十五、 女悪魔フランチェスカ
お久しぶりです。十三話がまだ未投稿ですが、先に十五話を公開させていただきます。
悪魔は人間のことをよく知っている。
孤児は悪魔のことをよく知らない。
古い方が強くて、強い方が偉い。
本当の名前を隠していて、それを知った者には従わなければならない。
後は約束にうるさくて、ゲームが好きで天使が嫌い。それくらい。
孤児は悪魔とゲームをしている。
名前当てゲームだ。
互いに相手の名前を当てっこして、見事正解した方の勝ち。
悪魔が勝てば孤児は魂を奪われ、孤児が勝てば悪魔は地獄へ帰される。
挑戦できるのは、一日に五回まで。これは悪魔が決めたルールだ。
悪魔は、ゲームに対してはとても公平だ。
悪魔がその気になれば、一日に百個でも名を尋ねることができるけれど、そうはしない。
イカサマも絶対に許さない。
そのためには、ルールだって作るし、自分自身の命をも賭ける。
それが彼の個人的なこだわりなのか、それとも悪魔という種自体の美学なのか、孤児には分からない。
ただ、その一点においてのみ、孤児は悪魔を信用している。
ある晴れた昼下がり、悪魔と孤児の二人は町角のカフェでお茶の時間を楽しんでいた。
風は無くて、日差しの暖かい日だった。
二人はカフェのテラスに置かれた丸テーブル席に座っていた。
孤児の前にはアイスクリームの乗ったコーラのグラスが、悪魔の前には真っ黒な熱い珈琲が置かれている。
そして二人の間には、この辺りの地図が広げられていた。
地図の東側には広い街道、北側には深い森が描かれている。
南半分は草原になっていて、西の端に大きな湖が水色で塗られていた。
途中に書き込まれた赤い丸は、町や村のある位置を示している。すぐ隣に小さな文字で名前が書き付けられていた。
この町はカディナと言う。地図の中では一番大きな町で、実際最近訪れた中では最も賑やかな町だ。
乗合馬車の駅舎も新しく、国境越え用の四頭立て長距離馬車が何台も止まっている。
久方振りに訪れた大きな町だったから、一日か二日ゆっくり休んでから次の町へ向かおう。
と、そんな話をしているところだった。
『久し振りね、リチャード』
誰かが悪魔に声をかけた。
テーブルの縁にそっと、細く長い指先が揃えて置かれる。
孤児と悪魔は顔を上げた。
空いている椅子のすぐ側に佇んで微笑む女の顔を確かめた。
濃い紫のドレスを着ていた。装飾の少ないシンプルな形だが、女の美しさを引き立てるにはそれで十分だった。
光沢のある柔らかい布地を豊かな胸が押し上げ、くびれた腰からすらりとした脚へかけて見事な曲線を描いている。
真珠色の上着の背中を、炎のような赤毛が流れて彩っていた。
滑らかな白い肌、理知的な眉、長い睫毛とエキゾチックな菫色の瞳。
道行く男達がこぞって振り返る程絶世の美女が、形の良い唇を歪めて笑んでいた。
『ジェイド!ジェイドなのか!』
悪魔は目を丸くして、驚きの声を上げた。
最初、孤児は人違いだと思った。
悪魔の名はジョンであって、リチャードではない。
けれど悪魔の態度は、彼と彼女が互いに古い知己の関係にあると示していた。
女は不機嫌を装って、くるりと巻いた毛先を指先で弄んで見せた。
『いやあね、そんな昔の名前で。
最近はフランチェスカって名乗るのよ』
孤児は察した。
悪魔だ。
悪魔の知り合いで、いくつもの名前を持つ者は悪魔でしかあり得ない。
彼女は女悪魔だった。
『OK、フランチェスカ。
そんなに拗ねるなよ。まあ座ったらどうだ』
取ってつけたような薄っぺらい親しみを添えて、悪魔は女に席を勧めた。
給仕を呼びつけ、彼女のためにメニューを持ってくるよう言った。
女は優雅に椅子へ腰を下ろし、給仕に向けてにこりと笑んで見せた。
まだ若い給仕は少年のように頬を紅潮させて、精一杯恭しく女に品書きを差し出した。
フランチェスカは美しかった。
驚くような美女。そんな陳腐な言葉でしか形容のしようがない。
大粒で猫のように蠱惑的な瞳に、薔薇の花びらのようにふっくらと柔らかな唇。
テーブルの下で組んだ足も、品書きのページを繰る指先も、美神像のような計算されつくした優美さを纏っている。
ワインをグラスで注文して給仕を追い払った女は、テーブルに両肘をついて、反らした指の背に顎を乗せた。
『で、貴方の方はリチャードのままなの?』
『最近はオールド・ジョンで通っているよ』
ならそう呼ぶわ、と女は頷いた。
孤児は少しがっかりした。
女悪魔の口から、悪魔の名前のヒントでも聞けないかと期待していたから。
悪魔の知り合いならば、氏くらいは知っているかも知れない。と考えたのは都合が良すぎるだろうか。
孤児の表情に表れた落胆を見てとってか、女悪魔は不思議そうに孤児を見つめて、悪魔に尋ねた。
『ねえ、こちらの小さな紳士はどなたなの?
紹介してくださらないかしら、ジョン?』
『私のゲーム相手だよ』
悪魔が答えた。
女悪魔は小首を傾げて、正面から孤児の顔を覗き込む。
『こんにちは、坊や。お名前は?』
「オーウェンだよ、最近のところはね」
それを聞いて、女悪魔はくすりと笑った。
子供が大人の真似をしたと侮ったのではない。
この子供は、悪魔相手に油断はしないと察したからだ。
『私はフランチェスカよ。よろしくね』
女悪魔は孤児に向かって手を差し出した。握手だ。
孤児がおずおずとその手を取ると、女悪魔は確かめるように三度上下に揺すってから手を離した。
女悪魔の整えられた爪はつるりとして、金色と桃色を混ぜたような色に塗られていた。
その手は柔らかかったけれど、悪魔と同じでひやりと冷たかった。
孤児が握手した後の手をじっと見つめていると、女悪魔は不思議そうに尋ねる。
『どうしたの坊や?私の手に何かついてた?』
孤児も不思議そうな顔で、手の平と女悪魔の顔を見比べる。
「悪魔ってみんな手が冷たいの?ジョンもフランチェスカも手が冷たい」
女悪魔は愉快そうに微笑んだ。
『気にしたこともなかったわ。
坊やはあったかい手の方が好き?』
孤児は少し考えて答える。
「冬はあったかい方がいい。でも夏は冷たい方がいいなあ」
その答えに、女悪魔は笑い声を零した。
『面白い子ねえ、ジョン。どこで拾ったの?』
『草っ原の真ん中さ』
拾われたんじゃない、と孤児は言い返したかったが、黙っておいた。
女悪魔が悪魔とどれくらい仲が良いものか、まだ分からなかったからだ。
悪魔二人と論戦にでもなれば、どうあっても孤児に勝ち目はない。
代わりに、コーラに浮かんだアイスクリームをスプーンでつついて口に運ぶ作業に集中することにした。
けれど、女悪魔は孤児に興味を持ったようだ。
『ねえ坊や、ジョンとゲームをしてるって言ったわね?
どんなゲームなの?』
悪魔に尋ねればいいのに、わざわざ孤児に問うた。
孤児は、アイスクリームを掬う手は止めずに答えた。
「名前当てゲームだよ。
僕がジョンの名前を当てたら僕の勝ち。ジョンが僕の名前を当てたらジョンの勝ち。
ジョンが勝ったら僕は魂を取られるけど、僕が勝ったらジョンは地獄へ帰るんだ」
孤児が説明する様を、女悪魔はにこにこしながら聞いていた。
『坊やはゲームが好きなの?』
「僕じゃなくて、ジョンがね」
それは本当だ。持ちかけたのは孤児でも、そのゲームを受けると決めたのは悪魔だからだ。
『でも魂を賭けるなんて怖くは無いの?だって相手は悪魔なのよ?』
怖くないと言えば嘘になるが、孤児はつい虚勢を張った。
「大丈夫だよ。勝負がつく前に僕が死んじゃったらジョンの負けなんだ。
だからジョンはズルができないんだ」
勇敢なのね、と女悪魔は誉めてくれた。
孤児は、女悪魔の瞳に映った好奇の輝きに気付かなかった。
『私とゲームをしましょう?』
にっこり笑顔のまま、ごく何でもないことのように、女悪魔は言った。
『今すぐじゃなくていいの。ジョンとのゲームが終わった後によ。
今度は私と遊びましょう』
孤児はきょとんと女悪魔を見返した。それから、悪魔に視線を向けた。
悪魔は眦を吊り上げ、突然にテーブルをどんと叩いた。
『おい、そういう話なら余所へ行け!
さあ消えろ、今すぐにだ!』
悪魔は不機嫌に怒鳴り散らす。女悪魔は涼しい顔で言い放つ。
『あら、もしもの話じゃない』
そう、もしも。
もしも孤児が負けたら、孤児の魂は悪魔のものだから女悪魔とゲームはできない。
もしも孤児が勝ったなら、その時は一緒にゲームをしようと、そういう意味の筈だけれど。
しかし、悪魔はそうは聞かなかった。
ぎりぎりと歯噛みする悪魔と、微笑を浮かべた女悪魔の横顔を見比べて、孤児は不思議そうに尋ねた。
「フランチェスカは僕が勝つと思うの?」
女悪魔は首を傾げる。
『どうかしら。でも負けるつもりは無いんでしょう?』
それはそうだ。孤児だって負けるのは嫌だ。
だけれど、それと女悪魔とゲームをするかどうかというのは全く別の話だ。
孤児はどう答えるべきか迷ってしまった。
「ゲームするって約束したら、フランチェスカは僕の味方になってくれる?」
女悪魔の笑みが濃くなる。赤い唇が不吉な三日月のように弧を描いた。
と同時に、悪魔はもう一度テーブルを叩いた。
鋭い目で、じろりと女悪魔を睨みつける。
『いい加減にしろ!お前、そんな話をしにわざわざ私の前に現れたのか!』
話を邪魔された女悪魔は、心外といった様子で不服気にそっぽ向いて見せた。
『失礼ね、私にだって用事くらいあるわ』
『じゃあさっさとそっちに行けよ、ほら!』
『いやあよ。折角久し振りに会ったのに。それに可愛いお友達もできたし』
女悪魔は孤児ににっこり微笑みかける。
それでますます悪魔は機嫌を悪くする。
『お前が行かないなら、私が行く。来い、オーウェン!』
伝票の上に銀貨を叩きつけて、悪魔は席を立つ。
『嫌よねえ、坊や?まだアイスクリームが残ってるもの』
女悪魔は、孤児の食べかけになったコーラフロートを指差して見せた。
孤児は困った挙句に、渋々と席を立った。
女悪魔は肩を竦めて見せたけれど、気分を害したりはしなかった。
『そう?残念。じゃあまたね、坊や』
女悪魔は手を振ってくれた。悪魔はとっくに通りの反対側へ歩き去っていた。
孤児はぺこりと一度だけ頭を下げて、慌てて悪魔を追いかけた。
孤児が悪魔に追いついた時、悪魔はまだ不機嫌だった。
いつもより大股で歩くせいで、孤児が悪魔の横に並ぶには大分早足にならなければいけなかった。
常ならば孤児の手を引いてくれる悪魔の手も、今はポケットに突っ込まれている。
しばらくタイミングを見計らった後に、意を決して孤児は尋ねた。
「フランチェスカってジョンの恋人?」
ぎょっとした顔で悪魔は振り返った。
『お前、何て恐ろしいことを言うんだ!とんでもない!
あんな女と付き合った日にゃケツの毛まで毟られちまうぞ!』
悪魔は即座に、真剣に、大変な勢いで否定した。
『二度と言うなよ、考えるだに寒気がする!』
大仰に震え上がって見せる悪魔の様子が滑稽で、孤児は笑い出しそうになった。
が、悪魔の顔からいつものニヤついた笑みが消え失せていたのが、冗談の類ではないことを示していた。
「フランチェスカってそんなに怖いの?」
『怖いんじゃない、タチが悪いんだ』
眉根を寄せて、真剣な表情で悪魔が言う。
『いいか坊や、悪いことは言わない。
どんなに美人でもあれにだけは決して油断するなよ。
どんな目に会わされるか分かったもんじゃないぞ』
大真面目に言い含める悪魔が可笑しくて、孤児は頬が緩むのを堪えた。
そして、かつて悪魔がどんな目に会ったのか、次の機会があったなら女悪魔に尋ねてみようと思った。
翌日と翌々日は雨だった。外へは遊びに行けないが、本を読むには都合が良かった、
孤児は悪魔にねだって銀貨を貰い、本屋に行って絵本を買ってきた。
『何を読んでるんだい、坊や?』
カーテンを開けても薄暗い部屋の中、ランプの下で孤児の膝の上に広げられた絵本を、悪魔が覗き込む。
影が落ちて、文字を隠した。
「そっちに立つと暗いよ、ジョン」
孤児が文句を言った。
悪魔はしゃがみこんで、孤児の手から絵本を取り上げた。
『ふん、“シャルロットと天国の鍵”?
何だ、女の子が読む本じゃないか』
「でも面白いよ。シャルロットが子犬のコーディと一緒に、神さまの無くした鍵を探すんだ」
『どうせあっちのアイツらが出て来るんだろ?』
悪魔が興味なさげに言う。
悪魔は神様や天使が嫌いで、いつもそんな風に呼ぶのだ。
「悪魔も出てくるよ。シャルロットの邪魔をするんだ。
シャルロットは天使の力を借りて、悪魔を追い払うんだ」
チッ、と悪魔は舌打った。
『本当にそんな鍵が在るなら、私が盗んでやるよ。
そしてあいつらを閉じ込めて、二度と出てこられないようにしてやる』
悪魔は、本を孤児の膝に投げ返した。
『そんなことより、今日のゲームだ』
「いいよ。ジョンからね」
よし、と頷いて悪魔は名前を順に挙げる。
『リンデル』
「ナイン(いいえ)」
『ドジスン』
「ニーテ(はずれ)」
『レスタト』
「ファルシュ(違う)」
『ヤボコフ』
「ガンツフェアシーデン(全然違う)」
『ブラムス』
「はい、おしまいだよ」
『うーむ、じゃあ選手交代だ』
悪魔は当てられなかった。次は孤児の番だ。
「エルフェグラータ」
『ナイン(いいえ)』
「シュバルツバルト」
『ニーテ(はずれ)』
「ウィエスターチア」
『ファルシュ(違う)』
「マインドルフェン」
『ガンツフェアシーデン(全然違う)』
「ヒューオデュッセア」
悪魔は肩を竦めて見せた。
『お終いだよ坊や、今日は随分難しい名前ばかり出してきたな』
「ジョンのことだから、簡単な名前じゃないはずだと思ったんだ」
考え方は悪くないけど、浅はかだ。と悪魔は笑った。
孤児は、ぷいと横を向いて話を打ち切った。
絵本を開き直すと、悪魔は不服気に口を尖らせた。
『またそんなしょうもないものに戻るのか?』
「だって遊びにはいけないじゃないか」
窓の外は今も雨が降っている。
しとしとと降りそぼる細かな粒は、灰色のカーテンのように空から舞い降りて石畳を濡らす。
雲は分厚く、当分日の光にはお目にかかれそうにない。
悪魔は、孤児の機嫌を窺うような猫撫で声で言う。
『部屋の中でだって遊びは出来るさ。
カードがいいかい?それともチェスを教えてやろうか?』
「僕は本が読みたいんだよ」
孤児には分かっていた。暇を持て余しているのも、退屈に殺されてしまいそうなのも、悪魔の方だ。
それくらいには長い付き合いを続けている。
「ジョンこそ、外へ遊びに行けばいいじゃないか。
ジョンには天気なんて関係ないんだから」
悪魔には、土砂降りだろうと嵐だろうと何程の事もない。
どんな冷たい風も寄せ付けないでいられるし、嵐の中でも雨粒一滴触れさせないことだって簡単だ。
ベッドに腰掛けていた悪魔は、露骨に眉根を寄せた。
『嫌だね、こんな雨の日には何もしないに限るのさ。
あーあぁ、寝ちまおうかな。どうせろくなこともないんだ、こんな啜り泣くみたいな雨の日には』
ごろりと横になって昼寝の体勢に入る。
拗ねてしまった悪魔の背に目をやって、ふと、孤児は良いことを思いついた。
この機会に、少しばかり悪魔について勉強するのも悪くないかも知れない。
「ジョン、そんなに暇ならさ、僕に教えてよ」
『チェスをする気になったかい?』
やけに機嫌の良い声で振り返る。
「違うよ、悪魔のことさ」
『悪魔の?』
ベッドの上にむくりと起き上がって、悪魔は孤児の方へ向き直る。
「ここだよ、見て」
孤児は悪魔のベッドに腰掛け、絵本のページを開いて見せた。悪魔は億劫そうにそれを覗き込む。
『何だ、本の話か?』
「そう、この悪魔が出てくるところ。
シャルロットが行く道を、悪魔が大岩で塞いでしまうんだ」
それはもの凄く大きくて山のような岩で、迂回して行けば何日もかかってしまう。と本には書いてあった。
道が通れずに困ってしまうシャルロットに、絵本の悪魔はざまあみろと言って消えてしまう。
『それがどうしたんだい坊や?』
「不思議じゃないか、どうして悪魔はシャルロットの邪魔をするだけで行っちゃったの?
悪魔なら、“通して欲しければ契約しろ”って言うと思った」
それを聞くと、悪魔はにんまりと笑った。
『お前の言うとおりだ。悪魔なら勿論そうするべきだ』
そう言いながら、孤児のてから絵本を取り上げる。
『こいつを書いた作家は悪魔に会ったことがないんだろう。だから悪魔のやり方を知らないのさ。
見てみろ、どいつもこいつも子供騙しの嫌がらせばかりじゃないか』
絵本の悪魔は、シャルロットを幽霊屋敷に閉じ込めたり、森の中を迷わせたり、馬車を引く馬を逃がしてしまったりする。
その度にシャルロットは、天に祈りを捧げて知恵や御使いの助力を得る。
隠し通路の謎を解いて屋敷を脱出し、太陽に導かれて森を抜け出し、馬の代わりにロバを繋いで車を引かせた。
「ジョンがこの悪魔ならどうするの?」
『私ならこんな役、最初から受けないね。あっちの連中相手に道化役をやらされるなんて真っ平御免だ』
ふん、と鼻を鳴らして悪魔は答えた。
『ただ、もしも、もしもだよ。私がこのシャルロット嬢と出会う機会があったとしたら、だ。
私ならもっと上手くやるね。最初からお嬢ちゃんにはこう持ちかけるとも、“契約するなら鍵を探してやる”とね』
孤児は首を傾げた。
「でもそれだと、ジョンが天使を手伝ってあげることにならない?」
『勿論そうさ。その点は確かに気に入らないがね。
だがあっちの連中が欲しがっている魂を目の前で掻っ攫ってやれるとしたら、その方が大層愉快ってものさ』
酷薄そうな薄い唇を歪めて、楽しげに悪魔が笑う。
悪魔は、本当に“あっちのあの連中”が嫌いだ。
「でもシャルロットは契約するかな?」
『しないだろうな。これはお話だもの』
意外にもあっさりと悪魔は認めた。
『我々が負けてあいつらが勝つんだろ?決まりきってる。
最初からそういう風にできてるんだ。くだらない」
悪魔は本をベッドの上に投げ出した。
そしてまたごろりと寝転んだ。
『聞きたいことはそれだけかい、坊や』
少し考えて、孤児はこう尋ねる。
「シャルロットが契約しなくても、ジョンは助けてあげる?」
『そんな訳ないだろ』
当然、そうだ。悪魔は対価無しにはどんな奇跡も与えたりはしないのだ。
「じゃあ、魂じゃなくて他のもので払うって言ったら?」
『例えば?』
「分からないけど、シャルロットがジョンの欲しがるものを持ってたらってことさ」
起き上がって胡坐をかいた悪魔は、顎に手をやって「ふーむ」と考え込み始めた。
孤児は悪魔についてあまり知らない。
とても長生きだとか、プライドが高くて意地悪だとか、秘密の名前を知られると家来にならなくてはいけないとか、そんなことくらい。
だけど、オールド・ジョンと名乗るこの悪魔のことならば、少しだけ知っている。
ジョンは、ゲームやお祭などの愉快なことが好きで、それから女の子にだけはほんのちょっぴり優しい。
以前別の町で、猫を連れた少女が困っていたのを助けてあげたことがある。
紳士だからだとジョンは言うけれど、紳士である前に悪魔なのだから、それは理由にならないはずだ。
今も、架空の女の子であるシャルロットを、契約によらず助けてあげるかどうか迷っている。
「ジョンはずるい」
『おい、私の何がズルいだって?』
考え込んでいた悪魔が、じろりと孤児を睨む。
「だってジョンは、契約しないなら僕のことは助けないって言ったのに、シャルロットは助けてもいいと思ってるんだ」
『そりゃあお前が言い出した話じゃないか。
例えば、私が腹を空かしてたとしてだ、絵本のお嬢ちゃんが私においしいアップルパイをご馳走するから金色林檎の木を探してくれと言ったとしよう。
それなら私は協力するよ。林檎を探す代わりにアップルパイ。対等な交換だ。でも幽霊屋敷から助けたり岩をどかしてやるのは御免だ。もっといいものを貰わないと』
でも契約じゃなくてもいいとは思ったんだよね、と孤児は問い返す。
「それってシャルロットがかわいい女の子だからだろう、ジョン」
『女に優しくするのは紳士の義務だぞ、オーウェン』
したり顔で悪魔は言う。
『女は弱いから守ってやらなきゃならない。
女に優しく出来ないような男はロクでもないぞ』
だけど孤児は納得しない。
「でも、ジョンはお姉さんに優しくないじゃないか」
『私が?誰にだって?』
心当たりがないと言うように、きょとんと悪魔が孤児を見返す。
「ケイトお姉さんだよ、天使のマリオンにも。
いつも意地悪ばかりして、全然優しくない」
『あいつらはあっちのあれの手下じゃないか!』
何を当たり前のことを言っているのか、と悪魔は憤慨する。
「お姉さんは天使じゃないよ」
『だが尼僧だ!』
そんなことは悪魔にとって何程でもないと、孤児は知っている。
悪魔は教会へ行くのもお祈りをするのもへちゃらだ。十字架に触れても、神父様のお説教を聞いても何ともない。聖母像の前に跪く真似さえする。
だから、孤児が出会った尼僧や弓使いの天使を、悪魔は恐れているのではない。
「ジョンは全然平気なくせに」
『あの女は嫌いだ』
そう、悪魔はケイトという名の尼僧が嫌いで、大の苦手だ。
何故なのか孤児は知らない。ただ悪魔が嫌がるということだけを知っている。
「悪魔のフランチェスカにも優しくなかったよ。
女の子に優しくないのは男じゃないって言ったよね」
『あんな強い女は守ってやらなくていい!』
「強いの?ケイトお姉さんとマリオンの方がジョンより強いの?」
『そんな訳ないだろ!第一、あっちのあれは女じゃない!』
「ケイトお姉さんは女の子だよ」
ぐぅと唸って、悔しそうに悪魔は歯軋りする。
『あいつは嫌いだ!それで何が悪い!
いいだろ、別に!好き嫌いくらいするさ!』
「だから、どうしてなのさ?ジョンは悪魔なんだから人間を誘惑するのが仕事だろ?」
悪魔はぽかんと孤児を見返した。
『誘惑だって?』
訳が分からないといった様子で、まじまじと孤児を見やる。
『おいおい、さっきから何だってそんなことばかり聞くんだ?』
「だって本に書いてあるもの。悪魔はきれいなものが好きだって。
だから、きれいなお姉さんとか小さな子供を連れて行くんだって」
孤児が再び絵本を開いて見せる。
成程、確かに天使が主人公の少女にこう語っている。
――悪魔は美しくて清らかなものを好む。聖職者や幼い子供の善良で無垢な魂を奪うために、誘惑や恐怖を仕掛けてくる。
「聖職者って、シスターや神父さまのことでしょ?
だったら、どうしてジョンはケイトお姉さんが嫌いなの?」
『あっはっはっはっは!』
悪魔は声を上げて、げらげらと笑った。
腹を抱えてベッドの上にひっくり返る悪魔に、馬鹿にされた気がして孤児は頬を膨らませる。
『お前、そんなもの真に受けたのか』
笑いの発作が一段楽したところで、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、悪魔は言った。
『聖職者の魂が美しいなんて、あいつ等の価値観だろ。勝手に私に押し付けるなよ』
じゃあ違うの?と孤児が尋ねる。
『その辺は好みの問題だし、好きな奴もいるだろうけどさ。全員がそうだと思われるのは心外だ。
まあ、どうしてそう言われるようになったのかは、想像がつくがね』
「どうしてなの?」
堕落しやすいからだな、聖職者の魂は。と悪魔は答えた。
孤児は驚いた。そんな孤児の表情を眺めて、悪魔はくつくつと含み笑う。
『考えてもみろよ。石の塔に閉じ込められて、楽しいことなんて何も無い人生だぞ?
そうだな、お前で言うなら死ぬまでお菓子が食べられないってところか。
そんな暮らしをしてみろ。私がキャンディをやると言ったら、お前はどんなにか喜ぶだろうね』
孤児は考え込んだ。欲しがらない自信は無かった。
一生お菓子が食べられない生活をしてみれば、きっとキャンディ一粒を貰っただけでも大喜びするだろう。例えそれが悪魔からの贈り物だったとしても。
『ま、そういうのは本来女悪魔の得意技だけどな』
「女悪魔?」
どうしてジョンがそうしないのか、孤児には分からなかった。
悪魔はそれに答えず、こう言った。
『お前達は誘惑なんて言っちゃあいるがね、実際悪魔に人間を誑かす必要なんて然程ないのさ。
人間はいつだって欲望を抱いているものだからな』
「たとえば?」
『色々さ』
大金持ちになりたい、有名になりたい、偉くなりたい、美味いものが食いたい、酒を浴びる程飲みたい、豪華な服や宝石が欲しい。
『それから、美しい恋人が欲しい』
にんまりと悪魔は笑った。
『男ってのは愚かなものでな。眩しいような美貌の女悪魔が、意味深ににっこり笑ってやるだけで、もう彼女を手に入れるためなら魂を売ってもいいと思う男が一丁上がりだ』
「大人ってそんなに単純なの?」
訝しげな孤児に、悪魔は苦笑して見せる。
『そう責めるなよ。何しろ飛びっきりの美人なんだぜ?
おチビちゃんにもその内分かる日がくるさ。生きていればな』
悪魔は皮肉な笑みを零して言う。
『でもまあ、私だって仮にも愚か者の一人だしね。
ふわふわした金髪に宝石みたいな目をした、鼻の頭にそばかすの二三個も浮いてるかわいこちゃんなら、些少のお願いを聞いてあげるのに吝かではないね』
つまり、“悪魔は綺麗なものが大好きだ”というのだけは本当のことなのだ、と孤児は思った。
夕方過ぎに雨がやんだので、孤児と悪魔は夕食を食べに出た。
宿の食堂ではなく、孤児のたっての希望で湖岸沿いのレストランだ。
魚介のサラダやパエリアが美味しかったけれど、何よりもデザートのフルーツタルトに孤児は満足した。
悪魔はメインディッシュを十三皿平らげて、給仕を驚かせてみせた。
優雅に口元を拭いながらデザートを持ってくるよう声を掛けた時、給仕は青褪めた顔で怪物でも見るように悪魔を眺めていた。
悪魔は時々、こんな風に善良な第三者を悪趣味にからかって遊ぶことがある。
レストランを出たところで、悪魔は愉快げに声を上げて笑った。
『見たかあの顔、面白かったなぁ』
孤児は、悪魔のひょろ長い体のどこにあれだけの食べ物が収まっているのか不思議でならなかった。
驚かせたり面白がるためなのだから、本当に食べている訳ではないかも知れないが、孤児にその仕掛けを知る術はない。
外はもうすっかり暗かった。
通りの店々は、どれも扉を閉ざしている。ささやかな明かりが零れ出て営業時間内であることを示しているのは、酒場だけだ。
ぽつりぽつりと申し訳程度に灯る街灯以外、道を照らすものはない。
孤児は悪魔に手を引かれて歩いた。
以前は真っ暗な道となると、両親と手を繋いでいてさえ恐ろしく思ったものだったが、今の孤児にはそういうこともない。
一体どこの誰が夜道で悪魔から追い剥ぎできるというのだろう。
魂を狙われているとはいえ、この時ばかりは孤児も悪魔を頼もしく思うのだ。
やがて、通りの先に宿の建物が見えてきた。
一階の食堂にはまだ客がいるようだ。窓から漏れる明かりが、石畳に影を落としている。
もうほんの二本ばかり道を横切れば帰り着ける。すぐに暖かい湯を浴びて、柔らかい布団に潜り込もう。
そんな風に孤児が考えた、その時。
脇道から、突然人影が飛び出してきた。
ひどく急いで駆けて来た誰かは、折悪しく悪魔にぶつかった――ように孤児には見えた。
男だ。深く帽子をかぶって顔を隠していたが、背格好と服装でそれだけは分かった。
男は、悪魔の肩を掴んだ。
『何だ、貴様?』
胡乱気に見返す悪魔へ向けて、ぼそりと何事か呟くと、男は身を翻して悪魔から離れた。
そのまま孤児には目もくれず、逃げるように通りを越えて走り去っていく。
その背中は、あっという間に暗がりの中へと姿を消した
孤児は不思議そうにそれを見送った。
男の姿が見えなくなってから、孤児は悪魔を振り向いた。
男が悪魔に何と言ったのか、尋ねようと思ってだ。
その時、ようやく孤児は気付いた。
悪魔の右脇腹に、深々とナイフが突き立っている。
「ジョン!」
孤児は悲鳴を上げた。悪魔は平然と答える。
『あぁ、これか。こんなもので私をどうこう……』
言葉の途中で、悪魔は急にその場に膝をついた。
『あれ?あれれ……?』
悪魔の顔から笑みが消えている。額には汗が浮かんでいた。
孤児は悪魔が汗をかいているのを初めて見た。
『坊や、ナイフを抜いてくれないか』
悪魔はそう言ったが、孤児はそれに触れるのはとてつもなく恐ろしかった。
『早く抜くんだ!』
怒鳴られて、孤児はようやく悪魔の側へ寄った。
震える手でナイフの柄を握り、渾身の力で引き抜く。
何の抵抗も無く、ナイフは孤児の手に移り、傷口からは血の一滴も零れなかった。
それでも、悪魔の元々血の気を感じさせない白い顔は、ますます蒼白になっていた。
玉のような汗が、頬を伝って顎から落ちる。
『坊や、離れているんだ。危ないからな。そうだ、もっとだ』
悪魔がいいと言うまで、孤児は悪魔から遠ざかった。
悪魔は右手で体を支え、左の手に炎を灯した。野球ボールくらいの小さな火の玉だ。
それだけで、悪魔と孤児のいる辺りは真夏のように暑くなった。
熱気がちりちりと肌を焼く。孤児の全身からも汗が吹き出た。
悪魔はその炎を、ナイフで刺された傷に押し当てた。
服は炎に触れた部分から一瞬で燃えて無くなり、脇腹の皮膚と肉は焼け焦げて、みるみる炭に変わっていく。
その凄惨な光景から、孤児は目を逸らせずにいた。
炎は意外と早くに消えたが、孤児にはそれが何時間ものことのように感じられた。
『……まあ、これで大丈夫だろう』
胴体を、右腰から肋骨の下まで完全に炭と灰の塊に変えた悪魔は、ようやく立ち上がった。
汗はすっかり引いていたが、さすがに表情は険しい。
拳で炭になった腹を殴りつけると、ごそっと崩れて石畳に灰を撒き散らした。
『あのクソアマ……』
ぽつりとそんな言葉が漏れた。次の瞬間、悪魔は叫んでいた。
『あンのクソアマぁぁ、ぶっ殺す!!』
孤児は怯えて一歩後退った。
これ程怒った悪魔を、孤児は見たことが無い。
いつもの取り澄ました態度を忘れる程怒り狂っている。
血のように赤い瞳を爛々と燃やし、怒りに顔を歪めてぎりぎりと歯軋りする。
逆立った髪はゆらゆらと蠢き、爪と牙は伸びて鋭く尖っていた。
立ち上る瘴気は火の粉をはらんで、強い硫黄の臭いがする。
今にもその足元から炎が上がって、この町ごと地獄の業火で包みかねないと思った。
だが、悪魔は辛うじて憤怒を胸の内に治めると、ゆっくりと孤児の方へ振り返った。
『帰るぞ、オーウェン』
笑ってはいない。何の感情も映っていない、無表情だった。
それ故に孤児は、悪魔の怒りを深く思い知った。
悪魔が孤児の握ったままのナイフを一睨みすると、それは次の瞬間、灰になって崩れ落ちた。
孤児が怯えているのを知って、悪魔はいつものように手を差し伸べようとはしなかった。
孤児は恐る恐る悪魔の後について宿に帰った。
その晩、悪魔は壁を睨んだまま何事か考え込んで、一言も口をきかなかった。
孤児は悪魔の様子を窺うのにも疲れて、早くベッドに入ることにした。
さっさと寝てしまおう。明日になったら、少しはマシになっているかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて。
翌朝、孤児が目を覚ますと、悪魔がベッドの横で待っていた。
『坊や、起きたなら急いで着替えるんだ。
朝飯の前に出かけるところが出来た。構わないね?』
否と言える筈も無かった。悪魔の口調は尋ねる様子であったが、言外に有無を言わせぬ響きがあった。
悪魔の表情にはにやついた笑みが戻ってきていたが、ルビーよりも真っ赤な目はちっとも笑っていなかった。
孤児が身支度するのを待って、悪魔は町に出た。
広場を横切って目抜き通りに入り、しばらく行った先にお洒落なオープンカフェがある。
そこで孤児は彼女を見つけた。
それこそが悪魔の目当て、悪魔の仇、憤怒の矛先であると察しがついた。
フランチェスカ。
赤毛の女悪魔が、誰か若い男と一緒にカフェの店先で朝の珈琲を楽しんでいた。
孤児は、もっと早くに気付いてしかるべきだったと思った。
悪魔は女だと言ったのだ。女を殺すと叫んだ。
悪魔が恨みに思うような女は、きっと彼女しかいないだろう。
『フぅぅランチェスカぁぁっ!!』
ドカン!と大きな音を立てて、悪魔は彼女と若者の座るテーブルに拳を振り下ろした。
そこにはナイフが――灰になった筈の昨夜のナイフが握られていて、刃は四インチもテーブルに刺さって突き立った。
女悪魔は驚いた顔をしていたが、それは半分予想の範囲内といった表情で、寧ろ向かい席の男の方が顔色を青褪めさせて度肝を抜かれていた。
その顔に孤児は見覚えがあった。
夜道は暗かったけれど、去り際にちらりと見えたのだ。
昨晩、悪魔にナイフを突き立てて逃げた男の横顔は、今ここに座っている男のものによく似ていた。
『どうしたのよ、ジョン?一体何を怒っているの?』
女悪魔をぐいと睨みつけて、悪魔は噛み付くように言い放つ。
『一体?何を?ハッ!ふざけるなよ、この牝犬め!
人を殺しかけておいて!何の真似だ!』
『殺す?私が?』
女悪魔はおかしい冗談でも聞いたように笑おうとしたが、悪魔が叩きつけた次の言葉に、すぐに表情を凍りつかせた。
『刃に塗っていた毒、あれは以前お前が私に盛ったものだったな!』
一瞬の静寂が訪れる。
その隙を突いて、ありったけの勇気を奮い立たせた男が悪魔に食って掛かる。
「何なんだお前は!彼女に恨みでもあるのか!」
『大有りさ!引っ込んでいろ蛆虫が!』
牙を剥いた悪魔に歯向かえる人間がいるとは、孤児には到底信じられない。
その男も、怒鳴り返されて力無く椅子に座り込んだ。
『分かった、悪かったわよ。降参するわ』
女悪魔が言った。両手を挙げて降伏のポーズを取る。
『ツケは払うわよ。それでいいでしょ?』
『ほぅ、ツケ?滅多なもので誤魔化せると思うなよ!』
『ここにこれだけ有るわ。好きに持って行ってちょうだい』
女悪魔はハンドバッグから沢山の宝石を取り出した。
どれも信じられない程きらきらと輝いていて、まるで石の中に光が閉じ込められているようだった。
悪魔の顔つきが、明らかに穏やかになった。
『フン、まあそういうことなら良いだろう』
僅かに笑みが戻って、ずっと機嫌が良くなっている。
この取引に大いに満足しているという証拠だ。
悪魔はハンドバッグの中の宝石を残らず掻っ攫った。
『ちょっと!そんなに?!』
抗議の声を上げる女悪魔に、悪魔は無碍に言い捨てる。
『こんなもので足りると思うか!』
そいつも寄越せ、と悪魔は彼女の胸に下がったペンダントを指差す。
『もう!欲張りは女の子に嫌われるわよ!』
頬を膨らませながら、フランチェスカは指輪や耳飾りなど全てのアクセサリーを外して、ペンダントと一緒に悪魔の前へ投げ出した。
『望むところだ。こっちはその女の子とやらに、シャツと上着と胴体を半分台無しにされたんだからな!』
『ちょっとお腹が出てきてたから丁度良かったんじゃないかしら?』
『一オンスだって肥えちゃいない!』
言い返して、ポケットに沢山の宝石を詰め終えた悪魔は孤児に向き直った。
『もう用は済んだ。帰るぞ坊や』
悪魔はすっかり機嫌の良いいつもの悪魔で、朝までの寒気立つ恐ろしさがどこかへ無くなったことに、孤児は心の底から安堵した。
『さあ、朝飯を食いに行こう。但しここじゃなくて別の店でな』
ぽんと孤児の背中を押して促す悪魔が、去り際に素早く女悪魔の耳元へ囁いた。
『どう仕掛けたかは知らんが、もっとマシな奴を引っ掛けるんだな。
私を刺した奴は“彼女の前から消えろ”と言い残したぞ』
女悪魔が顔を顰めて舌打ったのを、孤児は確かに聞いた。
「……いいの?」
宿に戻る道すがら、孤児は悪魔に尋ねた。
「フランチェスカと一緒にいた人、昨日ジョンを刺した人だよ?」
『構いやしないさ』
悪魔は答えた。
『あいつはフランチェスカと勝負をしたんだ。性悪女め、分の悪い賭けを持ちかけやがった。
あの男は賭けに負けたから、フランチェスカに相応の報いを受けるだろうよ』
それがどういう結末になるのか、多分孤児は知っている。
「ねえ、さっきの宝石見せてよ」
『ああ、いいよ』
悪魔は懐から取り出した大粒の緑色の石を、孤児に渡して寄越した。
孤児の手の平の半分もあるような大きな宝石だ。
「これ、何か特別な石?」
悪魔が取引に使うようなものは、ただの宝石ではないだろうと思ってのことだ。
悪魔は笑った。
『それは魂だよ。お前みたいな小さな子のね』
孤児はびっくりして、それを落としそうになった。
慌てて悪魔に返すと、悪魔はそれを大事に仕舞いこんだ。
「フランチェスカが取ったんだ?」
『盗ったんじゃないよ。契約して、貰ったのさ』
悪魔同士のゲームには、人間の魂が掛け金として使われる。
悪魔と人間では、ゲームにせよ契約にせよ、人間はたった一つのそれを賭けるしかない。
「フランチェスカは、どうしてジョンを刺そうと思ったんだろう?」
『刺す?控えめな言い方だな。“殺す”だろう?』
悪魔はにやりと笑んで言った。
『あの女は私から横取りしたかったんだろうさ、お前をね』
「僕を?!どうして?」
『さあな、欲しくなったからじゃないか、あの欲深め。だけど私がいるからお前には手を出せない。
契約もゲームも駄目だ。他の悪魔の獲物には手を出しちゃいけないのが、地獄のルールだからな』
悪魔の世界のルールを、孤児は知らない。
けれど、それがどういうものかは何となく分かる。
悪魔は合理的だ。無駄なことが嫌いだ。争い事は嗾けるもので、自分達で演じるようなことではない。
でも、
「だからって……殺そうとするの?」
その手段を選ぶことこそ、悪魔が悪魔たる所以だと思った。
「ジョンが死んじゃったら僕の負けだ。魂を取られちゃうよ」
『そう簡単に殺されてやるもんか。とびきりの毒を盛ってもだ。
でもそうだな、もし私が死んじまったら、ゲームには勝ってもお前の魂は受け取れない。
あの女、そいつを横から掻っ攫う魂胆だったんだろうが』
女狐め、失敗しやがった。と悪魔は含み笑いと共に呟く。
『ゲームの相手がわざわざ私に黒幕を教えてくれたんだものな』
そのせいで女悪魔は上等な魂を根こそぎ巻き上げられる羽目になった。
悪魔にはそれが愉快でたまらない。
全てはゲーム。
あの男は、勝って何を得る筈だったのだろう。
フランチェスカ?
悪魔を殺せば男の勝ち、殺せなければ女悪魔の勝ち。
そして男は負けたのだ。
最終的には悪魔の一人勝ちとはいえ、それは男の運命には何の関係も無い。
悪魔のゲームとはそういうことなのだと、恐らくは女悪魔を飾る宝石の一つになるだろう男に、孤児は少しだけ哀れみを覚えた。
十五、 幕 ――