十三、 賭博の町ジャック
驚くほど賑やかな町だった。
真夜中だというのに、通りには赤ら顔の酔っ払いや着飾った紳士淑女が行き交い、眩い看板を掲げた建物に出入りしている。
眠い目を擦りつつ馬車を降りた孤児は、その騒々しさに目を丸くした。
『どうだい坊や、楽しそうな町だろう』
すぐ後ろから降りてきた悪魔が孤児の肩を叩く。
人込みにはぐれないよう悪魔の手に掴まって、孤児はきょろきょろと辺りを見回した。
『ここは眠らない町と言われてるんだ。夜通しお祭り騒ぎをする町さ』
派手なネオンに彩られ、どれが何の店なのか区別がつかない。
辛うじて宿屋だけは、見慣れた木彫りの看板も掛かっていたので分かった。
案内されたのは二階の角部屋。窓から表の通りが見えた。
向かいの店は酒場のようだ。ぴかぴかと青いグラスの形をしたネオンが光っている。隣の店にはビール瓶を抱えた王様、逆隣には3つの大きなハートマーク。
「すごいねジョン、本当にお祭りみたいだ!でも一体どうしてなの?」
『遊ぶところだよ。特に大人がね』
振り返ると、もうベッドに寝そべって寛いでいた悪魔が答えた。
「これ全部?!すごい!遊園地みたい!」
馬車の中で欠伸ばかりしていた孤児は、もうすっかり目が冴えていた。
夜の中で色とりどり煌く町並みは、孤児の興味をかき立ててやまない。
「ジョン、遊びに行こうよ!」
悪魔は億劫そうに孤児を見返した。
『夜更かしかい?いけない坊やだ。明日にしろよ。
どうせすぐ眠くなって帰りたいって言い出すんだろう?』
「そんなことないよ。ちょっとだけ見に行こうよ、ちょっとだけだから!」
袖を引っ張る孤児に、悪魔はやれやれといった様子で重い腰を上げる。
『じゃあちょっとだけだぞ。本当なら子供は行っちゃいけないんだから』
夜遅いからだと孤児は思ったけれど、本当の理由は違っていた。
孤児は悪魔に連れられて、勇んで夜の街に出かけた。
賑やかな光が通りを照らしている。雑多な音楽と雑踏の囁きが通りを満たしている。
善良なご婦人も紳士も酒瓶に添い寝する酔漢も、皆溺れるような喧騒の中で思い思いの夢を見ている。
悪魔は広場の側にある小さなカジノに入った。そこは町の人が娯楽でやって来るような、敷居の低い店の一つだった。
孤児は賭場を見るのは初めてだった。通りに流れていた音楽は、そこかしこの店から漏れ出た音だと分かった。
ルーレットが回る音、スロットの回転音、ステージから聞こえるジャズ、睨み合う博徒の軽口。
孤児は呆然と見回した。鮮やかな夜の世界がそこにあった。
『おいで坊や。はぐれるぞ』
孤児は慌てて悪魔の上着の裾を掴んだ。
悪魔は一掴みの赤いコインを持っていた。
「それは何?」
『チップだよ。お金の代わりだけどお金と同じだ。負けたら払う、勝ったら貰う』
つまりゲームだと理解した。孤児と悪魔のゲームと同じ。勝てば得るし、負ければ失う。
ただ、二人のゲームは一勝負が長く、賭けているものも重い。
ここで失うのは金だけだ。悪魔との勝負は、時に命も無くす。
しかし、金も時には命で購われることを知らないのは孤児の幼さだった。
悪魔はルーレット台に向かった。
くるくる回転する仕切りのついた盤の上を白い玉が走る。玉がどこかの隙間に落ちると、台の周りに集まった紳士淑女が歓声を上げた。
悪魔は赤い四角の中にチップを置いた。四角には“×2”と書かれている。
白い玉が赤いポケットに落ちたら、チップが二倍になって返ってくるのだと、悪魔が孤児に教えてくれた。
「落ちなかったら?」
『取り上げられておしまいさ』
玉が投げ入れられた。やがて勢いを失った玉はしきりの上に落ちる。こつんこつんと数度跳ね、黒い“10”に収まる。
溜息と嬌声が同時に上がった。配当が配られ、チップが回収される。悪魔のも持っていかれた
『坊やもやってみるかい?』
孤児は一枚チップを貰った。小さな丸い赤い板で、銀貨よりずっと軽かった。
孤児は背伸びしてテーブルを覗いた。一つの数字にだけ賭ける人がいる。二つや三つ並べて賭ける人もいる。
「あそこは何?」
孤児は“1-12 ×3”と書かれた四角を指差した。
『一から十二の数字が出れば当たりだよ。返ってくるチップは三倍だ』
「じゃあ向こうは二十五から三十六?」
『そうだよ』
あそこにする、と孤児は“25-36”のエリアにチップを置いた。
と同時にディーラーが玉を投げ入れた。回転するホイールを何十もの視線が見守る。
玉が落ちたのは、赤い“32”。
孤児の手に、三枚の赤いチップが渡された。
『やるじゃないか坊や。じゃあ他のゲームもやってみるか?』
増えたチップを眺めていた孤児は、悪魔に連れられて別のテーブルに向かった。
今度はカードだ。トランプが箱に入れられて、一枚ずつ配られている。
その隅に、孤児と悪魔は腰掛けた。
ゲームの名前は“ブラックジャック”というらしい。悪魔がルールを教えてくれた。
『カードの数字を足して“21”になればいい。より“21”に近い方の勝ちだ。でも“21”を越えたら負けだ』
2~10のカードは数字通り、絵札は10。Aは11だけど、1としても数えられる。
ディーラーがカードを二枚ずつ配った。ディーラーの手札の片方が表にされる。スペードのQだ。もう一枚は裏のまま。
孤児と悪魔は自分のカードを見る。ディーラーの手札が親、プレイヤーの手札が子だ。
この時、子が21なら“ナチュラルブラックジャック”、子の勝ちだ。親が21なら子の負け。親も子も21なら引き分け。
孤児も悪魔も、21ではなかった。
次にカードを引くか勝負するかを選ぶ。
悪魔の手は、クラブのAとハートの8。孤児の手は、スペードの6とダイヤの4。
21を超えてはいけないのだから、悪魔はこの手で勝負すると宣言した。
孤児はカードを貰った。クラブの3。もう一枚。ダイヤの5。これで勝負する。
全員が勝負に挑めば、ディーラーは伏せてあったカードを開く。ディーラーは数値が17以上の時カードを引けない。
ハートの7。18以上のプレイヤーは勝ちだ。
孤児と悪魔は配当を得た。
ゲームを繰り返して、孤児は何度か負けて何度か勝った。孤児のチップは全部で十二枚になっていた。
悪魔は勝ち続けた。悪魔のチップはまるで小山のように積みあがっていた。
いつの間にか周りには観客が出来ている。テーブルの客も手を止めて、悪魔の勝負を見物していた。
渋い顔をしたディーラーが少し年上の男と交代する。彼の方が腕がいいのだろう。
悪魔は手元に十枚だけチップを残して、全部賭けた。
カードが配られる。勝負する。悪魔は17。ディーラーは23。
どよめきが上がった。観客の歓声に交じって、刺すようなディーラーの視線が悪魔に注がれる。
いつの間にかやって来た二人組の黒服が、悪魔の両脇に立つ。カジノの用心棒だ。
悪魔のチップが、既に平凡な大人の生涯で稼ぐ額を超えていることなど孤児は知らなかった。それが、小さなカジノにとっては大きな問題であることも。
悪魔はまた十枚残して賭けた。
配られたカードは、悪魔が19。ディーラーが21。
観客から落胆の声が上がった。同時にディーラーは明らかに安堵した。
悪魔が卓から離れるのと同時に、小山のようなチップも黒服の男が持って行った。
散っていく観客に交じって、悪魔と孤児も隅のテーブル席に引っ込んで一息ついた。
「おしかったね。勝ってたのに」
孤児の無邪気な言葉に、悪魔は薄ら笑いで答える。
『あんなに勝ったら酷い目に会わされちまうよ。見たろう?怖いお兄さんが見張ってたのを』
やはり黒服は見張りだったようだ。
「だったら途中でやめればよかったのに」
『だって面白いじゃないか。皆私が勝てばいいのにって思ってたぞ。きっと拍手してくれたに違いない。
あれ以上勝ったら連れて行かれそうだったから止したけど』
わざと負けたんだと言っているように聞こえたが、その実わざと負けたんだと言っている。
『あそこで負けるのは分かってたからな』
「カードが見えるの?」
悪魔は頷かなかった。けれど否定もしなかった。いつものにやにや笑いのままだった。
悪魔は孤児の前にじゃらりと残ったチップを置いた。赤と白の縞柄が十枚。王冠のマークが入っている。
『坊やにあげるよ、遊んでおいで。ルーレットとさっきのカードなら分かるだろう?』
孤児は悪魔のチップの上に、自分が稼いだチップを全部乗せた。こちらは赤一色の中に黒い王冠マーク。十二枚ある。
「いらない。だってジョンのだもの。返す」
悪魔は孤児の手に赤いのを六枚握らせた。
『じゃあ山分けだ。あそこに行くとこれでチョコレートやケーキを売ってくれるぞ』
「ほんと?行ってくる!」
カウンターを指差してみせると、孤児は目を輝かせて駆けて行った。
それを見送る悪魔の対面に、人影が立つ。上等そうなスーツに派手な柄のシャツ、手には金の指輪をいくつもつけた若い男だった。
「よう、残念だったな」
馴れ馴れしく話しかける男を、悪魔は上から下までじろりと眺めた。
上等そうな靴はぴかぴか、シャツの袖で宝石のカフスボタンがきらりと輝いている。美男子だが、流行の服を酔い街風に着崩した感じが悪党役の役者のように見えた。
男は勝手に椅子を引いて座った。
『申し訳ないが、どちら様かな?初対面だと思うんだが』
男は気にせず、カウンターに向かって麦酒を注文する。
「どうだい、あんたも一杯?」
『いいや、結構』
ボーイがやって来て麦酒を置いて行った後、男は声をひそめてこう言った。
「あんた悪魔だろ?」
悪魔が驚いたかどうかは分からない。ただ、ふむと一息ついてじっと見返した。
『どうして分かった?』
「分かるさ。俺は悪魔に会ったことがあるんだ。たった一回だけな」
へぇ、とこれには悪魔も驚いた。
『どこのどいつだい?知ってる奴かな』
「名前は聞かなかった。向こうも名乗らなかったし」
男は残念そうに呟いた。
「その頃俺は頭の足りないガキだった。酒屋で丁稚をして小遣いを稼ぐやり方しか知らなかった。
日曜に教会に行く程真っ当だったから、泣いて拝んで逃げ出した。みすみすチャンスを捨てちまったって訳だ」
悪魔は男の用件を大体察した。
『今は違うと?』
「そうさ、もう逃がさない。一生で二度も悪魔にお目にかかる幸運に恵まれたんだ」
男はグラスを取り、一息に麦酒をあおった。
「悪魔よ、取引をしよう。契約次第でどんな望みだって叶えてくれるんだろう?」
私の権限の内ならね、と悪魔は答えた。
「断らなかったな。契約をする気はあるんだな?」
『悪魔だからね。そっちから契約したいというなら、話は聞くさ』
よし、なら言う。と男はぐっと身を乗り出した。
「最強の運をくれ。誰にも負けない、無敵の強運だ」
悪魔は考える素振りを見せた。
『運か。難しい話じゃないが……』
言葉を濁す。
『お前の残りの一生ずっとという訳にはいかないな。対価による。
何を払う気がある?』
男は鼻で笑った。
「何でも持って行け。支払は契約が終わった後のことだろう?」
『そいつは前の悪魔に聞いたのかい?』
そうだと男は頷いた。
『それじゃあ私が欲しいものも知っているな?』
男は少し渋い顔をして、もう一度肯定した。
『いいだろう、契約しよう』
悪魔が懐から紙と羽ペンを取り出す。
さらさらと書き上げた契約書は以下のとおりだ。
【私は悪魔オールド・ジョンから、三ヶ月分の強運を買います。
契約が果たされた暁には、対価として魂を支払います。
この契約の効力は署名と同時に発生し、以後は破棄出来ません。
署名: 】
「たった三ヶ月なのか?」
男が不満げに口を挟んだ。
『ここがどこだと思ってるんだ?三ヶ月もあればお前は世界で一番の大金持ちになって、国を買って王様になることだって朝飯前なんだぞ?』
それほどの強運なのか、と逆に男が驚いた。
『自分が言ったことも忘れたか?無敵の強運が欲しいと言ったじゃないか』
男はじっくり契約書を眺めて、ついにサインした。
そこへ孤児が戻ってくる。
悪魔は孤児に見られるより先に、さっとペンと契約書を丸めてしまいこんだ。
「ただいまジョン、その人は誰?」
『さぁ?誰だったかな?』
「ジャック・ブラックだ」
と男は答えた。
あからさまに偽名だと思った。孤児ですら不思議そうな顔をした。
それを察したわけではないだろうが、ジャックはそそくさと立ち上がって席を離れた。
「じゃあな。邪魔したね、幸運を(グッドラック)」
署名を済ませたその瞬間から、彼には契約による幸運が約束されている。
強運を求める目的を悪魔は聞かなかったが、ジャックはたった三ヶ月という短い時間を一秒たりとも無駄にする気はないようだ。
早速スロットの一角に向けて歩き去っていった。
その後に孤児が腰掛ける。たっぷりメープルが掛かったパンケーキを早速頬張り始める。
「ジョンの友達だったの?」
『いいや、知らない奴さ』
ボーイがやって来て、オレンジジュースのグラスと泡だった飲み物の瓶を置いて行った。
「ジョンの分も頼んでおいたよ」
『気が利くじゃないか』
差し出された黒っぽい瓶を傾けて、何の疑いもなく口に含む。途端に眉を顰めた。
『何だこれ、コーラじゃないか!何て酷いものを飲ませるんだ!』
「そう?おいしいのに」
信じられない、お前の舌は馬鹿だ!と不機嫌に瓶を押しやりつつ悪魔は罵った。
孤児は気にせず、パンケーキとジュースを味わっている。
悪魔はぶつくさ言いながら孤児に告げる。
『それを食ったらもう帰るぞ』
時計の針が真上に近付いて、もうじき日付が変わる頃だった。
この街で少し滞在することになったと悪魔は言った。孤児は特に気にしなかった。
数日留まっている間に、“ジャック・ブラック”という男があちこちの賭場を荒らしているという噂が聞こえ始めた。
見境なくどのカジノにも出かけては、大勝ちしているようだ。
イカサマをしているという話が流れた。けれど誰も尻尾を掴めなかった。
店に雇われてサクラをやっているという話が流れた。けれどどの店も大損している。
悪魔と契約したという話も流れた。誰もそんなことは信じなかった。
悪魔の手元には契約書がある。魂と引き換えに幸運を与えるという約束の証。
署名の欄には、“ジャック・ブラック”。
『フン、用心深いじゃないか』
悪魔は、本名を知らない相手には悪戯できない。きっとあの男はそれを知っていたのだろう。
だが、悪魔の契約からは決して逃れられない。署名したのが彼である限り、魂を払うのも彼である。
そう悪魔は思っていた。
一通の手紙が届いた。
真っ白い封筒には宛名も差出人の名もない。
宿の主人のところに直接持ってきて、「オールド・ジョン」宛に置いて行ったそうだ。
無地の白い便箋には、黒いインクの大きな文字でこう書かれていた。
――勝負を申し込む。
今晩、俺達が会った場所で待つ。
ジャック・ブラック
悪魔は首を傾げた。
『なるほど、そういう魂胆か』
手紙の意図を察した時、悪魔はとても楽しそうに呟いた。
夕方、散歩から帰ってきた孤児は手紙を見つけた。
「これ何?」
『果たし状だよ。私と勝負がしたいらしい』
悪魔は背広を着て、タイを締め、カフスボタンをとめて胸ポケットにチーフを差した。とびきり澄ました格好だ。
「ジャックってこの前の人?友達になったの?」
『いいや。けれど勝負を挑まれたからには紳士としてお受けしないとな。
さぁ、お前も来るんだ。早く着替えろ』
孤児のベッドの上には、いつだったか悪魔に着させられた上等な灰色の背広やシャツやネクタイが置かれていた。
「どうして僕が?」
『お前にも役割があるからだよ』
妙な予感を感じながらも、孤児は渋々と衣装を取り替えた。
二人の紳士が店に着いた時、入り口の脇にいたボーイがさっと案内に立った。
「こちらです」
連れて行かれたのは、フロアの奥にある大きなテーブル席だ。
そこでジャックが待っていた。
「よう、来たなブラザー」
親しげに話しかけるジャックの向かいに、悪魔は腰掛ける。その隣に孤児も。
『やぁ、凄いツキだそうじゃないか』
「まぁね。ジャック・ポット(大当たり)に改名しようかと思ってるくらいさ」
うそぶく。
その通りに、ジャックは随分と贅沢な身なりをしていた。そこら中の店から大金を巻き上げているのは本当だろう。
『で、勝負って一体何の勝負だい?』
柔らかな椅子に深く凭れつつ、悪魔が問うた。
悠然と構えつつ、ジャックは答えた。
「俺の魂を返してもらう」
ほぅ、と悪魔は相槌を打った。
孤児が横から悪魔の小脇を突っつく。
「ジョン、契約してたの!いつの間に?」
『勘違いするなよ、持ちかけて来たのは向こうだぜ』
孤児はジャックの方を見た。ジャックはおどけて肩を竦めて見せた。
再び悪魔を見やる孤児に、悪魔は告げる。
『私は優しいだろう坊や?あいつは契約を反故にしろと言ったのに、私はあいつを食べてしまわないで一緒に遊んでやるんだぜ?』
「ジョンがゲームをしたいからでしょ。遊びたいだけじゃないか」
『そうさ。私は私の好きなことをしてくれる子には優しくなれるのさ』
悪魔は懐から契約書を取り出し、テーブルの上に置いた。
『いいだろう、お前が勝ったら魂を返してやる。で、私が勝ったらお前は何をくれるんだい?』
その要求は当然だ。互いに賭け合わないと、勝負にならない。
ジャックは自信満々にこう言った。
「何でも好きなものを持って行け。あんたが欲しがるようなものが俺にあるんならな」
悪魔はにやりと笑った。
『よし乗った。その条件で勝負成立だ』
どうやらジャックは店と話をつけていたらしい。
二人の勝負の為だけに、テーブルが用意されていた。ディーラーがついていて、カードシューターと二人分のチップもある。
『何で勝負するんだ?』
「そうだな、ブラックジャックなんかどうだ?相応しいだろ」
二人が席につくと同時に、がやがやと野次馬が集まってきた。最早この街でジャックを知らない者はいないようだ。
ジャックが野次馬に向かって、一言宣言する。
「これは俺とこいつの一騎打ちだ。
俺はこいつに命を握られている。勝てばそれを取り戻せる。負ければ、本当に全てを失うだろう。
死ぬか生きるか、全てか無かだ!野次馬共、よーく見てろ!」
観客達がどよめいて沸き立った。まるで何かのイベントのような扱いだ。
年嵩のディーラーがテーブルについて、二人を見比べる。カードが配られた。
このゲームに親はいない。子同士の勝負だ。
自分のカードを手元に捲りながら、悪魔が尋ねる。
『そういえば聞いてなかったな。お前、何故運が欲しかったんだい?』
自分のカードを手元に捲りながら、ジャックは答える。
「さぁてね。勝ったら教えてやるよ」
『そいつは勝負の報酬とは別だぜ?』
「オーライ。勝てたら、な」
ジャックがカードを表にする。“ナチュラルブラックジャック”だ。
悪魔からジャックにチップが移動する。
次も、次も、その次も、ジャックのカードは21だった。段々チップの差が開いていく。
観客達は、ジャックがイカサマをしているのか、それとも天性のツキなのかについて囁き合う。
悪魔のチップが半分になった頃、それまで苦い顔をしていた悪魔が、溜息をついた。
『やっぱり簡単にはいかないか』
次から、悪魔の反撃が始まった。
ジャックのカード目が少し悪くなった。悪魔が二勝、ジャックが一勝のペースで少しずつ差が詰まっていく。
思い通りにカードが来なくなったジャックに狼狽が見えた。
しかし、最初のチップ数に戻ってからはお互いに勝ったり負けたりの繰り返しで、どちらも一向にチップが増えない。
段々二人の顔が険しくなってきた。
孤児は不思議に思った。どうして悪魔が勝てないのだろう。二人は何を契約したのだろう。
テーブルの上に置きっ放しの書面をそっと手に取り開く。読んだ。
孤児は理解した。ジャックが悪魔から幸運を買ったこと、そのおかげで賭け事にとても強くなったこと、そして悪魔が苦戦していること。
もう何十回もカードをやりとりしているのに、両者のチップには殆ど差が無い。少しだけジャックが勝っている。
もしかして負けるんだろうか、と思った。悪魔が策謀で負けるかも知れない。有り得ないことではない。
孤児は身動ぎもせずに勝負を見守った。
『タイム!』
突然悪魔が言った。
『このままじゃ埒が明かない。どうだ、一発勝負で決めようじゃないか』
ジャックは僅かの間に考えた。
何か企んでいるのかも知れない。何か仕掛けてくるのかも知れない。
けれど、ここが勝負所だとジャックにも分かっていた。
「いいだろう、これが最後だ。これで勝った方の勝ちだ」
悪魔は頷いた。それから孤児を手招いた。
『じゃあついでに選手交代だ。こっちはこの坊やがやる』
孤児は驚いた。慌てて嫌だと断る。
『何でだ?ルールは知ってるだろ?』
「嫌だよ、何でなのさ、僕に勝負させるなんておかしいじゃないか!」
悪魔は苦笑する。
『オーウェン、お前に役割があるって言ったろう?それがこれだ。
お前に不都合はありやしないよ、約束する。ただ一勝負すればいいだけさ』
悪魔は“約束”を破らない。けれど、今回は孤児も警戒している。
「やっぱり嫌だよ。僕にお願いするなら対価を払って。ジョンはいつもそう言ってるだろう?」
お前もなかなか取引が上手くなったな、と悪魔は呟いた。
『いいだろう、お前がそうして欲しい時に一つ我侭を聞いてやろう。ゲームや契約に関わらないことならな。
これで満足か?』
「……いいよ、勝負する」
対価を払ってまで頼みたいとは余程のことなのか、と孤児は思った。
悪魔と交代して卓につく。
「坊や、カード強いのかい?」
「ふつうだと思うけど……」
ジャックが問い、孤児が答えた。最後のカードが配られる。
ジャックが自分のカードを見る。表情から手は読めない。
孤児も自分のカードを見ようとして――悪魔に止められた。
『見ないでやるんだ坊や』
無茶だと孤児は言った。
「カードを見ないと引いて良いのか良くないのか分からないじゃないか」
『いいからそうしろオーウェン』
よく分からなかったけれど、悪魔の言うとおりにすることにした。
ジャックは一枚だけカードを引いた。孤児も少し迷って一枚貰う。
それから、たっぷり考えこんだ。裏返しのカードをじっと眺めて、その合計が今いくつになっているのか考える。
「もう一枚ください」
何だか少ないような気がしたので、そう言った。
勝負する。
ジャックがカードを見せた。一枚目はクラブの6。二枚目はハートの4。
「俺には幸運の女神がついてるようだ」
三枚目はハートのQ。合計20だ。
孤児は弱ってしまった。ジャックに勝つには21を出すしかない。
一枚目を開く。クラブの3。二枚目、スペードの7。三枚目、ダイヤのJ。
もう20になってしまった。四枚目を引かなければよかったと思った。そうしたら引き分けだったのに、と。
孤児は最後のカードを捲れずに俯いた。
ディーラーが横からそっとそれを裏返す。
――スペードのA。
観客がざわめいた。
孤児も驚いた。それ以上にジャックも。
「こちらの、小さな紳士の勝利でございます」
ディーラーが宣言すると同時に、椅子を蹴倒してジャックが立ち上がった。
悪魔に指を突きつけて怒鳴る。
「い、イカサマだ!お前イカサマしただろう!?」
悪魔は涼しい顔で肩を竦めて見せた。
『私が?どうやって?何にも触ってないぞ?』
確かにその通りだ。
「なら、こっちのガキが!?」
『ほぉ!調べてみろよ、何も出てきやしない』
開き直ったかのように、悪魔が告げる。
『仮にイカサマだとしても、ここは賭け事の街だぞ。
真剣勝負でサマ一つ見抜けなかったお前が間抜けと笑われるだけさ』
ここは賭博の町。バレさえしなければイカサマすら実力の内だ。
見破れもせず、負けた後で難癖をつけるのは、野良犬よりみっともない。
『どうやらお前の幸運は凶運だったようだね』
「それでは、こちらへどうぞ」
支配人に案内され、三人は一番奥にある個室のテーブル席に連れられる。
勝負は終わった。支払の時間だ。
部屋には、ジャックの全ての財産が置かれていた。
柔らかいソファにぐったりと腰を下ろし、ジャックが言う。
「約束通り、何でも持って行け。あんたが欲しがるような物があるならな」
『貰うものはもう決めているよ』
悪魔はにやりと笑った。
『お前の名前を寄こせ。本当の名前を、だ』
ジャックは驚いた。
「何だって?!そんなことが、いやしかし……」
『改名しようと思っていたんだろう?丁度いいじゃないか』
「あぁ、でも、くそっ!勝負は勝負だ!
いいぞ持って行け!今日からお前が“ジャック・ブラック”だ!」
どうやら本名だったらしい。
「酷い話だ。お気に入りだったのに」
ぶつくさ呟くジャックに、悪魔が提案する。
『ゲームで勝ったら返してやろう』
「ごめんだ。さっさと命も持っていけ」
露骨に眉を顰めたジャックは、観念したようにソファに凭れた。
『前の奴に聞かなかったかい?取立てはお前が死んだ時だ。
お前の魂は既に私の所有だが、寿命はそうじゃないのでな』
「そうなのか?それは知らなかった」
『名前を返して欲しければ寿命と交換でもいいぞ?』
ジャックは左右に頭を振った。
「真っ平御免だな」
そういえば、と悪魔が問う。どうして運が欲しかったんだっけ?と。
あぁそれか、とジャックは答えた。
「一番強くなってみたかったのさ。どんなゲームでも勝てる、最強のギャンブラーに」
その為に悪魔と契約して、魂を取り戻そうとした勝負で名前を失った。
『一世一代の賭けは楽しかったかい?』
「もうごめんだね」
そいつは残念と悪魔は呟いた。
『私は楽しかったよ?だからお前がごめんなさいって謝るなら、名前は返してやってもいいと思ってる』
ジャックだった男はきゅっと唇を引き結んで答えた。
「そいつはお前が勝って得たものだ。そして俺は博打打ちだ。
施そうだなんてもう一回言ったらぶん殴るぞ」
これは失敬、と帽子を脱いで悪魔が謝った。
『契約通り、お前の幸運はあと二ヶ月と三週間と一日残っている。
私から名を買い戻せるくらい稼いでくれたまえ』
「二度と会わないよ、悪魔のジャック」
馬車駅の待合室にあるベンチの一つで、孤児と悪魔がカードで遊んでいる。
ババ抜きのようだ。今ジョーカーを持っているのは孤児。悪魔に少し似た釣り目で尖り耳の道化だ。
「ねぇジョン、あの時本当は何をしたの?」
カードを引きながら孤児が尋ねた。
「ジョンは勝てなかったのに、どうして僕は勝てたの?」
『うん?あの勝負の時かい?』
クラブとハートの8を捨てた孤児に、悪魔が答える。
『別に。坊やに運を貸してやっただけさ。あいつより沢山な。
だからカードなんて見なくても勝てたのさ』
悪魔が孤児から一枚引いて、ダイヤのQとクラブのQを捨てた。
「それなら、ジョンだけで勝てたでしょ?どうして僕だったの?」
孤児が引いたのはハートの5。スペードの5と一緒に捨てる。
『契約があったからな。読んだだろう?
私はあいつがとびきり幸運であるよう手助けしてやらなけりゃならないんだ。
私が直接あいつの幸運を邪魔することはできないんだよ。契約に反するからね』
頑張っても五分がいいとこ。と零して、クラブのKを引き、ダイヤのKと捨てる。
『けど他の誰かなら構わない。もっと運のいいやつがあいつの邪魔をしてしまうのは仕方ないことだ。
例えば坊やとか。例え私が坊やにも力を貸していたとしても、それは全く別の話だよ』
とっても屁理屈のような気がしたけれど、それがまかり通るのが悪魔の世界なのだろう。
「もう賭け事は嫌だよ。うるさいとこだし何だか怖いし。またジョンが契約しようとするかもしれないし」
ダイヤの4を引いて、スペードの4と捨てた。
『お前にとやかく言われる筋合いはないぞ』
ダイヤの3とハートの3を捨てる。
「じゃあ僕に手伝いさせないでよ」
一瞬悪魔が黙った。
『……生意気な坊やだ』
孤児がスペードのAを引き、ハートのAと捨てる。
「でもねぇジョン、カードはちょっと面白かったよ」
『あんなもん覚えるもんじゃない、忘れちまえ。私やあいつみたいになっちまうぞ』
言って、悪魔が引いた。ジョーカーだった。
悪魔は渋い顔をして、手札をよーく混ぜ始めた。
十三、 幕 ――