幸福な悪夢
満面の花畑。美しい、幻想的な景色。一切の不純物は存在せず、悪意ある化け物が闊歩する場所でもなく。
悪魔という忌々しき存在が完全に排除された、まさに理想郷とも呼べる場所。
その中心にローズマリーは立っていた。呆けて、瞠目し、改めてその呼称を放つ。
久しく言い放つことのない、否、二度と呼ぶはずのなかった呼称を。
「母さん……どうして」
黒髪の女性が微笑んでいる。自分を庇って、死んだはずの女性が。
その事実はローズを驚かせた。だが、すぐになぜ驚いているのかがわからなくなる。
自分を見失う。それでいいと思ってしまう。
「迎えに来たのよ、帰りましょう、ローズ」
「……うん」
ローズは微笑しながら返事をした。本能に従って。
花畑は素晴らしく、ローズの心をときめかせた。このような場所が――綺麗な風景が好きだった。
仕事のついでに意味もなく、美しい景色を探してぼーっと眺めることが度々あった。
もはや、仕事の内容は思い出せない。そもそも自分が働いていたことすらわからないが。
「お花を摘んでくれたのね、ローズ」
「うん。ローズマリーを見つけた」
祓魔の花。海のしずくを意味するこの花はローズマリーの名前の由来だ。
なぜこの花が花畑の中に紛れ込んでいたのかは定かではない。全てがどうでもよかった。
母親が傍にいて、いっしょに歩いている。それだけで十分ではないか。
ローズは年相応の少女のように笑顔を湛えながら、花でできた道を通っていく。
そして、突然現れた家の前で止まり、母親の呼びかけに従って戸口へと目を向けた。
「あなた、帰ったわよ」
「おお、帰ったのか母さん。ローズもいっしょか」
扉から現れたのは父親だ。笑顔を浮かべて、家族の帰宅を歓迎している。
父親はローズを抱擁しようと手を広げた。それをローズははにかんでやんわりと断る。
「もうそんな年頃じゃないよ」
「むぅ、そうか」
「ふふ、仲睦まじいこと」
「父さんと母さんほどじゃないよ」
と冗談交じりに言うと、目の前で父と母は抱き合った。母親が父の頬にキスをする。
「そうね。確かにそう」
「まぁ、娘とのスキンシップは今度にするか」
父は嬉しそうに笑いながら、ローズを家へと招き入れる。ローズは家――我が家へといつもの動作で帰って行った。二階建ての家屋。家の中には質素ながらも十分すぎるほどの生活空間が広がっている。
どれだけ焦がれていただろう。この状況に。
「ふふ」
「どうしたの? ローズ」
「……何でもない」
無意味に笑って、はぐらかす。表情が緩み切っていた。
それではダメだと何かが叫んで、瞬時に否定する。なぜダメなのか。その理由が思い当たらない。
「こんにちは!」
ローズが思索に移る暇もなく、次なる訪問者が現れる。
呼び鈴を鳴らしたのは双子の……姉妹だった。エレンとヘレン。その後ろにはマリア先生もいる。
「ローズさん、お帰りなさい!」
ヘレンが満面の笑みで抱擁してきた。ローズは拒否する間もなく彼女を受け入れる。
――彼女とまともに会話したこともないくせに。
何かがしゃべりかけたが、無視した。エレンが羨ましそうに、指をくわえて見ている。これではどちらが姉かわからない。
そして、マリア先生は呆れたような喜ぶような複雑な表情をしている。
「こらこら。目的を忘れてはダメよ」
「あ、そ、そうでしたね!」
「目的って?」
ローズが訊ねるとヘレンが喜々として応える――前にエレンが割り込んで代わりに答えた。
「パーティですよ! みんなでするんです?」
「何の?」
「あなたのパーティよ、ローズ」
「マリア先生」
マリア女医はクマのぬいぐるみを直してくれた時のように柔和な笑みで告げる。
「お帰りなさい、ローズマリー。ごちそうをみんなで作って食べましょう」
その言葉を受けて、ローズマリーは目を大きく見開く。そして、しずくが瞳からこぼれた。
まさに海のしずくのような、涙が。
「ローズ、どうしたんだ?」
「ご、ごめん。嬉しくて――」
――悲しくて。
ローズは照れながら涙をぬぐうと、買い出しに行くというエレンとヘレンに付き添った。
家の外には見慣れた街並みが広がっている。故郷の街だ。
とある事情で引っ越す前の街。なぜ引っ越したのかが曖昧だ。何か酷く悲しいことがあった気がするが、思い出せない。
「何を食べたいですか、ローズさん」
「特に何も……」
「……欲がない」
質問したヘレンが落胆する。エレンが質問の仕方が悪いのよ、と妹に指摘し、手本を見せるかのように問いかける。
「好きな食べ物は」
「特にない」
「じゃ、じゃあ嫌いな食べ物……」
「それも、特に」
「残念ねエレン」
「うるさいな、ヘレン」
双子は姉妹というよりは友達のような距離感だった。恐ろしく似ている。もし片方が嘘を吐いたとしても、姉妹の正体を見破れる人は誰もいない。
――でも、堕落した時は別。
「こんにちは」
街を警備する警官に挨拶を交わす。不思議と見覚えがあるが、一体誰だったのか思い出せない。近くの喫茶店には幸福そうにパンを食べている女性がいた。少し離れた先にある屋敷では、屋敷の主人が使用人と談笑している。使用人の肌は黒色だったが、主従関係を超えた友情が二人にはあった。
なぜか既視感のある人々の間を通り抜けて、ふとケーキ屋の前で止まる。
「……」
「ケーキ、好きなんですか?」
「好き、というよりも……」
ほのかに記憶が残っている。バースデーケーキの思い出が。
両親が自分の誕生を祝ってくれる特別な日に、そのケーキは用意される。
習慣としては半世紀経ったか、というぐらいのものだ。百年も前ならば、誕生日にバースデーケーキが食べられるのは金持ちだけだった。
だがそれでもローズにとっては特別だった。両親が喜んでくれる大切な日だった。
――年を重ねるごとに親の表情は陰っていたけど。
「じゃあ、ケーキにしましょうか。お祝いですし」
「うん、お願い。……二人で決めていいから」
「え、でも……」
ローズの言葉に双子が目を丸くし、顔を見合わせる。しかし、ローズは用事があると言い残して街中へと進み始めた。双子は困惑しながらも、ローズの要請通りに店の中へと入っていく。
監視の目が、消えた。いや、彼女たちに自分を見張っているという実感すらないだろう。
ローズは自身の由来の花を強く握りしめながら、目的の店を散策する。
だが、それらしき店が見つからない。そもそもの概念として存在しないのかもしれない。
(仕方ない)
ローズは諦めて、見知った顔の警官へと近づく。
「あの」
「何でしょうか、ローズマリー」
警官はこちらの名前を覚えていた。ローズはしかし気にせずに青服の腰に収まるソレを指し示す。
「それ、貸してくれない」
「それは無理ですね」
「そう」
なら、仕方ない。本当に、どうしようもない。
ローズは警官に接近し、棍棒を奪うと警官を殴殺した。
喫茶店から悲鳴が上がる。ローズは平常心を保ったまま警官の懐から探し、
「……ごめんなさい」
リボルバーを回収しながら謝罪する。
「二度も殺して」
そして、目を伏せた。かつて自分が射殺した男に。
ロンドンで出会った正義感の強い男だ。警官としての誇りを忘れなかった男は、腐敗した社会に絶望して堕落した。
堕落者は基本的に良い人間の成れの果て。悪人の堕落者は滅多に出現せず、現れたとしても非常に弱い。強く、清く、美しい人間が、恐ろしい化け物となる。ゆえに、この街にいる人間は皆善人だ。
――自分が過去に一度殺した、いい人たちばかりだ。ローズはリボルバーの撃鉄を起こした。
喫茶店にいたパンを食べていた女性が逃げようと、椅子やテーブルを蹴散らしながら駆けている。逃げられては面倒なので、ローズは彼女の背中に銃弾を浴びせた。軍人にレイプされて、堕ちた女性だった。
次に狙いを定めたのはライフル銃を片手に、やってきた軍人だ。その男の頭を撃ち抜く。彼は勝利者の存在しない戦争で地獄を見た兵士で、数十年にも渡り亡霊として各地を彷徨っていた。
「ごめん」
ローズは謝りながら、ライフルを剥ぎ取る。ライフルには血がべったりついていた。
「ローズさん!?」
そこへ戻ってくる双子。手元にはローズを祝うケーキがある。
双子の姿を視認して、ローズは躊躇なくライフルを向けた。
先に姉であるエレンを殺す。ヘレンが姉の名前を叫んだ。
「エレン!! よくも――」
ヘレンはナイフを抜いた。いや、包丁だ。
きっとケーキをカットするためのもの。ローズマリーのための、人を殺すためではない、しかし人を殺せてしまう道具。
ヘレンは強引に突っ込んでくるが、銃と刃物では銃の方が有利だ。特に玄人の銃口の前では。
弾丸がヘレンの脳髄をかき乱す。死の瞬間にヘレンは恨み言を放った。
「のろって、やる……」
「そう、しなさい。あなたたちにはその権利がある」
ローズは慣れた手つきでレバーを前後に動かして、次なる標的を見定める。街中での虐殺が始まった。
どれも、見知った顔。自分が祓った堕落者たちだった。
包丁で喉元を掻き切った後、刃こぼれしたため投げ捨てる。周囲にはたくさんの死体が転がり、血の海が広がっていた。彼らの表情は皆一様だ。恐怖に顔を凍らせる者。憤慨した表情で斃れる者。悲哀に満ちた顔で絶命する者。
ローズはたくさん殺した。二回も、二度も。ポケットに手を入れて、自分の名前の花を見直す。
血で汚れていた。ローズマリーが血で濡れている。
「これが、私」
笑みをこぼして、花を血の中に捨てた。退魔の花、記憶を補助する効能のある花が血の海へと沈んでいく。一筋のしずくのように。
ローズは血でぐしゃぐしゃになったワンピースのまま、帰路へとつく。途中武器になるようなものを探して、懐かしい場所を見つけた。
マリア診療所だった。クマを直してもらうために立ち寄ったところへ、ローズは入っていく。
そして、目当ての代物を見つけた。医療用のメス。これも人を殺傷するための道具ではない。
だが人は、いとも簡単に人を殺せる。怪物ならばなおさらだ。
「誰? 急患?」
マリア先生の声がして、ローズは振り返る。
彼女は真っ赤に染まった白のワンピースを認めると、案じて近寄ってきた。
「大変! 大丈夫、ローズ! どこか怪我を――」
「ううん、先生、大丈夫」
ローズはにこやかに笑って、否定した。そうとも、全然平気だ。
この血は全て返り血なのだから。ようやくマリアが異常事態に気付く。
「ローズ……?」
「先生も、ごめん。私は先生みたいになれない。人を祓うことしか、殺すことしかできないの」
「いやっ、やめて! ――ディン!」
マリアは婚約者の名前を叫んで死んだ。ローズが喉に深くメスを差し込んだからだ。
どさり、と音を立ててマリアの身体が崩れ落ちる。その死体を越えて、ローズは目的地へと移動を続けた。
一体自分が何に巻き込まれているのか、ローズには判別がつかない。
自身が咎められているのか。それとも悪魔による悪辣なゲームか。
ただ一つだけわかっていることがあった。それはこれが自分に対しての罰だということ。
だからローズは甘んじて受け入れる。最終地点へ辿り着くと、扉を開く。
お帰りなさい! という嬉しそうな声。母親が出迎えてくれた。笑顔はすぐに崩れ去り、自分を庇って父親に殺された時の表情となる。
「あなた! 大変!」
「なんだ……!? ローズっ!!」
父親が息を呑む。即座に血が返り血で、ローズがたくさんの人を殺したことに気付いたようだ。
本当によくわかっている。父は自分の本質に、誰よりも早く気が付いていたのだ。
ローズは皮肉な想いに駆られながらも、申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい、父さん、母さん……」
そしてメスを振りかざす。が、父はなぜかリボルバーを所持していた。
母親を撃ち殺した銃だ。玄関口で放たれた弾丸を、ローズは事前に銃口の動きから弾道を予測して避ける。玄人ならばこうも容易くいかないが、父親は素人だ。殺しの術を身に着けていない。その銃はいざという時に備えた自衛のためのもの。
ゆえに胸元へメスを突き立てるのは、簡単だった。父が血を拭いて、床に崩れる。母親の絶叫。ローズは父の銃を拾って、母親へ構えた。
丁度、父が母を殺した時のように。
「ごめんね、母さん……」
震える母親にローズは今一度謝る。何度謝っても謝り足りない謝罪を口にする。
「私は、悪魔の子みたい」
銃弾が脳漿をかき乱した。直後、誰もいないはずの家の奥から小さな足音が聞こえてくる。
反射的に身体を向けて――ローズは深く安堵した。
「ああ、よかった……あなたなら――」
ローズは安心しきった表情を見せて……彼女に銃を突きつける。
「あなたなら、何の憂いなく、殺せる」
「パパ……ママ……?」
幼子にしっかりと狙いをつける。この距離なら手元が震えでもしない限り外すことは難しい。
そしてそれは有り得ない。むしろ今まで祓った堕落者たちよりも、喉から手が出るほどに殺したい子どもだ。
金髪の髪を持つ、小さな女の子。父と母が死んだというのに涙一つすら流さない、異常な怪物。
間髪入れず引き金を引く。そして、弾切れの音を聞いた。
ローズは顔を顰めた後、リボルバーの銃身を掴んで、思いっきり振り下ろす。
幼い自分、殺したくても殺せない、忌々しき怪物へ。
「あら、思ったより早かったわね」
紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。自分を誰かが見下ろしていた。
瞬時に純潔を引き抜いて白い椅子に座る少女へ銃撃する。が、黒のドレスを着込んだ少女は頭を撃ち抜かれながらも紅茶を飲み続けた。
「せわしないわね、ローズ」
「お前の仕業か」
「いいえ。私は楽しそうだから見に来ただけ。それに、寝取られても困るのよ」
「私の処女を奪うのはあなたってことね」
「とっても素敵だと思わない?」
「それであなたを祓えるのなら」
「相変わらずね、ローズ。ゾクゾクする。サド侯爵に近いわ」
「あなたもマルキ・ド・サドの話をするの」
ローズは服のほこりを掃う。廊下で眠っていたらしい。衣装は白のワンピースではなく、黒の神父服だった。頭にはちゃんとハットも被さっている。
「サドは有名人よ。彼は欲望とは何かと常々考えていた。異常者としても見られていたけど、悪魔の誘惑には一切屈しなかった。私は好きよ」
「自分の欲望を知り制御する。それがエクソシズムの基本」
だからローズは呑み込まれずに済んだ。あの夢の中で。幸福な夢のような、悪夢に。
「もう少し楽しむかと思っていたわ。絶対に手に入ることのない、理想郷の中で」
「私の中にある楽園。そう、あれは全て虚構。ただの幻でしかない」
「でも人は幻を望む。現実では有り得ない幻想を」
「人ならね。でも私は怪物」
「なら、現実を見せてあげることね」
悪魔少女は淡々と、他人事のように告げる。実際、他人事なのだろう。
それが悪魔の特異性でもあった。悪魔は同類が何をしようと基本的に干渉しない。害を与えられても敵対することは滅多にない。悪魔は強者だ。人間のような弱者と違い、脅かされたところでその脅威を快楽に変換できる。
悪魔の勢力も人と同じように一枚岩ではない。だが、人間と決定的な違いは、小事で戦争をしたりしないことだ。
そういう意味では、悪魔の世界は非常に平和だった。余程のことがない限り話し合いで解決される。愚かで弱い人間とは違い、上位者である悪魔には戦争などという幼稚な概念は存在していない。
それでもやはり利害の不一致はある。ソロモン王の七十二柱と大多数の悪魔の見解が異なっているように。
「お前は……」
「私はあなたの……そうね、保護者のようなもの? もちろん、ゲームの対戦相手であることも忘れずにね」
側頭部の傷が塞がっている最中にも、悪魔少女は平然としている。
ローズはその異常性を何の感慨もなく見つめた後、悪魔少女に背中を向けた。
「信頼してくれるのね、ローズ」
「あなたは不意打ちを好まない。その点に関しては、ね」
悪魔は勝利にこだわっていない。むしろ敗北を望んでいる。
強すぎて、心が涸れているのだ。乾いた心を潤わせる役目を、この悪魔はローズマリーに望んでいる。
望むところだと強く思いながら、ローズは不気味に静まる廊下を進む。
まだ昼だというのに、昼夜が逆転してしまったように暗かった。あらゆる窓にはカーテンが掛かっている。
(暗闇を求めている……? いや)
闇を好むというよりも、真実を曝け出されたくはない。そのようにローズは理解する。
これは悪魔の仕業ではない。堕落者の兆候だ。この演出にはとても人間味を感じる。
「闇が好きじゃなく、光が怖い。全てを浮かび上がらせる光が」
右手には壺娘の贈り物であるトマホークピストルを持つ。片手で扱える、近距離と遠距離に対応した優れもの。人間相手の武器としてはあまり相応しいとは言えないが、悪魔の眷属に関してはこれほど最適な武器もないだろう。
凶悪な斧銃を構えながら、薄暗い廊下を歩く。しばらくすると、不自然に開いたドアが見えてきた。
ローズは警戒しながら扉をゆっくりと開く。食堂だった。長いテーブルにはたくさんの食事……らしきものが並んでいるが、食欲を湧かせる光景だとは言い難い。
(……臓器。悪趣味ね)
腐りかけの臓器がたくさん並んでいる。椅子に何名か座っているが、確認するまでもなく死体だということがわかる。
この呪いのようなものは城全体に広がっているようだ。しかし、それはそれで妙である。なぜ誰も王城の状態に気づかなかったのか、という点で。
しかし、先程の悪夢を判断材料に加えれば合点がいく。皆城を訪れて、幸福感に包まれたのだ。幸せな世界を目の当たりにして、健常の思考を放棄した。悪魔の、堕落者の力を侮ってはいけない。奴らは有り得ないものを有り得るように改変してしまう。ナポレオンが皇帝になったのも、悪魔の力だと言われている。
見るべきは現実だ。そんなことは有り得ない。普通なら気付くはずだ。そんな空論を述べる前に、現実を直視する必要がある。実際にそこに超常現象があり、法則として稼働しているのならば、それはそこにあるのだ。現実から目を背けてはならない。
そして、闇に引きこもる堕落者にも、現実を見せる必要がある。
「どこにいるの」
ローズは危険を承知で問いかける。城内は広いので、悠長に探索するのはあまり賢い選択とは言えない。こういう局面では、慎重に物事を進めるよりも、敵に動いてもらった方が御しやすくなる。敵に襲われるよりも罠に嵌まる方がより困難となるのだ。
幸運にも、得てして堕落者というものは理性ではなく感情……本能で動く。自身の欲望が制御できなくなった果てが堕落者だ。思考する敵なら迂闊な行動はしないだろうが、戦術論を欠いた堕落者ならば、呼びかければ応えてくれる。
案の定、反応があった。予想とは違う相手からであるが。
「迷子ですか? 迷子ですか?」
「……メイドか」
何かに憑りつかれた表情のメイドが訊ねてくる。その声に呼応して、不規則に歩く警備兵や、一般市民、貴族らしき者たちも現れた。誰もかれもが生きた死人だった。もしくは、死んだ生者である。死体を利用した魔獣であるゾンビのような動きをして、こちらに歩み寄っている。口々に放たれるのは、迷子を案じる言葉。
「こちらではありません」「帰るべきです。帰る家に」「さぁ、元の世界に戻って」「夢を見るのです。幸せな夢を――」
「囚われているのね」
同情的な眼差しを、彼らに注ぐ。生きていないながらに死んでいない。命の定義に当てはめれば、彼らは等しく死人だ。だが、魂が囚われている。自身が生み出した幻想に。
となれば、祓魔師は祓わなければならない。祓わなければ、救われない。
「残念だけど」
手始めに手近なメイドの頭を斧で叩き切る。身体は何の不自由なく、何の束縛もなく、自分の意思に従ってくれた。メイドはあっさりと崩れ落ちる。魂は、心は、頭の中にある。
次に警備兵の首を刎ねた。貴族、給仕係、ただ城を訪問していた貴族と続く。中には、行方不明だった祓魔師も含まれていた。多くの人間たちが、王城と頭の中にある楽園に囚われていたのだ。
当初こそ緩慢だった虜囚たちの動きは、ローズが楽園に戻らないと知って攻撃的になり始めた。それはまさに異物を排除するための排他機関の動きだ。この城は、城主にとっての一部であり、虜囚たちは同化を拒否した異端を駆逐するための猟犬だ。
敵の動きが早まると同時に、ローズの攻撃もより積極的に変化する。斧を振り上げて老人の首を切り落とし、そのまま前方の敵を切り倒していく。五人ほど固まっていた集団の最後の一人の首筋に刃をめり込ませた瞬間、後方から一人の女性が奇声をあげて襲い掛かってきた。
「さて、と」
その奇襲を予定調和というべき余裕さで、ローズは粛々と対応する。トマホークピストルの第二の特徴である柄に仕込まれたパーカッションロックピストルを、ローズは撃ち放った。前の敵の首を刎ねながら、後ろの敵の頭を撃ち抜く。集団戦に適した装備だった。
「……いいわね」
敵の死体を見下ろして、武器の性能に笑みを浮かべる。ただし難点が一つある。それはリロードに時間が掛かるという部分だ。ローズは斧を逆さまにして撃鉄を半起こしにし薬室を開くと、柄の下部にある銃口に壺娘が用意していた弾丸と火薬を注ぎ入れた。そして撃鉄を最大まで起こし雷管をニップルにはめる。
リボルバーに比べればゆったりとした装填を行っている間にも、虜囚たちが集って来ていた。このままでは埒が明かないのでローズも駆ける。番犬ではなく、飼い主を祓わなければ、いずれこちらもじり貧になる。拳一つで状況を切り抜ける自信もあったが、それではまた被害者が増えてしまうかもしれない。
怪物を昂らせるのは後回しにして、ローズは城内を捜索する。何の当てもないわけではなかった。
(城主が行き着く先といえば、玉座ね)
幸いにも城中は何らかの特殊な力で改変されてはいなかった。なので階段を昇って上階へと上がっていく。人型の敵は魔獣よりも対処が容易いので、特に苦も無く目標地点には進めた。恐らくはあの幻想世界で意識を閉じ込めるつもりだったのだろう。この反撃は予想外だったのだ。
ここまではローズの予想通り。敵が追いつく前に玉座の間の扉を開く。
「バルテン王……」
そして、予想範疇内の相手の予想を超えた姿に意表を突かれる。
バルテン王は玉座に鎮座していた。そこまでは想定内だ。しかし、彼は既に故人だった。
食堂の椅子に座っていた遺体と同じく朽ち果てている。詳細を観察しなくても、彼が悪夢の主でないことは明らかだ。
「ホストは別にいる……」
とすれば、一体堕落者は何者か。思索を巡らせる間に、答えは現れた。
否、最初から張り付いていた。質素絢爛な部屋の壁に。
「ナンデ、ナンデナノ!?」
「王女殿下……」
冷静さを維持しながら、ローズは気配のする方へ振り向いた。麗しい少女がいる。壁にクモのようにぴったりとくっついて。王女殿下は人間が気の遠くなるような昔に獲得した二足歩行を捨て去って、四足歩行で器用に壁に捕まっている。首はぐるりと一回転して、骨が折れているはずの状態だった。
それでも彼女は生きている。幻想に閉じ込められている。
「ナゼ! ナゼ!」
「よろしければ私からお伺いしたいのですが」
リボルバーを抜きながらローズは問う。想定通りの答えが返ってきた。
『ウルサイ! ヤダ! ダシテ!』
「そうでしょうね」
ローズは引き金を引く。銀弾が王女に向かったが、節足動物が嫌いであれば嫌悪感を抱いてしまいそうな滑らかな動きで彼女は壁を這い回った。銀弾は壁に潰されて、跳弾もしない。まずは様子見。
次は命中させる。ローズは再び撃鉄を起こす。
しかし、王女の素早さは驚異的だった。闇雲に撃っても直撃する気がしない。かといって、時間を掛ければ敵の増援と新しい被害者が増えてしまう。となれば、手っ取り早く行動を封じて壁から落とすしかない。
そして、そのための術をローズは思いついていた。狙いを王女から、カーテンの閉まる窓へと向ける。
「トジコメナイデ! ヤダ! ヤダ!」
「今、出して差し上げます。王女、殿下!」
ローズは窓を撃ち割った。風でカーテンが開き、太陽光が玉座の間を満たす。すると、王女は発狂したように叫んで、壁から落下した。しかしまだ動きがあったので、ローズは無心に窓を次々と割っていく。光が城を照らし、王女に現実を直視させる。幻想ではなく、真実を。
かつては目を見張るほどの美しさを持っていた王女は、身体がやせ細り見る影もなくなっていた。苦悶に喘ぎ足をじたばたと動かす彼女へローズは近づく。
「申し訳ありません。殿下」
ローズは謝罪を口にする。リボルバーを仕舞って、斧を逆さに構えた。
「もう少し早く、楽にして差し上げるべきでした」
ローズは柄に搭載された発射装置を倒す。銀の弾丸が王女殿下の頭を撃ち抜いた。
※※※
「これが外の景色なのですか、アレン」
ミラ王女は青年の貴族が持ち寄った絵画を見て胸をときめかせていた。アレンと呼ばれた青年はそうですよ、と頷く。
ずっと狭い世界しか知らなかった王女にとって、外の世界は夢の世界だった。しかし、世界は実際にそこにあるのだ。行動さえ起こせば、広い世界を見に行ける。その冒険の危険性をミラは重々承知していた。
世界は悪魔の庭でもある。でも、だからこそそれを知る義務が自分にはある。
そう考えたミラは父親であるバルテン王に視察を願い出た。
「お父様、私は外の世界を見たいのです。そうするべきだと、考えます」
「よろしい。では、予定を調整しよう。構わんな」
「ありがとうございます、お父様!」
バルテン王も視察の重要性を理解していたので、話は思いのほか順調に進んだ。ミラは絶望的な世界にも必ず光はあると信じて、一国の王女として恥じぬよう外国の文化を精力的に学んだ。
そこまでは何も滞りなく進んだ。だが、突然ある知らせが届いた。
「すまぬが視察はキャンセルだ。国に悪魔の侵入を許したとウェイルズから知らせがあった」
「……そう、ですか」
ミラは落胆したが、彼女も祓魔の重要性は学んでいる。素直に了承し、部屋へと戻った。
そこで声を聞いた。頭の中に直接訴えかけるような不可思議な声を。
――ミラ王女。あなたは騙されている。
「何……何が」
慌てて部屋全体を見回す。しかし室内には誰もいない。声だけが響いている。頭と心に語り掛けるように。
「何者です……」
――ただの助言者だ。私の忠告に耳を貸した方がいい。
「なぜです……!」
――時には大胆に、時には慎重に行動する。それが成功の秘訣だ。
「私はあなたを信用してなど……!」
「そうだろう。それが当然の思考だ。だが、彼らはどうだ?」
今度は頭の中ではなく、耳へと言葉が投げかけられた。小さく悲鳴を上げて、ミラは部屋の一角を見る。
軍帽と軍服を身に纏っているが、その服装は豪華だった。そして歴史を感じさせる衣装だ。質素な城とは違う。一目でミラは気付いた。これは外の世界の服装だ。外部からの敵。悪魔が城の中にまで侵入したのだ。
「おっと、待ちたまえ。番兵を呼ぶには早い」
「あ、あなたの、目的は……」
「ああ、そう怯えることもない。私もかつては一国の王だった。王族の扱いには慣れているつもりだ」
「なに、もの……」
「不快に感じられるだろうが、ミラ王女。私の名前を知るには早い。……見ているんだろう?」
目深に被った軍帽で顔の窺えない男は、ミラ以外の誰かに話しかけた。
「マモンを追い払ったのは見事だったが、私はこうしてここにいる。そして君は私が誰だかを知らない。いや、当然とも言えるな。これまた」
ミラは慄きながら、男の語り口から逃れるべく扉を叩いた。しかし誰も反応しない。
「誰か! 誰か助けて! 出して!」
「ああ、今は現実を遮断してある。何をしても無駄だ――と言ったところで、もはや聞く耳を持たないか。いいだろう。それはそれで話しやすくて助かる。そうとも……君。君は可能性を潰すために城を訪れただろう。楽しんでもらえたか? この趣向は実にドラマチックだと私は考えている。ああ、不思議だ。君の怒りが見えるな。憤怒に燃える君の表情が目に浮かぶようだ。だが、怒りに任せて暴れても、君は私に届かないだろう。怪物とは……奇妙だ。人は皆等しく怪物を持っている。だが、多くの人間は目覚めさせる前に死ぬか、自覚しないまま暴れさせて他者を殺すかのいずれかだ。しかし君は違う。私と同じように、聡明だ。何をするべきかわかっているはずだ。エクソシストの存在が、世界のバランスを崩している。受け入れたまえ……崩壊を。君が望めば、私は君の友となろう。だが、君が拒むのならば、私は君の友を堕とそう。さて、そろそろ君のせいで無実な人間が堕落する時間だ」
男は意味不明な語句を並べたてながら、指を鳴らした。ドアが開いて、王女の助けてという要請に従い警備兵が部屋へと突入する。そして、兵士たちが訝しんだ。部屋の中には誰もいなかったからだ。
「嘘……嘘です。皆、皆! 確かにここに男が!」
警備兵たちは顔を見合わせると、すぐさま国王とウェイルズ卿に報告した。事態を重く受け止めたバルテン王は、ウェイルズに護衛の祓魔師を派遣させ、王女殿下を安全な部屋へと閉じ込めた。
当初こそ保護という名目で受け入れた王女だったが、厳重な警備など気にもせず何度も何度も侵入してくる男に気が狂いかけてしまう。
「来ないで、来ないでぇ!」
「不思議だとは思わないか、ミラ王女」
「やだ……話しかけないで」
「皆、共謀しているのだ。ウェイルズは優れた退魔騎士だと君も知っているだろう。彼の実力なら私を祓うことも難しくない。なのにあえて下級や中級の祓魔師に君を守らせている。君の父君もそうだ。……皆、君のことを疎ましく思っているのだよ。海外の情勢は不安定だ。それに、退魔教会も長らく鎖国を守ってきた国。そこへ君が外の世界に行きたいと我儘を言い出した。邪魔者を排除するにはうってつけの理由だ」
「嘘……嘘……」
耳を閉ざす。しかし声はその程度では防げない。
「仮に皆が本当に君を案じた行為だとしよう。だとしても、この国はもう終わりだ。考えてみたまえ。悪魔が城内にまで侵入しているのだ。もはや抗いようがない状況だ。そして、君は外の世界に出ることもなく、この部屋の中で朽ち果てる」
「しゃべらないでしゃべらないで」
「二度と、世界を知ることもない。歴史を肌で感じることも。美しい景色に感嘆の息を吐くこともないのだ」
「違う、出れる、違う……」
「だが、方法はある。そう難しいことではない。外に出れないのなら、内側に世界を構築すればいいのだ」
ミラの身体がびくりと震える。蹲っていた身体をゆっくりと動かし、顔を上げた。
顔の見えない男が目に入る。男は嗤っているような気がした。右手には本らしきものを持っている。
「そうとも、気を昂らせることはない。美しい世界の中に身を落とせ」
「美しい、世界」
部屋に飾られる絵画が目に映る。満面の花畑。
「世界には必ず希望があるのだ。後はその希望を再現するだけでいい」
「希望の、再現」
花は、とても美しい。ずっと行きたかった、けれど行けなかった場所。
それは目の前に、いや自分の中に、頭の中に存在したのだ。
虚ろな表情でミラは立ち上がると、部屋のカーテンを閉めた。外の光は邪魔だ。光は内にあるのだから。
「希望、きぼうの、ひかり」
「さて、王女殿下。私と契約を結び、新世界へと足を踏み入れるか?」
男が呪言を放つ。ミラは極度の精神負荷によって痩せ細った笑顔で頷いた。
「私は、あなたと、契約を……結びます」
瞬間、世界が花畑に包まれる。城の中に、幻の世界が出現した。
※※※
ローズは手で顔を遮った。窓からこぼれる光が眩しい。
目が順応した後、ミラ王女の死体の横を通って、バルテン王が座る玉座へと近づく。
そして、再度部屋を見渡した。辺りには死体が転がっている。
「ごめんなさい……」
ローズは玉座の間を後にする。右手を血が滲むほどに強く握りしめて。