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悪魔と孤児  作者: 黒衛
15/18

十四、 聖者の行進

最新話ができあがりましたので、先に公開いたします。

九~十三話については、おって公開してまいりますので、まったりお待ちください。




街道から少し外れた、小さな村でのことだった。

その村に聖者がやって来ると、孤児は旅人達の交わす噂で聞いた。

周りを山に囲まれた何一つ特別なもののない村にとって、“聖者の来訪”は大ニュースだ。

少し先に宿場町があるせいで旅人が足を止めることも珍しいのに、それが聖者ともなれば尚更。

村は早くも歓待のムードに盛り上がっていた。

孤児は、村にたった一軒しかない宿屋に泊まっていた。

酒場兼食堂になっている一階で夕飯を食べていた時、宿の主人が寄って来て話してくれた。

娯楽に乏しい村人達は寝ても覚めても聖者の話題で持ちきりだったから、ふと余所者にも喋ってみたくなったのだろう。

「もうじきこの村に聖者様がやって来るのさ」

巡礼に出ている聖者様が近々この辺りを通るらしい。教会を巡ってお祈りしているそうだから、小さいながらも教会のあるこの村にもきっと来てくれるに違いない。

聖者様のありがたいお話が聞けるかもしれない。うまくすれば一晩泊まっていただけるかもしれない。今の内から歓迎の準備をしておかなければ。

そんなふうに聞かせてくれた。

孤児はロールキャベツを頬張りながら、時々相槌を打っていた。

「だからあんた達ももう少し泊まっていくといい。聖者様を拝まずに行くなんて罰当たりなことしちゃいかん。

 聖者様がうちにお泊りになったら、聖者様と同じ屋根の下で寝られるんだぞ。有り難いことだ」

そう言って宿の主人が去って行った後で、孤児は悪魔に尋ねた。

「ねえジョン、聖者さまってどんな人?」

『知らないな。会ったことがないからね』

悪魔はミートパイを口に運びながら答えた。

なら会ってみようよと孤児が提案したことに、悪魔は反対しなかった。

これは孤児の旅だから、急ぐか急がないかは孤児が決める。悪魔は気にしない。

どこかの町に滞在することも珍しくはないし、のんびり歩いて行くことも馬車を使うこともある。

が、ここは本当に小さな村だったから、すぐに見るものもなくなって、孤児は悪魔に退屈を訴えた。

『じゃあもう聖者とやらは諦めて次の町へ行っちまうかい?』

本当に来るのかどうかも分からないと悪魔は言うが、折角待ったのだからそれは嫌だと孤児は答える。

都会なら玩具なり本なり買って過ごせるが、物がないのでは仕方がない。

『コーディ』

「ナイン(いいえ)」

『ヴァルター』

「ニーテ(はずれ)」

『ニルス』

「ファルシュ(違う)」

『パーシヴァル』

「ガンツフェアシーデン(全然違う)」

『ヨアヒム』

「おしまいだね、カード引いてよジョン」

暇に飽かした二人が、今日のゲームも挟みつつカード遊びで時間を潰していた時のこと。

ばたばたと表を村人が駆けて行く音が聞こえた。

窓から覗き見れば、広場を横切って歩いてくる二人の人影が見えた。

「あれ、もしかして聖者さまかな?」

『うん?どれだい?』

孤児が指差すと、カードと睨めっこしていた悪魔が顔を上げる。

一方は、黒い神秘服を着て肩から鞄を提げた司祭だ。

もう一方は、袖の大きな白い儀礼服に肩布、金の聖印を首から提げた白髪の老僧だ。

二人を見つけた村人がこぞって寄ってくる。

何事か話しているようだが、遠すぎて聞こえるはずもない。

「ジョン、僕たちも見に行こうよ」

『やれやれ、お前は本当に野次馬だね』

椅子から飛び降りて駆け出す孤児を、悪魔はカードを伏せ置いてからゆっくりと追いかけた。

孤児が人垣の外側に辿り着いた時、司祭と老僧は村人達に囲まれて口々に話しかけられていた。

各地の教会を巡る旅の途中だと、司祭が村長に説明している。

村の教会から飛んできた神父が、老僧と熱心に話をしていた。

神の慈悲と教えを深く人々に広めるのが使命だと、柔和な微笑みで老僧は言う。

神父は感動したように頷きながら聞いていた。

「へえ、すごいや。大人気だね聖者さまって」

『どいつもこいつも物見高いことで。……聖者なんて言葉ほど信用ならないものはないってのに』

追いついて来た悪魔がぼそりと零した言葉に、孤児が振り返る。

「ジョンが聖者さまを嫌いなのは分かるけど、それってどういう意味?」

『別に、嫌ってる訳じゃないさ。好きにはならないだろうけどね、一生』

孤児の横に座り込んで、悪魔は言う。

『いいかい坊や、自分から聖者だなんて言い出す奴は偽者だ。そういうペテン師は、今までだっていくらでも居たんだ』

「でもあの聖者さまは自分から名乗ったんじゃないよ。噂になってただけじゃないか」

『その噂をばら撒いたのはどこの誰だろうな。おっと、私は知らないがね』

にやりと悪魔は笑う。

『それを省いても、生きてる人間に本当の聖者なんていやしないよ。

 ヒトは生きているだけで罪深いんだ。だから私みたいな悪魔がいるのさ』

本当に清らかなのは死んだ奴だけだ、と言いながら悪魔は孤児の手を引いた。

「ええ、もっと近くで聖者さまを見たいのに!」

『すぐに見られるさ、どうせ連中は宿に泊まるんだろう』

その言葉通り、村人達に頼み込まれた老僧と司祭は、宿に一泊することになったようだ。


孤児と悪魔は広場に残った。

司祭と老僧は、村長に案内されて村の教会を訪ねに行った。

聖者の尊い説教が聞けるやもと、村人達もぞろぞろとそれに付いて行った。

すっかり人気の無くなった広場の隅で、孤児は悪魔に尋ねた。

「どうしたの?行かないの?」

悪魔は、悪魔だが教会を恐れない。説教を聞いても平気だし、神に祈る真似事だってできる。

だから孤児は、悪魔が教会そのものを嫌がっている訳ではないと知っていた。

『坊やは聖者に会いたいんだろう?どうせなら本物に会いたくはないかい?』

「本物の聖者?」

孤児には悪魔の意図が分からなかった。

『もうじきここに本物の聖者がやって来るのさ。折角ならそいつに会わせてやろうと思ってね』

悪魔が言う“本物の聖者”とは何なのだろうと、孤児は思った。

悪魔は、生きている人間に聖者なんていないと言っていた。

ならば、“本物の聖者”とは死者なのではなかろうか。

そう考えてぞっとした。

それを見抜いた悪魔がくつくつと笑う。

『安心しろよ坊や、幽霊が出る訳じゃない』

ただ、それ以上のことを教えてくれるつもりはないようだ。

「いつ来るの?」

『もうじきさ。これでも食べながら大人しく待っていろ』

悪魔が渡してくれたキャンディ瓶から、飴玉を一つ取り出し、口に入れる。

そのまま、瓶を抱えて悪魔の隣に座り込む。

ちらりちらりと時折村の入り口に目をやりながら、二つ目の飴玉も溶けて消えた後、三つ目を頬張るかどうか迷っていた頃。

孤児の目に遠く人影が映った。

「ジョン、あれが聖者さまなの?」

孤児が指差した先、広場の向こうの端から二つの姿が歩いてくる。

『そうだよ、あれが……』

言いかけて、途端悪魔は渋い顔をしてそっぽを向く。

『何であいつがここに居るんだ……!』

忌々しげな声で呟く。

段々と近付いてくる姿を見て、孤児も気付いた。

二人の内、先に立つ方は尼僧だ。もう一人はぼろぼろの巡礼服を着た男。

そして孤児はその尼僧に見覚えがあった。

「ケイトお姉さん!」

「まあ坊や!坊やじゃありませんこと?」

近くまで来た尼僧は、孤児を見つけて声を掛けた。

「お姉さん、どうしてここにいるの?」

見上げる孤児に尼僧は答える。

「わたくし、この度教会から巡回僧侶の任を頂戴したのですわ。

 今はあちこちの教会を巡って祈りを捧げながら、各地で神の言葉を説いています」

孤児と尼僧は神聖都市と呼ばれる町で出会った。あの頃の尼僧はまだ教会付きだった。

そういえば、おさげも眼鏡もそのままだけれど、尼僧服の形が少し変わっている。

孤児は覚えている。尼僧の目は、特別な目だった。

悪魔を一目で悪魔と見抜いた、不思議な目だ。

見えないものが見える目のことを、魔眼と言うらしい。

尼僧の目を、悪魔は“地獄のものが見える魔眼”だと行っていた。

ふと気付けば、悪魔の姿が無くなっている。一瞬前には隣にいたのに、まるで煙のように掻き消えてしまっていた。

「お姉さん、ジョンが……悪魔がいなくなっちゃった。さっきまでここにいたのに」

「あら、まだ坊やに付き纏ってますの?あの悪魔。

 わたくしが十分に修行を積んでいれば追い払ってあげましたのに」

悪魔は、初めて会った時から尼僧が苦手だ。

教会もお祈りも平気な悪魔が何故尼僧を嫌うのか、孤児には分からない。

孤児はもう一人の方を見る。

巡礼服の男は、痩せこけて髪も髭も伸び放題だった。

浅黒い肌は、日に焼けているのか汚れているのか分からない。人相が分からないのだから年齢も分からない。

荷物は小さな背負い袋だけだ。それも繕い跡だらけで、泥に汚れていた。

巡礼着は埃塗れで、裾も袖もボロボロ、肘や脛に開いた穴もそのままの酷い有様だった。

それは、孤児の目には到底聖者には見えない姿だった。

「お姉さんたちが聖者なの?」

「聖者?何のことです?」

問い返す尼僧に、孤児は聖者についての話をかいつまんで教えた。

「ジョンがもうじき本当の聖者さまが来るって言ったんだ。

 そしたらお姉さんたちが来たんだよ」

「そうだったのですか。

 悪魔の言うことですからどんなつもりかなんて分かりませんけれど、その聖者様には是非ご挨拶したいですわ。ねえ、マルクさん」

マルクと呼ばれた巡礼の男は頷く。

「お邪魔でなければ」

声を聞く限り、男はかなり若そうな気がした。

「今なら教会にいるよ。こっち、連れて行ってあげる」

孤児は先に立って歩き出した。

教会の場所ならよく知っている。

この小さな村に滞在している間、見る場所と言ったら教会と宿くらい、することと言ったらお祈りと散歩しか無かったのだから。


教会はすぐに見つけられた。

天辺に聖印を掲げた鐘突き堂は村で一番高い建物だし、聖堂の前には今なら村中の人間が集まっているからだ。

最初に三人に気付いた村人が寄って来た。

「これはこれは、巡回僧侶と巡礼の方ですか。聖者様の噂を聞いていらしたのですか?」

尼僧が答える。

「いいえ。こちらを訪れたのは偶然ですが、聖者様のお噂はこちらの坊やから聞きました。

 これは主のお導きだと思い、是非聖者様にご挨拶させて頂きたいと参りました」

村人は尼僧達を人垣の真ん中へ案内してくれた。

進み出た尼僧と巡礼者に、司祭と老僧は少し驚いたような顔を見せたが、すぐにそれを笑みに変えて親愛の握手を求めた。

「お目にかかれて光栄です、聖者様。わたくし、ホーリーナイト市の大教会に所属しております、ケイトと申します」

頭を垂れた尼僧に、司祭はにこやかに微笑んだ。

「今日ここにお会いできた巡り合わせに感謝します。

 私もかつてはホーリーナイトで学びました。神学院のニール先生をご存知ですか?」

「存じております。今も教鞭を手に学生を導いておいでですわ」

自分はそのニール氏に教わったのだと司祭は言った。

「きっとこの出会いもニール先生のお導きですわ」

と尼僧は喜んだ。

巡礼の男が歩み出て、老僧に右手を差し出す。

老僧は両手でその手を包み込み、穏やかな笑みで数度頷いた。

「そうだ、あんた方もウチに泊まるといい!」

唐突に、宿の主人の声が割り込んだ。

「聖者様も今夜お泊りになられるんだ。一緒にどうだね?

 何、宿代なんて取らんよ。その代わり、ありがたいお話を一つ聞かせちゃもらえないかね?」

尼僧と巡礼に、それがいいそれがいいと村人が口々に勧める。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますわ」

尼僧がぺこりと頭を下げる。それに習って、巡礼も小さく礼をした。

今日は旅の疲れもあるだろうからと、聖者の有り難いお説教は明日にお願いして、彼らは宿に引っ込んだ。

夕食の時間には、村人全員で歓待の食事会を開くからと、教会に集まるよう言付けられた。

一緒に泊まることになった尼僧を、今度は宿屋まで孤児が案内した。

そこでばったりと悪魔に出くわした。

悪魔は、一階の酒場で湯気を立てる珈琲を飲んでいるところだった。

「ジョン、こんなところにいたの?」

『お帰り坊や』

早かったなと言いかけて、その後ろに続いた二人に悪魔は目を丸くする。

『何でそいつらを連れて来たんだ!』

「案内してって頼まれたからだよ。お姉さんも今日はここに泊まるんだ」

それを聞いて、悪魔は憎々しげに舌打った。

本当は余所へ行けと言いたいところなのだが、この村に他の宿が無いことは悪魔も知っている。

『何てこった。こんなことなら坊やの我侭なんか聞かずに、さっさと出て行けば良かった』

本気で言っている。悪魔は、本当に尼僧のことが嫌いだ。

しかし孤児はそんなことにも一切お構いなしで、悪魔の座る隣の椅子に腰掛けながら、メニューを眺めてココアが飲みたいとねだる。

が、カウンターを見ても主人の姿がない。

そういえば、老僧と司祭に村を案内しているところだと思い至った。

戻って来るまではもう少し掛かるだろう。

「ジョン、その珈琲はどうしたの?」

『自分で淹れたのさ』

「まあ、勝手にですの?」

『金は払ったさ、文句あるまい!』

尼僧に非難されて、悪魔はきつく反論する。

その是非はともかく、呆れた尼僧はそれ以上追求することはなかった。

「仕方ありませんわ。ご主人がお戻りになられるまで、わたくし達もこちらで待たせていただきましょう」

主人がいなくては部屋を借りることもできない。

けれど、隣のテーブルにつこうとした尼僧と巡礼を、悪魔は慌てて追い払おうとする。

『おい、こっちへ来るな!酷い臭いがする!』

シッシッと手で追いやる仕草を見せる。

これには尼僧も怒った。

「まあ!いくら悪魔といえど失礼ですわ!」

確かに巡礼の姿は汚れて見えるが、決して不潔なわけではない。

毎日禊はしているし、服が襤褸に見えるのも長旅で草臥れているせいだ。

侮辱と捉えた尼僧は憤慨するが、しかし、孤児にはその理由が分かっていた。

「違うよお姉さん、ジョンが嫌がる臭いって決まってるんだ」

悪魔が嫌う臭いと言えば、孤児には一つ心当たりがあった。

「天使のにおい」

「天使、ですか?」

意味を量りかねる尼僧を尻目に、お喋りな坊やめ、と悪魔が悪態をつく。

『余計なことをぺらぺら喋るんじゃないよ』

「だってそうだろ?」

『そうだけど、さ』

匂いと言っても、鼻で感じるものではない。

悪魔にしか分からない、天使の気配のようなものだ。

だからつまり、悪魔が巡礼を嫌うと言うのなら、

「おじさんが聖者なんだね」

『その通りさ、小憎らしい坊や』

それ以外に理由はないのだ。

天の国に祝福され、天の国の気配を纏う者。

だから、悪魔は巡礼が嫌いだ。

尼僧は驚いて巡礼を眺める。

「聖者?マルクさんがですか?

 しかし、マルクさんはそんなこと一言も……」

「私はそんな人間ではありません」

ぽつりと、巡礼は答えた。

『おや、私の鼻を疑うのか?』

じろりと、悪魔が巡礼を睨む。

「私はただの修行者です」

『そうとも。だが、これから聖者になるのさ。

 偽者の聖者を退治して、な』

あっちのアレの都合なんて知らんが、多分そういうことだろう。と悪魔は言った。

「どういうことですの!」

尼僧が問う。

「偽の聖者ですって?先程の司祭様が偽者と言うつもり?」

悪魔は、尼僧を鼻で笑った。

『何だ、お前もあんな連中を信じたのか。よく出来たペテン師共だ』

「残念ながら嘘吐きなのでしょうな、彼らは」

巡礼がぼそりと零す。

「あの司祭殿が名を出したニール先生ですが、彼は氏に習っていないと思います」

氏は熱心で厳格な神学徒だが、教師として勤め始めたのはほんの十年前で、あの司祭が学校にいた頃はまだ講師ではなかった筈だと言う。

「先生はそれまで独自に聖典と聖地の研究を行い、一人の弟子も取ったことはありませんでした。

 それにあの高僧殿は、両手で私の手を握りました。本来は片手で、握らずに重ねるのが正しいのです。

 彼は正式な作法を知らない。恐らく僧侶でもないのでしょう」

それだけで断言する訳ではありませんが。と巡礼は付け加える。

『ふん、お前はそこそこ見る目があるようだな』

それはどうも、と巡礼は短く応じる。そして、

「あなたはどうして知ったのですか?」

件の老僧を偽者と判じた理由を悪魔に問うた。

『私が悪魔だからさ』

悪魔は簡潔に答えた。

「なるほど」

だから天の匂いとやらも分かるのですね、と巡礼は合点する。

『驚かないな』

「嘘でないのは分かりますから」

不思議なほど穏やかな面持ちで、巡礼は悪魔を見返した。

悪魔は奇妙なものを見るように、じろじろと巡礼を眺め回した。

「おじさんも不思議な目を持ってるの?」

孤児の問いかけに、いいえと巡礼は答える。

「私には、そのような試練は与えられませんでした。

 まだ私には越えられないと、主はお考えなのでしょう」

魔眼のことを試練と、巡礼は呼んだ。

それが地獄のものだと知っている孤児は、巡礼に何と言うべきか分からなくて口を噤んだ。

そして、そんな試練を背負っている当の尼僧はと言えば、

「許せませんわ!」

僧衣を握り締めて、怒りに身を震わせていた。

「何たる不敬!よりによって聖者を名乗るなど……!

 こんな偽りを許すわけにはいきません!」

今すぐに真実を明かし、彼らを糾弾すべきだと声を荒げる。

勿論それは正しいことだ。

「しかし、」

口を挟んだのは巡礼だった。

「それを証明するのは困難です。それに、皆彼らを信じてもいます」

聖者が偽者と知れたら、村人はがっかりするだろう。

騙されたことにショックを受け、嘆くだろう。

「だからと言って、捨て置くことはできません!

 騙されているならば、目を覚まさせてさしあげなくては」

それでも、と巡礼は言う。

「彼らを信じる心は本物なのです」

その無垢な信頼を壊してしまうことは正しいだろうか?と言外に尼僧へと問うている。

「信頼をと言うならば、裏切ったのは彼らですわ。わたくし達が正すのです」

「……そうですか」

言いかけた言葉を飲み込んだように、巡礼は頷いた。

尼僧がふと孤児を見る。

孤児も尼僧を見返した。

だけど、どう言っていいのか分からなかった。

だから、何も言わずに俯いた。


そのすぐ後に、宿の主人が戻ってきた。

待たせてすまなかったね、と言いながら尼僧と巡礼の泊まる部屋を仕度して、鍵を渡してくれた。

教会では既に食事会の準備が行われているらしい。

行ってみるといいというついでに、結局老僧と司祭は教会に泊まることになったと教えてくれた。

「ウチに泊まってもらえると思ったんだけどね」

そう話す主人は、とても残念そうだった。

尼僧と巡礼は食事会の手伝いに行くことにした。

孤児もそれについて行こうと思った。

悪魔は、一人で勝手にすると言った。

「何企んでるのさ、ジョン」

きっと悪巧みをしているに違いないと考えた孤児が、悪魔に尋ねる。

『別に、何も』

悪魔は素知らぬ顔でとぼけて見せた。

こういう素振りをする時の悪魔は信用ならないと、孤児は知っている。

大抵ろくでもないことを考えているのだ。

心配だったけれど、これ以上問い詰めても悪魔は答えないだろうことも分かっていた。

「坊や、行きますよ」

尼僧の呼ぶ声がする。

だから孤児は、仕方なく悪魔を置いて出かけてしまった。

教会の周りは賑やかだった。

聖堂では長椅子を並べ変えて、中央に大きなテーブルを置いている。

そこにはクロスがかけられて、いくつもの燭台が蝋燭を乗せられるのを待っていた。

パンの焼ける良い匂いがする。鍋では兎肉のシチューがぐつぐつと煮られ、竈ではローストチキンが焼かれていた。

竈の側に居たおじさんが孤児に言う。

「坊や、お手伝いかい?ここは火があって危ないから、聖堂に花を飾っておいで。

 後でマシュマロが貰えるよ」

「ほんと?じゃあ行ってくる!」

聖堂を覗けば、大きなテーブルに白いクロスが掛かって、既に食器が並べられていた。

村の子供達と一緒に、孤児もテーブルを飾る手伝いをした。

巡礼は燭台に明かりを灯して回るのに手を貸し、尼僧は料理を乗せた皿を運んだ。

その間、老僧と司祭は教会の奥まった一室に居た。

準備が終わるまで寛いでいて欲しいと神父に案内されたからだが、それは二人にとって都合が良かった。

夕暮れを映す窓を一瞥して、司祭がカーテンを閉める。

豪奢な僧衣を脱いだ老僧が、客用に用意されたベッドに腰掛けていた。

その向かいに置かれた椅子に、司祭が座る。

部屋の中は静かで、廊下にも人の気配は感じられなかった。

村人は皆歓迎会の準備で忙しいし、もし誰かがやって来ても古い板張りの廊下が軋みを上げて教えてくれる。

二人の会話を聞く者は互いのみであった。

「うまいこと入り込めたな、全く聖者様々だ」

ぽつりと司祭が囁いた。

田舎者は騙しやすくていい、と口の端を歪めて笑う。

「余計なことは喋るな」

と老僧が嗜めた。冷ややかで酷薄な声音だった。

「どこにどんな耳が生えてるとも限らん」

司祭は肩を竦めて、老僧に消極的な同意を示した。

どちらも、村人の前とは打って変わった粗暴な態度だった。

それこそが、彼らの本性を明らかにしていた。

彼らは盗賊だ。

立派な僧侶の身なりで村々に入り込み、数多くの家々から少なくない金品を盗み取る手口を繰り返していた。

高僧の演技を続ける限り、彼を疑う者はなかった。

これまで、彼らの仕事は常に成功だった。

当然、この村でも今まで通りそうするつもりだった。

「今晩やるのか?」

司祭の問いに、老僧は小さく頷く。

「値踏みに一日はかけたいところだったが、今回は早い方がいいだろう」

老僧の言葉に、司祭は訝しげに眉を寄せる。

「あの巡礼共か?本物の坊主が来た時は驚いたが、うまく誤魔化せたじゃないか」

「用心に越したことはない。何なら、連中に罪を押し着せるって逃げ道もある」

「成る程。流石、あくどいな」

『そううまくいくと思うかね?』

「誰だ!」

突如割り込んだ声に、司祭が振り返る。

扉の脇に、見知らぬ男が立っていた。

まだ若い。ひょろりと背が高く、波打った黒髪を後ろに撫で付けて、上等な服と靴で身を包んでいた。

『私は悪魔だよ』

男は答えた。

腕を組んで柱に凭れながら二人を見返し、泰然と佇んでいた。

二人はまじまじと男を眺めた。

「悪魔だと?」

間違いなく、一瞬前には誰もそこには居なかった。

ならば、ほんの瞬きの間に現れたこの男は、本当に悪魔なのかも知れないと思えた。

『そうさ。今日は邪悪なお前達にいいことを教えてやりに来た。

 あの尼僧は本物だぞ。天から目を賜った奇跡の娘だ。

 お前達の嘘なんてとっくに気付いているさ』

「何だと!」

司祭が驚く。

「馬鹿な!バレる筈がない!」

『だから奇跡なのさ。どうする?

 お前達が偽者だと言い触らされたらおしまいだぞ』

老僧は、疑り深く悪魔を睨み付けた。

「そんな話を信じろと言うのか?」

『信じるも信じないもお前達の自由さ。

 私は確かに教えたからな。あとは好きにしろ』

それだけ言うと、もう用は済んだとばかりに悪魔は姿を消した。

本当に、まるで幻だったかのように、二人の前から掻き消えてしまった。

驚いた二人が顔を見合わせた頃には、既に部屋のどこにも、悪魔がいたという痕跡は残っていなかった。

それからの二人の行動は早かった。

司祭は僧衣を脱ぎ捨て、身軽な服に着替えた。

老僧は司祭の僧衣を隠し、代わりに荷物から取り出した短剣を持たせた。

司祭は窓を開けると、外へと忍び出た。

教会の裏手から、建物の影に隠れて賑やかな表側を覗き見た。

村人の間でてきぱきと働く尼僧の姿が見えた。

チャンスを待たねばならないと思った。

だが、然程時間もない。

尼僧を黙らせ、村中の家から金品を盗み出す。それらを速やかにこなさなければならないのだ。

司祭は身を潜めて待った。

尼僧が、村人から離れて一人になる機会を待った。

やがて、尼僧が水瓶を抱えてこちらへとやって来た。

水を汲みに、井戸へ行くのだろう。

司祭は草叢に隠れた。

そして何も知らずに通り過ぎて行った尼僧の後を、そっと追いかけた。



歓迎会の準備もじきに完了しようという頃、悪魔がやって来た。

『坊や、お手伝いしてたのかい?良い子だね』

「ジョン、どうしたのさ?」

ひょっこり姿を現した悪魔に、孤児は驚いた。

てっきり教会には来ないのだろうと思っていたから。

『だって宴会があるんだろう?仲間はずれなんて退屈じゃないか』

「ズルいや、ジョンは手伝ってないんだからご馳走は抜きだよ」

『固いこと言うなよ。私だって手伝いはしたぜ?

 素晴らしいドラマを演出したんだ』

孤児は悪魔の言っていることが分からなかった。

けれど、悪魔がわざと遠回しな物言いをするのはよくあることなので、努めて気にしないことにした。

「ふーん、じゃあ、手伝ったんなら食べてもいいよ」

既にテーブルには、所狭しと湯気を立てる料理が並べられている。

こんがり焼かれたソーセージ、豆とベーコンのスープ、焼きたてのパン、鶫のパイ、ローストチキン、ジンジャーの香るプディング、山積みになった果物の籠。

赤々と灯る蝋燭に、芳しい香りを漂わせる花。

後は主賓を呼ぶだけ、といったところで、神父が困った様子で村長に耳打ちした。

「何だって?司祭様がいらっしゃらない?」

神父が祝宴の仕度が整ったことを伝えに老僧を訪ねたところ、司祭の姿が見えぬのでどうしたのかと問うたらしい。

老僧は弱った様子で答えたという。

「少し風に当たってくると出て行ったきりなのです。

 折角皆さんがご用意して下さったというのに、申し訳ありません」

項垂れた老僧の姿は、心苦しさに縮こまるように見えた。

それらの話は、すぐに村人の耳にも触れた。

「司祭様が散歩に出てまだ戻られてないそうだ」

「森の方へ行かれたようだ」

「まさか迷われたのでは?」

「それは心配だ」

すぐに司祭を探しに行こうという話が持ち上がった。

その時、孤児の側へ巡礼がやって来た。

「すみません、シスター・ケイトを見ませんでしたか?」

巡礼が孤児に尋ねた。

「お姉さん?見てないよ、どうしたの?」

「先程から姿が見えないのです。どうやら水を汲みに出かけて帰ってないようです」

閃くように、孤児には誰の仕業かが分かった。

司祭が居らず、尼僧が消え、そして悪魔がここに居るということが、孤児の中では一繋がりになって理解できた。

「ジョン!」

弾かれたように振り向き、悪魔の名を呼ぶ。

悪魔は、テーブルに運ばれる前の皿から、ローストビーフを摘み食いしているところだった。

『何だい坊や?』

ソースで汚れた指先をぺろりと舐めて、悪魔が言う。

『一切れくらいいいじゃないか、まだこんなに有る』

「そうじゃないよ!」

孤児がそんなことを問題にしているのではないことなど分かった上で、悪魔はとぼけて見せた。

「お姉さんをどこへやったの?ジョンが何かしたんでしょ!」

『心外だなあ、何で私があんな小娘と遊んでやらなきゃいけないんだ?』

「遊びじゃない!ジョンはお姉さんに意地悪したんだ!」

孤児は悪魔に向かって問い詰める。

「お姉さんのことが嫌いだから、いなくなれって思ったんでしょ!」

『濡れ衣だ坊や。確かにあいつのことは嫌いだが、私が直接意地悪なんてしない』

そう、悪魔は滅多なことで自分の手を汚したりしない。

だけど同時に、何もしなかったとも言っていない。

『私はただ本当のことを教えてやっただけさ、あいつらに。

 “あの小娘は本物の奇跡の目を持っていて、お前達の悪事には気付いてるぞ”ってな』

「あの二人にですね」

巡礼が問う。

悪魔は答えず、肩を竦めて見せた。それこそ肯定の証だった。

「シスター・ケイトを探して来ます」

巡礼がさっと身を翻して、聖堂を飛び出していく。

「僕も行く!」

孤児も、慌てて巡礼を追いかけた。

去り際に振り向く。悪魔を睨みつける。

「ジョンの馬鹿!!」

言い捨て、孤児は表へと走り出た。

『おい待て、オーウェン!お前が怪我でもしちゃ困るじゃないか!』

後ろから悪魔の制止が追いかけてきたが、従う訳も無かった。

巡礼は、すぐに教会の裏手から森へと入って行った。

孤児も後を追ったが、流石に大人の足には追いつけない。

幸い、森は思ったほど深くなかった。

木々の合間を夕日が真横から照らし、燃えたように赤く染め上げる。

木の幹から伸びる細長い影を飛び越え、二つの足音が草を踏んで駆けた。

途中、孤児が付いて来ていると知った巡礼は少し速度を落としてくれたが、それでも孤児には巡礼を見失わないでいるのが精一杯だった。

巡礼は迷わず目的地を目指しているように見えた。

まるで、尼僧が何処にいるのか最初から知っているかのようだ。

ふいに目の前が開けた。

草原になっていた。

井戸からはかなり離れている。

こんなところへ、尼僧がやって来る理由は無いはずだ。

しかし、そこには二つの人影があった。

「シスター・ケイト!」

巡礼が呼んだ。

「マルクさん!」

一方が答えた。間違いなく尼僧だった。

その手を捕らえたもう一方は、僧衣姿ではなく、代わりに短剣を握った司祭だった。

「近付くな!」

巡礼の姿を捉えて、司祭が叫んだ。

「近付けばこの女を殺すぞ」

「きゃっ!」

尼僧の首筋に、切っ先が突きつけられる。

「シスター・ケイトを放してください」

巡礼は、ゆっくりと二人へ向かった。

一歩ずつ、踏みしめるように歩み寄る。

「来るなと言ってるだろう!」

司祭が怒鳴った。

「ケイトお姉さん!」

孤児が声を上げる。

「坊や、来てはいけません!お戻りなさい!」

尼僧は、我が身よりも先に孤児を心配した。

暴れるな!と司祭に腕を捻られ、痛みに眉を顰める。

『やれやれ、とんだ茶番劇になっているな』

悪魔が言った。

いつ追いかけて来たものか、悪魔が孤児の後ろに立っていた。

「ジョンのせいだよ!」

孤児が食ってかかる。

『おいおい坊や、私は演出をしただけだって言ったろう?』

悪魔は涼しい顔で答える。

『ほら、盛り上がってきたじゃないか』

気付けば、空には暗雲が満ちていた。

こうごうと渦を巻いて、今にも嵐がやって来そうな空模様だ。

いつの間にこんな天気になっていたのか、孤児はちっとも気付いていなかった。

「ジョン……?」

『私じゃないって言ってるだろ。これは、そういうことなんだよ』

どういうことだか、孤児には分からない。

だが、そうしている間にも巡礼は少しずつ司祭らに近寄っていた。

尼僧を抱えたまま、司祭はじりじりと後ずさるが、両者の距離は徐々に詰まってゆく。

「彼女を放してください。あなたに害するつもりがないことは分かっています」

「何だと?」

「本当にその気があったなら、とっくにそうしている筈だからです」

殺してしまうつもりだったなら、きっと既に済ませて森の中にでも捨てている。

彼らは確かに悪人だが、詐欺師や泥棒なのであって、人殺しではなかった。

司祭は言葉に詰まる。

巡礼はそれ以上問い正さない。懇願する訳でもない。

穏やかな、だけど有無を言わさぬ口調の説得に挑んでいた。

ごろごろと遠くから音が聞こえた。本当に嵐が来るようだ。

ちかっと空が光る。雲の中で青白い光が閃く。雷だ。

孤児は思わず悪魔のズボンにしがみ付いていた。

『何だ坊や、怖がりだな。お前には落ちて来やしないよ』

じゃあ一体誰に落ちるのかとは、聞きたかったけれど怖くて聞けなかった。

きっと悪魔の返答は、極めて無慈悲なものだろうと思えたから。

最早、司祭と巡礼の間に会話は無かった。

数歩ずつ後退する司祭を、ゆっくりと追う巡礼。

急いでも、慌ててもいない。

まるで逃げられない獲物を追い詰めるような。

急に尼僧は寒気を感じた。

冷たい風のせいだと思おうとした。

  ピカッ! ドォン!ゴロゴロゴロ!

光が瞬く。寸の間も置かず、雷鳴が轟く。近い。

森の端の木が、白い煙を上げていた。そこへ落ちたのだ。

「危ないですよ」

巡礼が言った。

「何?」

「雷は金属のものに落ちやすいんです」

はた、と司祭は自分の握る短剣を見た。

「うわ!」

慌てて放り出す。その途端、もう一度ゴロゴロと空が鳴る。

  ドドォォン!!!

もの凄い音が、光と一緒に降って来た。

目の前が全部真っ白になる。

地面が揺れて、孤児は突き飛ばされたように転んだ。

耳がキーンと鳴って、音が聞こえなくなった。

尼僧は、司祭の腕を振り払った。とっさに巡礼の方へと駆け出した。

目を焼いた光が去った後で、司祭は腰を抜かしていた。

孤児と尼僧は、抱き合って蹲っていた。

巡礼と悪魔だけが、平然と立っていた。

雷だった。雷が目の前に落ちたのだと分かった時。

バタバタバタ!と叩きつけるような雨が降り出した。

バケツを引っくり返したような、重くて大粒の雨だ。

あっという間にびしょ濡れになる。

孤児は尼僧の袖に庇われたが、それでも凍えるような水滴から逃れるには足りなかった。

尼僧が悪魔を振り仰ぐ。

「お前の仕業ですか、悪魔」

『言いがかりはよせ。それより坊やを返して貰おう。

 そのままじゃ風邪をひいちまうだろ』

尼僧は、孤児をぎゅっと抱きしめた。

雨は冷たかったが、尼僧の腕は温かかった。

『おい、私は坊やを返せと言ったんだぞ』

「お断りします」

『何だと?』

涼しい顔で尼僧は言う。

「凄んでも無駄です。哀れな悪魔。

 そんなに飾り立てても、浅ましい本性は隠せないというのに」

『何を言ってる?』

悪魔が眉根を寄せる。

『何が見えている“つもり”なんだお前?』

「私には見えないと思っているのですか?

 お前が言ったのではないですか、この目は“奇跡”だと」

それは、尼僧が知っている筈もない悪魔の言葉だった。

じゅう。と悪魔の足元から音がして、細く湯気がたなびいた。

悪魔の髪や爪先から、雨が蒸発している。

むっと熱気が漂ってきて、つんと硫黄の臭いがした。

悪魔が怒っている。

孤児は、寒さではないものに身を震わせて、尼僧に抱きついた。

そうすれば、悪魔は尼僧に恐ろしいことができないと考えたからだ。

孤児と悪魔のゲームにおいて、孤児の死は悪魔の敗北だ。

だから、孤児が尼僧の側にいる限り、悪魔は尼僧に危害を加えることができないだろうと。

尼僧の鼻先に鋭く尖った爪を突きつけ、悪魔は噛みつかんばかりの形相で怒鳴りつけた。

『調子に乗るなよこの牝犬!貴様如き、頭から齧ってやったっていいんだぞ!

 あんまりにも不味そうだから捨て置いてやっているだけだ!』

「哀れだこと」

尼僧は、振りそぼる雨よりも冷たい視線で一言、言い返した。

「怒鳴ったり馬鹿にしたり、まるで虚勢を張る子供のよう」

『黙れ!さもないとその口縫い付けるぞ!

 それともその目を潰して欲しいのか!』

尼僧は、キッと悪魔を睨み上げた。

「お前ならばこの目を奪えるというのですか、悪魔?ならばやってみなさい!

 これはわたくしに課せられた試練。如何なる手段でも、逃れることは叶わない」

悪魔が、驚いた顔を見せた。

言い返されたからではない。そんなことでは驚いたりしない。

悪魔の真っ赤な目が真ん丸く見開かれ、まるで予想もしていなかったものを見つけてしまったように尼僧を見下ろす。

いつもの芝居がかった表情ではない、まさしく本当の驚愕だった。

『お前、もう潰していたのか、自らの手で』

その呟きが含んだ真実を、孤児は理解し切れなかった。

尼僧は、とても苦い表情と無言の肯定でもって答えた。

「定めからは逃れられないのですわ。私がそうであるように」

『馬鹿め。この私があのクソジジイ共にどうこうされるものか』

悪魔は尼僧を嘲ったが、もう先程までの怒りは嘘のように消えていた。

逆立った髪も、耳まで裂けた口も、鋭い牙と焦げ臭い風に混ざった火の粉も、全部無くなって元通りの優男に戻ったように見えた。

それを、司祭は呆然と眺めていた。

巡礼は、司祭から視線を逸らさなかった。

「悪魔だ」

「そのようですね」

意に介さぬ巡礼の態度に、司祭は冗談と受け取られたと思った。

「違う!本当に悪魔なんだ!あいつだ!

 あいつが俺達の前に現れて言ったんだ!あのシスターは、俺達の正体に勘付いてるって!」

「そうですか」

「本当だ!」

「ええ、信じます」

司祭にも分かった。巡礼は嘘や冗句の類だとは思っていない。

悪魔を悪魔と認めて尚、平静なままでいるのだ。

「あいつが、もうバレてるって言うから……だから、どうにか黙らせようと思って……」

「そうでしたか」

司祭はもう茫然自失としているようだった。

これ以上、尼僧に危害を加えるつもりは無いだろうし、そんな気力も無さそうだった。

巡礼は、司祭の手を引いて助け起こした。

「行って下さい。ご友人を連れて。そして二度と戻らないように」

「え?」

「行くのです。私は追いません」

司祭は巡礼の手を払い、そろりと後ずさった。

そのまま、踵を返して駆け出す。雨の中を、転がるように走って行って、あっという間に見えなくなった。

「あ、お待ちなさい!」

尼僧が咎める。しかし、巡礼がそれを遮った。

「放っておきましょう。もう詐欺は働けないでしょう」

「しかし……」

「赦しましょう。彼は悔いた筈です」

不服げな尼僧を、巡礼が重ねて諭した。

それを見て、悪魔がくつくつと笑う。

『お前達神の下僕とやらに弓引いた者を、お前達は許さないんじゃなかったのか?』

「そうでしたか?覚えていません」

『聖典に背くのか、子羊よ?お前達が天の意思と呼んでいるものに?』

「私は神を信じていません」

静かに、しかしはっきりと、巡礼は言った。

「私は神を信じていません。

 ですが、神はいつも私に彼の在と不在を問いかけます」

例えば今も、と巡礼は悪魔に語る。

「主はあの盗人に雷を降らさなかった。しかし、それは主の存在の証にも不在の証にもならない。

 主は居ないのかもしれない、或いはその名を汚す不届き者すら赦しているのかも知れない。

 そのどちらとも、私には分からない」

『だから信じないと?』

「そうです。主が天におわすという確固たる証を見つけるまでは」

マルクさん、と尼僧が呟く。

彼は少し悲しげな顔をした。

「主を信じぬ私には、これ以上あなたと歩むことはできそうにないですね」

ここで別れるという意味だった。

「失礼ですが、先に行かせていただきます。

 シスター・ケイトと坊ちゃんは、風邪をひかぬように、熱い湯を浴びてゆっくり休んでから発つのがいいでしょう」

ぺこりと頭を下げて、巡礼は踵を返した。

ふと悪魔に目を止めて、問う。

「まだ匂いますか?」

『何がだ?』

「天使の」

『ああ、胸糞悪くなる臭いだ』

それを聞いて巡礼は笑んだ。

初めて見る、彼の微笑みだった。

「主は大層お心が広い」

その存在を疑う者にさえ、まだ神は祝福を与えてくれる。

と巡礼は言った。

「あなたにもいつか分かる日が来ます」

分かりたくない、とばかりに、悪魔はぺっと唾を吐き捨てた。

彼は、死して神の国に迎え入れられることが約束されている者。

聖者などいない。けれど、天の国から祝福された人間はいる。

それを聖者と言うのなら、彼は確かにそうであるのだろう。

弱まり始めた雨足の中で、小さな声で聖者が詠う。


――幸いなるかな清らかならざる者は

  泥を纏いし身は真に清らかなるものを知ることができよう

  幸いなるかな清らかなる者は

  天の国の門は既に汝が前に開かれている

  幸いなるかな信じる者は

  主と御使いの福音は汝が為に奏でられて在り

  幸いなるかな疑う者は

  主とこの世の真実は汝のみに解き明かすこと叶う


巡礼は去って行った。

草原を真っ直ぐ歩いて行った。

道など無い草の真ん中を、まるで最初から知っているような足取りで進んで行った。

その背中を、孤児と尼僧は見送った。

悪魔は、訳が分からないといった口調で呟く。

『何故だ?ペテンを暴いて聖者になるんじゃないのか?』

尼僧が、重い声で口を開く。

「分からないのはあなたが未熟だからですわ、悪魔」

『何だと!』

すぐさま悪魔が食って掛かる。

しかし尼僧は、それよりも更に重苦しい声音で、静かにこう続けた。

「そして私もまた未熟なのです」

悪魔は黙った。

尼僧も黙った。

孤児には、口を挟めよう筈も無かった。

孤児が見上げた尼僧の横顔は、寂しそうにも悲しそうにも、少し羨ましそうにも見えた。





十四、   幕  ――




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