堕落姉妹
悲劇はありふれている。悲劇が世界を回し、科学の発展を幇助する。人類進化のためには悲劇が常に必要で、世界は悲しみで溢れている。
それを知りながら、いや、それを知っているからこそ、ローズマリーは双子の悲劇的末路を止められなかった。
眼前ではそっくりな顔、瓜二つの容姿をした双子がいる。どちらも堕落し、理性を喪失していた。
双子の姉妹は抱擁を交わし、互いが自分が守るに値する――愛すべき存在だと改めて知覚した。ゆえに躊躇わない。家族を傷付ける敵を容赦なく襲う。
そして、それはローズも同じだった。もう躊躇する理由は存在しない。
「シュタイン!」
味方が敵に変わった瞬間に割り切れる自分の心に吐き気を覚えながら、ローズはシュタインに指示を出した。シュタインはボルトアクション式ライフルを背中から取り出し、双子の片割れへと銃撃を見舞う。ヘレンへ直撃したが、彼女の動きは緩慢としていた。当然である。当たったところで再生できる。わざわざ防御する理由がない。
「なら……ッ!」
ローズは再びフリントロックランチャーを取り出し、装填を開始した。前時代の仕組みを使っているため、装填には時間が掛かる。その分、悪魔の眷属へ絶大なダメージを与えられる。
「うふふ、同じ手が通用すると思うんだ?」
「――ッ!?」
ランチャーを構えたローズは堕落者が泣き叫ぶ嘆く者ではなくなったことを悟った。翼をはためかせ、ローズに向かって空中からの突進をしてくる。ローズはギリギリのところで回避したが、勢い余ってランチャーを落としてしまった。
「くそッ! 援護して!」
シュタインがライフルで二発ほど射撃を行うが、すぐにヘレンに奇襲され中断を余儀なくされる。双子は連携していた。片方に危害が及びそうになるともう片方がサポートする。清く正しい家族愛。彼女たちが堕落していなければ、そう表現できた。
嗤い交じりにサキュバスが歓声を上げる。
「素晴らしいよー。これこそが愛!」
「うるさい!」
純潔へと持ち替えたローズは、跳弾を利用して強襲を繰り返すエレンの翼へと射撃。いくら反応速度が強化されていても死角から放たれる銃弾を回避することはできない。ここまでは他の堕落者と同じだ。
だが、明確に違うのはその圧倒的再生力。やはり、ピンポイントでの頭部への銃撃か擲弾による一撃必殺を狙うしかない。
「……」
ローズは黙して機会を窺う。エレンは虚ろな表情でローズへ打撃を何度も行っている。
ローズを責めるように。彼女はローズマリーを憎んでいないと、恨みはしないと言っていた。あなたのせいではないからと。だが、それは本心ではないだろう。
エレンはローズマリーを憎んでいるはずだ。意識はしていなくとも、無意識的に。ヘレンが堕落しない道を、図らずもローズは奪ってしまったのだ。それどころか、エレンさえも堕落させてしまった。
糾弾されて然るべき。憎悪されて当たり前。だが、だからこそ止まるわけにはいかない。
「私には責任があるのよ」
ローズはロープピストルの狙いを定め、近くに生える木の枝に括りつけた。悪魔的天使の攻撃が着弾する間際、ローズはその場から移動する。自分の代わりに墓石が壊された。
エレンが咆哮し、ヘレンが呼応して叫ぶ。彼女の狙いもローズに移り変わった。――自分を堕落させる道を作った、忌々しい祓魔師に。意図したものではないが、それは十分な勝機だった。
地面へと着地し、ローズは道を駆ける。崩壊へと持ち替えて、後方へ穿ちながら逃走を図る。
「こっちへ来なさい!」
双子に叫びながら、ローズはシュタインを見る。シュタインは頷くと移動し始めた。その様子を見ていたサキュバスがくすくす嗤う。
「あらあら? 愛されてないなー、ローズマリー」
何とでも言え。そう心の中で思いながら、ローズは目当ての場所へと辿りついた。
ランチャーを落とした地点に。ランチャーを拾いながら駆け抜けて、人々のいない閑静な住宅街へと移動する。街中ならば墓場よりも移動が楽になる。不意の攻撃にも対処しやすい。
「――シュタイン」
シュタインは見当たらない。ローズが自分自身を占うための器は、何処かへと消えてしまった。だが、ローズは怖じず、駆けていく。大通りをひたすらに走り去るが、
「……ッ」
「追いかけっこはもう終わり?」
サキュバスが神経を逆なでするような声を出す。ローズの進行方向にヘレンは跳躍して着地し、背後にはエレンが感情しか含まない瞳で退路を塞いでいた。通常の人間ならここで絶体絶命かもしれないが、ローズマリーは祓魔師であり、彼女を追いつめるのは祓うべき堕落者だ。
ローズの中の怪物が高まる。即座に判断し、家屋にロープの先端を張り付けた。
「同じ事だと思うんだけど」
「浅はかね。あの女とは違う」
他ならぬ人間に見下されたが、サキュバスは気にする様子もなく頭の後ろに両手を当てている。
「そりゃあ、私は姫様とは違うよ。ただの淫魔だもの。でも姫様に負けないくらいあなたに興味がある。第一試験は突破したけど、第二試験は危ぶまれるかな? だとしたら、あなたは失格。ここで言う失格とは死を意味するけど……特別に子孫を残すための苗床にしてあげてもいいよ」
サキュバスは性転換しインキュバスとなる。男性から奪った精子を女性体に移すための形態だ。おぞましい宣告にローズは眉一つ動かすことなく屋根へと移って左手で継承を抜き取り、右手で純潔を構える。
そして、二丁拳銃による銃撃を双子にお見舞いした。四発しか残っていなかった純潔は即座に弾切れ。遅れるようにして継承も弾倉が空になった。
「おしまい?」
「……ええ、おしまい」
ローズは即答し、二つの拳銃を投げ捨てる。背中に背負う崩壊すらも放り投げ、左腰に差してあるレイピアも捨てた。ランチャー以外の全ての武装を投棄し、自暴自棄になったように座り込む。
その仕草に、さしものサキュバスも訝しんだ――しかし、理性のない双子は警戒するべくもない。ただ欲望のままに襲う。自分の家族を殺そうとした敵を。自分の家族の堕落の原因を作った祓魔師を。
(彼らはこんな気持ちだったのね)
ローズは双子が襲いかかる刹那、極端に遅くなった時間の中で過去を回想する。自分が適時処理してきた堕落者と、堕落者を作る原因となった人々。彼らは想像していたのだろうか。最初から予期していた? 自分の行いのせいで、他者が堕落することを。――いや、多くの者たちは予期していなかったに違いない。
それこそ、奴隷の主を堕としたあの執事は例外だ。そんな例外は滅多にいない。だが、全く存在しない訳ではない。退魔教会を喰らわんとする、未曽有の危機。マモンに手を貸す協力者。そいつも、例外であることは間違いない。自分の意志で――正義か悪かは定かではないが――人を堕落させる。
ローズはそいつらが赦せない。だから、ここで死ぬわけにはいかない。助けが必要だ。例え悪魔の思い通りに動くのだとしても。
瞬間、ローズの中の動悸が早まる。時間の速度が上昇し、双子がローズを殺さんと迫り来る。
「ローズ!」
「待ちくたびれた!」
その声を聞くや否や、ローズはロープピストルをシュタインが立つ屋根側へと発射。双子の殴打を躱して彼女の横に並ぶ。彼女は手元にフリントロックランチャーを所持していた。ローズも似たようにランチャーを構える。彼女は説明しなくてもわかっていたようだ。ローズの中にあるものが、ゆっくりと彼女にしみ込みつつある。それが良い結果を生むかはわからない。
ただがむしゃらに、自我を与えるだけだ。彼女のマスターとして。
「私はエレンを。あなたは――」
「ヘレンですね」
全く同じ動作で、ランチャーの狙いをつける。エレンとヘレンが空へと舞い急接近。チャンスは一度きり。外したら肉塊へと姿を変える。
だが、不思議と外す気はしない。奇妙な信頼感を抱いている。
「終わり」「です」
ギリギリまで双子を引きつけた二人は、同時に引き金を引いた。街の中に爆発音が拡散する。
「驚異的な再生能力を持つ双子は、一人だけを爆破してももう片方が復活させる可能性が高い」
シュタインが仮説を諳んじる。ローズは落下した双子を見下ろした。
異論は挟まない。その通りだからだ。ローズの推測と全く同じ内容を彼女は口にしていた。
「予測通りですね」
「そうね」
と相槌を打つローズに、シュタインは拳銃を手渡す。ローズは何も言わずに銃を受け取ると、間髪入れずに撃発した。悲鳴を上げて、サキュバスが地を這う。彼女の能力では、銀弾を無効化することは不可能。これもまた予想通りだった。
「クハ……ハハハ! 冗談でしょ?」
「冗談じゃない」
屋根から地面へと着地し、ローズは地に伏すサキュバスに銃口を向ける。サキュバスは怯えていた。だが、その怯え方が気に食わない。彼女はその恐れを喜んでいる。快楽として感じている。
「ハハハ……怖い! 死ぬ! 死んでしまう! そのことがすごい嬉しい!」
「……っ」
「挑発に乗る必要はありません。悪魔は自分を脅かす存在を求めています」
「わかってる」
「そうだ――わかっている!」
サキュバスは顔を上げ、狂気の笑みをみせながらローズマリーに訴えた。
「あなたはわかってる。何でもわかっている。あなたの中の怪物は、あなたの推理能力を遥かに上回って全てを見通している! あなたは気付いているでしょ? 退魔教会を救えないことを! マモンを殺すこともできないことを! その上でなお、抗うんだ! ハハハ、最高だぁ! 最高だよローズマリー! 本当に、ホントに、さいこっ」
――銀弾が悪魔の眉間を撃ち抜く。サキュバスは笑いながら死亡した。
「……あなたは私の求める答えを教えてくれない。なのになぜ、会話に応じる必要があるの」
ローズは死体に向けて吐き捨てた。その間に反対側へと移動し、屋根から降りてきたシュタインに銃を返し、彼女が回収した銃を受け取る。そして、地面に蹲る双子へと近づいた。息も絶え絶えの双子は互いを庇い合うように抱き合っている。
「ローズ……さん、ごめんなさい……」
最初に謝罪を口にしたのはヘレンだった。涙を流して、理性的な瞳でローズを見上げている。
また疑問が脳裏をかすめた。なぜ、謝罪する? 糾弾して然るべきなのに。
「おねえ、ちゃんもごめ……ん……ぜんぶ、わたしの、せい」
「いいの。わたしは、いい。あやまるならローズさんに……」
「……私もいい。みんなきっと、当然のことをしただけ」
左手を強く握りしめて爪が食い込み、血が流れた。しかし、血濡れた左手は動じることなく平静に死の予告を行えた。そのことがますますローズの怒りを募らせる。何なのか。自分とは、一体何なのか。
その答えをローズは知っている。ヘレンも同様だった。
「やはり、ローズマリーさんは……わたしのよそうどおりの、ひとだ」
「私は怪物」
「かいぶつは、じぶんのことを、かいぶつとはいわない……」
彼女は苦しみながらも笑って、自分を擁護する。どうしてなのか。なぜ恨まない?
怒ればいいのだ。正当な理由があるのだから。全て自分のせいなのだから。なのに、彼女は怒らない。恨まない。憎みもしない。心の底では、負の感情を抱いているのかもしれないが、それを表に出さない高潔さを彼女は備えている。
そんな人間がなぜ? なぜ、いい人ばかりが堕落して、悪い奴らがのうのうと生きているのだろう。
「ローズの気持ちがわかってきました」
そう言ってシュタインが銃を取り出す。ローズは彼女の中に怒りを見つけた。ローズの意志が伝播して、彼女も堕落を生み出す忌むべき敵へ怒りを向け始めている。悪魔から生み出された存在だと言うのに。
矛盾。それこそが自我。自分に対して疑問を抱いた時初めて自我が生まれる。
他者の存在に疑念を持つこと。疑心を胸に灯らせること。それこそまさに神に刃向かったとされる人類の基礎であり――そうするように仕向けた悪魔の業であるのかもしれない。
結局人間とは悪魔に装飾された下位者であり、悪魔という上位者の傀儡でしかない。
だが、それならばそれでいい。ローズはシュタインの拳銃を借りて、二丁拳銃の構えとなる。
二つの銃口を双子の姉妹へ向ける。双子は幸福な笑みを浮かべた。これから放たれる絶望を希望だと認識している。
殺害を許容し、受け入れている。ローズの選択を肯定している。
堕落者を生み出す者の気持ちは理解できた。いつか、彼女たちの気持ちも理解できるのだろうか。
傍観者ではなく、祓魔師としてでもなく、純粋な当事者として彼女たちの気持ちを理解する。そんな時がいずれやってくるのだろうか?
――不思議とやってくる気がしなかった。
「ごめんなさい」
ローズマリーの双銃が双子の脳漿を掻き混ぜる。傍観者として、双子の意識がローズマリーの脳裏に吸い込まれる。
※※※
「ごめんなさい、エレン。私のせいで」
「またその話をするの? これは私たちのせい。あなたの責任は私の責任でもあるの」
裸体の姉妹は抱き合い、姉が妹の頭を撫でる。仲睦まじい姉妹の姿。
「ローズマリーさんにも申し訳ないことを」
「……謝っても謝り足りない。私たちのせいで、たくさんの迷惑をかけてしまった。けど」
「けど……?」
ヘレンがエレンに訊ねる。エレンは笑って妹に語った。希望を秘めた瞳で。
「あの人なら、赦してくれる気がするの。私たちが赦さないでと言ってたとしても」
「……そうだね。あの人は高潔で綺麗な――エクソシストだから」
※※※
「……っ」
頭を抑えてふらりと揺れる。普段とは違う共感覚がローズを襲った。身体が震えている。怒りではなく、心の芯から湧き出る悲しみで。
「ローズ」
シュタインが同情的な視線を向ける。奇妙なことにその眼差しはマーセやリュン、ケイが自分に向けるものに似ていた。彼女に芽生えた自我は、自分が最も欲しなかったものかもしれない。
ローズが最も欲しいもの。それを持っている相手は、恐らくひとりだけだ。謎の協力者。奴こそ、ローズが今一番欲しいもの。喉から手が出るほどに、欲しいもの。
「……出てこい!」
無意味と知りながらも、ローズは空に向かって叫ぶ。
辺りはすっかり明るくなって、日の光が満たされている。闇の時間は終わり、光が世界の主へ変わっている。
それでもローズは叫ぶことを止めなかった。心の内から、言葉を放つ。
「早く、出てこい!! 私の元へ、現れろっ!! 来い、来い!!」
ローズを心配するシュタインの隣で、気が済むまで呼び寄せていた。
※※※
「双子のエクソシストが堕落。とうとうエクソシストにまで魔の手が及んだか」
ウェイルズは執務机で報告書に目を通しながら独り言を吐いた。
祓魔師が堕落することはそう珍しいことではない。ミイラ取りがミイラになってしまうように、祓魔師もまた堕落してしまう。敵を祓うためには敵を知らなければならない。その過程で、自身の本質が変わってしまうのだ。祓うべき敵のそれと類似して、自分の存在を見失う。
「……エクソシズムに犠牲はつきものだ」
ウェイルズは椅子の背もたれに寄り掛かった。
犠牲無くして退魔無し。魔を祓うためには必ず犠牲が伴う。
祓魔師は生まれついての咎人だ。誰かを殺して誰かを救う。矛盾存在。一殺多生。必要悪。
誰かがやらねばならぬこと。それを自分たちは行っている。
「そうとも、誰かがやらねばな」
覚悟を呟いた瞬間、扉が叩かれた。訪問者に入室を促すと、コルシカが本を片手に入ってくる。
「かねてより浮かんでいた構想が形となってきた。試し読みをしてみるか?」
「いや、完成してからでいい」
ウェイルズは軽くあしらい、立ち上がって窓へと目を移す。憔悴しきったローズマリーが目に写ったが何の対応もしない。彼女を信頼している。この程度で折れるような少女ではない。
「それは非情とも取れるな、ウェイルズ卿」
「彼女は既に一人前だ。教える物は何もない」
「君は彼女にとっての父親だ。君がそう思っていなくとも、彼女はそう認識している。わかっているだろう?」
ウェイルズは答えない。コルシカは呆れがちに笑うと、部屋を出て行った。
入れ替わりに壺娘が入ってくる。快活な笑みを浮かべて。
「訊かなくてもわかることを私に訊くな。ふふ、不器用な人間ですね、ウェイルズは」
「シュタインについてだが」
「言わなくてもわかっているでしょう? 予定通りに進みましたか?」
「…………」
ウェイルズはまた無言だった。
壺娘は全てを見通しているように意味深な笑みを続け、
「では私もまた、ふさわしい行動を取りましょう。ああ、ローズ。あなたは本当に、愛おしいですね」
人間とは思えない動きで、部屋を去っていく。
「やらねばならないことだ、ローズマリー」
そう独白する彼の表情は、日の光で窺えない。
※※※
「じゃあ、試験には無事合格したのね?」
「僕の想定より遥かに早く、だ。想定外に継ぐ想定外、と言ったところかな?」
マモンは悪魔少女に問うた。少女は満足げな表情で紅茶を含む。
「あの子はいい子。私が何かをする前に、私の求める物を与えてくれるわ」
「しかし死んでしまった。君は気にしないのかい?」
サキュバスの死に言及するが、悪魔少女は微塵も同情心を窺わせない。
「気にする必要はないでしょう? あの子はとっても幸せだったはず。同情とは、不幸な死を遂げた者に贈るべき情動でしょう? 幸福な死を迎えた者にするべきものではない。これぞまさに、愛よ」
あの子は愛を知れたわね。悪魔少女は配下の死に幸福を見出した。
絶望も知れたはず。悪魔にとって希望とは絶望であり、絶望が希望となる。人間とは致命的に感性が違うのだ。
或いは、同じ者だったかもしれないのに。
「そろそろ、面白い物が見たいわ」
「奇遇だね。僕もそう望んでいる」
悪魔少女の呟きにマモンが同調。彼は金貨を弄び始める。
「意志が芽生えたのなら、手をこまねいている暇はないな。良いモデルケースだ。今後の参考になるよ」
「未来への布石。あなたは本当に望んでいるのね。完全なる怪物を」
「僕が心から望む物だ。ただの傀儡ではない、意志のある敵は」
「――人は誰しも怪物を持っている。それを伸ばすための育成環境が必要。でも、難しいと思うわ。願い通りの怪物がそう簡単に手に入るとは限らない」
「だからこそ、機会を増やすのさ。いずれ現れるよ。ローズマリーのような怪物が。僕を脅かすに足る化け物が」
マモンは未来に期待を寄せて、コインを弾く。そして、悪魔少女へと問いを投げた。
表か裏か? 悪魔少女の答えは裏。しかしコインは――。
「――表だ。友のためにも僕はそろそろ行動を開始しよう」
「気付かれてしまってもいいの?」
本質を突いた問いに、マモンは余裕の表情で応える。
「構わないとも。そういう契約でもある」
「酷い契約……試練ね」
「汚物に塗れるからこそ、綺麗な物は輝きを増すのさ。君にとっても嬉しいことのはずだよ。彼女の正体が何であれ、君はアレを心から欲している。この契約はアレの魅力をより一層高めるだろう」
「何を言っているのかしら。アレこそまさに純潔で純粋よ」
「そうだね。彼女こそ純潔だ。恐ろしいほどに、純粋だ」
話を終えるとマモンは忽然と姿を消した。悪魔少女は気にすることなく紅茶を啜る。
一つ気になるとすれば彼女の動向だ。配下が無断で抜け駆けしようとしたように、マモンの興味を惹いたように、また他の悪魔が彼女を奪おうとする可能性がある。
――それは困る。ぜひとも彼女には純潔を守ってもらわなければ。
「可能性とは本当に厄介ね。丹精込めて育てた怪物を、寝取られたら困るわ」
少々手回しをしましょうか。
そう言い残し、悪魔少女も姿を消す。残された純白のティーセットとテーブル、椅子が、最初からそこになかったかのように崩れ消えた。
※※※
「私の獲得した意志。これは、本当に主が求めたモノ……?」
シュタインは自分自身に問いかけていた。用意された部屋には何もない。
ローズマリーが与えた意志と、生まれ持った欲望だけが根底にあるのみ。
放たれた問いは、答えの存在しないもの。直接対峙して、ようやく成否がわかるもの。
ゆえに、自問の意味はない。だが、無意味の積み重ねが人間。
それすなわち、自我。自分という在り方。
「人間とは、矛盾存在」
つまり、矛盾的思考の獲得が急務。それを手にしなければ、第一段階にすら立てない。
「……手に入れました」
シュタインは自分の手に目を移す。彼女は既に矛盾していた。
シュタインはローズマリーに奉仕したいと思っている。本来あった機能に、新しい情念が負荷された。もし創造主が知ったら喜ぶだろう。彼は求めていた。
味方ではない。自分を脅かすに足る敵を。
ならば答えは簡単だ。ローズマリーを守る。ローズマリーを助ける。ローズマリーと共に行く。
退魔教会に所属する祓魔師となって、教会を脅かす敵を祓う。
それこそが、自分のするべき使命。果たすべき命令。
己が内に芽生えた新しい欲望。
「ローズ。私は――」
なりそこないの天使は、拳を握る。勢いよく右手を開くと、袖の内側に隠されていたデリンジャーが飛び出した。
「私はエクソシスト。ローズ専属の、エクソシストです」
シュタインは自己を定義する。何もない部屋にたった一枚だけ飾られている天使の絵が、シュタインを見下ろしていた。
その天使は人を救うために降臨し、人に溺れた堕天使の絵。二百にも渡る見張り人たち。
その絵をシュタインは何とも思わない。普遍的な絵として放置する。
「人を救うために堕ちること。それは悪ではありません。そうですよね、お父さん」
絵画に語りかけ、笑みを浮かべる。人間めいた、しかしどう見繕っても人ではない笑みを。