十六、 立ち往生
昨日までの大雨で道は酷くぬかるんでいた。
泥溜まりも同然の山道を、ゆるゆると馬車が進む。
二本の轍が後方に長い足跡を刻んで進む。
車を引く二頭の馬も、歩き辛そうに足元と正面を交互に睨んでいた。
「ちょいと遅れるかも知れませんが、安全運転で行きますよ」
峠に差し掛かる手前で、御者が乗客に声を掛けた。
文句を言う者はいなかった。
一度に十二人を運べる小さな乗合馬車の席は、半分も埋まっていなかった。
狭い二人掛けの椅子が、通路を挟んで左右に三つずつ並んでいる。
右側一番前の席には老夫婦が座っており、妻は先の町で食べた魚料理の美味しさについてしきりに夫に話しかけている。
左側真ん中の席では孤児と悪魔が並んで窓の外を眺め、右側後ろの席では旅人らしき男が馬車の揺れにうとうとと船を漕いでいる。
「また雨が降ってきたよ、ジョン」
孤児が言った。見上げれば、どんよりと重く黒い雲が頭上を渦巻いている。
ぱらぱらと木の葉や草を鳴らしていた水滴はすぐに地面を打ち付けるような強い雨に変わり、同時にごろごろと唸るような音も降って来た。
孤児は慌てて窓から離れた。雷が恐ろしかったからだ。
『怖いなら私のお膝に来るかい、チェリーパイちゃん?』
悪魔がからかうように言う。
大人しく席に着いた孤児は、不服気に唇を尖らせる。
「赤ちゃんじゃないんだから、そんなことしないよ」
しかし、その手は無意識に悪魔の上着の裾を握り締めていた。
『ここには落ちやしないさ。坊や、雷ってのは背の高いものに落ちるもんなんだぜ』
だから両脇を背の高い木に囲まれているこの山道は安全だ、と悪魔は言うが。
「そんなの分からないじゃないか。ここじゃなくたってすぐそばに落ちるかもしれないよ。
それで大変なことになるかも」
『例えば?』
そう尋ねられても孤児には想像が追いつかない。幼い孤児にはまだ雷が引き起こす山火事という発想はない。
雷より恐ろしいことなんて孤児には経験もないし、そんなことは考えたこともない。
「分からないけど、何か恐ろしいことだよ」
いい加減に誤魔化してそっぽを向く孤児に、悪魔はくつくつと笑い声を漏らした。
その時だ。がたり!と大きく馬車が揺れて、そして止まった。
衝撃にゆらゆら揺れるランプの下で乗客は馬車が動き出すのを待ったが、一向に進み始める気配は無い。
その内、馬に鞭をくれていた御者がこちらへ顔を出した。
「申し訳ありません。泥濘にはまったようで様子を見てきます」
老夫婦の夫が御者に尋ねる。
「車輪が壊れたのかね?」
「いいえ、ちょっと引っかかってるだけですよ。皆さんは席でお待ちください」
さっとカーテンを閉めて、御者はさっさと下りて行った。
ばしゃばしゃと泥水を跳ね散らかしながら、馬車の後ろへ向かう足音が聞こえる。
「困ったわねぇ、すぐのことだと良いのだけれど」
老婦人の呟きを聞きながら、孤児は窓からそっと後ろを覗き見た。
後輪が石に乗り上げた拍子に、どっぷりと泥にはまり込んでしまったらしい。
御者が雨に濡れながら車輪を押したり引いたりしているが、全く抜け出せそうにない。
これは皆で手伝わなければ手に負えないかも、と思った瞬間。
ドォォン!ゴロゴロゴロゴロ……
近くで雷の落ちる音がした。
孤児は慌てて首を引っ込め、悪魔にしがみついた。
『だから怖いなら私の膝においでと言ったろう?』
悪魔はけらけらと笑って、孤児の肩を叩く。
「大丈夫かしらねぇ」
「なあに、すぐ動き出すさ。心配いらないよ」
老夫婦が不安そうに囁き交わしている。
そう、心配はいらない。車輪さえ泥から出たらすぐにでも出発できる。
だが孤児の胸騒ぎは治まらなかった。
嫌な予感がする。殆ど確信めいた強烈な不安感だ。
「ジョン」
ここに居たくないよ。発作的にそう言葉にしようとした寸前。
ごんごん!と扉が強くノックされた。御者が乗降口の戸を開けて、ずぶ濡れのままこちらを手招きする。
「すみません、手を貸してください。私一人じゃ車輪を引っ張り出せそうにありません」
仕方ないといった空気が車内に流れた。
老夫婦の夫と寝ぼけ眼の旅人が立ち上がる。婦人は席に残る。
「ジョンは行かないの?」
『冗談だろ、外は土砂降りだぜ?』
上着が濡れるじゃないかと言い放つ悪魔に、孤児は非難がましい視線を向けて立ち上がる。
「じゃあ僕が行く」
『おい、何をしにだよ!重いものなんて持てないくせに』
悪魔の伸ばした腕が孤児の手を掴む。
――――――!!!
突然世界が白く染まった。ごく短い間だったが、目に焼き付くほどの強く眩い光の洪水だった。
真横から思い切り殴られたような衝撃に、馬車の車体が大きく軋んで傾く。
孤児は倒れて、椅子の側面で体を打った。
地面ごと揺らすような凄まじい音が聞こえた気がするが定かではない。
気づけば、馬車は横転していた。そうと知ったのはもう少し後の事で、その瞬間には何が起きたのか全く分かっていなかった。
足元がぐるりと回転した時、悲鳴が聞こえたのは覚えている。
椅子と椅子の間に倒れこむ旅人、奥さんの名前を呼ぶ老夫婦の旦那さん、旦那さんの名前を呼ぶ奥さん。
孤児も誰かの名前を呼んだのかも知れないが、それを自覚するより先に力強い腕に引っ張られて抱き上げられた。悪魔だ。
『こいつは不味いな。おい、ちゃんと掴まっていろよ』
そんな風に聞こえた気がしたが、その時は訳も分からず悪魔の肩の辺りにしがみつくので精一杯だった。
ばりばりと甲高い生木を引き裂くような音がして、もう一度天地が逆転した。
体が浮き上がる。孤児は目を閉じて握り締めた手を離さないよう、ただそれだけを考えた。
例え縋りついている相手が悪魔だとしても、今はそんなことを気にかける余裕など無かった。
窓が割れる音、壁床が軋む音、天井が砕ける音、木の枝がへし折れる音、草叢を踏みにじる音。
土が抉られ崩れる振動と巨大な岩にぶつかった激しい衝撃。
そんなものが嵐のように一斉に押し寄せてきて、その後で一瞬だけ静かになった。
キーンと耳鳴りがしていたように思う。
それから、どしゃり!と泥の上に落下する湿った音と共に、ざあざあと打ちつける雨粒の感触が戻ってきた。
孤児は頭がくらくらしてしばらく目を開けることができなかった。
ただ、体が冷たいのは雨に濡れているせいだということと、自分に体を支えている腕が悪魔のものだということは分かっていた。
『オーウェン、無事か?』
「分からない、どこも痛くはないけど。
……何が起きたの、ジョン?」
『さあてねえ』
悪魔の声にごぼごぼとくぐもった奇妙な響きが混じって聞こえて、孤児は顔を上げた。
そして、それを見た。
悪魔の左腕が、不自然なところで捻じ曲がって投げ出されている。折れているのだと、孤児にもすぐ理解できた。
泥の中に仰向けに倒れた悪魔の額には大きな裂傷があって、顔もお気に入りのシャツの胸元も血塗れだ。その喉からは泡混じりの血液が呼吸と一緒に絶え間なく吐き出されている。
孤児は息を呑んだ。悪魔の右腕に抱えられていた孤児自身は、全くの無傷だ。
声を掛けかねる孤児に、悪魔は珍しく眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべて問う。
『怪我は無いんだな、おチビちゃん?』
「うん、僕は……でもジョンは……」
大丈夫?と聞くまでも無く、悪魔は顔を顰めた。
『大丈夫な訳ないだろう。痛たた……こいつは肋が折れて刺さってるな。
ちょっとどいてくれ坊や、すぐに直すから』
悪魔が血泡混じりの声で言う。孤児は震えながらそろそろと身を起こす。
『痛い!そこに手を突くんじゃない!』
慌てて飛びのく。悪魔の胸に触れた手に、べっとりと血がついていた。
孤児の目から涙が零れ落ちた。恐ろしい思いをしたからではない。
自分を庇ったせいで悪魔が大怪我をしたと思ったからだ。
悪魔は無事な方の腕で、胸の傷に触れてみた。押したり引っ張ったりしているようで、ぼきりぼきりと不吉な音が鳴る。
それから、曲がってしまった腕もごきりと捻り戻した。それだけで腕は繋がったようだ。
ようやく悪魔は二本の腕で体を起こした。
『全く、酷い目にあった』
泥だらけの黒髪を後ろに撫で付けてぼやく。
雨水で顔の汚れを拭えば、もうどこにも傷など跡形も残っていなかった。
孤児は悪魔をまじまじと眺めた。
「もう平気なの、ジョン?」
『どうってことないさ。流石にあんな高さから落ちたらあちこち壊れちまうけど、もう直したから心配いらないよ』
あんな大怪我をしても何とも無いとは孤児には到底信じられなかったが、悪魔が言うならそうなのだろうと納得するしかない。
「何が起きたの?」
『あれだ』
悪魔が指差す。急な斜面の下に、半壊した馬車が泥に浸かって転がっていた。
馬車の車体は半ば以上砕けており、動かなくなった馬も近くに横たわっている。
見上げれば、斜面の一角が根こそぎ掘り返されたように荒らされていた。
そこを馬車ごと滑り落ちてきたのだろう。孤児と悪魔は途中で窓から放り出されて、草と泥の上に落ちたから助かったのだ。
『見ろよ、煙が出てるだろう』
悪魔が高いところを見上げた。白い煙が一筋上がっている。
あの真下が、つい先程まで通っていた道だろうか。
『すぐ横の木に雷が落ちたんだ。木が折れて馬車の上に倒れてきた。
それで馬車が弾き飛ばされて、あの坂を転がり落ちて来たんだな』
何が起きたのかは分かった。だがそれだけだ。
「他の人たちは?」
『もういないよ』
あっさりと悪魔は残酷な事実を口にする。孤児は呆然と悪魔を見返した。
「いないって……」
『だから、いないのさ、誰も。気にする必要は無い』
孤児の両目に、見る間に涙が滲んで零れ落ちた。
「どうして?どうして助けてくれなかったのさ、ジョン!
ジョンなら簡単に助けられただろ!」
それは言いがかり以外の何でもなかったけれど、孤児は言わずにいられなかった。
悪魔は拗ねたように口を尖らせて見せた。
『無茶を言うなよ。私だってびっくりしたんんだぞ!』
お前をとっ捕まえるので精一杯だった、と。
その声を背に聞きながら、孤児は馬車に向かって歩き出す。
『おい、何しに行くんだ?』
「探すんだ!怪我してたら助けなきゃ!」
危ないからやめろ、と悪魔が追いかけて来る。すぐに肩を掴まれて捕まってしまう。
『私は親切で言ってるんだぞ、オーウェン!』
それが誰かの変わり果てた姿を見なくていいようにという意味だとは、孤児にはまだ分からなかった。
ただ、もしかしたら誰か一人くらいは無事でいるかも知れない。そんな思いで戻ろうとした。
「……うぅ」
孤児の耳に、泥濘の中から呻き声が聞こえた。
はっと顔を上げた拍子に、悪魔の手から逃れることに成功した。
倒れていたのは旅人の青年だった。泥に汚れた体一つで、荷物は失くしてしまったようだ。
頭痛を堪えるように頭を振りつつ、よろりと身を起こす。駆け寄ってきた孤児に気づいた。
「おじさん、大丈夫?」
「一体……何が起きたんだ?」
旅人はゆっくり辺りを見回すと、馬車の残骸に目を止めて沈痛な面持ちで俯いた。
「他の乗客は?」
孤児は分からないとだけ答えた。
そうか、と旅人は呟いた。
「でも、まだ確かめたわけじゃないから」
「俺が見て来る」
旅人は立ち上がった。
「坊主はここで待ってろ」
「でも……」
「大人の言うことは聞くもんだ。すぐに戻る」
言うや、旅人は踵を返して崩れた馬車へと向かって行った。
孤児は仕方なく待つことにした。
旅人は一度だけ馬車の中に入って、すぐに出てきた。
それから、斜面や草叢の中、馬車の周りをぐるぐると歩き回って何かを探していた。
しばらくすると、旅人は馬車の中に備えられていた膝掛けを持って戻ってきた。
「俺の荷物は馬車の下敷きになってて引っ張り出せそうにない。
使えるものはこれくらいだ。被ってろ、雨避けくらいにはなる」
膝掛けを受け取りながら、孤児は物問いたげに旅人を見上げた。
旅人は悲しそうに目を逸らした。
それで、残されたのはこの三人だけなのだと孤児は理解した。
「せめて弔ってやりたいが、長居すると俺達も危険だ」
ぶるりと身を震わせる。
三者三様に泥水でびしょ濡れだ。おまけに冷たい雨が降り注いでいる。
次の町へ馬車が着かなければ誰かが様子を見に来てくれるだろうが、それまでこんなところで待つ訳にはいかない。雨ざらしのまま夜を迎えれば最悪凍死だ。
「とにかく雨を凌げるところへ行こう」
『森に入るのかい?』
悪魔が口を利いた。旅人は頷いた。
「地図が無いから詳しい距離は分からんが、東に森を抜けてすぐに村がある。それ程遠くは無かったはずだ」
少し考えて、仕方ないなと悪魔は呟いた。
「突っ立ってるより歩いてる方が寒さもマシになる。行こう」
旅人が先頭に立って歩き出した。その後ろを孤児と悪魔が着いて行った。
森は背の高い木で出来ていた。葉は細く鋭く、濃い緑色だ。少し堅くて枝にびっしりと並んでいる。
森の中へ入ってしまえば、重なり合った枝葉のおかげで雨の勢いは少し穏やかになった。
代わりに、明かりが無くて視界が悪い。幾重にも連なった木の幹のせいで先が見通せない。
足元も到底歩きやすいとは言えない。孤児は何度か大きな根に躓きそうになったし、深い藪を割って行かねばならない箇所もあった。
旅人は真っ直ぐ東を目指せば森を抜けられると言った。
「おじさんは東が分かるの?」
『無理だろう』
孤児が問う。悪魔がせせら笑う。旅人は渋い顔で振り返った。
「何となくの方角なら分かるんだが、こうも暗いとなあ」
見上げる。
木々の隙間から覗く空は分厚い黒雲に覆われ、延々と水滴を吐き出し続けている。
「太陽が見えたらなあ」
また歩き出す。
変わり映えのしない景色が随分と続いた。
どれだけ歩いたのか、馬車からどの方角へどのくらい離れたのか、孤児には分からなくなっていた。
森はどこまでも続いているようで、このまま永遠に迷ってしまうのではないかと考えて怖くなった。
ふと、先頭を歩いていた旅人が立ち止まる。
「ここで休憩しよう」
孤児は安堵した。もうとっくに歩き疲れてくたくただったからだ。
途中何度か小休止は取ったものの、ほとんど歩き詰めだった。
草臥れきった足はまるで棒のように強張っていた。
濡れていない木の根元に腰掛け、孤児は一休みした。
旅人が大きな草の葉に雨水を汲んでくれたので、それで喉を潤した。
旅人は悪魔にも勧めたが、悪魔は断った。
「もうすぐ村に着く?」
孤児が尋ねる。旅人は難しい顔をした。
「まだまだだな。森の中ってのは、思った程進めないものなんだ」
幼い孤児の足に合わせていることを、旅人は言わなかった。
「まだ歩けるか、坊主?」
足が痛くなったり、豆ができたりしていかと心配してくれた。
孤児は頷いて答える。
「大丈夫、もうちょっと休んだら歩けるよ」
「そうか」
頼もしいな、と旅人は誉めてくれた。
「でももう駄目だと思ったらちゃんと言うんだぞ。
頑張るとの無理をするのは全然違うんだからな」
それは全く旅人の言うとおりだ。
旅においては、動けなくなることが一番危険だと孤児でも知っている。
一度体力を使い切ってしまえば、野宿ではなかなか回復しない。病気にもなるし、いざという時山賊や獣から逃げられないのでは命に関わる。
孤児にまだ両親がいた頃、父が教えてくれたことだった。
あの頃は道々疲れたか休もうかと、両親はしきりに孤児を気遣ってくれたものだった。
その二人はもういない。孤児を置いて行ってしまった。
孤児は悲しくなったが、顔を濡らした雨のせいにして袖でごしりと目尻を拭った。
旅人は悪魔に目をやった。
悪魔は木の枝の隙間から空を見上げていた。
葉にぶつかって弾けた雨の雫が悪魔に降り注いでいる。
「あんた、そんなとこにいると冷えるぞ」
『私のことは気にするな』
体が冷えると余計に体力を使う。そんな心配をする旅人に、悪魔は冷たく言い放っただけだった。
旅人は一度、悪魔の頭から爪先をじろりと値踏みするように見遣って、肩を竦めた。
今は泥だらけだが元は上等な服と、森歩きには不向きな品の良い革靴。
そんな格好で、子供の歩幅に合わせているとはいえ長時間歩き通して息一つ乱さないでいられるのだから、気遣いは無用と判断した。
「あんた、見かけによらず頑丈だな」
それは彼なりの冗句だったのかも知れない。
悪魔は微かに冷笑を浮かべただけだった。
しばらく休んでまた歩き出した。
相変わらず足元は悪かったし、雨もやまなかった。
道無き道を踏みしめる度に、泥に体力を取られ雨に体温を奪われる。
旅人は、苔むした岩を越える時には足元が滑るからと孤児の手を引き、伸びた草の間を突っ切る時には蛇に気をつけろと声を掛けてくれた。
やがて辺りの風景がが針のような葉の木々から平たい丸葉の木々に変わった頃、日が暮れ始めた。
「暗くなってきたな」
旅人が舌打ちした。孤児には森の葉陰のせいと区別がつかなかったが、旅人が言うならそうなのだろう。
「どこか休めるところを探さにゃならん」
旅人は前に進むのをやめて、辺りを見渡した。
しかし、森の真ん中で早々に野宿に向いた地形が見つかる筈も無い。
一旦日が傾きだしたら、森ではあっという間に夜が訪れる。
すぐに足元が見えなくなった。
三人は散々うろつき回った挙句に、ようやく小さな洞窟を見つけて潜り込んだ。
その頃にはもう目の前にいる相手の顔が見えない程の闇に覆われていた。
洞窟は狭くてごつごつした岩で出来ていたが、三人が寄り合って座ることができるくらいの広さはあった。
雨に打たれないだけでも上等だと思いながら、それぞれに少し湿り気を帯びた土の上へ腰を下ろして一息ついた。
途端に、ぞくりと寒気が孤児を襲った。
歩いている間ならば少しは体も温かかったのだが、冷たい岩の間に座り込むと急に濡れた服が冷えて感じる。
雨避け代わりにしていた膝掛けは、水を吸い過ぎて到底纏えるものではないし、今は洞窟の入り口に引っ掛けて風除けにされている。
旅人もマントを脱いで身を縮めていた。暗くて見えないがきっと震えているのだろう。
平気な顔をしているのはただ一人、悪魔だけだ。
「火が欲しいな」
旅人が言った。
「服を乾かさないと、風邪を引いちまうぞ」
その通りだ。夜になった以上、これから益々冷えるだろう。何とかして暖を取らなければ凍えてしまう。
孤児は手探りで悪魔の袖を見つけて引っ張った。
「ねえジョン、マッチを持ってない?」
『持ってたらどうだと言うんだ、クリームパイちゃん?』
悪魔は、恐らく首を傾げて孤児を見た。
悪魔の目にはどんな真っ暗闇でも何程のこともない。
孤児は、悪魔のルビーよりも赤い瞳が自身を視線で射たのを感じた。
『マッチだけあっても、燃え草が無いんじゃ意味があるまい』
「でも無いよりマシだよ」
フン、と悪魔は鼻で笑った。
『そんなまどろっこしいことしなくとも、お前はたった一言唱えるだけで望みが叶うと知ってるじゃないか』
孤児はじろりと悪魔がいる筈の方向を睨みつけた。
「契約ならしないよ」
『そうか、じゃあマッチも無しだ』
孤児はきゅっと唇を引き結んだ。
孤児の手の冷たさは悪魔にも伝わっている筈だが、悪魔はそれを無視した。
孤児は悪魔の袖を離した。膝を抱えて、寒さと湿った衣服の不快さに耐えた。
しんと静まり返った暗闇に、かちかちと小さな音が響く。
孤児の歯の根が震えて立てる音だ。
『契約するかい?』
にやにや笑いで――見えないけれどきっと間違いない――尋ねる悪魔に、
「しないって言ったろ……っくしゅん!」
言い返しながら孤児は大きなくしゃみをした。
悪魔は呆れたように溜息を吐いた。
『強情な奴だな。ふん、仕方ない』
ぱちん、と悪魔が指を鳴らした。
途端、橙色の炎が現れた。
小枝と細い薪で組まれた小さな焚き火が、唐突に三人の真ん中に現れて燃えていた。
洞窟の中から底冷えするような冷気が追い出され、見る間に温かさで満たされる。
ぱちぱちと火の爆ぜる小気味よい音が聞こえ、脇には余分の薪まで幾束も用意されていた。
幻かとも思ったが、恐る恐るかざした手に伝わってくる痛みにも似た熱さは本物だった。
旅人は目を丸くした。
「手品か?!」
勿論そんな筈はない。
『私は悪魔だよ』
それで全ての説明には十分とでも言うように、悪魔は端的に答えた。
ささやかな明かりに照らされて、旅人の顔に当惑が浮かぶのが見えた。
「悪魔だと?まさか!」
『そうさ。魂と引換えに願い事を叶える、その悪魔だよ』
まだ信じ難いという表情を浮かべていた旅人は、しかし何度か焚き火と悪魔を見比べて諦めたように頷いた。
「この目で見たんじゃ信じざるを得んな」
『別にお前に信じてもらおうと思っちゃいないがね』
悪魔は孤児を手招いた。
火の一番近くへ座らせ、濡れたシャツとズボンを脱がせて火の傍で乾かした。
ほぼ裸になった孤児に、悪魔は自分の上着を羽織らせた。
悪魔の上着は、泥の汚れこそそのままだったが不思議とちっとも濡れてはいなかった。
孤児は、結局何もかも悪魔に助けられている自分が無力で情けなかったが、背に腹は代えられないとも分かっていた。
事実、何も着ないでいるよりは遥かにマシだ。
「お腹すいた……」
少しずつ体が温まり始めた頃、孤児は沈んだ声音で不満を零した。
旅人は、自分もだと言いたげに眉根を寄せた。
「俺の荷物が無事なら携帯食くらい入ってたんだが」
馬車の下敷きになってしまったのでは、泥が染みて食べられたものではないだろう。
孤児と悪魔も身一つで放り出されたから、食べ物は何も持っていない。
幸い水だけなら沢山降っているから、雨水でも飲んで空腹を紛らわせるしかなかった。
「何か食べ物を探そうよ。木の実くらいあるかも知れないよ」
孤児の提案を、旅人はきっぱり退けた。
「駄目だ。夜は絶対に歩いちゃ駄目だ。朝になるまで待つんだ。明るくなったら探そう」
「夜は危ないから?迷っちゃうかも知れないから?」
「そうだ。明るい時でも歩くのさえ大変だったのに、夜なんて足元が崖になってても分かりゃしないぞ。
それに、夜は獣が出てくるかも知れん。この辺にいるかどうかは分からんがね」
孤児は旅人の忠告に同意するしかなかった。
きゅうと腹の虫が鳴いた時、孤児ははたと思い出す。
「そうだジョン、キャンディ持ってない?」
『キャンディだと?』
「僕があげたキャンディだよ、おやつを分けたじゃないか」
馬車の中で、孤児は前の町で買ったお菓子を食べていた。その内のいくらかを悪魔の手にも押し付けたのだった。
あの時悪魔は食べずにどこかのポケットに仕舞いこんだ筈だった。
孤児は、勝手に悪魔の上着を探り始めた。
右腰のポケットから、キャンディとチョコレートの包みが転がり出た。
「ねえジョン、食べてもいい?」
ぱっと顔を輝かせて孤児が問う。悪魔はからかうようにひらひらと手を振って見せた。
『そんなものもあったな。いいよ、全部食っちまえよ。それでお前の腹が黙るなら』
いつもならば悪魔の言動に不服を覚える孤児も、今は何とも思わなかった。
何しろ貴重な食料を提供してくれたのだから。
孤児は菓子の包みを等分に分けると、片方を旅人に渡した。
「はい、おじさん。半分こだよ」
「いいのか、坊主?」
孤児は頷いた。
「朝になったら食べ物を探すんだよね。見つけたら、おじさんも半分こにしてくれる?」
旅人は声を上げて笑った。
「しっかりした子だ」
二人はチョコレートと飴玉の包みを破いて口に放り込んだ。
横から悪魔が孤児に文句を言う。
『おい、そいつにくれてやったんじゃないぞ』
「でも僕にくれたじゃない。僕がおじさんにあげても別にいいでしょ」
口の中で飴玉をころりと転がして孤児が言う。
悪魔は物言いたげに眉根を寄せたが、それ以上は口を挟まなかった。
ひやりと寒気が忍び寄ってくる。凭れた背中には岩壁の固い感触。
洞穴の中には、湿った土と焦げた薪のにおいが漂っている。
雨の音はざあざあと勢いを増して、止む気配もない。外に居れば今頃凍え切っていただろう。
時刻は恐らく深夜になっていると思われた。
旅人は時折焚き火に薪を加え、孤児は悪魔の膝に寄りかかって眠っていた。
孤児は乾いた服を着直していたが、悪魔の上着は今も毛布代わりに孤児の肩を覆っている。
ぱちりと火花が弾けた時、ふいに旅人が口を開いた。
「なあ、悪魔」
『何だい』
「魂と引き換えに願いを叶えると言ったな」
片手で手持ち無沙汰に薪を弄んでいた悪魔は、旅人に視線を向けた。
『言ったよ』
それがどうしたと問いかける響きを言外に滲ませて。
「どんな願いでもか」
『どんな願いでもだ』
「そうか」
旅人は少し黙って、それから意を決したようにこう言った。
「俺が契約する。俺とその子を助けてくれ」
悪魔は旅人の決意を眺めて、鼻で笑った。
『お断りだね。お前に契約の資格はない』
「資格だと?どうすれば契約できるんだ?」
『私がその魂を欲しいと思ったらだよ』
悪魔は冷笑でもって答えた。
『私はお前の魂など欲しくない。だから契約もしない』
旅人を見つめる悪魔の真紅色の瞳を、旅人は深く苦い表情でひたと見返した。
「お前は坊主の魂が欲しいのか」
幼い子供が命の危機に瀕しているまさに今、契約を強いてその魂をせしめるつもりかと問うた。
悪魔はにんまりと笑んで頷いた。
『そういうことになるな』
旅人の視線が一秒、焚き火に落ちる。尋ねる。
「なら何故、坊主を助けてやるわけだ?」
火を焚いてやり、菓子を与える。単に契約を押し付けたいだけならば、理に合わないことだ。
『お前には関係ない話だよ』
悪魔は孤児の寝顔に視線を向けて、突き放すようにそう言った。
孤児が目を覚ました時、雨足は幾分弱まっていた。
雲はまだ分厚いままだが、辺りは明るくなっている。
日が昇ったのだ。これなら森を行くことができる。
焚き火に土を被せて始末してから、三人は洞窟を出発した。
孤児は旅人に尋ねた。
「食べ物を探してもいい?」
「いいとも。但しちゃんと俺の後にも着いて来るんだぞ」
余所見ばかりしてちゃ怪我するからなと釘を刺してから、旅人は先に立って歩き出した。
昨日と同じように、すぐ後を孤児が追う。その後ろから悪魔が着いて行く。
変わり映えのない景色が延々と続く。
誤って昨日来た道を戻っているのではないかと錯覚したくらいだ。
緑の迷宮はどの方角にも広がっていて、全く先が見通せなかった。
雨を浴びた木の根は滑りやすく、ぬかるんだ土や水を含んだ草に何度も足を取られる。
折角乾かした服も徐々に湿って濡れていった。
それでも孤児はしきりに周囲へ目を走らせていた。
どこかに何か――食べ物か森を抜ける兆候でも見当たりはしないかと。
旅人は途中で何度も休憩を挟んだ。昨日より頻繁に休むのは孤児を気遣ってくれてのことかも知れない。
大きく張り出した枝ぶりの木の下で、雨を逃れて座り込んだ。
その間、決まって旅人は空を眺めていた。
雲に切れ間でも出ていないか、或いは太陽が見えやしないかと。
ある巨木の麓に辿り着いた時、ここで長く休憩を取ると旅人が言った。
「水を飲むか、坊主?」
「うん、ありがとう。ねえ、ちょっとだけ食べ物を探しちゃダメかな?」
旅人は良い顔はしなかった。
「休憩の間はしっかり休め、と言いたい所だが……」
旅人にとっても空腹は深刻な問題になりつつあった。
大人である旅人なら黙って我慢できても、孤児のような子供には気を紛らわせることも必要だと考えた。
「よし、一緒に行こう。たが少しの間だけだぞ。
ここが見えない所へは行かないこと。あとなるべく濡れない所を歩くこと」
「分かった」
孤児は大きく頷いて見せた。
「ここで待っていてくれ。俺達が見えなくなったら声を掛けてくれ」
と悪魔に言い置いて、旅人は草の間に分け入った。
悪魔はそれを目で追ってから、孤児の方に向き直る。
『意地を張るなよ、おチビちゃん。腹が減ってるんだろ?
食い物なんて私にお願いすればいいじゃないか』
「そしたら契約だって言うんでしょ?」
『勿論』
「じゃあいらない」
きっぱりと言い捨てて、孤児は踵を返し旅人の後を追った。
「ジョン、見えなくなったらちゃんと教えてよね」
悪魔は肩を竦めて見せたけれど、嫌だとは言わなかった。
孤児は旅人の側で枝葉の傘から出ないように気をつけつつ、足元の草や蔦の間を覗き込んで回った。
時折後ろを振り返り、木の下に悪魔の姿が見えることを確認した。
悪魔は幹の瘤に腰掛けて、詰まらなさそうにこっちを眺めていた。
孤児は熱心に露を纏った草を引っ張ったり掻き回したりした。
「おーい、坊主!」
旅人が孤児を呼んだ。
手招かれて走っていけば、草が踏み付けられた箇所があった。
旅人がやったのでないことは、残された獣のものと思わしき足跡から分かった。
旅人が草をどけてその先を見せてくれる。孤児はそっと様子を窺った。
草の合間に赤い実が隠れていた。探せば、幅広の丸葉の下にいくつも小さな粒が寄り集まってぶら下がっている。
孤児は喜んだ。昨晩以来目にする食べ物だ。孤児はその実を見つける端から摘み取った。
「これ食べられるの?」
「ヘビイチゴだ。美味くはないけど食べられるぞ」
旅人が一粒頬張りながら頷いた。試しに孤児も一つ口に入れてみる。
酸っぱくて水っぽくてどこか青臭く、甘味は殆どない。
確かに美味しいとは言えないが、それでも何もないよりはずっとマシだった。
「まだ昨日のチョコレートの分には足りないな。次の休憩の時にも探そう」
と旅人は言った。
ほんの少しのヘビイチゴはすぐに食べ終えてしまったけれど、ささやかな腹の足しにはなった。
少し長めに休み、また三人は歩き出す。奥へ進むにつれ、道はますます悪くなっていくようだ。
草叢や藪を避け、少しでも歩きやすい道を選ぶが疲労と空腹が歩みを重くさせた。
徐々に旅人の顔つきが厳しくなっていくことに、孤児は気づいていなかった。
お腹が空いていたこともあるし、旅人の背中に何とか着いて行くことで精一杯だったのもある。
悪魔は気付いていたのかも知れないが、きっと気付かない振りをしていたのだろう。
少しずつでも確実に森の外へ向かっている筈なのに、旅人の表情は浮かないままだった。
何度目かの小休止の後、足元が緩やかな上り坂から下り坂に変わった。
時刻は夕方に近くなっている。
もし太陽が見えたなら、空の天辺よりもぐっと西に傾いていただろう。
暫く休憩に向いた地形が無かったおかげで、歩き通しの孤児は草臥れ果てていた。
旅人にも疲労の色は濃く見えた。悪魔だけが涼しい顔をしている。
辛うじて雨露を凌げそうな立派な木の下で、旅人は足を止めた。
「……少し休もう」
崩れ落ちるように根元へ座り込み、大きく溜息をつく。伸ばした足を労わるように何度も摩った。
孤児も旅人と同じ状態だった。苔の上に腰を下ろし、棒のようになった足をほぐした。
幹に背を預けて暗い空をぼんやりと見上げていると、鈍い痛みを覚えていた踵も少しずつ楽になってくる。
休憩には十分な時間が経っても、旅人は動き出す気配がなかった。
何か考え込むような険しい顔で、絶え間なく降り注ぐ雨粒をじっと睨んでいる。
ぐうと孤児の腹の虫が鳴いた。
「食べ物を探してくる」
孤児が立ち上がった時、ようやく旅人は雨から目を逸らして孤児へ視線を向けた。
「遠くへ行くんじゃないぞ」
「うん、ここが見えなくなるところには行かない。それと、なるべく濡れないところを通る」
旅人が注意したことを、孤児はしっかりと覚えていた。
「上出来だ」
気をつけろよと見送る旅人に頷いて、孤児は木の傘の下を出た。
それを見つけたのは、草叢を一つ越えたところだった。
倒木だ。随分前に枯れて倒れたのだろう。朽ちて罅割れた幹は穴だらけになっており、表皮は孤児が触れただけでぼろりと崩れた。
幾重にも伸びていただろう枝は既に無く、胴に残った節くれだけがかつて青々と葉を茂らせていた過去を思わせる。
根元側から覗き込んで見れば、虫食い穴が幹の中でくっ付いて大きな空洞を作っているようだった。
冬になれば栗鼠や鼠の良い寝床になるのかも知れない。
と、奥に白っぽい何かを見つけた。
孤児は幹を回って穴の辺りの皮を、えいと勢いよく蹴飛ばしてみた。
何匹かの虫が慌てふためいて逃げ出した後、壊れた穴の中に納まっていたのは茸だった。
全体的に淡いクリーム色で、傘は厚くて丸い形をしている。触れると弾力のある感触が返ってきた。
孤児は茸をいくつか毟り取った。それから、近くの木の根元や幹の虚を覗き込み始めた。
結局、三種類の茸が見つかった。最初に見つけた丸い茸と、平たい傘を持つ薄茶の茸、黒い傘に小さな白い斑点が浮いている茸。
けれど、果たしてこれが食べられるものかどうか分からない。毒茸だったらとても危険だ。
旅人が知っていることを期待して、孤児は集めた茸を持ち帰った。
孤児が差し出した茸達を見て、旅人は困った顔をした。
「おじさん、毒茸かどうか分かる?」
「うーん……この茶色い奴は大丈夫だった気がするんだが、どうだったかなあ?」
茸っていうのはよく似た種類が沢山あって、食べられる茸にそっくりな毒茸もあるんだ。と旅人は言った。
「だから素人判断は絶対に禁物なんだ」
孤児はがっかりした。折角手に入った食料かも知れないのに。
悪魔ならばどうだろう。孤児は茸を摘まんで悪魔の眼前に差し出してみた。
「ジョンは知らない?」
悪魔は、孤児の手にある茸を興味なさそうに見遣った。
『知らないけど、試してみればいいじゃないか』
どうやって?と孤児が問う。
『こうやってさ』
手の平に乗せた茸を、悪魔はひょいと丸呑みしてしまった。
孤児は驚いた。
「ジョン、大丈夫?!毒かも知れないのに!」
『何だこんなもの。ああ、駄目だ駄目だ。こいつは毒だな。そっちはどうだ?』
続けて、白い茸と黒い茸も口に放り込む。
『こいつも、こっちも毒だ。良かったなオーウェン、食べたら死ぬところだったぞ』
悪魔は孤児の手から茸を全て取り上げた。それを膝の上に乗せて、次から次へぱくぱくと口に放り込み始める。
孤児は胡乱げな視線で悪魔を眺めた。
「……本当に毒なの?」
『勿論さ。ああ、でも知ってるかい坊や?毒茸の中にはとびきり美味いものもあるんだぜ。
毒の成分が旨みの秘密なんだ。当然、人間が食べたら死んじまうけどな』
むう、と唸って孤児は悪魔を睨みつけた。
いつもならばそんなことはしなかったかも知れない。
けれど今はとてもお腹が空いていたから、今にも腹と背中がくっつきそうなくらい空腹だったから。
「ジョンばかりずるい!」
孤児はそう言って、悪魔の膝の上から茸を一掴み引っ手繰って逃げた。
『おい、馬鹿!何をする!』
悪魔は驚いて、慌てて追いかけて来た。
「ジョンばかり食べててずるい!」
『ずるい訳ないだろ!毒だと言ってるじゃないか!』
「本当に?僕をだましてない?」
普段ならそこまでむきにはならなかった。だが今の孤児は何でもいいから食べられるものが欲しかった。
『騙してなんかない!第一私に何の得があるんだ』
「ジョンは悪魔だもの!僕に意地悪できるって得がある」
悪魔は困ったように唸り声を上げた。孤児の意見に反論の余地を見出せなかったからだ。
悪魔には孤児を懐柔する手は無かった。
『分かった、降参だ!何でも食わせてやるからそいつを離せ。今すぐにだ!』
茸を齧る真似をしようとしていた孤児は、悪魔のその剣幕で本当に毒茸だったのだと信じた。
孤児が茸を悪魔に返すと同時に、悪魔はそれを手の平の中で握り潰して燃やしてしまった。
代わりに現れたのは、両手一杯のチョコレートバーだ。
孤児がよく町の菓子屋で買っているお気に入りの銘柄だった。
『お前はこいつがあれば文句無いんだろう!』
とても一度には食べ切れない程のチョコレートを押し付けられて、途端に孤児は機嫌を直した。
「やったぁ!」
ありがとうジョン!と言い掛けた時、孤児の視線がぴたりと森の暗がりに吸い寄せられた。
前方にそれを見つけて、孤児は驚いた。ぎゅっとチョコレートを握り締めたまま立ち竦む。
『何だ、どうした?』
「あれ」
『ん?』
指差した先を悪魔と旅人が揃って振り返る。
そして旅人は驚愕の声を上げた。
そこには、ぽっかりと口を開けた洞窟が招き入れるように三人を待っていた。
洞窟は小さくて狭かった。地面は湿って冷たい土で、壁や天井は白っぽくて硬い岩だ。
窮屈だけれど、三人が輪になって座り込むには足りる程度の空間はある。
入り口のところで佇んだままの悪魔と旅人を置いて、孤児は真っ先に奥へと入り込んだ。
途中で、ぱきりと枝を踏む音がした。焚き火の燃えカスだ。土を掛けて始末した跡がある。
隅にはチョコレートと飴玉の包み紙が丸められて転がっていた。
間違いない。昨日、孤児と旅人が食べてその場に捨てて行ったものだ。
つまり、ここは三人が昨晩過ごした洞窟なのだ。
今日一日延々と歩いて、ついには同じ場所へ戻って来てしまったという訳だ。
何てこった、と旅人が呻いた。
「そんな気はしてたんだ」
“堂々巡り(リングワンダリング)”と呼ばれる現象がある。
砂漠や雪山、それからこんな森の中のような目印が何も無い場所では、真っ直ぐ歩いているつもりでも巡り巡って元居た場所へ帰って来てしまうことがある。
人間は利き足の方がそうでない足より少しだけ蹴り出す力が強い。そのせいで、一直線に歩いたと思っても気付かぬ内に少しずつ利き足と反対の方向へ曲がって行ってしまう。
変わり映えしない森の景色の中では狂ってしまった方向感覚を修正できず、そうして足跡はぐるりと大きな円を描いて最初の地点へと帰ってしまうのだ。
もし今朝出発してからの道のりを空から見下ろせば、うろうろと歩き回って蛇行した歪な輪の形になるだろう。
旅人は沈んだ面持ちで深く溜息をついた。
「また一晩、ここで休むしかないな」
徒労の滲む声音に異論は出てこなかった。
雨は小降りになったが止んではいなかった。
代わりに少しずつ森の影が濃くなり、夜がやって来る。
悪魔がまた焚き火を起こし、三人はそれで温まることができた。
旅人は黙りこくって口を利かなかった。孤児も膝を抱えて静かにしていた。
悪魔だけが、気にした様子も無く岩壁に凭れて寛いでいた。
洞窟の外は完全な闇に塗り潰され、月も星の明かりも無い冷たい時間が訪れる。
昨日より少しだけマシなことがあるとしたら、今晩の空腹は凌げそうだということだ。
孤児は悪魔から貰った沢山のチョコレートを半分に分けて、片方をポケットに仕舞いこんだ。
明日の朝、目覚めた後に食べるためにだ。
残る半分を更に二つに分けて、その片方を旅人に押し付ける。
旅人は驚いた顔で、それを孤児に押し返そうとした。
「坊主、それはお前のものだ」
『その通りだぞ、坊や』
悪魔が頭だけ起こして抗議の声を上げる。
『そんな奴に食わせるためにくれてやったんじゃないぞ』
孤児は眉根を寄せて悪魔へ視線をくれた。
「いいじゃないか、別に。どうせジョンは食べないんでしょ」
食わないけどさ、と悪魔は言った。
『要らないなら返せよ!こんなことならそんなに沢山くれてやるんじゃなかった』
「いらないんじゃないよ。それにもう僕のでしょ。僕が僕の物をどう使おうと自由だ。間違ってる?」
悪魔は舌打ちした。
孤児の言葉は悪魔の理屈と全く同じで、故にどれ程気に入らなかろうと悪魔がそれを否定する術はなかった。
孤児は改めて旅人にチョコレートの包みを差し出すが、旅人は険しい顔でそれを受け取ろうとはしなかった。
「子供が気を使うもんじゃない!俺は大人だから坊主よりずっと平気なんだ」
「違うよ」
孤児は意外な程きっぱりと言い切った。
「僕一人だけチョコレートを食べると、何だか意地悪してるみたいじゃないか。
だからおじさんも食べてよ、僕のために」
旅人はぽかんと孤児を見返して、それから声を上げて笑い出した。
「成る程成る程、そういうことか!それじゃあ仕方ないな」
それから悪魔を見て、愉快気に問うた。
「こういう物言いはお前が教えたのかい?」
『勝手に覚えるのさ。口ばかり達者になりやがって』
悪魔は腹立たしげに、フンと鼻を鳴らした。
旅人が孤児の手からチョコレートバーを一本受け取る。
「じゃ、ありがたく頂戴するよ」
それ以上は頼んでも突き返されそうだったので、孤児はそれで納得することにした。
お菓子を食べて、早く眠る。今日の疲れをしっかり取っておかねばばらない。
明日は今日よりもずっと慎重に歩く必要があるのだから。
孤児は悪魔の上着を丸めて、枕代わりに横になった。
悪魔は眠ったりしない。悪魔には休息など不要だ。
旅人は火の傍で時折燃え尽きた薪の代わりに新しいものをくべながら、じっと炎を眺めていた。
どれくらい経ったろうか。真夜中に差し掛かる頃、旅人が口を開いた。
「悪魔よ、何故お前はこんなことに付き合うんだ?」
『何の話だ』
素知らぬ振りで、旅人には目を向けずに悪魔は言う。
「訳が有るってのは分かってる。坊主の魂は欲しいけど、坊主の命は惜しいんだろう」
旅人の手が、ぱきりと小枝を折って火の中へ放り投げた。
「だったらどうして坊主だけ連れてさっさと森から出て行かないのかってことさ」
『お前には関係ないと言ったろ』
「関係ないことは無いさ」
旅人が言い返す。
「お前がいる限り、俺はお前に助けてもらえるかも知れないっていう一縷の望みを捨てられない」
『そいつは尤もだ』
悪魔は表情を見せない顔で一度頷いた。
大した理由じゃないさ、と悪魔は言う。
『私と坊やはゲームをしてるんだ。ルールでは坊やが死んだら私の負けでね。私は負けたくないのさ』
へえ、と旅人は呟いた。
「勝ったらどうなるんだい?」
『坊やの魂は私の物』
旅人は合点がいった様子だった。
「ゲームをしている間は、何があっても坊主の命だけは安泰って訳だ」
『そう、坊やだけはね』
「なら、俺は心置きなく自分が助かる方法を考えられる」
『お生憎様、お前は助かりゃしないよ』
悪魔がようやく旅人に視線を向けた。旅人はまじまじと悪魔を見返した。
「お前は未来まで見えるのか?」
『見た訳じゃないが、もう決まったことだからな』
それ以上を、悪魔は旅人に教えてやる気はないようだ。
足を組み直して、ふいとそっぽを向いてしまう。
「決まったことだと?俺は死ぬのか?誰が決めたんだ?」
『私じゃない』
悪魔は人差し指を立てて、洞窟の天井を指差した。
それが示しているのは岩壁ではなく、もっとずっと上、遥か彼方天の果てだ。
「……天命ということか」
渋い顔をする旅人に、せせら笑いながら悪魔が言う。
『お前も教会で祈ったことくらいあるだろう。
あっちのあの連中に頼んでみちゃどうだい?案外見逃してくれるかも知れないぜ』
旅人は苦笑した。
「そっちの方がよっぽど望みはなさそうだ」
『違いない』
悪魔は皮肉げに笑んで頷いた。
チチ、と小鳥の囀りが聞こえる。ばさりと梢が揺れたのは、羽ばたきのせいだろう。
旅人が頭を上げた。いつの間にか横になって眠っていたようだ。
既に外は明るい。日が昇っている。
洞窟の入り口付近で葉露を煌かす光を見て、旅人はがばりと身を起こした。
「雨が上がってる!太陽が出てるぞ!」
空はまだ鉛色の雲に覆われていたが、辺りは一面金色の輝きに染められていた。
木々を真横から照らすのは、紛うこと無き朝焼けの光だ。
旅人の声で目を覚ました孤児が身じろぎする。
悪魔が、大きな欠伸を零す孤児の寝癖を手櫛で整えてやる間に、旅人は表へ走り出ていた。
雨はすっかり止んでいた。
湿気を含んだ朝の空気がけぶって、差し込む日差しを幾条もの光線に見せている。
葉の影、枝の重なりを抜けて地面を照らす光を受け、雨上がりの草露はきらきらと無数の水晶粒のように光った。
それを蹴立てて旅人は走る。
東だ。東へ行くのだ。太陽の方角へ。
光を目指せば森を抜けられる。その方向に村がある。
「故郷へ帰れる、故郷へ!」
そんな思いに急かされ、朝日を求めて旅人は駆けた。
蜘蛛の巣に首飾りのような雫を纏った藪を割って、潅木を越える。
すぐにズボンはびしょ濡れになり、泥濘を跳ね散らかした靴は泥に汚れた。
旅人はただ太陽を見つめ、靄の向こうに霞む光を一心に目指した。
気付けば、辺りはミルクを流したような霧に包まれていた。
だが濃い霧の中にあってもひやりと肌寒い感じはなく、寧ろ春の日向のようにぽかぽかと暖かい。
いつの間にか木々や草叢は辺りから姿を消し、光と旅人の間には何も無くなっていた。
その時になって、旅人はそれが太陽ではないことに気付いた。
黄金でできた扉が、旅人の眼前に立っていた。
扉は眩く煌き、全体から温かな金色の光が溢れ出していた。
光は旅人を手招いていた。
扉には何も書かれておらず案内の者もいなかったが、しかし旅人には己が呼ばれていると直感的に理解できた。
それがどこへ通じているのかということも。
遍く生ある者全てがいずれ辿り着く場所。
主の限り無き愛と喜びに満ちた天高い楽園。
旅人は呆然と立ち尽くした。
「行っちゃうの?」
声がした。振り向けば、そちらだけ少し薄くなった霧の先に孤児が立っていた。
追いかけて来たのだ。孤児は不安そうに旅人を見つめていた。
「ああ、どうやらそうみたいだ」
諦めの混じった心境で旅人は答えた。
「そんな顔するなよ坊主」
「でも……」
孤児は口ごもった。旅人にかけるべき言葉が見つからなかった。
「決まったことなんだってさ」
孤児は不思議そうに旅人を見つめて続きを待った。
「昨日、悪魔が俺に言ったんだ。俺がこうなるのは、決まっていたんだそうだ」
孤児が振り向く。しかし、悪魔の姿はどこにも見えない。
「おじさん、いなくなっちゃうの?」
「多分そうなるんだろうな」
二度と戻って来れない場所へ行くということは、つまりそういうことだ。
「僕、おじさんにありがとうって言わなくちゃ」
「いいんだ坊主。よく頑張ったな、もう大丈夫だ」
旅人は力強く笑って見せた。つられて孤児も少し笑った。
永遠に別れる二人の最後の挨拶としては上出来の部類だと思えた。
扉の向こう側を指差して、旅人は孤児に言う。
「太陽を目指して行くんだ。そうすれば森から出られる」
孤児は頷き、旅人に向かって手を振った。
「ありがとう、おじさん。さよなら」
孤児に応えて手を振り返そうとした旅人の表情が、ふと曇る。
「なあ坊主、頼みがあるんだ」
「何、僕にできること?」
「簡単なことさ。もしも坊主がこの先の村でリジィって女に会ったら……」
言いかけて、旅人は口を噤んだ。
「いや、やっぱり忘れてくれ」
孤児は旅人の願いを察することができた。きっとその誰かは旅人の大切な人なのだろう。
「大事なことは自分で伝えた方がいいって、僕のパパが言ってたよ」
「そうだな、その通りだ。いつかそうするよ」
旅人は晴れやかな笑みを浮かべてみせた。
これ以上思い残すことがないような、重荷から解き放たれたような笑顔だった。
「じゃあな、坊主」
「うん、またね、おじさん」
再会を望む言葉を、孤児は選んだ。
以前仲良くしてくれた年上の友人が、別れ際にはいつもそうしてくれたからだ。
扉の光が一際強くなる。輝きに満たされて何も見えなくなる。
そうして、旅人は行ってしまった。どこまでもどこまでも遠い所へ。
ふっと光が消えた。あんなに濃かった霧と一緒に金色の扉も無くなっていた。
旅人はどこにも居なくなっていて、湿り気を帯びた静かな朝の空気だけが取り残されていた。
さくりと草を踏む音がする。孤児の後ろに悪魔がやって来ていた。
「おじさんは死んじゃったの?」
振り向きながら孤児が問う。
『お前達の言葉で言うなら、そうとも言えるな』
と悪魔は答えた。
『あれを生きていたと呼ぶのならだが』
「どういう意味?」
『何だ、気付いてなかったのか』
悪魔は呆れた素振りで肩を竦めて見せた。
『あいつはとっくに死んでたじゃないか。馬車ごと崖から落ちたあの時に』
孤児は驚いた。
「おじさんは幽霊だったの?」
『ちょっと違うな。体から魂が飛び出し損ねたというか、死に損なったのさ。
生きてるみたいに見えるけど、もう死んでるんだ。放っておけば土に還る。
だから言ったろ。もう誰もいない(・・・・・・・)って』
確かに、事故のすぐ後で生存者を探そうとした孤児に悪魔はそう言った。
あれは悪魔の早とちりではなく、本当にその言葉通りの意味だったのだ。
「どうしておじさんは……」
生き返ったというべきか死ななかったというべきか、孤児は迷った。
さてね、と悪魔は呟く。
『余程の心残りでもあったんじゃないか?なかなか珍しいんだぜ、ああいうのは』
悪魔はふざけた調子でへらりと笑う。孤児は悪魔を睨みつける。
「おじさんがジョンと契約しなくてよかった。地獄に行かなくてすんだもの」
旅人は孤児に優しかったし、頼もしかった。
天の国に相応しい立派な大人であり、まるで父のようだとさえ孤児は思えたのだ。
ふん、と悪魔は憎たらしげに鼻を鳴らす。
『こっちから願い下げだ。あっちのあいつらが予約済みの魂なんて』
人の魂は、死んだその瞬間に裁かれ行き先が決まる。
天に召されると決まった旅人の魂は、如何に悪魔の契約であろうとそれを攫うことは叶わないのだ。
『私のものにならないものなんて嫌いさ』
金の扉があった場所に唾を吐き捨て、悪魔がくるりと踵を返す。
その後を孤児がそっと着いて行く。
ふと、草叢の隅に小さな白い花を見つけた。草っ原ならどこでも見かけるような他愛ない雑草だ。
孤児はそれを幾つか摘み取って束にした。そして、最後に旅人が立っていた辺りに手向けた。
先を行く悪魔が振り向いて孤児を呼ぶ。
『何してるんだ坊や、早く来い』
「今行くよ」
朝日に逆光になって黒い影法師みたいな悪魔に答える。
孤児は太陽の方角へ、悪魔のところへと駆け寄った。
隣に並んだ孤児の手を悪魔が取る。孤児は悪魔に手を引かれて歩く。
もう迷うことはない。すぐにでも森を抜けて人里が見えてくるのだろう。
その代わり、孤児には永遠に黄金の扉が開かれることはない。
孤児はふいに悪魔を見上げた。孤児を見下ろす悪魔の赤い瞳と視線が合う。
『そういえばゲームをしてなかったな、坊や』
「いいよ、ジョンからね」
悪魔の一答目を待たずに、孤児は泥濘の中を跳ねるように先へ行く。
目線を上げた先には、目に痛い程眩しい日の光。
悪魔は転ぶなよと嫌味ったらしく言い捨て、思い出したように溜息をついて葉影から覗く空を仰ぐ。
『昨日の分はお流れだな』
雨上がり、梢から滴る銀色の雫を肩に受けながら。
金色に燃える朝焼けの雲を眺めてぼやいた。
十六、 幕 ――