十七、 最期の話
※最終回ではありません。
静かな部屋の中に日が差している。
窓辺では薄いカーテンがそよ風に揺れ、森の香りを運んでくる。
小鳥達は眩しい陽光の下で遊び、花の間で囀り声を交わしている。
控えめにドアをノックする音がした。
そっと扉が半分程開く。隙間から体を滑り込ませて来たのは若い男だった。
二十台の半ばを過ぎた頃に見える。上等な仕立ての白い服を着て、片手に帽子を抱えている。
ひょろりと背が高く、頭の天辺では波打った黒髪が後ろへ撫で付けられていた。
ポケットには白いチーフが差され、シルクのシャツの胸元をベージュのタイと銀のタイバーが彩っている。
男は悪魔だった。
悪魔は片手でさっと襟と髪型を整えると、血のように真っ赤な瞳で部屋の中をぐるりと見回した。
然程広くはないが、清潔で快適な部屋だ。
壁際に寝台とクローゼットが据えられており、南向きの窓の傍には小振りなテーブルと安楽椅子が置かれている。
寝台には一人の老人が横になっていた。
眠ってはいないようだ。背にクッションを挟んで、半ば身を起こしている。
悪魔は老人に近付いた。
『やあどうも、ご老人。ちょっと物を尋ねたいんだが、』
「久し振りだね、オールド・ジョン」
悪魔の言葉を遮って、老人が言った。
悪魔は驚いた顔を見せた。
『私のことをご存知かな?どこかで会ったかい?』
「随分と冷たいじゃないか、ジョン。“僕”だよ」
皺だらけの顔に笑みを浮かべた老人をまじまじと見つめて、それから悪魔は本当に驚愕の声を上げた。
『坊や!まさか、坊やなのか!』
「その通りだよジョン」
大分ご無沙汰だったから僕も随分様変わりしてしまった、と老人は笑い声を立てる。
「もう君のおじ様よりも年寄りになってしまったろう?」
『そんな馬鹿な!そりゃお前は年を取ったけど、まだこんなに老いさらばえる程じゃなかったろう』
記憶の中では濃い蜂蜜色だった髪は悪魔のおじそっくりの銀色に変わり、節くれだった指は硬く皺と皹に覆われていた。
皺くしゃの顔で眉根を寄せて、呆れたように老人は言う。
「最後に会ったのは僕の下の息子の結婚式だぞ。
あれから二十年も経てば、人間は皆こうなる」
そんなに経ったかい、と呟いて悪魔はベッド脇の椅子に腰掛けた。
老人は黙って一度頷いた。
「だが僕の口が利ける内に来てくれてよかったよ。
無沙汰したままでは心残りになったからね」
そいつは済まなかった、と悪魔は少し笑った。
『紅茶を淹れようか、何がいい?』
「君がよく淹れてた奴がいいな、気に入りの茶葉があったろう」
『いいとも』
悪魔がぱちんと指を鳴らすと、いつの間にかサイドテーブルに二人分のお茶の仕度が整えられていた。
大きなポットはたっぷりのお湯で満たされていたし、二つのティーカップは温められて置かれていた。
悪魔はそれに深紅の液体を注いだ。
ふわりと、芳しいお茶の香りが部屋中に広がる。
「ああ、そうだ。この匂いだ、懐かしいなあ」
『お菓子はどうだい?』
「勿論いただくよ」
『お前はいくつになっても甘いものが好きだね』
悪魔が焼き菓子の乗った皿を差し出す。
一瞬前まで部屋のどこにも無かった筈のそれには、甘い香りを立てるマドレーヌやオレンジ風味のチョコレートなどが並んでいた。
老人は黒ゴマのクッキーを一つ取って頬張った。
「うん、美味い。いつも不思議に思ってたんだけど、この魔法で現れたお菓子は一体誰が作ってるんだい?」
『企業秘密さ』
悪戯っぽく悪魔が言う。
『でも誰のレシピかは教えてあげられるよ。お前も食べたことのある……』
「ニーナだ。おじ様のところのメイドの」
正解、と悪魔は答えた。
「君には沢山お菓子を貰ったけれど、彼女のアップルパイが一番だったな」
『巻き上げたの間違いだろ』
「好きで寄こしてたくせに。僕を太らせて食べる気かと思ってたよ」
『そうしておけばよかったと今更ながら思ってるよ』
軽口を言い合って、二人が笑う。
ふと爽やかな風が吹き込んできて、ゆらりとカーテンを揺らした。
悪魔が窓の外を見やる。緑の草原が広がっている。
遠くに花畑が見える。その向こうには鬱蒼と茂った森と青い山の峰が連なっている。
穏やかな陽光が似合いの、まるで絵画のような風景だ。
『なかなかいいところじゃないか、長閑で。ピクニックに行きたくなる』
「ああ、終の棲家にはぴったりだよ。ここからは見えないが、あっちの丘の向こうも良い景色なんだ。
そこにお墓がある。僕のね」
随分気が早いな、と悪魔は言った。
『特等席を予約してあるのかい?人気なんだな』
「それ程早くはないよ。僕もそろそろ年貢の納め時だ」
と老人は肩を竦めて見せた。
「息子達に手間を掛けさせるのも悪いからね。できる準備は先に済ませてあるのさ」
じゃあ葬儀もかい?と尋ねた悪魔に、その通りと老人は答えた。
「段取りは先に決めて、ノートに纏めてあるんだ。
息子にも伝えてある。後腐れなく旅立てるようにね」
『諦めの良い奴だな』
「それが取り得さ」
にやりと笑って、老人はお茶で喉を湿らせる。
『お前のことだから大層派手な葬儀にするんだろうね』
「いやいや、流石に教会ではしゃぐ程心臓じゃないよ。
辛気臭くならない程度に晴れやかに、家族に見送ってもらうさ」
どうだか。と笑って悪魔は自分の膝を叩く。
『うん、坊やの旅立ちともなれば私も見送らない訳にはいかないな。
どうだい、餞別くらいは奮発してやろうじゃないか』
老人は笑んだ表情のまま、首を左右に振って見せた。
「君は来ないよ、きっとね」
『おい、私をそんな不義理な奴だと思っているのか?』
悪魔は憤慨する。が、老人は重ねて否定した。
「来ないさ、君は。あんな退屈で黴臭いところ。
君は賑やかな方が好きだし、楽しいことは他にも沢山ある」
『お前の棺に悪戯するなんて絶好の機会、逃せるものか』
「ほれ見ろ、だから君には葬儀の日取りは知らせんぞ」
悪魔が笑む。老人は眉根を寄せる。
二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。
「まあ、仕度を急ぐのも理由がない訳じゃないんだ。
僕のところに、もうじきだという知らせが来たんでね」
『占い師か?お前、そんなの信じるタマだったか?』
易者や悪魔なら信じなかったんだがな、と老人は言った。
「天使だ。それで教えてくれた。どうやら僕は生まれ変わるらしい」
『あんな奴らの言うことを信じるのか!』
「だって僕は地獄へは行かないんだろう?
なら向こうのことは向こうに聞くしかないじゃないか」
悪魔はむっつりと黙り込む。
もしも地獄に堕ちるなら、君が真っ先に僕にそう言いに来ている筈だ。という老人の指摘は全く正しかったからだ。
老人はすっかり飲み干した紅茶のカップをテーブルに戻した。
悪魔がお代わりを勧めるのを手の平で遮る。
それから、柔らかなクッションに体を預けて深く息を吐いた。
そしてこう言った。
「さあゲームをしよう、ジョン」
『どんなゲームだい、坊や』
「そうだな、生まれ変わった僕を探すってのはどうだい?
僕を見つけられたら君の勝ち。見つけられなかったら僕の勝ちだ」
『いいとも、何を賭ける?』
「君が勝ったら、とびきりおいしいチェリータルトをご馳走してやろう。僕の妻が焼くチェリータルトは人生で一等なんだ。
僕が勝ったら、君秘蔵のワインを一本開けてもらおう。それから、僕の妻に大きな薔薇の花束を贈ってくれ」
『いいだろう、乗った』
悪魔は頷いた。
『坊やとのゲームも久し振りだな』
「前は何を賭けたんだっけ?」
『お前の一人目の息子の子供が男の子か女の子か、だよ。
負けた方が産着とベビーベッドと乳母車をプレゼントするって条件でな』
「そうだ、それで僕が勝ったんだ。生まれた時から良くできた孫だったな」
『フン、その子に顔目掛けて小便を引っ掛けられたくせに』
「おい、どうして知ってるんだ」
悪魔の目が、サイドテーブルに飾られた写真立てに止まる。
悪魔は一枚の写真を指差して見せる。
少年が二人並んで写っていた。どちらにも少し老人の面影がある。
身長は然程変わらないが、片方はきっちりとネクタイを締めて黒いマントを羽織っていた。学校の卒業式のようだ。
『これがあの時の子かい?』
「そうさ。隣は弟だよ」
『坊やに似てるな』
「僕に似ず頭の良い子に育ってくれたよ。
言っておくが、孫に契約を持ちかけたら絶交するぞ」
『それは困るな。じゃあやめておこう』
悪魔は別の写真を眺める。
『こっちは娘だったか?』
「ああ、一番下の子だ」
『お転婆だったろう?』
「僕の子だからなあ。裁縫より木登りの方が得意だったよ。
でも料理はピカイチでね、特にお菓子作りは上手だった」
『まさしくお前の子だね』
「全くその通りだよ」
老人は、写真の中でウエディングドレスを着て幸せそうに笑っている娘を見つめる。
「子供達も全員巣立ったし、孫の顔も見れた。悪くない人生だったよ」
本当に?とは悪魔は尋ねなかった。答えは分かっていたから。
「生涯も暮れになって初めて分かることってあるんだな。
僕の場合は、僕が幸せだったってことだ。少し前までこんなふうには思わなかったのに」
まあ、年寄りの戯言と思ってくれ。と老人は微笑んだ。
『いいや、そうでもないさ』
悪魔が、老人の干乾びた手を取って言う。
『坊や、私と契約しよう。若返らせてやるよ。死なない体を与えてやる。
お前の知らない楽しいことはまだ沢山ある。もっと私と遊ぼう』
老人は聞き分けの無い駄々っ子を宥めるように、少し困った顔でこう言った。
「僕はもう沢山、沢山遊んだんだよジョン。
やりたいことは全てやった。酒を飲んで、歌を歌って踊って、時にはちょっと悪さもした。
好きな女の子を口説いて、愛し合って、結婚した。働いて、家族を養って、子供を育てた。
毎日精一杯楽しんだよ。明日なんてどうなるか分からなかったからね。心残りの無いように、目一杯愉快に過ごしたんだ」
僕は満足している。と老人は囁いた。
それは余命乏しい人間が己を慰めるために語る過去の美化にも似た言葉だったが、悪魔にはそうでないと分かっていた。
「僕はいつも楽しく生きた。与えられた時間を一滴残らず使い切ってきた。
ジョン、君が僕を気に入ってくれたのもそういうところだろう?」
悪魔は否定しなかった。
「無限の時間を持ってしまえば、僕は今までのようには生きられない。だらだらと不安を眺めて過ごすような詰まらない男に成り下がってしまう。
そんな男はもう君の友達ではないし、そんな魂を君は欲しがったりしない筈だ」
遊びの時間は終わったんだよ、と悪魔を見つめる老人の眼差しが語っていた。
『お前の言うとおりだ』
悪魔は静かに頷いた。
『じゃあせめて一勝負付き合えよ。確かまだお前が勝ち越していたな』
老人の膝の上にチェス盤が現れた。赤と白の二陣営に分かれて並んだ駒は、古びていたが磨かれて艶々と光っていた。
「昔使っていた奴じゃないか」
『さあ、先攻を決めろ』
悪魔が老人にコインを渡す。老人がそれを弾いて、裏か表かを当てれば老人が先攻だ。
しかし老人は、ぴかぴかの大きなコインをまじまじと見つめて、残念そうにそれを両手で包み込んだ。
「もう勝負にはなりそうもないよ、ジョン。すっかり頭が鈍くなっててね」
『そんなことないだろ?』
「そんなことあるさ。耄碌したってことだ。自覚がある分マシかも知れんが物悲しいね」
ピン!と親指でコインを弾いて、悪魔に投げ返す。
悪魔はそれを右手の平と左手の甲で挟んで受け止めた。
『さあ、表か裏か?』
少し迷って、老人は答える。
「裏だ」
『当たり』
悪魔がどけた右手の下には、裏返しのコインがあった。
盤の白い陣が老人の方を向く。
『さあ、お前からだ。早く指せよ』
「どうあっても僕と引き分けにするつもりだな」
『当然だ。勝ち逃げなんてさせないぞ』
老人は苦笑する。それから、降参を示すように両手を上げた。
「OK、分かったよジョン。この勝負は今度だ。絶対続きをする。
だから今日は勘弁してくれ。疲れたんだ」
『絶対か?』
「絶対だ」
『約束か?』
「約束だ」
大真面目な顔で老人は頷いた。悪魔は肩を竦める。
『約束なら仕方ない』
あっさりと悪魔は諦めて、チェス盤を片付けた。
ひらりと悪魔が手を振った後には、まるで最初から何も無かったように駒一つ残さず消え失せた。
『確かに約束したからな、坊や。破ったら酷い目に会わせるぞ』
「分かってるさ、今までだってそうだったろう」
勿論、老人は悪魔の約束の重要さをよく知っている。
契約と全く違わない程大事なことだと知っている。
だから悪魔も、老人の約束だという言葉を信じた。
「さあジョン、そろそろ時間だ。
もっと話していたいんだけどね、体力が持たないんだ」
『本当にお前は年寄りになったんだなあ』
悪魔の手が老人の手に触れる。
悪魔の手は、冷たくて青白くてすべすべとしている。
老人の手は、温かくて皺だらけで乾いている。
老人はそっと悪魔の手を握った。
「カーテンを引いてくれないか」
『いいとも』
悪魔が窓を見やる。微かに揺れていたカーテンはするりとレールの上を滑って、光を遮った。
少し薄暗くなった部屋の中で、深々とクッションに身を沈ませて老人が囁く。
「ありがとう、楽しかったよジョン。すまないが先に休ませてもらうよ」
『子守唄を歌ってやろうか、坊や?』
子供を寝かしつけるように耳元へ囁く。
老人は笑んで、黙って目を閉じる。
悪魔は静かな声で歌い出す。不思議な旋律の、澄んだテノールだ。
昔々に一度だけ、老人が聞いたことのある悪魔の子守唄。
歌い終わった頃、老人の呼吸は穏やかな寝息に変わっていた。
悪魔は立ち上がって、指先で老人の少なくなった髪を撫でた。
『おやすみ坊や、良い夢を』
そっと額にキスをした。
ひやりと冷たい、悪魔と同じ温度の肌だった。
悪魔が振り返ると、カーテンの向こうの窓はぱたりと閉じて、そよ風を締め出した。
ティーカップもポットもお茶菓子も、いつの間にか姿を消している。悪魔の痕跡を消し去るように。
それから悪魔は出て行った。来た時と同じように足音一つ立てずに。後ろ手で扉を閉じて。
そうして、二度と老人に会うことはなかった。
太陽は少し西の方へ傾き、やがて来る夕暮れを予感させる。
草原と森の境目にある白い小奇麗な建物は、黄金色を帯び始めた陽光にほんのりと染まって見えた。
それが病院だと孤児は知っていた。悪魔が教えてくれたからだ。
突然寄り道をしたいと悪魔が言い出した時は驚いたけれど、お見舞いだと聞いたから不服は言わなかった。
大人しく外で待つことにも同意した。
悪魔はとびきりめかしこんで、病室を訪ねに行った。
孤児は森で栗鼠を追いかけたり、草原で草の実を探して過ごした。
孤児がすっかり待ち草臥れた頃、ようやく悪魔は建物から戻って来た。
庭先の草叢にしゃがんで野花を毟っていた孤児は、悪魔の姿を見つけて立ち上がった。
「ジョン、遅いよ!」
孤児が拗ねたように頬を膨らませる。
『悪かったよ、ちょっと話が長引いてな』
言いながら、悪魔は右手に抱えていた帽子を頭に乗せた。
「誰のお見舞いだったの?」
『古い知り合いさ』
と悪魔は答えた。
「その人も悪魔なの?」
『いいや、人間だ。良い奴だよ。ゲームが得意でね、夜通しカードやチェスをしたものさ』
悪魔は、病院の前に置かれたベンチに腰掛けた。
古びて鉄製の足には錆が浮いていたけれど、軋んだりはしなかった。
普段は入院している患者達が憩う場所なのだろう。
孤児も、悪魔の隣に腰を下ろす。
『最初に会った時はまだこんなチビでね』
悪魔は手の平を翳して、孤児に示して見せた。
『ああ、でもお前よりは大きかったな。賭場や酒場で下働きをしていた小僧だったんだ。
私が悪魔だと知っても一度だってお願い事なんてしてこなくて、詰まらない奴だった』
悪魔が話すのを、孤児は頷いて聞いた。
世にも珍しい、悪魔の知り合いだという人間の話だ。
悪魔が迂闊にもぽろりと名前のヒントを漏らすかも知れない。
否。そんな考えを別にしても、その話は面白そうだと思った。
「その人はジョンとゲームをしなかったの?」
『一杯したさ。何か切っ掛けがある度に賭けてたな。
一番悔しかったのはあれさ。あいつの初孫が男か女か賭けて、負けたんだ。乳母車を巻き上げられた』
「乳母車?」
孤児は思わず笑い声を漏らす。
『レースがたっぷりの産着もさ。でもそれは仕方ない。賞品だものな。
そうそう、あいつが一度だけ私に頼み事をしたのを思い出した。
あいつが嫁さんにプロポーズする日のことさ、どうしても花束が必要だって言ってな。真冬にだぜ?』
「契約しろって言ったの?」
『言わなかった。丁度カードで一回私が負け越していたから、その分をチャラにする約束で叶えてやった。
あいつが私に何かをねだったのは、結局この一回だけだったな』
悪魔がゲームに負けていたなんて、孤児には想像できなかった。
「ジョンでも負けるんだ」
『あいつはどんな勝負にも公正だった。だったら私もそうでないと勝ったとは言えないだろ』
「仲良しだったんだね」
良くなんかないさ!と悪魔は即座に否定した。
『でも面白い奴だった。それで十分だ』
孤児は少し気遣わしげに悪魔を見た。そして、控えめに尋ねる。
「病気なの?」
『病気でもあるが、正確には老いだな。年寄りになったんだよ。
それでうまく体が動かなくなって、こんな面白くもない所に居るのさ』
胸の内ポケットを探って、悪魔は紙巻煙草を取り出した。
マッチは擦らない。指先で触れれば、すぐに赤く燃えて薄い紫色の煙が昇り始める。
『すっかり耄碌しちまってな。チェスをしようって言ったのに、もう頭がぼやけて上手く出来ないんだとさ』
悪魔は深く煙を吸い込み、吐き出した。灰色が広がって、空気に混ざりながら消えて行く。
煙草を吸う悪魔を、孤児は珍しく思って眺めた。
『あいつ、私に葬式へ来るなと言いやがった』
吐き捨てるように悪魔が零す。
「どうして?」
『私が悪戯すると思ってるのさ。顔に落書きしたり、棺桶一杯にキャラメルポップコーンを詰め込んだり』
「しないの?」
孤児が問う。
勿論するさ!と悪魔は胸を張って答えた。
『もっと酷い悪戯を考えないとな。あいつが大笑いして怒りながら棺桶から飛び出して来るくらいの』
にたりと笑って、悪魔が孤児に尋ねる。
『坊や、悪戯は得意だろう?良いアイデア無いかい?』
「いきなり聞かれたって無理だよ!」
『そうだよなあ、まずは葬式をする教会の見取り図が必要だ。
大掛かりな仕掛けにしないとな。クリームパイをぶつけるくらいじゃ喜ばないだろうから』
悪魔は何事かをぶつぶつ呟きながら、両の手で指折り数えている。
きっと今まで二人でやってきた悪戯を思い出しているのだ。
悪魔は、本気で老いた友人を楽しませようとしているようだ。
悪魔はお祭が好きで、楽しいことが大好き。彼の悪友もそうだったに違いない。
順番に曲げられていった指が両手を二周した頃、ふと悪魔が孤児に顔を向けた。
『坊や、不老不死になりたくないかい?』
唐突な質問だった。孤児は意図が分からず問い返した。
「ふろうふし?それってどんなの?」
『もう年を取らないし、老いて死なないってことだよ』
「え?それじゃあ大人になれないってこと?
嫌だよ!背が伸びなくなるじゃないか!」
悪魔は苦笑した。
『ま、そうか、そうだな。お前の年じゃあな』
孤児にとって、年月は老いと同義ではない。
成長という名の、停滞していない魂だけが持つ特権めいた期間。
悪魔が立ち上がる。孤児もベンチから飛び降りる。
地面に着地した孤児の手を、悪魔がごく自然に握る。
孤児は悪魔を見上げた。
正面に、夕陽になる前の橙色が混ざり始めた太陽が輝いている。
悪魔の顔は逆光になっていて、その表情はよく分からない。
「ジョン、寂しいの?」
悪魔は呆れたように笑い声を上げた。
『そういう感覚は私達には無いんだよ。強いて言うなら、勿体無いかな』
「もったいない?」
『愉快な奴が居なくなるのは勿体無いさ。
あいつは地獄に生まれれば良かったんだ。良い悪魔になったろうに』
孤児を見下ろして、思いついたように悪魔が言う。
『オーウェン、チェスを教えてやろうか?』
「いらないよ、難しいもの」
断った後で、でも少しだけ考えてこう付け足す。
「僕が大きくなったらね」
『そうだな、もうちょっと大きくなったらだな』
孤児の手を引いて悪魔は去る。
木漏れ日に照らされた森の脇の細い道を、二人の後ろ姿はどこまでもどこまでも遠ざかって行った。
十七、 幕 ――