一章
二か月くらい前に書き終わったものです。今読み返してみると、構成も全然で描写もへたくそで直したいところだらけですね……
最後まで書き終わっているので不定期に出していこうと思っています。
序章
ぼくはヒーローになりたかった。子どものころはよくヒーロー物の映画を見ていた。悪の組織を、ヒーローが正義を貫き倒していくという、今考えればテンプレでどこにでもあるような感じの映画がぼくは大好きだった。今のぼくはというと、それなりに映画は見たりするが、ヒーローになれるとは思っていない。憧れているが、本気でヒーローを目指そうなんてことは考えていない。幼少の頃に見ていた甘い夢からは醒めた。なれる機会があれば別だが、そんな機会は訪れるはずもないのだから。
映画に出てくるような悪の組織は現実には存在しないし、ぼくは映画に出てくる主人公みたいな超能力を持っているわけでもない。つまり、ヒーローになりたくてもなれなさそうな現役高校生。そもそも、ヒーローになった人間なんてこの世に何人いるんだ。もし仮にヒーローというのが職業で就職の面接があるとすればその面接の倍率は数千、いや数億倍にのぼることだろう。ヒーローに近い職業として、警察官や消防士を上げる人がいるだろうが、ぼくはそれらになんら魅力を感じなかった。
ヒーローにはなれないと頭の中でも分かっていても、ぼくはヒーローに憧れていたようだった。まだ夢を捨てきれない子どものようだった。ぼくはそれをこの夏休みで感じることになってしまった。
ヒーローになれないのなら、ヒーローを追うジャーナリストとかそういう地位につきたい。中学生の頃のぼくはそんな考えを持っていた。
なぜか、理由は一つしかない。ぼくが中学に入学した頃のこと。突然、空飛ぶ島が日本の上空に現れた。なぜかは分からない。知識人たちがいくら頭を捻ってもその理由はついに明かされないまま。
そして一年後、その空飛ぶ島に高校が設立されることとなった。(高校の設立予定はちょうどぼくが中学を卒業する年)確か星見とかいう資本家が土地を莫大な資金を積んで買い取ったらしい。共用語は何故か日本語。入学試験の倍率は数千倍。学力試験ではなく抽選で選ばれるらしい。学費は無料で、寮は支給される。つまり、計算してみると地上の高校に行くのとさほど変わらない値段。両親に話したら二つ返事で「いいんじゃない?」と言われた。どうやらぼくが空飛ぶ島の学園に入学するなんて、そのときは夢にも思っていなかったようだ。
親の予想が外れて、ぼくは星見学園に通学することになった。今年の四月のことである。
空飛ぶ島の開発はまだあまり進んでいないくて、高校のほかには豊かな自然と建設途中の高層ビル群が広がっていた。空飛ぶ島の調査用の土地もたくさん残っている。最新鋭の電磁波調査機を使って調査して、何も異常が無かった場所に、ビルや高校、デパートなどを建てるということになっていた。
さて、前置きはここまでにして、本題に入ることにしよう。
「ねえ、カズキ。こんな服はどう? ほら、可愛い?」
薄桃色の花柄のワンピースを試着してこちらを上目遣いで見てくる彼女の話をするとしよう。
ぼくの、大事な彼女の話。
可憐で美しい、彼女の話。
――リリー。それが、彼女の名前。
第一章 トワイライト
もう夏に入るというのに、ぼくの住む浮遊島の朝は肌寒かった。標高は千メートルを越えている。確か二百メートルで一度違うはずだから、地上との温度の差は五度ほどだろう。
カーテンの向こう側から刺す光が薄明るい。夜は寒くて昼は暑い、まるで砂漠のような気候にも最近やっと慣れてきた。気温が上がるのは陽が照ってきてから。こないだやっていた浮遊島の特番によると昼と夜の寒暖差が激しいというのは山の気候に近いらしい。
だからぼくは、夏だというのに布団に包まっていた。時刻は午前六時前である。朝の肌寒さでぼくは目を覚ました。
ぼくを起こそうと躍起になっている目覚まし時計を止めようと思うのだが、布団の外は寒く、これ以上外気に触れていたくなかった。布団の中でもぞもぞ動いていると目がパリパリと乾燥していているのに気付く。どうやらぼくは泣いていたらしかった。よほど夢が怖かったのか、と思ったがすぐに違うと分かる。隣の部屋の机の上にはぼくの大好きなDVDが置いてあった。あれを見て泣いたのだろう。子どもの頃にあのDVDを見てからいつも、ぼくの涙腺はあのDVDに負け続けてきた。
隣の部屋を見ると机の上には物が散乱していて、ぼくの今寝ている部屋にある机の飢えにもたくさんの物が無造作に置かれていた。いや、置かれている。というより、泥棒に入られた後のような感じに物が散乱していた。
はて、これはどういう状況なのか。と思っていると、下半身のほうに違和感がある。
「え……?」
変な汗が背中をツゥー。と流れていった。
布団の中、なにやらもぞもぞと動く何かがいる。異様な感覚だった。ばくは不思議と嫌な勘が働くのだ。この時も、嫌な予感がした。
布団をめくるべきなのかめくらないほうがいいのか、考えた末にぼくは申し訳程度に布団をめくることにした。ぼくはなにも悪いことをしていないはずなのにものすごい罪悪感に責められながら。
「んぅっ……」
色っぽい声が聞こえる。
布団の中には少女がいた。せめて猫とかなら笑い話ですんだ。だが、これは……。
何故かぼくの布団はセミダブルで、一人で寝るには広すぎる。ぼくがベッドを上から見たときの右上にいるとしたら、彼女は左下で寝ていた。彼女も寒いからか、毛布の中でうずくまるようにして寝ている。ぼくの毛布は半分彼女に取られていた。どうりで寒いわけだ。彼女は気持ちよさそうに寝ている。
桜のようなうす桃色の髪に、透き通るような白い肌。控えめな胸を下にしてベッドに一糸纏わぬ姿でうつぶせに寝ている姿は、まるでフランス人形のよう。
恐ろしいほど美しい少女が、そこにはいた。
「ん……」
ぼくが毛布をめくって、今まで暖かい毛布に包まれていた彼女の魅惑的な髪に、うなじに、冷気が当たったからだろうか。彼女は目を覚ますような動作をする。寒さで眉をひそめている様子は、ぼくにはとても艶めかしく見えた。
はっと我に返る。見とれている場合ではない。
急いで毛布を被せる。
「ふぅ……」
大丈夫、なにも見てない。なにも見てない。
ベットを見ると毛布がもぞもぞと、まるで生き物のように動いていた。
なにか飲もう。これは夢だ。落ち着けばきっと夢から醒めるはずだ。それか夢じゃないとするなら、ドッキリだろう。きっとぼくがつまらない反応をすれば今すぐにでもドッキリの看板を持った芸人が玄関から飛び出してくるに違いない。そう思い立って、ぼくはリビングに行き、ベットルームとリビングを仕切るため引き戸を開ける。冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出してコップに注ぐ。テレビのリモコンをつけると、浮遊島の特番が放送されていた。大丈夫。いつもと変わらない日常。
はぁ、と一息ついて現状を整理する。ある日、起きたら一糸纏わぬ姿の美少女が布団の中に紛れ込んでいた。まるで物語の主人公じゃないか。そんなことは現実には起こりっこない。そんなことはぼくが一番しっている。ぼくはサブでいいのだ、主人公の脇役で、欲を出したところでそれが叶うはずもないのだから。
それにしても、なんでこんな状況になった? きっと昨日なにかあったに違いない。
昨日のことを思い出せばきっとこの真綿で首を絞められたような息苦しさから開放されるだろう。ぼくが罪悪感に苛まれなければならない理由など無いはずだ。そう思って昨日の記憶を辿る。
「あれ?」
おかしい。昨日の事を思い出そうとしても、どうしてだか全く昨日のことを思い出せない。酒を飲むと記憶が曖昧になるなんて話しを聞くがぼくは酒なんて飲んでいないし飲める歳でもない。夏休み初日だから昨日のぼくは浮かれていたのだろうか。記憶がぶっ飛ぶほど楽しいことをしたのだろうか。
あれこれ考えているうちに布団に入っていた少女は起きたようだった。ベッドの毛布と毛布が擦れる音。それと少女の衣擦れのような声が聞こえる。オレンジジュースを注いだコップの中身はもうなくなってしまっている。まるでぼくの鼓動とリンクするように彼女の足音が近づいてくる。ぼくの横の引き戸が開いた。
「はわぁぁ……」
――ガラガラ。
扉が開く。寒いからか、少女は右手に毛布を持っていた。それがまるでアニメの銭湯の湯気のように、全年齢ガードの役割を果たしていた。大事な部分はすべて布団の向こう側。ナイス、布団。
見たもの全てを引き込むような紫の目をしていた。黒いまつげがその目を縁取っていて、体のパーツの一つ一つがまるで設計されたかのように、精巧に配置されている。
彼女を見ていると、現実ではないどこか遠い世界へ連れて行かれそうな感覚を覚える。
「よく見ろ! ほら!」
テーブルの上に置いてある手鏡を勢いよく取って、彼女にミラーを向ける。みるみる顔が朱色に染まる。あれ? 怒っている? ちらっと、鏡の端から見ると体が小刻みに震えているのが見えた。
突如、大きな悲鳴が沸き起こる。
引き戸を勢いよく閉め、ベットルームへと戻ってしまう。
「ない! 買ってきて!」
ベッドルームに閉じこもって数分。彼女が発したのはそんな言葉だった。
「え?」
「下着! 早く!」
「あ、ああ。わかったよ」
スウェットのズボンのポケットに財布を押し込むようにして入れる。
家から半ば追い出されるようにして、ぼくは近くのコンビニへ向かった。
昨日のぼくは一体なにをしていたのか。
なんでこんなことになったのか、昨日のぼくに問いただしたい気持ちでいっぱいだった。
こうして、ぼくは彼女と最悪とも思える出会いをしたのだった。
きっと、ぼくはこの日を生涯忘れないだろう。
スウェットで外に出たせいで、外はかなり寒かった。
時刻は朝の六時である。薄霧立ち込める中、ぼくは女性下着をコンビニで買ってきた。
女性下着を買ったコンビニの店員からは蔑んだ目線を向けたれた気がした。いいじゃないか、女性下着を買う男がいても。冷たいのは気温だけにして欲しいものだ。
ぼくは日記を記すのが趣味なのだが、このことは毎週日曜日に書く日記のネタにでもすることにした。そうすれば少しは気が楽になると言うものだ。
「さむっ……」
なんだか今日はやけに寒い。春から夏に半分足を突っ込んだ感じの季節。初夏なのにこれは寒すぎる。それとも、季節の移り変わりの時は風邪を引きやすいというから、風邪でも引いてしまったのだろうか。なんにせよ、いままで布団の中でぬくぬくしていた体には厳しい気温には違いなかった。
「早く帰ろ」
このコンビニは寮から一番近いコンビニだ。まだこの浮遊都市は開発中のため、店自体が少ない。日常品を買うのはコンビニで食品の買出しには空港近くの大型デパートに行かなければいけない。ぼくの住んでいる場所が島の南だとしたらデパートがあるのは空港のある北側。つまり正反対の場所。
夏休み二日目。日用品を朝早く買出しに来る学校の人と出会ってしまうわけだ。大抵の人は帰省してしまっているとは言っても、それなりに人はいるはずだ。
ブルブルと震えながら、ぼくはコンビニから寮までの帰り道を足早に帰った。
「ただいまー」
恐る恐る扉を開く。自分の家に入るのにこんなにビクビクしたのは、親に怒られて家の外に追い出されたとき以来だ。
家に入っても返事は無かった。
ベッドルームとリビングを遮っている引き戸を叩いて女性用の下着を買ってきたことを伝える。
するとちょこっと開かれた引き戸から白くて綺麗な手がスルリと伸びてきた。ぼくはそれにビニール袋をつかませると、その手はすぐに引っ込んで引き戸は大きな音を立てて閉まった。テレビの音だけがリビングに響く。なんだかとてもシュールな光景だった。
テレビでは相変わらず浮遊島の都市伝説についてやっていた。
有名なものでドールという都市伝説がある。地上で言う幽霊みたいなもの。ドールというのはある日突然現れる永久機関の人形らしい。人の形をしていて、人の人格を持っている。それは人と同じようにいろいろな人格があって、人と同じようにいろいろな顔の人形がいる。まさに十人十色。人は人間ではなくて人形だけど。とまあ、そんなやつらがいるんじゃないかという都市伝説。
これ以外にも、この浮遊島にはたくさんの未解決の問題がある。なんでこの島は浮いてるのか、とか。実は魔女がいるだとか。
出演している知識人は、全部魔女の仕業だとかそんな子どものようなことを言っている。
都市伝説なんていう不可解なものに対して熱論をする知識人たちを見るのは、楽しかった。日々流れる暗澹としたニュースをみるよりも何倍も楽しい。居もしないはずの、空想の存在について語り合っているのを見ると、不思議と、ぼくがヒーローに憧れていたころを思い出すからかもしれない。本当にヒーローになろうとしていたあの時のことを。
ぼくが諦めて置いてきたものがそこにはある気がした。
都市を浮かしているのは魔女のせい。ドールが生まれるのも魔女のせい。それにたいして、科学者が、訳がわからない。そんなのは絵空事だと言う。議論は平行線のまま一向に進む兆しが見えなかった。いつものことだ。
「そうだ、服はそのタンスの中に入ってるから。一段目がシャツで二段目がズボン」
すっかり忘れてしまっていた。帰ってきたらすぐに言うつもりだったのだが。
「うん」
と小さめの返事が返ってくる。
少しして、彼女はベットルームから出てきた。
当たり前のことなのだが、彼女はぼくの服を着ていた。ぼくが着ると似合わない空色の上着と紺色のジーンズ。ぼくが着てなさそうな服を選んでタンスから出したようだ。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。沈黙を破り、ぼくは口を開く。
「名前、なんていうの?」
女子に話しかけることに対して抵抗は無いが、彼女にたいしては抵抗を抱いた。抵抗というと違うかもしれない。なんというか、心がざわつく感じ。
「リリーっていうの、よろしく!」
少し考えた末に彼女はそういった。きれいな声だった。
ものすごく明るい笑顔。距離感がいきなり近すぎるのでは? と思うほど。答えたのちに、彼女はテレビに釘付けになる。
「なあ、昨日のことって覚えてるか?」
「全然覚えてない」
淡々と彼女は返事を返す。
「え? そんな軽い感じなのか……」
少し困惑する。
「リリー、さん?」
「リリーでいいよ」
テレビを見ながらやはり端的に言葉を返す。表情を変えずに言葉を返す様は少し機嫌が悪いように見えた。
「もしかして……怒ってらっしゃる?」
「え? ううん、全然そんなこと無いよ。ただテレビ見てただけ」
テレビでは相変わらずドールとやらについての特集をやっていた。リリーもどうやらこういうテレビが好きなようだった。どうやら熱中しすぎると周りの話が頭に入ってこないらしい。今のぼくの問いかけでプツリと集中の糸が切れたようだ。
「こういうテレビ番組、好きなのか? 都市伝説とか」
「ううん、暇だから見てるだけ」
……さいですか。再び沈黙がやってくる。
「そうだ、ごはんでも食べるか?」
「いや、おなか減ってないから大丈夫」
ぼくは菓子パンを一つ開けて貪った。空になったコップにオレンジジュースを注ぐ。
リリーという少女は、興味はさほどないと言った割には真剣な面持ちで都市伝説の特番を見ていた。彼女の姿はどこからどう見ても完璧に見えた。人の印象は八割方第一印象で決まると言う。つまりぼくの心の八割は彼女に奪われてしまったわけだ。
一目惚れ。そう表現するのがいいか。
ラベンダー色の瞳。白くすらっと伸びた手足。薄幸の少女を思わせるその風貌にぼくは強く惹かれてしまっていた。
ぼくは視界の端に、常に彼女を見ていた。
ずっと見ていた視線に気付いたからか、彼女が口を開く。
「どうかした?」
「え? い、いや、なんでもないよ」
「変なの」
くすくす、とはにかむ彼女がとても綺麗でおしとやかに見える。
まさにぼくにとっての魔性の女だった。彼女の言うことには逆らえそうに無い。
「はぁっ……!」
番組が終わった。リリーは腕を組んで伸びをする。
横目で見ると体のラインが全て分かった。こうやって見ると、意外と大きかった。(なにが大きいのかはこれを読んでいる者に任せることにする)思わず鼓動が早くなる。
コップに少し残っていたオレンジジュースを飲み干す。もう大分ぬるくなっていた。それもそのはず。浮遊島についての特番をテレビ局は三時間も組んでいたのだ。映画を一本見た気分だ。
おかげで今は午前九時。陽も上り始め、外はいいお散歩日和。なんだか眠くなってきそうな暖かさに包まれている。薄霧も晴れ、浮遊都市は今にも手が届きそうなほど近くに見える雲と綺麗な青空の下に浮かんでいた。
「面白かったな」
「そうだね。ま、迷信だからあんまり信じられないけど」
都市伝説のような絵空事が好きなのかと思っていたから、現実を見ている回答に少し戸惑う。
「ずいぶんと現実的なんだな」
「そうだよ、だってこんなこと実際にはありえないでしょ? この島が浮いてるのは魔女のおかげとか、ドールだとか。女の子は現実的なのです」
ぼくが返答に困っていると「それより!」といって彼女が話し始める。今まで一番高いギアで回していたのを一気に落としたような感じで、空気が急に軽くなった。
「近くに大型デパートが出来るんだって!」
広告をバーンと広げる。A3の紙にいろいろな店舗の情報が載っている。親から取るように言われたから新聞は取っているのだが毎日は目を通していない。友達もまだそんなに多くないから情報弱者になっていたのだろう。このデパートができることをぼくは今まで知らなかった。女子と男子でこういうことに対する関心の度合いが違うということも、ぼくがデパートオープンを知らない要因の一つかもしれない。
彼女の目は期待と興奮で光っている。
寮の近くで大きな建物を工事しているな、とは思ったのだがその建物がもう完成しているとは。灯台下暗しとはまさにこのこと。
「じゃあ行ってみるか」
彼女もきっといろいろ買いたいものがあるだろう。
服だって買わなくちゃいけない。
――その前に、聞かなければならないことがあった。
「そうだ、リリー。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「リリーはどこに住んでるんだ?」
昨日は夏休み初日ということもあり、地上からたくさんの人が来た。もし、リリーが地上から来た人なら帰りのことも考えておかなければならない。
その質問にリリーは少し困惑した表情を見せる。ああ、ここでどこでもいいじゃない、みたいなことを笑顔で言われたらきっと全てがどうでもよくなってしまうんだろうな、なんて事を考えながら彼女の返答を待つ。
「……忘れちゃった、みたい」
てへ、とやはり困った表情を浮かべる。
一体昨日のぼくはなにをやっていたのだろうか。おそらくぼくの前にいるリリーと一緒にいたことは間違いないだろう。そう思うと彼女の記憶がないのはぼくのせいでもあるのではなかろうか、という思いが募ってくる。罪悪感で胃が痛い。
「じゃあ、ビザとか持ってないの?」
浮遊島に出入りするときに必ず必要になるものの一つにビザがある。
本人の身分を証明するとともに、この浮遊島への入島許可証の役割をしている。これを失くしたとなれば一大事だ。再発行は複雑な手続きをいくつも踏まなければならない。とてもじゃないが、学生の身分で再発行に臨めるような代物ではない。
「うーんと……ない、みたい」
やはり、てへ、と困惑した顔。可愛いい。
「あれを失くしたのか……?」
そんなことを思ったのも束の間、顔から血の気が引いていくのが分かる。ぼくがこれほどまでに焦っているのだ、おそらく本人はもっと不安に違いない。
「ほら、わたしベットの中であんな格好だったでしょ? ……だからさ、なにも持ってないみたい」
「じゃ、じゃあ記憶はどこら辺まであるんだ。ほら、昨日以降の記憶とか」
うーん、としばらく考えた末結論を出した。
「なにも、覚えてないみたい。記憶喪失ってやつかな?」
それがどうかした? みたいな顔でこちらを見てくる。さすがにメンタルがタフすぎる。
なにもかもを持っていないからなにか吹っ切れたのだろうか。
「それだったらデパートなんか行く前に病院に行こう。きっと事情を話せば診てくれるから。それか空港に行って……」
「やだ」
即答だった。
「なんで?」
「別にわたしにとって記憶とかビザとかどうでもいいんだよ。それよりもわたしはこのデパートに行きたい。ほら、もしかしたらデパートで買い物してたら記憶を思い出すかも知れないでしょ?」
「いや、でも……」
「それでも駄目っていうなら、わたしにも考えがあります!」
「なに?」
どうせろくでもないことだろう、と思って聞き返したのが悪かった。
「ほら、わたし今日の朝裸だったでしょ?」
「うん」
「君といっしょのベッドで寝てたわけだ。そういえば近々警察が配備されたとか。ほら、ここまで言えば分かるでしょ?」
「おいおい、ぼくを犯罪者にするつもりか」
考えていることは見た目からは想像も出来ないほどきつい内容だった。
「記憶がなくなるくらいまでめちゃくちゃにされて、ビザも捨てられたって言いふらしてやるんだから」
降参だ。既成事実を作られたとなっては男のぼくはどうすることもできない。仮に言いがかりだったとしても、ぼくは昨日の記憶がない。それを跳ね除けるだけの証拠がないだろう。ああ、こんな世の中が憎い。
きっとこうやって政治家とか偉い人たちはスキャンダルを起こしていくのだろう。緊急記者会見をしている人たちに今なら少し同情できる気がした。
「そうと決まったら、すぐに出るから早く着替えて!」
急にリリーは元気になった。
おかしい。さっきまでの綺麗でおしとやかな彼女はどこにいってしまったのだろうか。今のぼくには彼女が小悪魔というより悪魔にしか見えない。
「どうしたの? 早く着替えて!」
ぼうっと走馬灯のように過去を見ていると彼女に急かされて、急激に現実世界に意識が引き戻される。
のろのろとぼくはベッドルームに向かった。
起きたときは乱雑にいろいろなものが置かれていた机の上がきちんと整理されていた。リリーがやったのだろう。これはここに入れる、と決めているものに関してはちゃんと指定の位置に物が入っていた。ぼくの思考を読むなんてエスパーかなにかだろうか。きっと将来はいいお嫁さんになるに違いない。
着替え終わると、時刻は九時半を少し回ったところだった。リリーはもう着替え終わっていたから、ぼくは高速で着替えを済ませた。
風が吹いていて、吹きつける風が妙に生暖かかった。ぼくはお気に入りのチェックのシャツに黒いジーパンを履き、リビングに入る。
「かっこいいね。似合ってるよ」
リビングに入るとすぐにリリーにそういわれた。少し照れくさい。
「ほら、ちょっと見てみて」
リリーは広告をテーブルの上に広げる。デパートに入る店舗情報がズラッと全部欠かれていた。
「どこ行きたい?」
「どこって言われても……」
店が膨大にあり目移りしてしまう。リリーは広告を見ているだけでも楽しそう。さすが女子だ。ぼくなんか、あまりの店の多さに頭が痛くなってくる。
うーん……と暫し広告とにらめっこした後、
「よし、現地に行ってウィンドウショッピングしよう!」
結局悩んだ末にでてきたのは若干拍子抜けする提案。これなら広告を見てる時間は無駄だったんじゃ。とも思うが、それは言わないでおく。
「なにか言いたそうな顔」
むすっ、とした顔をしているのだろう。考えが表情に出てしまっていたようだ。
「不器用なんだから、顔に出さないように、って思ってもバレちゃうんだよ。わたしには隠し事は出来ないのです」
「そんなに不器用かな?」
「不器用もいいところだよ、隠そうとしてもすぐ顔に出るもん。ほら、早く行こ。カズキ」
――思えば、この時気付かなければいけなかったのかもしれなかった。この時のこの表情、このセリフがきっと彼女からのSOSサインだったのだろう。ぼくはここでとてつもない違和感を感じなければいけなかったのだ。そんなことはお構いなしに、ぼくはただただ彼女に見とれていた。彼女のラベンダー色の瞳に、薄桃色の髪に、うつくしいうなじに。 ――つまり、彼女の全てにぼくは魅了されていた。 不器用なぼくは気付けなかった。
もう一度、過去に戻ってやり直すならぼくはこの日をやり直すだろう。
全てが始まってしまったこの日から。