるだろうが、師であるウェイルズのような紳士はそれほど多くない。
ローズは別にその思考自体は悪くない、と考える。別の男を拳で気絶させながら。
「過ちを犯したのなら、反省すればいい。エクソシズムに失敗はつきもの。重要なのは間違いではなく、間違った後の対処法」
ローズは師の教えを言いながら、蹴りを見舞う。股間を蹴り上げられた男が悲鳴と共に崩れ落ちた。ローズは寛容的だが、容赦はしない。気絶させるのなら全力で気絶させる。苦痛を与える時は手加減抜きで苦痛を与える。
そして、殺すべき時は殺すのだ。自分には、それを可能にする怪物が眠っている。
「私たちは過ちを許容する。反省の態度が窺えればね。野放しにする、とは違う」
ローズマリーは努めて普段の調子でしゃべるが、男たちには威圧的に聞こえてしまったようだ。膝をついて、降参している。殺さないでくれ、と命乞い。
「殺す気はないわ。あなたたちだって、私を殺す気はなかったでしょ? 犯す気はあっただろうけど」
「め、滅相もございませ――」
「出まかせを。でも、別にいいわ。楽しめたから。それに、あなたたちが欲望に奔る理由もよくわかる。安い賃金で命懸けの航海。社会体制にも問題はある」
祓魔師にとっての難問の一つが、社会そのものだった。連中は悪魔にそそのかされて、堕落者を作りやすい環境を整えるのに一役買っている。粗悪な社会では、たくさんの堕落者が産まれ、多くの悪魔が快楽を得る。
そうした社会体制を創り上げた者たちを、必要に駆られれば祓魔師には殺害する権利が与えられている。古い祓魔師の例では、暴君と言われた国王を殺害したこともある。ここ最近の例では、フランスを騒がせた皇帝ナポレオンをウェイルズの父親が殺したはずだ。
「おやおや、ローズ。楽しい楽しい遊びに興じてたのですか」
どういう原理かいまいち理解できない回る壺に乗って、壺娘が転がってくる。ローズは頷き返し、怯える船員たちを業務に戻らせると再び海へと目を落とした。
「ええ、楽しい。否定はしないわ。自分の心に嘘を吐いたってしょうがないもの」
ローズマリーの怪物は、時に同胞からも恐れられることがある。危険を前に興奮する性格は、ある意味、欲望に呑み込まれてしまった堕落者と性質が似ている。
だが、だからこそ、とローズは思う。だからこそ、ローズは堕落者を祓えるのだ。彼らと似ているから。あるいは、同じだから。
「そんなことはありませんよ、ローズ」
壺娘はお得意の千里眼で見抜いたのか、ローズを慰めてくる。
「あなたの怪物はとても綺麗です。誘惑に負けた堕落者とは違ってね」
「誘惑に負ける土台をつくる人間側にも問題はある。一概に、彼らのせいだとは言えないわ。人々は堕ちた者のせいにするけど」
潮の香りが鼻孔をくすぐる。海面の下には、数多の生物が蠢いている。人はそれらに比べるとちっぽけな存在だ。
特に悪魔にとっては、ちょっと賢いふりをした気取り屋のバカが、世界を我が物顔で歩いているようにしか見えないのだろう。
実際に、無自覚で悪魔に協力してしまっている人がいる。自分が賢いと誤解して、悪魔の思い通り他人を弾圧している者は多い。
「何を考えているのですか? ローズ」
「わかるでしょ? あなたなら」
「人を覗き魔のように言わないでくださいよ」
「……綺麗だなって思ってるのよ」
ローズは答える。彼女だけにではなく、自分にも言い聞かせていた。
「海が、ですか。それとも考え事の方ですか」
「両方よ。私は結局、人間が嫌いじゃないの」
「人が好きでなければ、エクソシズムはできませんよ、ローズ」
壺娘は快活に笑う。青い髪が潮風で揺れている。
でも、とローズは言葉を続けた。その瞳は危機感を覚えている。
「綺麗でも、毒があるわ。美しい花にはとげがあるように、海も人も、誰かを呑み込んでしまうほどに恐ろしい。たまに、ふさわしい恰好をしてくれれば、と思う時がある。もしおぞましい姿をしていたら、惹かれることはないでしょうに」
「恐怖と美しさは一緒くたですよ、ローズ。美しい花ほど、この世で最も恐ろしいものです。あなたもそうですよ」
「……お褒めに預かり光栄よ」
たった今五人の男に強姦されかけたので、自分の美しさは誇っても構わないだろう。こういうことはよく起きる。結果はいつも、自分を襲ってきた者の命乞いを聞いて終わる。
ローズは少し自分の魅力を恨めしく思うことがある。これならばもう少し醜くてもよかったかもしれない。そうすれば、面倒事から解放されるのに。
「ふふ、それは嫌味とも取れますよ、ローズ」
「私じゃなくてあなたに標的を絞ればいいのに。あなたも可愛らしいじゃない」
「確かに、壺をくれれば考えなくもないですが、残念なことに私を見ても気味悪がる人ばかりなんですよねぇ。どうしてでしょうか」
壺にすっぱり収まっているからだ、とは言わないでおく。首だけが壺口から出ているので、他人から見れば恐怖の対象になりかねない。
「まぁ、そろそろそんな好奇な眼差しとはお別れです。懐かしいふるさとのお目見えです」
「……退魔教会!」
ローズは声を弾ませて柵に身を乗り出した。二年ぶりの帰郷である。遠目に見える島からは、大聖堂が僅かに見える。退魔教会の本拠地、エヴァンジェルヒム。ローズが生まれ育った故郷。歳相応の愛らしさをみせて、ローズは嬉しがった。表には出さなかったが、ずっとこの時を待ち望んでいたのだ。
だが、その無邪気な姿を壺娘に見られて、コホンと咳払いをする。
「まぁ、ロンドンには見劣りするわね」
取って付けたようなごまかし。壺娘はにやにやして、
「皆さんには内緒にしておきましょう。秘密の共有は、それだけで心躍りますからね」
「お気遣いどうも……ふふ」
蒸気船の汽笛が唸る。ローズは微笑しながら徐々に近づく島を見つめる。
運が良ければ友に会えるかもしれない。幼い頃苦楽を共にした親友と。
それだけではない。ウェイルズ卿。自分の育て親。
自分を救い、自分を導き、自分を一人前にした男と出会える喜びがローズマリーの心を高鳴らせる。
「お養父さん……」
実際にこの呼称でウェイルズを呼んだことはない。心の中で密かに思うだけだ。
だが、ローズとウェイルズの関係性は親子だとローズは信じている。
しばらく感傷に浸っていたローズだが、壺娘のにやけ顔でハッとした。
「……壺娘」
「わかっていますよ、ローズ。秘密その二、ですね。うふふふふ」
ローズの心境を表すように、蒸気船が再び警笛を鳴らした。
「おかえりなさいませ、エクソシストローズマリー」
「ただいま。……どこに行けばいいの?」
ローズは蒸気船から降りた直後、自分を出迎えした使者に尋ねる。使者はシスター姿の一つ、二つばかり年下の少女だった。問わずにも知っていたが、問わないと帰ってきた気がしないのだ。
使者は笑顔で大聖堂への道を示す。
「大聖堂です。参道をお通りくださいませ。案内は……」
「必要ないわ。ありがとう」
ローズマリーは笑顔を押し隠して歩を進める。一歩道を踏みしめる度、故郷の懐かしい匂いが漂っていた。途中で馬車乗り場があったが、あえて乗らず道を歩いた。壺娘が悲鳴を上げる。
「そんな、ローズ! 私には馬車が必要ですよ!」
「頑張りなさい。やる気があれば何だってできる」
今はまだ平坦だが、進むにつれて港町から離れ、たくさんの木々に覆われ坂も多くなる。大聖堂は国王が住む王城よりも大きく立派にできている。ヒムの王は自身の居城よりも大聖堂を重視していた。退魔教会が特異性を保てているのは祓魔師がいるからだ。
ゆえに、王は自らよりも祓魔師を尊敬せよとの伝達を出し、その立派な心構えのおかげで歴代の王は多くの祓魔師の忠誠を勝ち取っている。国民にも慕われ、世界で最も敬うべき王族と呼ばれた時期もあったらしい。
「ローズは横暴ですね。次にパートナーを選ぶ時は、もっと気遣いのできる方にしましょう。ひとりっこはダメダメです。気配りのできる姉がいいですね」
「何をぶつぶつ言ってるの。早く来なさい」
悪戦苦闘する壺娘を後目に、ローズは手招きする。と、急に馬車が横を通り、中の何者かが壺娘を掴んで拉致した。何者! とローズは叫んでホルスターに手を伸ばすが、中から聞こえてきた声で警戒を解いた。
「私よ、ローズ。そう怖い顔しなさんな」
「リュン? リュン!」
馬車の窓から顔をみせたのはローズの親友であるリュンだ。黒髪の小柄な彼女はライフルを抱えている。こちらは欧州で流行中のボルトアクション式だ。
「お久しぶり、ローズ。相変わらずね」
「リュンこそ変わらない。あなたも招集されたのね?」
「ウェイルズ卿は世界に散らばるエクソシストをかき集めているそうなの」
リュンはローズを馬車の中に招いたので、お言葉に甘えて乗せてもらう。なぜ道を歩いていたのと問われ、ローズは咄嗟に修行のためよと答えたが、壺娘に台無しにされた。
「ロマンチストなんですよ、ローズは。恋しい故郷の香りを楽しんでたんです」
「昔からよ、それは。でも自分の気持ちに正直になれないから、告白されても逃げちゃうのよね」
「二人とも、適当なこと言わないでくれる? 告白されたことなんてないし」
「あら? 自分より頭のいい人以外とは付き合わないとか何とか言って、後輩を泣かせたのはどなたかしら」
「あれは……カウントされないでしょ」
ローズマリーは苦い記憶を思い出す。祓魔師として修行を積んでいた時、二つばかり年下の少年に告白されたのだ。ローズは何の考えもなしに自分の条件を付きつけて、ちょっとしたトラブルになった。
そのことがウェイルズの耳に入り、叱責されたことを覚えている。言い方次第では、特に問題なく事を収めることができたはずだ、と。忘れたい思い出の一つだ。
「で、素敵な殿方は見つかったの?」
「いないわ。残念ながら」
「そうでもありませんよ。ローズはロンドンで出会った探偵の知性に惹かれてました」
「壺娘?」
「探偵ねぇ。ローズはダメ男に引っ掛かるタイプなのかしら」
と値踏みするようにローズを見つめるリュンに彼女は問い質した。
「そういうあなたはどうなの?」
「ふふ、恋愛は推奨されていないでしょう? エクソシズムに」
「……納得できないわね」
「あなたの口癖と似たようなものじゃない。赦す赦される問題でもない。後は、訊かなくてもわかることを――」
「いいから、茶化すのはやめて。もっと楽しい話をしましょう?」
ローズマリーが提案すると、リュンは素直に引き下がり同意した。
「それもそうね。マーセが混ざってからでも遅くはないわ」
「マーセも元気にしてるかな……」
「便りが来たわ。ロンドンには届かなかったみたいね」
「なんて書いてあった?」
「こっちは問題ない。それだけ」
「何だ、つまらないわね」
もっと建設的な話を聞けると早合点したローズが落胆する。壺娘がくすくす笑った。
「これから会えるのですから、しょげても仕方ないですよ、ローズ」
「しょげてなんかいない。何か面白い話題はないの?」
「では、今仕込中の武器についてお話ししましょうか。ローズは未だ、シングルアクションリボルバーを使っていますが、ダブルアクションはどうでしょう? それとも驚異的メカニズムを誇る自動式拳銃は? どれも優れた武器ですよ」
「流行りの武器を使えば堕落者を祓えるわけではない、と言ったのはどなた?」
数日前、レバーアクションを手にした時に交わされた話の内容を口にすると、はて何のことでしょうと壺娘は誤魔化す。リュンがそのやり取りを見て相変わらずねと呆れた。
エクソシストが揃うと、話す内容は相場が決まっている。退魔道具と祓い方。古来のやり方では祈祷や呪術を用いて撃退することもあったようだが、今の悪魔とその眷属である魔獣、そして堕落させられた人々は強力だ。銃器を用いて射殺するしか術はない。
ローズとリュンの戦闘方法は似通っている。ゆえに、話が合う部分もあった。大聖堂への道すがら、ローズはリュンと悪魔の動向について情報を共有する。
「ロンドンで暗躍する悪魔の正体は、残念ながら掴めてないの。もう少しだったのだけれど」
「……ドイツよりはマシよ。メフィストフェレスがなりを利かせている。力及ばず逃げられたわ」
「無欲が肝心ですよ、お二人とも。悪魔は人より強力です。撃退しただけでも儲けもの。身に宿す怪物に忠実なのはいいですが、引き際を弁えるように。特に、ローズ」
「あなたは一体いつから講師へ転向したのかしら。まぁ、忠告は聞いておく」
壺娘に文句を垂れながらも、彼女の言葉を胸に留めておく。
「それは結構。そろそろ休憩した方がいいですよ、ローズ。大聖堂に着いたらきっと大変でしょうからね」
壺娘はそう言って、一体どういう身体の仕組みをしているのか、身体をすっぽり覆う壺の中に首を収めてみせた。
ローズは中身を想像しないように努めながら、リュンに断りを入れて目を瞑る。
壺娘の言葉は、常に予言めいている。いや、彼女の言葉がなくともローズは予期できていた。
ウェイルズがわざわざ自分を呼び寄せた原因。危惧すべき事態。
(何なのかしら、一体)
ローズは想いを馳せながら、馬車の中で短い眠りに落ちた。
「起きなさい、ローズ。着いたわ」
リュンに身体を揺さぶられ、ローズは目を覚ました。壺娘も壺から顔を出し大きな欠伸をしている。
ローズは欠伸をかみ殺しながら馬車を降りて、大聖堂の壮大な雰囲気を肌で実感する。帰ってきたと、強く思う。懐かしい故郷に。
「よお、ローズ! リュン!」
「マーセ」
片手をあげて、人の雑踏を潜り抜けマーセが近づいてきた。大柄な赤毛の少女だ。周囲にできる招集された祓魔師たちとその案内人の輪を縫うように動きマーセは難なくローズたちの元に辿りつく。
彼女は珍しく鎧を身に着けている。退魔騎士の装束であり、強固な防御力を有しながら恐ろしさを感じるほどに軽い鎧だ。
「元気にしてたか? 会えるのを楽しみにしていた」
「私もよ、マーセ」
「ローズに同じく」
親友と抱擁を交わし、三人で仲良く歩いていく。壺娘はいつの間にかどこかへと行ってしまっていたので放置した。
大聖堂の門を通って内部に入り、麗しい装飾を目にする。天井はとても高く、悪魔を祓う祓魔師や、天使などの絵が描かれている。基本的には各地にある一般的な聖堂と同じつくりだが、普通の教会と異なるのは武器を持つ祓魔師たちやそれを売る商人たち、街の問題を掲載する掲示板が設置されていることだ。
ローズは喧騒の中を見回して、違和感を感じた。眼に入ったのは掲示板。尋常じゃないほどの連絡用紙が張り付けてある。それもほとんどが緊急性を擁する案件だ。
「これは……?」
「まぁ、待て。とにかくウェイルズ卿にお会いして来い」
「マーセは事情を知っているのね? じゃあ、リュン」
「私は後でいいわ、ローズ」
「どうして?」
と訊き返して、ローズは即座に気付いた。気遣われている。気付かれてもいる。ローズが密かにウェイルズ卿と会いたがっていたのを、十年来の友人である二人は知っているのだ。
「……わかった。行ってくる」
「また後でな、ローズ」
ローズはリュンとマーセから離れて、左廊下の先にある階段を上り始める。ウェイルズ卿のいる執務室は二階だ。階段を上る人はほとんどいない。通常の祓魔師や退魔教会関係者は別に案内役がおりそこで受付をする。そういう段取りなく教会を一手に引き受ける騎士の元へ直接行けるのは、ローズのように優秀な祓魔師だけに与えられた特権だ。
しかし特に優越感を感じることもなく階段を上りきったローズは、突然横道から出てきた男とぶつかりそうになった。ローズは危険を察知する勘と反射神経を頼りに学者風の男を避ける。が、男の方はそう上手くいかず派手に転んでカバンの中身をぶちまけた。
「や、失礼」
「こちらこそ。大丈夫?」
転んだはずの男は、しかし大して動じることなく謝罪する。そして中身である本と資料を回収し始めた。ローズは手伝い、適当に取った本を見て訝しむ。白紙の本だった。
「これは?」
返しながら訊ねる。黒髪でローズより一回りほど大きい男性は気恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「これから記す予定の本だ。こう見えて、私は小説家なのでね」
「小説家……。退魔教会を題材に?」
普通の作家がここに来るはずはないので、そういうことだろうと踏んでローズは訊く。果たして、ローズの予想は的中した。
「ええ、もちろん。遥々海を渡ってね。元々小説家見習いだったのだが、長い年月を経てようやく作家となれた。どうせ記すなら、人々の記憶に残る印象深い作品を作りたいと思っている」
ローズが手を差し出して、男がそれを頼りに立ちあがった。ずれた眼鏡を指で直す。
「苦労人なのね」
「障害には屈しない主義でね。如何なる障害も私の中に強い意志を生み出すだけだ」
「……どこかで聞いたことがある言葉ね」
「さてね。これは私の持論だ。まぁ、似たようなことを考える輩は多いだろう。では、縁があればまた」
男はローズに別れを告げ、階段を下って行った。ローズはその背中をしばらく見つめた後、執務室へと足を運ぶ。厳格な扉の前に立ち、息を整える。そして、ノックをし挨拶を口に出した。
「ウェイルズ卿。私です。ローズマリーです」
「入れ」
言われるがまま扉を通る。ウェイルズは執務机で地図を眺めていた。
「危惧すべき事案とは一体何でしょうか」
挨拶もなしに本題へ切り込む。ウェイルズが挨拶を重要視しない性格だと知っているからだ。
ゆえにウェイルズもまた特に不満を漏らすこともなく話を始めた。
「退魔教会存亡の危機だ」
「突然、何を」
「突然ではない。必然だ。こうなることはお前が生まれるよりも前に予想されていた。遥か昔からだ」
ウェイルズが立ち上がる。ローズは会釈して机の前に移動する。地図には文字と印が書き込まれていた。
「ヒムが全体的に……」
「魔の手に脅かされている。悪魔の侵入を許した。各地で問題が発生し、我々は対処に追われている。今回、お前を招集したのはそのためだ、ローズ」
「掲示板を見ました。堕落者の報告が多かった」
ウェイルズは首肯する。信念の灯った力強い目線をローズに向けた。
「彼らを救済しろ。伝統あるエクソシズムで」
「了解しました」
質疑は必要ない。ローズはウェイルズに全幅の信頼を置いている。ウェイルズもまたローズを信用している。
言葉は交わさないものの、心は繋がっている。それ以上に必要なものなどなかった。
「では、さっそく取り掛かります」
「待て。お前には行ってもらいたい場所がある」
「どこでしょう?」
ローズが問うと、ウェイルズは地図の北東、ウォレンの街を指した。
「ここは……私が一時期住んでいた」
「そうだ。なじみの場所だ。お前ほど最適なエクソシストはいないだろう。汽車を手配してある」
「了承しました。単独任務ですね?」
「そうだとも。下手な人員を送れば、足手まといになるだろう」
ウェイルズはローズの希望する答えを返してくれる。話を終えると、ローズはすぐさま踵を返した。
「では後ほど」
「いい報告を期待している」
ローズは扉まで近づき、最後にウェイルズを一瞥した。ウェイルズはローズへと視線を向けず、地図に目を落としている。ローズは小さく笑みを作り部屋を後にした。
(自分で考えればわかることを私に訊くな)
来た道を戻りながら、ローズはウェイルズの口癖を思い返す。彼の言葉は、いつしか自分にまで伝染していた。
彼が何を考え、求めているのか。自分に対しどんな評価を抱いているのか。
ローズにはそれがわかる。自分で考えて、予測を立てている。ならば、後は行動あるのみだ。
一階に下りリュンとマーセを探したが、どうやら二人は別の用事で出かけてしまったらしい。ローズも仕事があるので反対側の出口まで歩いていく。
大聖堂の傍に駅はあった。あからじめウェイルズが用意していたウォレン行の車両に乗り、指定された座席に移る。
そして、置いてあった予備の弾薬を除けた。
「壺娘の仕業ね。全く」
弾薬ポーチに銀弾を詰めながらライフルを隣の席に立てかける。窓側に腰を落ち着かせたローズは故郷の国の景色へと目を移した。自然と調和する家屋が見える。後方には大聖堂も。
美しい街だ、とローズは思う。自分が帰るべき場所。帰ってくる場所。
なのに、それを悪魔は崩壊させようとしている。それをみすみす見逃す道理はない。
「後悔させてやるわ、忌々しい悪魔ども」
ローズは覚悟を呟くと同時に、汽笛が喧しく鳴り響いた。汽車が動き出し祓魔少女を目的地へと運んでいく。
目的地へと辿りついたその時、少女は魔を祓うのだ。既に目覚めた、怪物として。