ローズの選択
噂を辿るのは簡単だった。エレンはヘレンと瓜二つであり、彼女の顔を見せるだけで目撃者たちは首を縦に振る。容易く、裏は取れた。目撃者たちが全員口裏合わせでもしてない限り、ヘレンが墓荒らしである可能性は覆らないはずだ。
「やはりヘレンは……」
エレンが悲しそうに目を伏せる。ローズは淡々と励ました。諦めるにはまだ早い。
「目撃証言があるということは、まだ彼女が堕落していないということ。次は現場を確かめるわ」
「必要ですか?」
問いかけたのはシュタインだ。墓地の場所を目指そうとした二人に疑問を投げかける。
「何が?」
「ヘレンの痕跡を辿る必要があるのか、と訊いています。ローズ。あなたはどうやって彼女を誘き出すか算段を立てているはず」
シュタインの言葉は事実なので、ローズは否定しない。代わりにウェイルズの教えを諳んじる。
「エクソシストはどんな状況でも常に最善を尽くすべし。何か手がかりが残されているかもしれない以上、墓地の調査は必要よ」
目下のところ、ローズの敵はヘレンではなく彼女を堕落させた悪魔だ。手口がマモンとも悪魔少女とも違う以上、新しい悪魔が出現したと考えていい。
だが、それは完全な新規、という意味ではない。マモンか悪魔少女のどちらかに縁のある悪魔だ。
加えるなら、創生について関わる悪魔。色欲を司る悪魔だと、ローズは推測している。
「調査をしなくても、あなたは敵を把握しているようにも見えますが」
「いいからついて来なさい」
変なところで反抗してくるシュタインに、ローズはリズムを乱される。エレンがふふ、とおかしそうに笑みをこぼした。
「お二人は仲がよろしいんですね」
「どこが?」
墓地に向かいながら訊き返す。どうしてそういう発想に至るのか、皆目見当もつかなかった。
エレンは当然のように言う。ローズの知らないものを知っている、幸福が何であるかわかっている顔だ。
「仲が悪いと、言い合いなんてしませんよ。お互いの妥協点を探るために、人は議論を重ねるんです」
墓地には墓を荒らした形跡があった。管理人に話を聞いたところ、読み通り新鮮な死体を墓荒らしは奪って行ったらしい。
全体ではなく、一部。ローズには非効率的に思える。そもそも死体集め、という行為を行う意味がわからない。
「どうしてヘレンは死体を収集するのでしょう」
「そう命令されたから、でしょう。理由までは定かではありませんが」
揃って疑問を抱くヘレンとシュタインに、怪物を持つ少女は答えを提示した。
「時間を掛けたかったのよ。目立ちたかった、という理由も挙げられる」
「ローズマリーさん?」
エレンが問い返す。ローズは掘り起こされた墓跡を見ながら、推論を告げる。
「……奴は私を探していたの。そう考えれば合点がいく」
悪魔の力を持ってすれば、ヘレンの焦がれる想い人を蘇らせることなど造作もない。それこそ願い事を口にした瞬間に彼を冥界から呼び戻すことができるだろう。それが人とは似ても似つかない異形であったり、魂だけを一瞬呼び出すなどという卑劣な手段を行う可能性は考えられるが、面倒な死体集めなどしなくてもすぐに契約は果たされる。
それをあえて怠るということは……ずっと何かを待っていたのだ。例えば、別の悪魔が惚れた怪物を。
「あまり強力な悪魔ではなさそうね。ここまで用心深くするということは」
「用心……どういうことです?」
ショックを受けているのか、エレンは狼狽している。当然だとローズは思う。今の話はローズのせいで妹が悪魔の手に落ちた、と宣言しているようなものだ。
シュタインは会話を興味深そうに傾聴している。ローズははっきりと伝えた。隠してもしょうがない。
「あなたが私に相談したのも悪魔の仕業。他の強力なエクソシストに目を付けられないようにしたのよ。私を知っていて、他のエクソシストに告げ口しない丁度いい相手。それがあなただった」
「な……っ」
エレンの戦慄。ローズは眼を逸らさず言い続ける。
「私に会いたいけど、他のエクソシストに邪魔されたくない。かといって、後回しにされても困る。そう考えた悪魔は偶然か必然か、都合のいい人材を見つけた。恋人が死んで意気消沈している、それも私のせいでエクソシストを辞めなかった少女。奴はきっと喜んだでしょうね」
「そんな、私の妹は、あなたに会いたいがために……?」
エレンが後ずさる。墓石に背中がぶつかった。ハッとして周囲を見渡す。
辺りには死が充満しすぎていた。家族が死にかけている現状ではあまりよくない場所だ。辺りの墓石は死を連想させる。今もなおヘレンは苦しみ死にかけている。ローズには彼女の気持ちがよくわかる。
だが、気持ちは理解できても、掛けるべき言葉が見つからない。
「血痕です」
「どこ」
真っ青に顔を染めるエレンから離れ、ローズはシュタインの呼びかけに答えた。地面に血が滴っている。
死体の血か、ヘレンの血か。凝固し、ドス黒く染まっていた。
「追跡は……いや」
どうするべきか迷う。
このまま見つかる当てもなくヘレンと悪魔を捜索するか?
それとも、心身ともに憔悴するエレンを気遣うべきか?
ローズの中の怪物は前者を選択していたが、心に従って後者を選んだ。そうするべきだと、マリア女医とウェイルズの教えが訴えている。
「追わないのですか? 追跡は狩りの基本です」
「ハンターなら、そうしたかもね。でも、私はエクソシスト。彼女を放っておけない」
本心から出た言葉だった。エレンには是が非でも気丈に保ってもらわなければならない。悪魔が妹を見初めたのなら、姉に毒牙を掛ける恐れもあるからだ。それだけは避けなければならない。
祓魔術の基本から判断した考えだが、怪物は囁いてくる。
――他者を救いたいという祈りで悪魔と契約した堕落者は、再生能力が極端に高くなる。通常の堕落者よりもたっぷり時間を掛けて戦える。それは、とても楽しそうだ。
「くっ」
怪物が吼える。ローズは時々自分がわからなくなることがある。
悪魔が自分を求めていたのか。自分が悪魔を求めていたのか。
思念を振り払い、ローズはエレンへ声を掛けた。彼女は動揺し、可能性に怯えている。
「エレン。恨むなら私を恨んで。だから……」
「あなたを恨む理由なんてないでしょう。あなたは何も悪くないんですから」
エレンは不安の中にも優しさを混ぜてくれる。その優しい笑顔が堕落者たちと――マリア女医と被った。
糾弾して欲しい。お前のせいだと責めて欲しい。私に罰を与えて欲しい。
だが怪物が望んでも、彼女たちは笑うだけ。あなたは悪くないと優しく語りかけるだけ。
人間にとっての慰めは、怪物にとっての責め苦に等しい。
「ありがとう」
と返しながらもローズは感謝している顔を作るのに精一杯だった。
「ローズは人と相反する存在、と」
シュタインが手帳に一文を書き添える。
エレンの精神が回復したのを見て取った後、ローズは罠を仕掛けることにした。エサは死体だ。新鮮な、当日亡くなった死人を使う。遺族は祓魔師の助けになるのなら、と快諾してくれた。
シュタインをエレンの護衛に付けて、ローズは墓地で網を張っている。一時は自分が棺に入る案も考えたが、危険だとしてエレンに却下された。
(……優しい子だ)
星空の下、ローズは物陰に隠れながら、シュタインとエレンがいる家へと目を向ける。
優しい子。不幸になるべきではない子。だが、連中はそういういい人を突け狙う。そして、それを避けようとするいい人もやられてしまう。その悪循環を断ち切らなければならない。
(早く来い、悪魔)
ターゲットは下級悪魔だ。ヘレンは祓魔対象ではない。
祓魔師の定石なら考えられないことだ。ウェイルズだったら間違いなく反対するだろう。
ウェイルズは多少の犠牲を払ってでも悪魔を討滅することを選ぶ。赦す必要はないし、赦されるつもりもない。人に恨まれてでも悪魔を祓う覚悟がある。
彼はそれを知りながらローズを試している。シュタインをわざと解放させて、ローズの覚悟を知りたがっている。
ローズは満を持して、全力で応えるつもりだ。これが自分の祓魔術だと。
「……来た」
闇夜に紛れて、現れる一人の少女。ローズは銃杷を強く握りしめる。
大きなシャベルを持って、少女はローズが仕込んだ罠へと飛び込んでいく。ふらり、ふらりとおぼつかない足取りで、精気の失った顔を覗かせて。
彼女はエレンと瓜二つだったが、憔悴した顔からはエレンのような生気が全く感じられない。
その顔色を見て、確信する。悪魔の正体は――。
「サキュバスか。もしくはインキュバスと言った方がいいかしら」
「ご明察、ローズマリー」
ローズは背後に出現したサキュバスに純潔を向けた。サキュバスは紫の髪を手ですくいながら、世の男性を虜にする妖艶な笑顔をみせる。サキュバスはインキュバスと表裏一体の下級悪魔だ。サキュバスは男性から精子を搾取するための女性形態であり、性転換した後に奪った精液を獲物である母体へ注ぎ込む。中世から近世にかけては真偽を問わず、淫魔に子を孕まされたと訴えた女性が数多くいた。
ベッドに牛乳を置くという予防習慣があったほどだ。曰く、小皿いっぱいの牛乳を枕元におけば、サキュバスが精子と誤解して持ち去るという。実際の効果は定かではないが。
「やっと会えたわね」
「それは私も同感よ」
ローズが胸の内を吐露すると、サキュバスは愉快そうに笑う。ローズは全く笑う気になれなかった。
悪魔を憎むローズマリーが殊更憎しみを抱くのが淫魔だ。父親は、自分を淫魔に孕まされた子どもだと誤解して錯乱したのだ。
「そうとげとげしないでよ。お話しましょ?」
「……ヘレンを解放するなら考えてもいい」
無駄と知りながらも放った要請に、意外にもサキュバスは応じた。
「いいわよ。はい」
パチン、と指を弾く。シャベルで土を掘り起こしていたヘレンが正気に戻り、慄いてシャベルを手放した。
「正気?」
「正気。疑り深いのね、ローズマリーは」
サキュバスは笑っている。人をぞっとさせる笑みで笑っている。
しかし怪物は動じない。銃を下げる気も起きなかった。
「あなたは邪魔者よ」
「そうね、お邪魔虫。姫様とのゲーム、マモンとの戦い。それらを邪魔する突然の来訪者。でも、何ら不思議じゃないよね? 悪魔が礼儀礼節に則って、人間を気遣うと思ってる?」
「同感ね。なら私がどうするかはわかっているでしょう。あなたは弱い。マモンなら逃げられるかもしれないけど、あなたは逃げられない」
撃鉄を起こす。サキュバスは表情を変えない。その雰囲気が、どこか悪魔少女を彷彿とさせる。
「ヘレン!」
ローズとサキュバスが対峙している遥か先から、エレンとシュタインが駆け寄ってきた。ローズはシュタインに目配せする。賢い彼女は理解できていた。双子をサキュバスの元から早急に離すべきだと。
「お早く。ここでは巻き込まれます」
「ヘレン! しっかり!」
ふらつくヘレンをエレンが抱きかかえる。双子の再会だ。それをサキュバスは興味深そうに眺める。
一体何を考えている? ローズはいつでも頭を撃ち抜けるよう狙いを定めた。
「ふふふ、感動の再会ね。これが愛、というものなのかしら」
「淫魔が愛を語るの?」
「人が創り出した、性行為を肯定するための造語。私は愛という概念をそう認識していたけど……家族愛というものを目視すると、やはり私の考えが間違っていたのではないかという疑心に駆られるわ。あなたはどう? 愛を信じてる?」
「ええ」
ローズは即答する。サキュバスの狙いがわからない。
「家族に見捨てられたのに?」
「……関係ないわ」
その程度の煽りをローズは真に受けない。しかし、サキュバスは余裕のまま、ローズへと手を伸ばした。
「触ってもいい? かわいい子」
「何が……」
「あなたは身体精神共に揺らがない。でも、心は泣いている」
「何とでも言いなさい。今に始末する」
サキュバスの目的ははっきりとしないが、このまま放置するのは危険である。ローズはそう判断し、引き金に指を掛けた。
だが、サキュバスは銃口に人差し指を当てる。止めた方がいいわよ? と助言を付け加えて。
「止めないと殺されちゃう」
「あなたに私が殺せる?」
ローズは躊躇わず引き金を引こうとする。サキュバスは首を横に振って、
「無理無理。でも、あの子ならたぶん殺せる。怪物をね」
シュタインたちの方へ視線を送る。
「……っ」
ローズは息を呑んでその光景を目視した。エレンは地面に倒れ、シュタインは後頭部にリボルバーを突きつけられている。彼女は一切の恐怖の色を見せずに両手を上げて、判断を仰ぐかのようにローズへ視線を向けている。
狂気をみせるのはヘレンだ。彼女は狂信的な眼差しをサキュバスに注いでいた。
「私が枷を外しても、あの子は自分で帰ってくる。帰省本能とでも言うのかな?」
「まさか……。あの子は仮にもエクソシスト」
「わかっていたでしょ? ローズマリー。あなたはわかっていた。こうなることを全部全部、わかっていた。想定していなかった、なんて情けないことは言わないで。あなたは想定済みだった。危険性を知った上であえて連れてきた。その方が楽しいから。表面的には色々素晴らしいことを言ってたけど、あなたの内心……無意識は違う」
否定したかったが、サキュバスの言葉は的を射ている。怪物がいきり立っていた。今すぐにでも戦いたくてうずうずしている。
「うるさい……」
「恐ろしい怪物。あなたは追い詰められれば追い詰められるほど真価を発揮できる。私の目的はね、あなたがどういう存在なのかを知ること。姫様を欲情させるに値するか、テストすること」
「また、私のせいか」
ローズは銃を構えながら呟いた。悔恨を混ぜる。しかしサキュバスは気にせず三人の元へ歩いていく。
「そんな悲しい顔しないで。あなたは合格。第一試験にはね。一つの試験が終わったのなら、次は第二試験。今度は、姉の目の前で妹を殺せるか。容赦なく、堕落者を祓えるか」
「止めろ!」
銃を撃とうとして――肩に強い衝撃。ヘレンは躊躇うことなくローズを射撃していた。
「ぐっ……」
「ごめんなさい、ローズマリーさん。私には彼女の力が必要なんです」
「ヘレン……止めて、こんなこと……」
妹に地面へ倒れる姉が懇願する。ヘレンの手は震えていたが、それでも悪魔の誘惑に抗えない。
「エレン、ごめん。私は、どうしても――ロレンスのこと、諦めきれない」
「素晴らしいわ、ヘレン! これぞまさに愛! あなたはロレンスの子種が欲しくて欲しくてたまらない! そうでしょう!?」
ヘレンは否定しなかった。サキュバスを受け入れる。サキュバスはヘレンに近づいて、最後の問答を投げかけた。
「私と契約すれば、ロレンスを生き返らせてあげる。どう? 私と契約を結ぶ?」
「結び、ます」
「ヘレン!!」
エレンの悲痛な叫びはヘレンの絶叫に遮られた。彼女の身体に変化が起こる。超常的変化が。
リボルバーが地面へとヘレンは苦悶に喘いだ。肉が裂ける音がして、大量の血が墓地に降り注ぐ。
背中から、翼が生えた。天使のような、悪魔のような。髪から色素が抜けて真っ白に染まる。眼光は赤く塗り潰されて、ヘレンの堕落化は完了した。
「く」
ローズは歯噛みすることしかできない。堕落者と化したヘレンは理性が保たれる僅かの間に成すべきことをした。
魔法陣を周囲に展開し、黄泉の国から死者を呼ぶ。
召喚されたのは、人の形をした、人間とは形容できない異形だった。辺りにあった死体を媒介に使ったせいか、ブードゥー教に伝わっていたゾンビを彷彿とする魔獣が創造された。
しかし、ヘレンは恐怖を抱かない。恍惚な表情で死体と抱擁を交わす。ゾンビは意志を持たず、食欲を満たすためにヘレンの首筋を貪ったが、彼女はそれが愛の行為であるかのように魅惑的な吐息を吐いた。
もう手遅れだ。致命的な失敗を犯した。ローズは逡巡なく引き金を引く。
「うわっと。アハハハッ」
銃弾を避けるためサキュバスが距離を取った。音に反応し、ゾンビが抱擁を解く。新しい獲物を見つけた肉食獣の目つきだ。
「シュタイン! やるべきことをやって!」
ローズはリボルバーから崩壊に持ち替えて、引き金とレバーを交互に動かす。ゾンビは銃弾に身体を貫かれたが気にも留めずに向かってきた。それでいい、とローズは心の中で安堵する。今は、エレンを救出するのが先決だ。
理性的な思考を持つ相手ならローズ以外の無抵抗な二人を襲うかもしれないが、サキュバスの怪物とヘレンは理性を喪失し己の欲望を糧として動いている。ゾンビは生存本能に従い食事をし、ヘレンは愛する恋人を永遠に追い続ける。
「ごめんね……」
ローズが謝る。ゾンビが駆ける。その背中を追うヘレン。
ライフルの狙いをゾンビの頭へと付けて撃発。銀弾は見事にゾンビの頭部を貫き、腐った脳漿と黒く染まった血液をまき散らした。
「ロレンス!」
ヘレンが情動のまま叫ぶ。嘆き悲しみ、斃れたゾンビへと駆け寄った。涙をこぼし、悲痛な泣き声を漏らしている。
今がチャンスだ。ローズは躊躇わない。レバーを動かし排莢と装填を行い、ヘレンへと照準を合わせた。
エレンは恨むだろう。今度こそは間違いない。一度は赦してくれたが、二度目はない。だが、それでも構わない。赦す必要はないし、赦されるつもりもない――。
「油断してるわね、怪物さん? ヘレンの祈りを忘れたかしら」
「――ッ!」
サキュバスが語りかけるのと、ローズが異変を察知するのは同時だった。ゾンビが機能を回復し、四足歩行で突撃してくる。あまりの素早さに対応を余儀なくされ、再び頭目掛けて射撃する。またあっさりとゾンビは沈んだが、ヘレンが嗚咽するな否や、即座に復活を果たした。
ヘレンの堕落者としての特性――。それは恋人とまた会いたいという祈りから来たものだ。凄まじい回復力を有し、自身だけでなく他者まで……ゾンビと化したロレンスまでその恩恵を預かることができる。
事実、噛まれたヘレンの首筋は何事もなかったかのように再生している。現状の装備ではじり貧。
「だからこその、か」
しかしローズは焦らない。焦燥は自身に対して沸き起こらない。他者に対してのみ発生する。
ローズは崩壊を連射しながら後ろへゆっくり下がる。最初に身を潜ませていた場所へ。サキュバスが首を傾げたが、ヘレンとゾンビは疑問を感じるという常人なら当たり前の思考を持ち合わせない。下がるローズを本能で追いかけるだけだ。
ゾンビ自体の足止めは容易い。運動機能と再生能力は厄介だが、結局は厄介でしかない。ローズの敵ではなかった。的確な銃撃でゾンビを足止めし、ヘレンの嘆きが耳をつんざく。
瞬く間に、ローズは目的地へと到達した。後ずさりながら、足に何かがぶつかる感触。ローズは蹴り上げて、それを右手にキャッチした。――フリントロック式のグレネードランチャーを。
「あー、まずい!」
サキュバスがようやく意図に気付いたが、もう遅い。ローズはゾンビに向かって擲弾を発射した。
爆音と肉の砕ける音。それに呼応して放たれるヘレンの絶叫。
「いくら無限に近しい回復力を持っても、一撃で粉砕されれば意味がない……」
ランチャーを下げながら、ゾンビの破片へ目を落とす。ポケットの中を弄って、ライターを取り出した。
ライターは何かと便利だ。たばこは吸わないが、明かりや放火に使用できる。
ゾンビは砕け散ったが、破片が蠢いて一点の塊に収束しようとしている。その部分が核であると推測し、ローズは着火した。肉片が燃え上がり、周囲の欠片が震え出す。
「ごめんなさい。でも、我慢して」
ローズはロレンスに謝罪した。彼は悪魔に殺されただけではなく、このような姿で蘇生させられる羽目になってしまった。食い止められなかったローズの責任だ。彼にさらなる苦悶を与えたのも。ヘレンを堕落させ、祓う事態になってしまったことも。
「ヘレン」
ローズは涙を流し虚ろな表情を浮かべるヘレンへ声を掛ける。彼女は自分に声が掛かったことすら認識できない。自分を祓う相手が誰だかすらわからない。
それでもローズは話し続けた。純潔をホルスターから抜きながら。
「あなたにも悪いことをしたわね」
撃鉄を起こす。後は穿つだけ。ヘレンはロレンスしか眼中にない。もう姉のことすら意識から飛んでいる。
しかし、妹が忘却していても、姉はしっかりと覚えていた。
「撃たないで!」
掛け声と共に銃が向けられる。エレンが戻ってきていた。ローズは苦心しながらエレンを説得する。
「待ちなさい、エレン。もうわかっているでしょう。ヘレンは救えない!」
「……で、でも無理です! たったひとりの家族なんです!」
カタカタと銃を持つ彼女の手が震える。エレンは自分の行為が何を意味するのかわかっている。代償を知った上で、妹を救おうとしているのだ。サキュバスが嬉しそうに笑った。
「期待した通りの展開。これも、あなたは予測していたでしょ? ローズマリー」
「うるさい!」
焦燥感が胸の中で沸き立つ。エレンまで堕落させなどしない。そう決意しているのに、救う方法が思いつかない。
結局、自分は怪物でしかない。他者を救う方法など端から知り得ていないのだ。敵を祓う方法しか、心と身体に刻まれていない。
「諦めて、エレン! 私の言葉を信じて!」
「……諦めるべきはローズです」
エレンの後方に立つシュタインがデリンジャーを抜き、エレンの後頭部に突きつける。
それぞれがそれぞれの殺意を、自分が殺したい対象に向けていた。本当は、誰一人殺したくないというのに。その構図を見て悪魔が嗤う。人間は愚かだと嘲笑する。
「人は愛があるから殺し合う……。素晴らしい見世物よ、ローズマリー。ローズがヘレンに銃を向けるのは人間を愛しているから。エレンがローズに銃を構えるのは、妹を愛しているから。その子は、そうね。自分に自我を植え付ける創造主を守ろうという守護本能かな? これもまた、愛という形と表現していいよね」
「止めなさい、シュタイン。銃を下ろして」
ローズはシュタインに勧告する。もはやどうにでもなれ。そう思っていた。
もし自分がヘレンを殺すことでエレンを救えるのなら、殺されたって構わない。その確固たる意志を、サキュバスが揺さぶる。
「無理よ、ムリ。あなたが妹を殺した後で、その子は私と契約を結ぶ。結ばなくても、きっと重圧に耐えきれず自殺するでしょう。あなた、自分のエゴのために十字架を背負わせる気? 人間って本当、酷いわよね」
「くそ……」
「ローズ。エレンは救えません。堕落する前に殺すべきです。今なら殺せます」
シュタインはローズの命令を聞かずに銃を下げない。反発していた。自我かどうかは定かではないが、何かしらの意思が彼女の中に芽生えつつある。
「ローズさん。わかってますよ、私は。自分が間違っていることを、わかってるんです。でも、動かないわけにはいかない……ヘレンは私の妹だから! 構いません。私が暴走する前に殺してください。恨みませんから」
エレンは自分の過ちを重々承知したうえで、自身の殺害を肯定していた。二人はローズに選択を促している。お前が選べ、と。
誰を殺すか決断しろと、ローズに選択を委ねている。
「私は……」
ローズは逡巡する――ヘレンを殺して自分が死ぬか。エレンを殺してヘレンを殺すか。
選ぶなら前者だ。それは間違いない。間違いないが、悪魔少女とマモンの姿が脳裏をよぎる。
ここで自分が死ねば、退魔教会は滅ぶ。そんな予感がしている。悪魔を祓えるのは怪物だけ。怪物は怪物らしく、他者に忌み嫌われ蔑まれながらも悪魔を祓っていくしかない。
「く……っ」
苦渋の選択を迫られたローズは、決断する。――純潔が手から零れ落ちた。
「ローズ……」
シュタインも倣ってデリンジャーを手放す。エレンがヘレンの元へ駆け寄り、抱き着いた。
虚ろな表情のヘレンが、ようやく姉の姿を認識する。
「ハハハハッ。愉快愉快! これがあなたの決断! これがあなたの愛、自己愛だ! もしや綺麗事を心の中で並べ立てているのかもしれないけど、あなたは無意識で戦いを望んでた!」
サキュバスは心底愉しそうに笑い、双子へと近づく。そして、拒まないエレンの額へ口づけをした。
ヘレンの時と同様の変化が彼女の身に生じる。背中が裂け、翼が映える。毛髪は真っ白となり、天使のような悪魔が誕生した。
「さぁさぁ、まだ戦いは終わってないよ、ローズ。新しい戦いを始めようか!」
ローズマリーは憔悴しながらも、闘志は燃え尽きていない。
一度は落とした拳銃を拾い、双子の堕落者へ突きつけた。贖罪の念を心に秘めて。