重なる人格-1 <麻倉沙織>
記憶というものはあいまいである。
また視点によって同じ事象が違って見えていることもよくある話。
ここに登場している人物たちはそれぞれに葛藤を抱えて生きているのだが…。
重なる人格
<麻倉沙織>
廊下の蛍光灯が点滅している。古くなった蛍光管の端が黒っぽくなっていて電線が切れかけているのだ。最近のビルなら管理人とかがいてきちんとメンテナンスされているのだろうが、この古びたビルの管理人など見たことがない。まあ、こんなもんだろうね、安いオフィスビルなんだから。麻倉沙織はそう思う。きっとそのうち渋谷かどっかのもっときれいで格好いいSOHOとかに引っ越すんだから。白いシフォンスカートをひらひらさせながら狭い階段をゆっくりと上がっていく。繁華街から少し離れた一画にあるこの雑居ビルに住んでいるのでも勤めているのでもないのに、ここ数週間毎日のように足を運んでいる。神崎真に会うためだ。昨日も一昨日も会えなかった。いやその前だってライブハウスのステージに立っている真を遠目に見ただけだ。ライブが終わったら会えると思っていたのに、いつの間にか真は姿を消していた。
「俺はただのサイドメンに過ぎないんだからさ、困るんだよ。ファンみたいにつきまとわれるとさ」
はじめてライブの控室に押しかけたとき、差し出した小さな花束も受け取らず無碍に追い出されてしまった。それでも懲りずにライブ情報で真の名前を見つけては訪ねていった。理由なんてわからない。神崎真って人に会うべくして出会ったんだ、勝手にそう思い込んでいると言われても仕方がない。大学にも行かずに真が出演するところならどこへでも追いかけまわった。
真のギターには魂を感じる。泣いているときもあるし、叫んでいるときもある。音楽のことはよくわかっていない沙織にも感じるものがあった。格好いいだけではない、なにかしら精神にまとわりついてくる音魂みたいなものがあるのだ。音魂なんて言葉があるのかどうか知らないが、沙織にはそう思えた。残念ながらすべてのステージで真のソロが聴けるわけではなかった。むしろ滅多に聴くことはできない。たいていは別の有名ギタリストがリードをとっている横で地味にコードを刻んでいるのが真だった。
学生バンド時代は相当な人気だったというが、メンバーがみんな就職してしまい卒業とともに自然解散したらしい。ひとりプロを目指した真は結局どこのバンドにも参加せず単独でスタジオミュージシャンとして登録し、さまざまなバンドに通称“トラ”と呼ばれるエキストラメンバーとして参加する傍ら、個人的に曲づくりをしているのだった。ギターの腕は確かだと思うのだが、真が作った曲というものがどこかで演奏されたことはまだないようだった。
狭く暗い階段をようやく三階まで上がり、その先にある二つ目のドアに「スタジオ真之音」と白文字で書かれた黒いプレートが張り付けられている。沙織はノックもせずに遠慮なくドアを引く。八畳ほどの部屋は事務所というよりは玩具箱のようでいくつものアンプやスピーカーが積み重ねられ、その脇にあるスチール棚はCD音源で溢れていた。部屋の真ん中に置かれたキーボードにギターケースが立てかけられていて、壁際では赤いソファと小さなサイドテーブルが滅多にない来客を待っている。いちばん奥には板張りの電話ボックスみたいなものがあり、その中で本格的な録音ができるようになっている。いつもとかわりなく雑然とした部屋を眺め終わってもなにも音がなかった。ドアに鍵はかかっていないのに、部屋には誰もいない。大丈夫なのかなぁこの事務所は。とりあえず赤いソファに腰を下ろしたちょうどそのとき、ドアが開いて藤谷真由子が入って来た。
「あら? また来たの? 真はいないわよ」
もう慣れっこになってしまって「また来たの?」が彼女の挨拶みたいになってしまっている。なぁんだ今日もいないのか。せっかく来たのに。自分のスタジオほったらかしていったいなにをしているのかしら。
「あの、もう来てやらないぞって伝えていただけますぅ?」
真由子はコーヒーメーカーをセットしながら背中で答える。
「いいわよ。もう来なくていいって言うと思うけど」
「もう、真由子さんの意地悪」
「だってほんとうよ。結構あなたのこと、煙たがってると思うよ」
「でもでもぉ。いつでも遊びにおいでって」
いくつものライブ会場を追いかけまわしているうちに真も沙織を認識してくれるようになって、少しずつに親しくなれた。沙織はまだ未成年だけどお酒もごちそうしてくれたし、一緒にご飯も食べた。まだ、“寝る”なんていうところまでの関係にはなっていないけど。それでも売れないギター弾きの貴重なファンだと言って、可愛がってくれるようになった。普段の居場所であるこのスタジオを教えて、いつでもおいでと言ってくれた。
「最初あなたが何度もビルの前をうろうろしているのを見たときは、ストーカーかと思ったのよ」
「あっひどい。でもそうかもね、たしかに」
「コーヒー、飲むでしょ?」
真由子がプラスチックのカップにコーヒーを淹れてくれたが、ふた口ほど飲んでから早々に立ち上がった。沙織は真由子が苦手だ。真よりひとつ下だというけれど、沙織にしてみればずいぶんお姉さんに思えた。実際に九歳違うのだから間違ってはいないのだけれど。それに真由子と真はいまでもつきあっているのではないかしらと怪しむ。
「たしかに昔はつきあってた。でも、いまはただの同僚さ。音楽仲間だよ」
真はそう言ったけれども、もし二人が恋人同士ならお似合い過ぎると思う。なんとなくよく似ているし、背丈も同じくらいだし。恋人同士で似ているっていうのはいいことなのか悪いことなのかはよくわからないけれど、少なくとも同じ音楽が好きだったり、同じ映画を見て感動できたりっていうのは理想的だと思う。わたしだって負けちゃあいない。真の好きなものならなんでも好き。まだ未知な部分が多過ぎるけれど、真がいいっていうものならどんなものでもいいと思える。間違いなく相性もいいはずだし、わたし、絶対真の理想の恋人になれるよ。沙織はそう思っているが、真の本心をまだ聞いていないのが不安の種だ。だからこうして毎日押しかけているのに。なんで会えないんだろう、どこにいるんだろう。
「もう帰ります」
デスクでパソコンで作業をしていた真由子は顔だけ上げて残念ねという顔をして見せた。また明日来ますと沙織が言うと、大げさに顔を歪めて答えた。
「真は明日もいないわよ。なにも聞いてないから」
「じゃぁ、いったいいつ出てくるんですか?」
「さぁ。あの人、気紛れだからねえ。とにかく明日は来ないってことだけは確かね」
沙織ははぁあと大きなため息をついて真由子に頭を下げた。「さよなら」「じゃね」すぐに仕事に戻った真由子をちらっと見てから廊下に出た。廊下は相変わらず寂しげで隣のドアの向こう側もひっそりとしていて誰もいないのではないかと思われた。ゴム底が緑色の床に触れるたびにぴとぴとと音がしてついてくる。こんなビル、真にはふさわしくないわ。いつもそう思うのだけれども、真も真由子もあまり頓着していないらしい。
雑居ビルの狭い階段をとろとろ降りて明るい日向に向けて口を開けた出入り口を出ると、沙織は大きく深呼吸をして駅に向かってゆっくりと歩きはじめた。
実際に十一人の人格を持った女性と付き合ったことがあるという人の話から院すピレーションを得て書いたものです。もっと長編にできそうではありますが……。