ある、霙雪の日
降り続ける雨は先ほどよりは弱まったものの、未だ窓の外をだくだくと濡らしている。いっそ雪になってくれた方が寒くない気がするが、今日の気温はそこまで低くないらしい。けれど雨風凌げる室内ですら凍えさせるほどには外気は冷えていて、当然として起動しているエアコンの暖房とせめぎ合った結果、室内に雨が侵入したかの様にガラスとカーテンが結露でびったりと張り付いていた。
少女は行儀良く椅子に腰かけながら、ただその様を見ている。
他に何も、する事がないのだ。
いや、正しくは、何もする事が出来ないのだ。
だから少女は借りてきた猫よろしく、物音も立てず、ちょこんと座り続けていた。
「やっぱ、でかいよな••••••••」
窓とは別の方向から声がした。
少女は窓に張り付かせていた視線をそちらへと動かした。
少女一人ぼっちだった部屋に、男が入ってきたのだ。少女が男に向けたのは、先ほどまでの手持ち無沙汰な視線ではなく、不安と安堵を一塊りにした何とも複雑なものだった。そんな少女の難しい感情を男が読み取れた筈もないが、少女が怯えてない事にひとまず男は安堵した。
「•••••大っきいですけど、ワンピースみたいだと思えば、着られ無くはないです」
少女が自身の着ているものを見ながら応えた。
少女が着ている洋服は襟元が肩から落ちかけ、適正な人が着れば腰もとまでのはずの丈は少女の膝を隠す程に長かった。ファッションが多様化している現代にしたって、これは誰がどう見てもサイズがあっていないだけにしか見えない。少女自身もそれは分かっていたが、人様から好意で借りているものに不満を述べる気にはならなかった。もしかすると、不満を述べる程頓着が無いだけかもしれなかったが。
「いや、どう見てもでかいだろ。着てた服は乾燥機に入れたばっかだし•••••••」
男は軽い機会音の聞こえてくる扉を振り返ったが、先ほど洗濯機から乾燥機に移したばかりなのは自身が一番良く知っていた。
「大丈夫です。暖房、暖かいので」
少女が着ているのは男の私物のTシャツと、流石に洗うわけにもいかなかった少女の私物の下着だ。
少女の言うように部屋は暖房が効いていて、シャツ一枚でも寒くは無いだろう。現に男だってシャツとスウェットを着ただけで、風呂上がりの濡れた髪を放置しているが別段寒いとは思わない。しかし、問題はそこではない。
若干、色々なものが透けたり露出したりしている。
「•••••••••••」
男が何も考えずに渡したシャツが思いのほか薄手だっのがいけないのか、少女が何故かノーブラなのがいけないのか、シャツ越しに透けて見える光景に、男は目をそらした。男が少女を女性として認識していなさ過ぎた事と、少女自身も自分の女性としての成長に未だ関心が無かった事が眼前の大問題を引き起こしていた。
これでは話も出来ない、と男はソファに引っ掛けてあったうたた寝用の薄い毛布をひっつかみ、無理やり少女を覆った。
「あの、寒くは••••••」
「さっきまで外で凍えてたんだ、一応被っとけ」
「••••••••ありがとうございます」
好意、だと思った少女はそれ以上突っぱねる事はせずにおとなしくそれにくるまった。それに安堵し、視界の平穏を手にした男は一度キッチンにひっこみ、すぐに両手にマグカップを持って戻ってきた。
その片方、明るいオレンジ色のカップを少女の前に置き、テーブルを挟んで向かいに座った。置かれたカップからは微かに甘い匂いと、温かな湯気がふわふわと揺らいでいる。
「•••••••••••」
少女はじーっとその中身を見つめた。
「牛乳、嫌いか?家にそれかコーヒーしか無くて。まだそっちのがましかと思ったんだけど」
何故だか申し訳なさそうにする男と、甘い香りのするホットミルクを順にみて、少女は小さな両手でしっかりとカップを持ち、口をつけた。その様を男はただ見守った。
小さくコクリと喉を鳴らして飲む少女は、小動物のようだった。
「•••••••あまい。おいしいです」
カップを置いて呟くように言った少女に、男はほっと息をついて自分用のコーヒーを口にした。カフェオレに近いそれは、少女に出したものとは違い甘くない。相手が少女なので気を遣って牛乳に貰い物のハチミツを入れてみたのだが、普段からそういった事に慣れていない男は少女の素直な感想に嬉しくなった。
再びカップを手に、コクリコクリと飲む少女はよほどそれが気に入ったようだった。
ただ、自身が軽々と持ち上げられるカップを両手で掴む少女を見て、改めて男は思った。
「•••••••••これは、幼女誘拐になるのか?」
そのつぶやきに少女がカップを置いて、男を見つめた。
「お兄さんは、大人ですよね?」
「今26歳だから、一応大人だな」
「私は11歳です」
「11だと••••••」
「今、6年生です」
「26歳男性が小学6年生を無理やり自宅に軟禁。そのまま明日の朝刊にでも出そうだな•••••••」
男は現状を客観的に見て、自身がだいぶ犯罪者まがいな状況下だと認識した。
しかし、男の言葉に少女はふるふると首を振った。
「大丈夫ですよ。お兄さんにお家に連れて行って欲しいと頼んだのは私ですし、お兄さんは私を閉じ込めたりして無いです。お兄さんは凍えていた家出した子を保護した、いい人です」
少女は至極真面目にそう言った。
実際真実は少女の言った事が全てだ。真冬の霙雪に濡れた少女に頼まれ、放っておけずに家に招いて風呂に入れて、濡れた服を洗濯して乾かしている。本当に、ただそれだけだ。男は小学生に淫らな事をしたい性癖は持ち合わせていないし、少女も大人とエッチな事をしてお金を手に入れようなんてませた愚かな事は考えすらしないだろう。しかし、世間にそんな事実は通用しない、と男は分かっている。現代のマスメディアは真実どうこうよりも、視聴者の気をひけるネタで有ることの方が重宝される傾向にある。報道だって慈善事業ではない。視聴率が大事なのだ。少女がここに長居をすればするほど状況は悪化の一途を辿る。
少女がいつから家出なんて事をしているのか男は知らないが、出会った時荷物も持たず、身なりも濡れている以外目立って汚れたりしていなかったことから家を出たばかりだろうと思われる。ならば、今すぐにでも家に送り届けるなり何なりすれば大事には至らないだろう。
男には冷静な部分でそう分かっていた。
「••••••••家に、まだ帰りたくないのか?」
びくり、と少女の肩が揺れた。
答えずとも容易に質問が肯定されたのが男には分かった。
「ここに、•••••••もう少しだけ、居たらだめですか•••••••?」
ダメだと、そうはっきり言うべきなのは分かっていた。
いくら少女が泣きそうに懇願してきたとしても、男はそれに絆されて犯罪者のレッテルを貼られるような間抜けな判断はしない。少女にとっても見知らぬ男と何日も一緒に居た事実など、今後の人生に悪い噂しか招かないだろう。それぐらいに冷静ではあるのだ。けれど男は、一部分に関して、だいぶ馬鹿なのだった。それはもう、旧知の親友に声を大にして「大馬鹿野郎」と罵られるほどに。
「天気も悪いからな••••••」
審判を待つように、暗い顔で俯いていた少女が顔を上げた。
「それって•••••••」
「今外に出て風邪でもひいたら、家来た意味ないだろ?」
少女の顔がみるみる明るくなった。
「少しの間だけだからな」
「はい!ありがとうございます、お兄さん!」
少女は目をきらきらさせて、大きな声で言った。男は初めて聞いた少女の大声と、浮かべた不器用な笑顔に気恥ずかしくなって、返す言葉がぶっきらぼうになってしまった。
「その、お兄さんていうのやめろ。俺は夕日 真斗。真斗でいいから」
「はい、マナトさん。私は日向 桃です」
「別にさんも付けなくていいけど•••••。まぁいいか。よろしくな、桃」
「よろしくお願いします」
真斗が差し出した手に、テーブルに乗り上げるようにして精一杯手を伸ばした。見た目通り小さなては、けれども真斗よりも何倍も暖かかった。
借りてきた猫のような少女は、家出猫だった。
何かを抱えた家出した少女との生活が、今始まった。