悲劇の幕開け
「ローズ、平気か!?」
「マーセ……」
城門付近で引き継ぎの祓魔師に説明をしていたローズマリーの目に入ったのはマーセだった。彼女はローズの両肩を強く掴んで詰問する。不安に包まれた表情で。
「大丈夫なのか、お前……!」
「大丈夫よ、マーセ。それよりも」
「リュンもシュタインもケイもみんな無事だ! ダメなのはお前だろう!?」
「ただ戦って、堕落者を祓っただけ。どうして……」
そう思うの? という素っ気ない言葉はマーセの表情のせいで放たれない。
マーセは苦しそうだった。辛そうだった。言葉を失ってしまうぐらいには。
その原因をローズは思い当たっている。
「どうして、あなたが……そんなに」
「わかってるだろう。勘弁してくれ。心配させないでくれよ」
マーセはローズに抱擁を交わした。瞬間的に蘇るのは母と交わした幻の抱擁だ。
ゆえにローズは身体を離した。マーセが衝撃を受けた顔をする。
「ごめん、マーセ。今は放っておいて」
「ローズ……」
足早に立ち去る。恐怖を振り払うように。
母親とマーセの姿が重なったせいで、恐ろしかった。
マーセが死んでしまうようで、怖かった。
「美しいな。友情とは、とても美しい」
その姿をコルシカが記していた。白紙の上でペンを奔らせて。
書き終えた後、満足げに本を閉じた。
※※※
「目覚めましたか、リュンさん」
「……医務室?」
「そうです」
状況確認するリュンにケイが教えた。ケイは笑顔となる。まるで自分のことのように、彼女の復活は喜ばしかった。単に仲間が復帰したから、という意味だけではない。その感情には、ローズマリーの存在が多くを占める。
例え彼女に拒否されようとも、ケイはローズが好きだった。それは今も昔も不変的だ。
「きっとローズさんも喜びますよ」
「あなたも、そうね。喜んでるわね」
リュンは微笑んでいる。その姿に安心し、ケイは医者を呼んでくるために退室した。
「私も、私も嬉しい……はは……ははは」
リュンの乾いた笑い声は、部屋を出たケイに届かない。遠く離れたローズマリーにも。
※※※
大聖堂へと戻ったローズがまず訪れたのは、壺娘の武器庫だった。
入室しようと扉に触れた瞬間、フードを被った大男とぶつかりそうになって避ける。毎度ありがとうございましたーなどと客を見送った壺娘に、ローズは訊ねた。
「今のは?」
「狩人、ですよ。ハンターです」
「ハンター?」
「そうですよ、ハンター。大きなお本を持った、狩人です」
「本……」
その単語を聞いて思い浮かぶのは、ミラ王女の記憶で見た謎の男の存在だ。男は間違いなくローズが探し求めていたマモンの協力者だ。驚くべきは、彼自身が他者を堕落させる力を持っていること。
堕落せずに悪魔の恩恵を受ける人間は一定数存在する。だが、彼の場合は異端だった。まさに新しく悪魔として覚醒したような存在だ。
もしくは、あの本に秘密があるのかもしれない。あれが何らかの魔導書だとすれば……。
「ソロモン王は悪魔を使役していました。いや、協力関係だったと言うべきでしょうか」
唐突に壺娘は話し出す。ローズの思考を読んだかのように。ころころ、と壺が不可思議な力で転がっていく。
「悪魔は快楽で動きます。グリモワールを使用すれば、悪魔を自由に操ることができる……などとは人間が生み出した哀れな妄想の産物です。実際には、悪魔は悪魔が協力に値すると考えた者にしか協力しない。それはよくご存じですよね」
「ええ、よくご存じよ」
皮肉げに言い返しながら、部屋を動き回る壺娘を視線で追いかける。
「なら彼は、もしくは彼女は悪魔に認められたということです。その内側に潜む怪物ごとね。……よっと」
壺娘は端に置いてあった壺から本を取り出すと、ローズの元に戻ってきた。そして、本を差し出す。
「使いますか? ローズ。小さな鍵ですよ」
「いらない」
ローズは本を突っぱねる。壺娘は上機嫌で笑い、もう片方に隠していたものを手渡した。
「いいですね、ローズ。良い怪物です。では、あなたにはこれを差し上げましょう」
「ナックルダスター」
右手にずしりとした感触が伝わる。銀でできた拳用の打撃武器。
「これは特別製なので、殴っても殴った方の手が砕ける、などという欠陥はありませんよ。名前は、そうですねぇ……」
壺娘が名前を考えている間に、ローズは右手にはめて軽く振った。本来の用途としては人間相手に使う武器だが、これは硬い鎧を持つ魔獣や堕落者相手にも使える。メイスやモーニングスターの代理品だ。
「トラジェディアとでもしときましょうか」
「悲劇」
またもや不穏な名前を壺娘は武器につけた。彼女のネーミングセンスはわからない。
だが、真実味を帯びている。これは悲劇を象徴する拳武器なのだ。
その理由を、壺娘は教えてくれない。ただ警告するだけだ。
「そう、悲劇。世界に悲劇はありふれていますからね」
すこぶる健康的な笑顔。しかしその表情の中には、不穏な何かが潜んでいる。
「それを止めるために戦うのが私」
ローズはナックルダスターを外して、ポケットに入れた。携行しやすいのもこの拳武器の利点の一つだ。祓魔師はその任務の性質上、多数の武器か極端に少ない祓魔道具を持ち歩く。小型の武器はどちらのシチュエーションにも使える有用な武器だ。
元より、ナックルダスターは護身用の武器としてイギリスでも重宝されていた。外国では目立つ武器は装備できない。必然的に隠し持てる武器が流行することになる。その傾向はあまり好ましいとは言えない。
大きな武器を手にしていれば、その人が危険であると一目でわかる。しかし、隠密性の高い武器を手にしていると、危険なのかがわからなくなる。綺麗ながらも人を呑み込んでしまう海のように。
「ここにいましたか、ローズ」
「シュタイン」
武器庫を物色していると、シュタインがやってきた。彼女はローズの隣に並び、
「リュンが目覚めました」
「そう」
「行かないのですか」
「ええ」
淡白なやり取りを行う。本心としては、行きたいという気持ちも残っている。
だが、行きたくないという気持ち、正確にはとてもじゃないが行けないという想いが勝っていた。
「あなたが関わると死んでしまうから。そう、思っているのですね」
「そういうわけじゃ」
「あるんですよね。むしろ、だからこそ思い出をたくさん作っておいた方がいいとも思えますけど」
壺娘はけらけらと笑いながら言う。悪魔的、小悪魔的笑みだ。祓魔に携わっていると、感情の全てが枯れ果てる……ように見えて、たったひとつだけ、明確に印象に残る情念がある。
喜怒哀楽における、喜だ。快楽、喜び、笑顔。悪魔も笑えば堕落者も笑い、そして怪物すらも笑顔を作る。悲しみや怒りよりも、より強く、より強固で、心を支配しようとしてくる。
もしあの協力者が言った通り、ローズの仲間を堕落させたとしよう。それで自身の内側から湧く感情は哀しみでも、怒りでも、憎悪ですらない。喜びだ。興奮し、恍惚とし、怪物が笑顔となる。
それがどうしようもなく怖い。敵よりも、自分自身に怖じている。
「他人を心配するというよりは、保身ですか。自己愛が強いですね、ローズ」
「何とでも言いなさい」
壺娘の軽口を受け流して、ローズは踵を返す。ご愛好ありがとうございました、という心にもない壺娘の感謝の意が背中に届く。
そこにシュタインの足音が追加された。鬱陶しさを隠そうともせず、ローズは質した。
「何?」
「任務に出るのでしょう。同行します」
「断ると言ったら?」
「即刻拒否します」
シュタインは頑固に譲らない。彼女にはかつての面影が微塵もない。
ある種、鏡の自分を見つめているような錯覚に陥る。もし逆の立場だったら、ローズは彼女と同じ態度を取ったことだろう。だからこそ、なおさら目障りに感じる。シュタインが嫌いと言う意味ではなく、彼女の背後に纏わりつく自分自身の影に。
「私の命令を」
「聞きません」
融通の利かないシュタインに、ローズはひねくれた子どものように黙した。彼女に植え付けられた自我は予想以上に堅牢だ。これがマモンの求めていた意思なのだろうか。
マモンは察するに、奴隷のような人間に飽き飽きしていた。何でもできるという自由さは、短命で脆弱な人間にとっては至宝だが、長命で強大な悪魔にとっては身近にある疎ましいゴミでしかない。
だからこれは、マモンにとっては極上の自意識だろう。創造主に反発する被造物というものは。
「どうしても?」
「それが私の自我ですから」
しかしマモンが喉から手が出るほどに欲しがっていても、今のローズには無用なものだ。だが、シュタインは自我を植え付けた主の声を聞き流し、同行を申請してくる。
ローズとしては聞き受ける他なかった。――この鬱憤は敵にぶつけることにする。
鮮やかな緑は美しい。絵画にすればさぞ映えることだろう。
精霊の森と名付けられた森林地帯は、諸外国のような開拓や伐採に晒されることなく古くからの景観を維持していた。無造作のようで、しかし一種の美麗さを保ちながら立ち並ぶ木々。生い茂る植物には、自然を生き抜く逞しさが備わっている。だが、今回はそのせいで視界が非常に悪い。森の外から見れば絵にしたくなるほど綺麗だが、その中身は人間を喰らうほどに極悪だ。それも自然の摂理、弱肉強食が理由ではない。いや、それも理由の一端ではあるが、もっと別の原因が森の中に潜んでいる。
「何がいると思う?」
「ビースト……だけではなさそうです」
森の入り口付近に散見される足跡を観察しながらシュタインが分析する。ローズマリーの見立ても同様だった。
森には猟師がいた。彼も堕落している可能性が高い。不審な人影を見た、と猟師が現地警察に通告したのが昨日。それから連絡が取れなくなり、様子を見に来た警察官も行方不明。事態を重く見た警察所長が祓魔師に任務を発注したのだ。
賢明な判断である。仮に早計だとしても、それならばそれでいい。無駄足になるぐらいが丁度よい。
だが、幸か不幸か、所長の判断は正しかった。明らかに異端存在の痕跡が見られる。
「猟師の堕落」
「しかし、一体どんな理由でしょうか。聞いたところによると、彼は不満を抱くことなく生活していたようですが」
「見える不満よりも見えない不満の方が恐ろしいのよ」
悪魔関連の事件以外にも、このようなケースは珍しくない。犯人は至極おとなしい人間で、仕事にも熱心。充実した生活を送っていたように見えたのですが、突然殺人を犯しました。一体なぜなのでしょう。周囲の人間に聞き込みをしても、目立った動機が見えてきません。
人の精神は人が思うよりも脆い。平気だと思っていた事象で見えない負荷が重ねられて、何の前触れもなくぽっきりと折れる。導火線の見えないダイナマイトだ。人は皆怪物を……爆弾をその頭の中に抱えている。そういう風に人間はできているのだが、皆人間というものを侮っている。俺は大丈夫。私は平気。俺が大丈夫ならあいつも大丈夫。私が平気だからきっとあの人も平気。
その楽観視は危険だ。最初から凶悪な人間よりも、途中から凶悪になってしまった人間の方が厄介だ。まさに堕落者もその法則に則っている。まだ猟師が堕落したのか確証は得られていないが、それでも怪物はそうであると唸っていた。
――そうでなければつまらない。この事件がもし自分を標的としている場合、敵は間違いなく堕落させるだろう。
「それに、奴は堕落する原因を無理やり引き出す。手法はマモンと似ている」
マモンは貴族や金持ち、貧民を巧みに操って、別の人間を堕落させるきっかけを作る。悪魔は元々戦争や大災害、事件などの首謀者であることがままあるが、マモンほど直接的な悪魔も珍しい。
そして未だ正体が不明の協力者も、彼の方論を用いている。それもマモンよりも悪辣だ。ミラ王女は知識もあり、分別もあった。そんな彼女を苦しめた。ただ傍にいるというだけで。
祓魔師なら例え悪魔に付き纏われても問題ない。しかし、知識があるだけの人間では、劣勢を強いられる。猟師も堕落の原因を作られたのだ。人々が無意識下で行ってしまう間接的な方法ではなく、もっと明確で直接的な方法で。
「どうしますか?」
「祓う。あなたは後方支援」
「ですがローズ。あなたは近接戦闘を仕掛けるつもりですね」
シュタインの指摘は当たっている。森は見通しが悪く、ライフル銃の満足な運用が期待できない。もう少しまばらな、木々の間隔が広い森ならば有用だったが、下手に長物を扱うよりも先日手に入れたトマホークピストルを振るう方が手早く済む。安全性については低下する。だからこそ、ローズの強さは高まるのだ。
「だから、後方支援。できるわね」
ローズはシュタインをあしらいながら、トマホークを手で構える。左手には悲劇のナックルダスター。この地形ならローズよりもマーセの方が適していたが、格闘戦が不得意ではなく銃撃戦が得意なだけのローズは気にすることなく森へと歩を進める。
「悲劇は、繰り返させない。どんな手段を使っても」
覚悟を、呟く。狼らしき遠吠えが木々の間でこだました。
※※※
「ウェイルズ卿。バルテン王とミラ王女が――」
「死亡した。報告は受けている」
マーセは執務室でウェイルズと王城での出来事について話し合っていた。退魔騎士であるマーセはウェイルズ直属の部下だ。祓魔師は主に魔獣や堕落者を祓い、その発生原因を解明する実行部隊的意味合いが強く、退魔騎士には主に政治家や貴族相手に交渉し、祓魔師をサポートする役目がある。もっとも、昨今では役割分担通りに行く方が珍しい。それぞれが逆のことを行ったり、両方を一人で担わなければならない事態も多い。そのため、手順が狂ったり、省略されたり、大事な知らせが届かない場合も多々ある。まさに忙殺されかねない勢いで、祓魔師と退魔騎士の需要は増えていた。
その経験則を踏まえても、今回の事態は異常の一言だ。いくら祓魔術を重要視されるこの国でも、国王が死んでいることに誰も気づかないとは。
「こんなことが有り得ますか」
「実際に有り得たのだ。ローズマリーの報告では、堕落者は幻惑の力を司っていたとされる。ミラ王女が王城をテリトリーとし、守護していたのだとすれば、取り込むべき存在と洗脳し帰すべき存在を取捨選択していたとしても不思議ではない」
ウェイルズは推論を述べる。マーセも概ね同意だった。堕落者は本能のままに動くが、それは一切の思考を捨て去るという意味ではない。ミラ王女の堕落欲求が食事だと仮定して、がむしゃらに満たすために動いていれば教会は即座に異常性に気が付いただろう。だが、王女が欲していたのは幻想世界だった。自分自身が思い描く、自分のためだけの世界。となると、防衛機構が世界の存続のために働き、城から出してよい人物とそうでない人物にそれぞれ役目を与えてもおかしくはない。まさにアリのように。外で働くアリと、中で警備するアリだ。
ローズを取り込もうとしたのは、彼女の怪物を王女が畏怖したせいだ。そして実際に、彼女は祓った。いや、ローズの報告を聞くに、何者かがわざと祓わせたのかもしれない。
「ローズマリーは狙われています。謎の協力者に」
「彼女は元々そうだった」
「そんな話は一度も聞いてませんが」
達観するように呟いたウェイルズへマーセが眼光を鋭くする。
ローズは悪魔少女だけでなく、退魔教会を崩壊させようとする協力者にも標的にされている。
だがそうなったのは今回からだ。元々そうだったなどという話は聞いたことがない。
「ローズマリーを保護する前、私は彼女の父親から相談を受けていた。自分の娘が血が繋がってないかもしれない、とな。遺伝学はまだまだ未発達の分野だが、黒髪の親から金髪の子どもは生まれるし、その逆もまたある。だが、彼の相談内容は、もっと深い、彼女の本質的なものだった」
「本質的……とは」
「曰く、人間味がないという。彼女は生まれついてから怪物を、目覚めさせていた」
怪物――悪魔を祓う才能。人でありながら人ならざる力を持った存在。
実のところ、怪物という概念は曖昧だ。悪魔と戦える祓魔師全般を指して怪物だと言う意見もあれば、人間全員が怪物を持ち、開花する時を待っているという説もある。もしくは、怪物と言うのは人間が持つ欲望であり、堕落者はその形に沿って構築されるという話もあった。
「ですがローズは」
「人間だ。だからこそ、怪物を持つ。私もローズマリーが異常者だとは思わない。もし異常者の類だとしても、だとすれば私自身も含まれる。そこについて議論を交わすつもりはない」
ウェイルズは椅子から立ち上がり、窓へ目を向けた。窓の外には街が広がっている。ローズの故郷の町も見えるはずだ。
「だが、彼女は悪魔に惹かれやすい性質を持っていた。或いは、彼女の存在が悪魔を引き寄せている」
「それを知りながら――」
マーセは右手を強く握る。強い怒りを感じる。それがわかっていながら、なぜ。
「ローズをエクソシストにしたのですか」
「それが彼女の希望だった」
淡白にウェイルズは返答する。マーセに振り返りながら。その瞳は非情で冷酷。ウェイルズはそういう男だ。犠牲無くして退魔無し。魔を祓うためには必ず犠牲が伴う。赦す必要はないし、赦されるつもりもない。
マーセはその考えに理解を示しながらも、嫌悪感を抱いていた。彼の言うことは正しい。現実を物語っている。だが、許容できるかといえば、そうではない。ローズはマーセの親友だ。例えそのきっかけが最悪なものだったとしても。
「彼女は私の親友です。殺させるわけにはいかない」
「私とて、そうだ。彼女よりも信頼でき、強力なエクソシストを私は知らない」
「ではなぜ彼女を危険に晒すのですか! ローズは衰弱しています! 精神的に!」
昂る感情のまま叫んだが、ウェイルズは動じない。表情を変えることなくマーセを見据えている。
「必要だからだ。彼女の力が。お前の危惧もわかる。理解を示そう。だが、私の考えは変わらない。ローズマリーは退魔教会の存続のために必要だ」
「彼女が壊れたら……!」
「ローズマリーは壊れない」
「根拠なき暴論です! あなたは知っているはずですよ、人間の脆弱性を!」
「なら、お前が支えてやれ。私は教会を存続させるためなら、手段を選ばない」
「……わかり、ました」
これ以上言葉を交わしても無意味だ。ウェイルズの考えは変わらない。
部屋を立ち去ろうとしたマーセは、最後に執務机に置かれた本へ言及した。
「その本、もしや――魔導書ですか?」
「……なぜ、そう思った」
マーセは答えない。ウェイルズの表情も不変。
「検閲で上がってきたものだ。念のため、中身を確かめている」
「そう、ですか。では」
「待て、マーセ。謎の協力者についてだが」
マーセは足を止め、ウェイルズの言葉に耳を貸す。ウェイルズは上司として部下に忠告した。
「男とも言われているが、偽装かもしれない。注意しろ」
「了承しました。それでは」
マーセは扉を通り抜けた。強く純粋な想いを胸に秘めて。
※※※
「チッ――」
止めどめなく放たれる弓矢は、ローズマリーの進路を妨害する。森の中で祓魔を開始したローズは、猟師に狩られる立場となっていた。
堕落した猟師は奇妙な衣服に身を包んでいた。退魔騎士の鎧だ。明らかに人為的な工作の跡がある。猟師は退魔教会と一般市民程度しか関わりがない。強固かつ恐るべき軽さを持つ鎧を手に入れる伝手があるはずもなかった。
なのに、彼は鎧を着て、得物である弓をローズに向けている。狩人が獲物を狩り立てるように。
さらに厄介なのは、周辺を猟犬が走り回っていることだ。それもただの狩猟犬ではない。
「ワーウルフ……!」
魔獣である人狼は、言葉通り人型の狼である。通常の魔獣に比べてとかく強力で、フランスでジェヴォーダンの獣などと呼ばれて猛威を振るったこともある。奇しくもウェイルズ家の人間が祓魔に訪れ、その約二十年後にフランス革命が起こったのだ。
「シュタイン……!」
「対処しています」
シュタインは自動拳銃と狩猟剣を使ってワーウルフと格闘している。三体いた人狼の内二体をシュタインが引き受け、ローズは堕落者の射的に見舞われながら、同じようにトマホークピストルでワーウルフと交戦していた。
しかし、爪が鋭く、直撃したら裂傷だけでは済まない。腕ならば千切れ、首ならば掻き切られる。
(……ワーウルフはあくまで囮に徹するつもり。本命は堕落者による射的。オーソドックスな狩りね)
ワーウルフは猟犬のように獲物を誘導させることのみに努めている。猟師の堕落者はどうにも自分で獲物を狩ることにこだわっている節が見られた。先にワーウルフを始末したいが、現状のままでは埒が明かない。なので、あえて致命的な隙を作る。ローズは草木を盾にするように転んだ。足を滑らせてしまった愚か者のように。
「ヒヒ、ヒヒヒッ!」
堕落者の恍惚とした笑い声。彼の角度からは生い茂る草が邪魔となって射的ができない。否、強引に力を使えば狩れるだろうが、彼は狩り方に独特の癖がある。恐らく、ナイフを引き抜いて殺しに来るはず。先にワーウルフにローズを弱らせてから、解体するのだ。
案の定、ワーウルフが仰向けに転んだローズにダメージを与えようと接近してきた。ローズは痛みに呻くふりをして、狼人間の判断を鈍らせる。そして、爪を振り下ろそうとした瞬間に、トマホークピストルの銃部分を発射した。
ぐしゃり、と血が飛び散る。動きが鈍ったところへ逆にローズが飛び掛かる。斧を力任せに振り薙いでワーウルフの首を切り落とした。さらなる血しぶき。血まみれになりながらも、ローズは純潔を引き抜いて堕落者に射撃。
「――――!」
猟師は絶叫して、銃撃を躱す。即座に矢をつがえて速射。その矢をローズは紙一重で回避する。後方で悲鳴が轟く。無論、シュタインのではない。彼女はローズの思考を読んで、ワーウルフを逆誘導していた。ローズの避けた矢が、ワーウルフに命中したのだ。
「感謝します、ローズ」
「どういたしまして」
自らの攻撃でペットを射殺した堕落者が怒りに任せて弓を引きちぎった。愚策だとローズは思ったが、彼のにんまりとした笑顔で考えを改める。彼はローズと同じタイプだ――近接戦が苦手ではなく、遠距離戦の方が得意なタイプ。
ローズは斧とナックルダスターを両腕に装備して駆ける。緑に包まれた森の中では、跳弾射撃は不可能だ。そして、彼の反応速度では銃撃は避けられてしまう。なので、接近戦で片を付ける。当初の目論見通りに。
「怪力ね」
猟師は刃渡りの長いナイフを凄まじいスピードとパワーで振るってきた。トマホークで受け流すのがやっとだ。堕落者となっている以上、彼自身の強さは大幅に強化されている。それでも他の堕落者と比べて手応えがないのは、協力者が人間だからか、強引な堕落の代償か、それともあえて力を調節したのか。
「どれでもいい」
心底どうでもいい。堕落者の強さの理由などは。
ローズは斧を構えて防御姿勢を取る。そこへ猟師が踏み込み、斧を吹き飛ばした。一瞬だけ、呆けた表情を作るローズ。次の瞬間には顔に笑みが張り付いていた。
わざと崩した体勢を瞬時に立て直し、左拳にはめた悲劇による打撃を左腹部に放つ。よめていたところに連続殴打。ナイフを避けて、殴って殴って、殴り続ける。
衝撃ダメージで猟師が弱ってきたところへ、足払い。転ばせて、すかさず右手でリボルバーの銃把を掴む。
「終わりよ」
反撃の余地なく抜き撃ち。猟師の絶命を肯定するかのように流れ込む記憶。
またあの男が出てきた。本を片手に持ち、古い軍服を着込む謎の協力者が。
残りのワーウルフを討伐したシュタインが語り掛ける。ローズは肩を竦めた。
「大丈夫ですか? ローズ」
「ええ、怪我一つないわ」
「そちらではありません」
気遣うシュタインにローズは振り向く。血まみれの身体を一瞥したシュタインは、マーセと同じように悲しみを湛えた瞳を向けた。
「あなたの精神について、訊ねているのです。ローズマリー」
「そっちも、傷一つないわ」
ローズはシュタインの顔を見ずに答える。頭をもたげるのは、苦悶に満ちた猟師の表情と助けを求める声。ボロボロに心を砕かれた彼の、断末魔だった。