ある、雨の残る日
ピーンポーン、と間延びした何の変哲もないチャイムの音が家の中に響いた。
桃はその音に反応して肩をびくつかせた。
桃が真斗の家に来たのが昨日。流石に一晩で警察や親が来たわけでは無いとは思うが、多分桃はその事で怯えているのだろう。真斗は不安気な視線を寄こす桃を一べつして、一応ドアホンのモニターを確認した。そこには真斗の予想通りの人物が立っていた。やっぱり、と思うと同時に安堵した自分に気づいて自嘲気味な笑みが漏れてしまった。どうやら自分も桃と同じ不安にかられていたようだと今更気づいた。
まったく、覚悟が足りないものだ。
「桃、大丈夫だ。呼んでた友達が来ただけだから」
桃は一瞬きょとん、とした。
「ともだち•••••••?マナトさんはこれからお出かけですか?」
「いや、俺はどこにも行かないよ」
さみしそうに尋ねた桃は真斗の返答にほっとしたが、それはすぐにより一層の不安を募らせた表情へと変わった。真斗はそのコロコロ変わる表情にかわいいな、と 率直に思った。しかし呑気な真斗とは対照的に桃はどんどん不安に顔を曇らせていく。
「桃•••••••?」
あまりに顔色が悪くなって行くものだから、来訪者は待たせておけばいいか、と出迎えに玄関へと向いていた足を桃元へと運んだ。
昨日座って居たのと同じ椅子に腰掛けている桃と目線を合わせようと少し屈む。正面から覗いた桃の大きな瞳は少しうるんでいた。どうやら知らない人間を呼んだことが少女を相当不安にさせてしまったらしかった。
先に伝えておくべきだった、と今更後悔する。もっとこの少女の精神状態を考慮するべきだったのだ。
「桃、あのな」
「わ、私、どこか隠れてたらいいですか?」
「桃?」
「私、マナトさんとお友達の邪魔しませんっ。おとなしく、静かに、いい子にしてます!ちゃんといいよって言われるまで出てきません!だから、だからっお外でひとりにしないで下さいっ!」
少女の言葉に引っかかりを感じたが、今はそれを問うより先に落ち着かせなければいけない。
「桃、違うんだ、あのな」
「っじゃあ!もうここに居ちゃいけないんですかっ!私は、私はっ、またお家が無くなるんですかっ•••••⁉︎」
「桃!話を聞いてくれ!」
真斗のシャツを必死に掴み、大きな瞳から今にも涙を零しそうな桃を思わず抱きしめた。どうか落ち着いてくれ、とぎゅっと抱きしめた体は思っていた以上に細くて頼りなく、咄嗟に力を緩めてから慎重に苦しく無いように抱きしめ直した。
思っていたより、あまりに脆く弱い存在なのだと改めて知った。
「もも」
ちゃんと、届くように大事に名前を呼ぶ。
すると桃の強張っていた体から少し力が抜けたのが伝わってきて、「はい」と小さな返事が返ってきた。
「桃、大丈夫だから。お前が怖がる事も、嫌がる事もしないから。うちに居たいだけ居ていい。不安にさせてごめん」
「マナトさん•••••••」
桃がぎゅっと抱きしめ返してくる。少女から伝わる子供体温に心まで温かくなる気がする、とまるでベタな歌の詞のような事を思ってしまった。
ドサッ
桃が大分落ち着いたのを感じて、改めて説明しようと口を開きかけたとき、部屋の入り口付近から物の落ちるような音がした。
その音と同時に桃が息をのみ、再び体を強張らせ真斗にしが身ついてきた。
真斗からは背になって見えないが、桃の視界からはこの部屋の入り口が見えている。真斗は直ぐに背後を振り向き、そこに予想通りの人物が立っているのを確認すると睨みつけた。
「何でお前勝手に入って来てるんだよ」
だが、相手は答えずに二人を指差しながら口をぱくぱくさせている。無断来訪者の足下には中身がぎっしり入ったコンビニ袋が落ちていた。先ほどの音はこの袋が落下した音だったのだろう。中身は無事だろうか、と思いながらも未だ魚のようにぱくぱくしっぱなしの来訪者に再度声をかけてみる。
「おい」
「ろ」
「ろ?」
「ろ、ろろロロロロロロロリコンッ‼︎⁉︎」
「は?」
「おっお前!ヒト以外の動物にしか興味無いのかと思ったら、まさかそんなぺったんこが好みだったのか!男に走るよりはいいけどな、でも!小学生とセックっぐはっ‼︎⁉︎」
「とりあえず、その品の無い口を閉じろ!」
義務教育中の少女に聞かせられない単語がオンパレードになりそうだったので、咄嗟にテーブルの上にあったリモコンを投げつけてしまった。見事に顔面にヒットしたリモコンは敢え無く床とこんにちはをしてしまったが、大丈夫だろうか。
「マナト、さん•••••••?」
リモコンに気を取られていた真斗は呼ばれてから桃がこちらを凝視している事に気がついた。
既に桃の瞳に怯えの色は無かったが、今はかなり驚いているようだった。
旧知の友人に対して取ってしまった言動を振り返り、自身も教育上よろしくなかったと反省せざるを得ない。
「桃。あの勝手に入って来た人は一応俺の友達の神矢宗司さんだ。桃の事で俺だけじゃ分からない事もあるから呼んだんだ。ダメな大人だが、信頼は出来るヤツだから」
端々にトゲトゲしさを感じさせる説明になってしまったが、桃は頷いてくれた。不安は拭えていないようだったがどうにか話し合いは出来そうだった。
★☆★☆
「初めまして。さっき真斗が言ってたけど、俺は神矢宗司。こいつとは小•中•高•大学まで一緒の腐れ縁。まぁ、仲良い友達だよ。なぁ?」
「一応な」
「つめてーヤツ。お前がそんなだと俺ももチャンに警戒されっぱなしなんだけど。あ、君のことももチャンて呼んでいいかな?」
さり気なく桃との距離を近づけようとする宗司。今後何かあった時は協力してもらう予定なので、早く桃と仲良くなってもらった方が都合がいいのだが、桃と彼が親し気に話す場面を想像すると不愉快な気分になる。
宗司が桃に害をもたらすとは思えない、そう判断したからこそ呼んだのだが、一日にして勝手に保護者気取りなのか、と自分の心境がいまいち判断出来なかった。
桃が何と返答していいのか分からず隣に座る真斗を仰ぎ見た。
真斗は桃の隣に座り、テーブルを挟んだ向こうに宗司が座っている。
他人との交流があまり上手とは言えない真斗と違い、宗司は人懐っこく、基本誰とでも直ぐ仲良くなれる人物だった。そう言った点からも彼と関わらせる事で桃に何か変化を与えられたらと思ったのだが、どうやら人と接する事にかなり臆病になっている少女には難題過ぎたようだ。
「桃が思った事を言っていい。嫌じゃ無ければそう言えば言いし、名前で呼ばれるのに抵抗があるならそう素直に言っていい。こいつはそんな事に怒ったり、気分を悪くしたりしない」
桃はこくりと頷いて宗司の方を向いた。
宗司は何が面白いのかニコニコと、いやどちらかと言えばニヤニヤとした笑を浮かべながらこちらを見ている。
「あの•••••」
「なぁに?」
「私、ももチャン、て呼ばれるの、ちょっと恥ずかしいです」
「嫌かな?」
「で、でも、ちょっとづつ慣れていくので、ももチャンで大丈夫です。それで、その、あなたは何て呼んだらいいですか?」
必死に答えた桃に、宗司はぱぁ、と顔を輝かせた。
「わぁー!何このカワイイ子ー‼︎せめて後5歳でいいから上だったらそっこーいただいてるのになー!ももチャンの為なら俺犯罪者でもいい‼︎」
「言い訳ないだろ!桃、こいつの事は神矢さんでいいから」
「ちょっ、勝手に決めるなよ!」
「お前に決めさせると不安だ」
「大丈夫だって。流石に小学生にやーらしい事言わせよう何てほんのちょっとしか思ってないから!」
「ちょっとでも思ってんじゃねぇよ‼︎」
桃はどうしたらいいのか分からず二人を交互に見て戸惑っている。
「ももチャン。俺の事は好きに呼んでくれていいよ」
「じゃあ、神矢、さんで•••••」
「わかった。今はそれでいいよ。これから仲良くなってからもっと特別な呼び方してもらうから」
「•••••••いい加減ふざけるのやめろ」
桃の反応が面白いのか話を脱線させ、からかい続ける宗司にそろそろ怒ることも億劫になってきていた。
「ふざけてない。俺はいつでも真剣だって」
「余計悪いわ!」
ケラケラ笑う宗司に、どうやら桃ではなく自分がからかわれているのだと気づいた。どうにも桃の事になると上手く宗司をかわせない。
宗司はひとしきり笑って満足したのか、持ってきていたコンビニ袋からジュースとコーヒー二缶を取り出し、ジュースを桃へコーヒーの無糖を真斗へと渡し、自身は練乳入りのコーヒーを開け口をつけた。貰い物に戸惑っていた桃を「もらっとけ」と促すと嬉しそうにストローを差して飲み出した。それを微笑ましく見てから自分ももらったコーヒーを一口飲む。
「で、真斗。もうちょっと詳しく現状を教えて欲しいんだけど。「女の子についてお前に教えて欲しいことがあるから明日来れるか?」ってメール貰った時は遂にお前も人に興味見出したのか!って期待して来てみれば、チャイム押してもぜんっぜん出て来ねーし。まさか現実に玉砕して死んでんのかと思って合鍵で入ってみれば小学生と抱き合ってるし。お兄さんは目ん玉飛び出るかと思ったよ。俺、お前より断然女の経験上だけどさ、流石に小学生とのプレイは未経験っげはっ‼︎⁈」
丁度貰ったコーヒーが飲み終わったので宗司の顔面に投げ返してやった。
「てめーの思考回路は何でそんなにいかがわしい事しか考えられないんだよ!」
「性教育だって立派な、って、ちょっ⁉︎真斗!ごめん‼︎悪かった!もう言わないから‼︎真面目な話するからっ、だから椅子は投げるな‼︎」
座っていた椅子に手をかけたところでようやく宗司が焦りだした。
口が減らないのも困ったものだ。
真斗が椅子に座り直したのを見て、宗司は息をついた。
「だけどな、真面目な話。女の子は女の子でも、小学生の女の子については本当に分んないからな」
「何で」
「何でってお前、俺彼女はいっぱいいてもちゃんと気をつけてるから子供出来た事なんかねぇもん。女の子の調教の仕方なら教えてやれっけど、子供の教育の仕方は専門外だ。そんなの親に聞けよ」
親、と言う単語に桃が微かに反応した。
「親っていっても、両親世界旅行中で今どこだか分んないしな•••••」
「お前のじゃ無くてさ、ももチャンの両親。預かったんだろ?何でそん時色々聞いておかなかったんだよ。今連絡取れないのか?」
「••••••••預かった訳じゃ無いからな」
「?じゃあ、無理やり押し付けられたのか?いくらお前が犬猫育てまくってるったってなぁ、そんな無責任な」
「違う」
「だったら何なんだよ。ももチャンどこの子だよ」
ちらりと桃を見ると、少女は無言で頷いた。
「桃は昨日家に来た。家出中らしいから、俺もまだ名前と小6だって事しか知らない。だけど少しの間ここに置いておく事にしたから、宗司に協力して貰えないかと思って連絡した」
「••••••」
宗司はぽかん、と口を開けたまま真斗と桃を数秒見ていた。が、やがて頭を抱えて俯いてしまった。
数分待ったが顔を上げない彼に痺れを切らし、肩でも揺すってみようかと腰を浮かしかけた時だった。
宗司が突然立ち上がった。
「大馬鹿野郎が‼︎」
突然の怒声に今度は真斗と桃が動けなくなった。
「バカだバカだとは思っていたが、そんなにバカだったのか。犬でも猫でも捨てられてるもんポイポイポイポイ拾いやがって!終いには人まで拾ってきてんじゃねぇ‼︎お前、分かってんのか⁉︎」
宗司の顔があまりにも真剣で、真斗はだいぶ驚いていた。
宗司は真斗にとって一番と言える友達だが、彼がこんなにも激しく感情を露わにしているのは見たことが無かったからだ。こんなにも人の為に、友の為に、心配して怒ってくれる良き友人なのだと、今更知ったのだ。
そんな事すら、分かっていなかった。
「•••••••きっと、全然分かってない」
「っお前!」
「でも、決めたんだ。覚悟もした。だから必要な事はこれから知っていく。後悔は、しない」
「•••••••」
「巻き込んでごめん。迷惑だったら、何にも聞かなかった事にして、当分家に来ないでくれ」
宗司は再び俯いてしまった。
それから少しの間、時計の秒針の音だけがやけに大きく、部屋を満たしていた。
やがてそこに深く、大きなため息が落ちてきた。
「はぁぁぁぁー••••••••」
ため息の後、ガリガリと頭を掻きむしってからようやく宗司がこちらを向いた。
「ほんと、お前ってばバカだな」
「••••••••」
言われて仕方がない事を自覚しているが、いい加減腹立たしくもなってくる。
「小学生の女の子の事を男友達にしか相談出来ないようなバカで友達いないヤツ放置出来るわけ無いだろ」
「宗司•••••」
「お前一人に任せてたらももチャンまで家の中で野たれ死にかねないからな。協力出来る事はしてやるよ」
恥ずかしいのか、それを隠すように殊更仕方が無いと言った態度をとってきたので、申し訳ないが真斗は笑いそうになってしまった。
真斗が笑を堪えていると、隣からカタンと椅子の動く音がした。
見れば桃が立ち上がっていた。
「あ、あの。迷惑かけてごめんなさい。それで、その、これからよろしくお願いします、神矢さん」
ぺこり、と頭をさげた。
それを見た宗司は笑顔になった。のを見てしまった真斗は嫌な予感がした。
「こちらこそ、将来的な事も前提によろしくして欲しいなぁ」
「将来•••••?」
「そー、もうちょっと先のステキな未来!でも、ももチャンがおっけーだったら俺はいつでも一線越える覚悟がって、いってぇ⁉︎‼︎」
真斗が拳を振り下ろした。
「そんな覚悟してんじゃねえよ‼︎」
「見返りに体を求めなかっただけましでしょ?」
真斗の額の血管がびきっと浮き出た。
「俺に殺される覚悟も出来てんだろうな?」
「俺エムじゃなーい」
とうとう無駄に広いこの家で追いかけっこが始まってしまった。
口汚い言葉の押収をしながら部屋をぐるぐる走り回っている。いまいち会話の内容は理解出来ない所もあったが、大人二人の追いかけっこが可笑しくて、桃は声をあげて笑ってしまった。
その声に大人二人はぴたりと止まった。
少女が楽しそうに笑っている。
たったそれだけの事が、とても大切な事に思えた。
「大丈夫だよ、宗司。桃は多分捨てられた子じゃない。ちょっと家から出ちゃった、迷子だ」
大丈夫。
きっと帰り道は見つけられる。