十二、 灰色の冠
紺色の制服を着込んだ郵便配達夫が、立派なお屋敷の前で自転車を止めた。
肩から提げた配達鞄から手紙の束を取り出し、宛先と表札を確認する。
屋敷は広くて、噴水のある庭には綺麗に刈り込まれた木と美しく咲く薔薇の花壇があった。
白い石造りの門の間からは、大きな赤屋根の二階建ての建物が見える。
表札には、こう書かれていた。
“ノーマン・チシェリア クラウン通りブロウン区1-5”。
配達夫はそっと門を開けて、屋敷の敷地内にお邪魔した。
真っ直ぐな石敷きの道が、門から玄関までを繋いでいる。
手摺の据えられた短い階段を上りながら、もう一度手紙の宛先を確認して、ドアノッカーに手を掛けた時、
『ちょっと待ちたまえ』
誰かに呼び止められた。
はて家人の誰かが表にいたのかと振り返れば、階段下に細面の若者が立っていた。
緩く波打った黒髪と、赤い目。品のいい服をまとった男は、しかし全く見慣れぬ顔だった。
郵便屋と言えど、町の住人全員を知っている訳ではない。
けれど、毎日配達に来るこの屋敷の人間かどうかは分かる。
男は屋敷の主人でも家族でも執事でも召使でもなかった。
男の横でこちらを見上げる子供が、更に確信させた。この屋敷に子供はいないはずだ。
「何方ですか?」
疑わしげな様子を隠すつもりもなく問う。
『私はその手紙の差出人さ』
男は階段を上って来て、配達夫の手から手紙の束を奪った。
「あっ!何をする!」
取り返そうとした配達夫に、男は一通の手紙を抜いて、残りをつき返す。
『これこれ。こんなもの渡すわけにはいかないからね』
その封筒に差出人名は無かった。白くて四角い何の特徴も無い封筒。封蝋もごく有り触れたもの。
なのに、男はそれが何かを知っていた。
男が自分の懐に手紙を仕舞い込もうとしたのを、配達夫は慌てて止める。
「何だお前は!手紙泥棒か!」
腕を掴まれながらも、男は涼しい顔で言い放つ。
『だから差出人だって言ってるだろう。自分で出したものを取り返して何が悪いんだ』
しかし、証明する手段はない。もとより、差出人とて勝手に手紙を回収していいものか。
そうこうする内、騒ぎに気付いたのか玄関の扉が遠慮がちに中から開かれた。
ひょこりと顔を覗かせたのは、訝しげな表情を見せる老齢の紳士だ。
銀色に近い灰色の髪を上品に撫でつけ、温和そうな灰碧の目でそれぞれ、郵便配達夫、青年、階段下の子供の順で見回す。
それから、こう尋ねた。
『何の騒ぎかね?』
配達夫が経緯を伝えるより早く、青年が老紳士に頭を垂れる。
『おじ様、お久し振りです。お元気そうで何より』
それを見て、老紳士は目を丸くした。
『おや、お前はリチャード!随分久し振りだ』
驚いて、
『さ、上がりなさい』
さっと戸を開け放ってくれたのだが、リチャードと呼ばれた青年はちょっとだけ待ってくれるよう頼んだ。
『こちらの人から誤解を受けているのです。おじ様からも説明して下さい』
配達夫は憮然として、紳士に事の次第を報告した。職務として間違ったことはしていないという自信があった。
話を聞いた紳士は、一度頷いて青年にこう言う。
『お前がどんな手紙を寄越したのかは知らないが、それで仕事をしている人を困らせるものじゃない。
幸い私が読む前には間に合ったのだから、私が手紙を受け取り開けずにお前に渡す。それで問題ないだろう?』
さぁ手紙を返しなさいと諭されて、青年は渋々封筒を配達夫に渡す。
配達夫はそれを他の手紙と一緒に紳士に渡し、紳士はそこから件の手紙を取って青年に渡す。
『これで万事解決だ』
配達夫は職務を全うし、青年は困った手紙を紳士に読まれずに済んだ。
「はぁ……ではこれで失礼します」
呆気にとられた配達夫は、一礼して次の配達先へと去って行った。
その背中が門を出たところで、紳士は青年と子供を促す。
『さぁ、中に入りなさいリチャード。
長らく顔も見せない薄情な子には、言ってやりたいことと聞きたいことが沢山あるのだから』
お小言を覚悟してか青年は肩を竦めつつ、子供を手招きして紳士の後に従った。
孤児と悪魔は並んで屋敷の中を案内された。
庭に面した広い応接室に通されると、
『寛いでいておくれ。ちょっとお茶を用意してこよう』
と言って老紳士は姿を消した。
悪魔はこれ幸いとソファに寝そべり一服する。
「お行儀が悪いよ、ジョン」
孤児が言っても、
『いいんだ。私が何をしてもおじ様は許してくれるのさ』
全く聞く耳持たない。
果たしてそれが本当だとしても、行儀悪いままでいていい理由にはならないと思った。
けれど、孤児にはそれより気に掛かっていることが一つあった。
「ジョンのおじさんって、ほんとなの?」
悪魔は憮然として答えた。
『当然じゃないか。私の自慢のおじ様だよ』
「じゃあ、さっきのおじいちゃんも悪魔なの?」
それも当然といった様子で悪魔は頷く。
『ずっとこっち――つまり人間の土地に住んでるけどね。でも地獄に帰れば偉い人なんだ』
そう言われても、悪魔の地位や階級など孤児は知らないからぴんと来ない。
悪魔の対面に位置する椅子に腰掛けて、もう一つ尋ねる。
「さっきの手紙って何?」
『これかい?』
悪魔は、懐から真っ白な封筒を取り出した。
郵便配達夫から取り上げた手紙。
封蝋を破って、中の便箋を広げる。
そこには、書き殴ったような文字でこう書かれていた。
“親愛なるノーマン・チシェリア殿。
貴殿のお孫様を誘拐した。身代金、大金貨五十枚を払えば無事お返し致す。
尚、官憲に通報した際には、お孫様の命は保証しかねる。”
『この間、山賊に襲われただろう?その時に書かされた脅迫状さ』
孤児も思い出した。
二人は以前山賊に捕まったことがあった。
その時、悪魔は嘘をついたのだ。孤児が有名な資産家の孫だと。
本当はその資産家に孫などおらず、しかもそれは悪魔のおじだった。
『こんなものがおじ様の目に届いたら叱られてしまう』
だからこうしよう、と。
どこからとも無く取り出したマッチで、悪魔は手紙に火をつけた。
便箋と封筒はぱっと燃え上がって、灰も残さず火の粉と化した。
と、そこへ紳士が戻ってくる。
『おや、二人でこそこそ悪戯の相談かな?
お菓子をあげるから、ちょっと手伝っておくれ』
カートで運ばれて来たのは、綺麗な花模様のティーセット。
大皿には何種類もの焼き菓子が盛り付けられ、クリームの乗ったケーキも並んでいる。
孤児の興味は一瞬で菓子の山に吸い寄せられた。
『今日は天気がいいから外でお茶にしよう』
そう言って、紳士はカートをテラスに運んだ。
庇に蔦が茂って屋根のようになったテラスには、誂えたように三人掛けのテーブルセットが置かれていた。
孤児と悪魔を座らせて、老は三人分の紅茶を注ぐ。
お茶とお菓子がそれぞれの前に置かれてから、紳士も椅子の一つに腰を下ろした。
『さぁ、冷めないうちに召し上がれ』
勧められて、孤児はちらりとだけ悪魔の様子を伺った。
止められないと知るや、さっとまだ温かいマドレーヌに手を伸ばす。
悪魔は茶の香りをじっくり味わってから、澄んだ赤銅色の液体に口をつけた。
『相変わらずおじ様の淹れるお茶は最高だな』
『そう思うならもっとちょくちょくおいで。
すっかりお前の顔を忘れてしまうところだった』
『耄碌するには早いですよ』
言いながら、菓子鉢のクッキーをつまんで頬張る。
『また腕を上げたんだねニーナは』
「ニーナって誰?」
呟く悪魔に、マドレーヌを齧りながら孤児が問うた。
『お手伝いさんだよ。私の身の回りの世話をしてくれている』
紳士が答えて、孤児の前に砂糖菓子の包みを二つ三つ置いてくれる。
『初めましてだね、坊や。ご挨拶しよう。
私はノーマン・チシェリア。もうおじいちゃんだからね、仕事はせずにのんびりしてるんだ。
何と呼んでくれても構わないけれど、ご覧の通りの年寄りだから老と呼ばれることが多いね』
孤児には知る由もないが、ノーマン・チシェリアとはその道では知られた武器商人の名だ。
街角のならず者から成り上がり、あちこちの領主や傭兵団に顔が利くと言われる。
その正体は、人の姿をした悪魔。
かつては人間の国同士に戦争をけしかけたりもしたが、彼の言葉通り、今では地獄にも戻らずこうして気侭に暮らしている。
と言っても、本当のところどうなのかは、孤児には到底分からないのだが。
挨拶してくれたお返しに、孤児も老に自己紹介した。
「僕はオーウェンです。でも本当の名前じゃないんだよ。ジョンとゲームをしてるから。
名前当てゲームだから、本当の名前は秘密なんだ」
老は悪魔に視線を向け、孤児に尋ねた。
『ジョンって言うのはこの子のことだね?』
孤児は頷いた。
「僕にはオールド・ジョンって言ったよ。嘘の名前だけど。
おじさんはリチャードって呼ぶんだね?」
『嘘の名前だよ、それも。おじ様だって私の名前は知らない』
悪魔が口を挟んだ。
老は肯定した。
『そうとも。私はこの子の名前を知らないし、この子だって私の名前は知らない。それが私達のやり方だからね。
じゃあ、ジョンと呼ぼうか。今までだって、名前くらいいくつも変えてきたものね』
孤児はちょっとがっかりした。もしかしたら、悪魔のおじさんなら悪魔の名前を知っているかもしれないと期待したから。
『名前当てゲームってどんなのだい?』
老に問われて、孤児が答える。
「僕がジョンの名前を当てたら僕の勝ち。ジョンが僕の名前を当てたらジョンの勝ち。
ジョンが勝ったら僕は魂をあげるけど、僕が勝ったらジョンは地獄に帰るんだ」
『へぇ。面白そうなゲームだね。私も交ぜて欲しいな』
老は愉快そうに笑んだ。
しかし悪魔は否定した。
『駄目だよおじ様。坊やは今私と勝負してるんだ。横入りなんて許さないよ』
分かっているよ、と老は呟いた。
『言ってみただけさ。そう怒るなよ』
契約と同じように書面にサインをして始めたゲームだから、途中で交ざるなんてことはできない。
地獄のルールが許していない。
『あぁ、でもジョンが負けたら私とゲームができるね』
にこにこと笑いながら老は言う。
『どうだい坊や、もしこのゲームに勝ったら今度は私と勝負しないかい?
勝負すると約束してくれるなら、ジョンの名前のヒントを上げるよ』
孤児は驚いたように老を見た。
『嘘だ。おじ様、知らないじゃないか』
悪魔が指摘する。
その通り、さっき老自身がそう言った。
『お前を育てたのは私だよ。お前の性格くらいよく知ってる』
『へぇ!じゃあ聞かせてよ。外れていたら笑ってあげよう』
老は即座にこう答える。
『普通の名前じゃないね。ジョンとかハリーとか、そういうのではない。
珍しい名前……もしかしたら女の子の名前かも知れない。
いや、お前のことだから、人の名前ですらないな。土地とか物とか、そういうのだろう。
どうだい、当たってるかい?』
悪魔はむっつりと黙り込んだ。なんと図星らしい。
『お前のことはお前よりよく知ってるんだよ』
『酷いなおじ様、ゲームに横槍を入れるなんて』
悪魔は恨めしげに言い返すが、言ってみろと言ったのは自分なのでそれ以上言いがかりもつけられない。
孤児はちょっとずるをしたような気はしたが、普段からかわれてばかりの悪魔がやり込められる様は、少しだけ気分が良かった。
だからつい、余計なことを聞いてしまった。
「おじさんは、ジョンのパパやママのことも知ってるの?」
老は頷く。
『知ってるよ。どこにもいないことをね』
はっとした。
孤児は慌てて俯いた。
悪魔にだって両親はいると思っていた。いないだなんて考えてもみなかった。
いけないことを聞いた気がして、この上とても、どうして?なんて聞けなかった。
悪かったと思って、何と声をかけようかと悪魔に視線を向ければ、悪魔は不思議そうに見返すだけだった。
『何だ、坊や?変な顔して』
何とも思ってないようだった。
何事もなかったように、お茶のカップを傾けている。
以前出会った旅人は言っていた。側には無くてもどこかにいるなら、どこにもいないよりはずっといい、と。
孤児は、両親を失くしたわけではない。置いて行かれただけで、それでもとても悲しくて寂しかったのに。
悪魔は平気なのだろうか。悪魔だから平気なのだろうか?
それとも、悪魔くらい長生きすれば悲しくなくなるのだろうか。
その疑問も、やはり尋ねるには憚られたから、
「別に」
とだけ返事して、孤児は菓子鉢に興味を移したふりをした。
変な奴だと悪魔が呟く横で、全て見透かしたような老が、孤児の前に菓子鉢を押しやってくれる。
『坊や、クッキー食べるかい?それともキャンディーがいいかな?』
孤児は菓子鉢の上を眺めて、ふと、ちょっとした我侭を言ってみようかという気分になった。
「マシュマロがいい」
試すようなつもりで、そこに無いものを上げてみる。
悪魔なら、我侭な坊やだと言いながら、きっとマシュマロを用意してくれる。
おじさんならどうだろうかと考えたのだ。
『よろしい、ならばマシュマロだ』
と老は菓子鉢の縁を叩いた。
次の瞬間、目の前にはマシュマロが小山になって積まれていた。
『さぁ召し上がれ』
「ありがとう!」
礼を言って、ふわふわ白くて柔らかいマシュマロを一つ頬張る。
その様を目を細めて楽しげに眺める姿は、まるで孫と戯れる祖父のようでさえあるが。
(本当におじさんも悪魔なんだな)
と孤児は妙に納得した。
『ゲームのことを聞かせておくれ。
どんな風に名前の当てっこをするんだい?』
老が言った。
「一日に五個まで試すんだよ」
孤児が答えた。
「僕が五個、ジョンも五個。当てられたのに嘘をついてはダメ。
もっとたくさん聞いてもいいけど、でも六個目からは当たってても嘘をついていいんだ」
『見た方が早いよ』
孤児の説明に悪魔が口を挟む。
『坊や、今日のゲームをしよう』
「いいよ」
悪魔の提案に、孤児は賛成した。
『じゃあ私からだ。
ウィリアム』
「ナイン(いいえ)」
『チャーリー』
「ニーテ(はずれ)」
『ニルセン』
「ファルシュ(違う)」
『フレドリック』
「ガンツフェアシーデン(全然違う)」
『パウロ』
「おしまいだよジョン。今度は僕の番だ」
選手交代。
「うーんと、……ブラウニー」
『ナイン(いいえ)』
「プディング?」
『ニーテ(はずれ)』
「ヌガー」
『ファルシュ(違う)』
「フィナンシェ」
『ガンツフェアシーデン(全然違う)』
「モンブラン」
『全部お菓子の名前じゃないか』
五つ目まで聞いてから、悪魔は呆れ返って呟いた。
「だっておじさんが物だって言うから」
人じゃなくて、場所や物の名前かもしれないと聞いたから、真っ先に思いつくお菓子の名前で試したようだ。
なぁんだ、と悪魔はにやりと笑んだ。
『安心した。やっぱり坊やには私の名前は分かりっこないのだね』
余裕の笑みだ。少々のヒントでは負けっこないという自信。
折角ヒントを貰ったのに小馬鹿にされた孤児は、それが少々癪に障って、
「どうかな、分からないよ?明日にも当てちゃうかも。
たまたまってことだってあるんだから」
悔し紛れに言い返すも、悪魔はくつくつと笑った。
『たまたま、な。そうだな。そうでなければ、お前に私の名は当てられないものな』
孤児の言葉など、悪魔は一向に気にしない。
横から老が尋ねる。
『それで、こいつはどっちが考えたゲームなんだい?』
孤児は少し考えてこう返事した。
「言い出したのは僕だよ。ルールを決めたのはジョン」
『へぇ。それはまた何故?』
老は孤児からゲームを持ちかけたことが不思議なようだった。
「ジョンが僕を食べようとしたからだよ。
僕は一人ぼっちで、でも食べられるのは嫌だったから、ゲームで勝負しようって言ったんだ」
悪魔が反論する。
『食べようとなんてしてないじゃないか!
私は契約しようって言ったんだよ。願い事は何でも叶えてやるってね』
「同じじゃないか。契約したら魂を持っていくんだろ」
孤児にとって、それは食べられてしまうのと変わりない。
悪魔にとっては全く違うことなのだけれど、説明しても孤児は理解しないだろう、と悪魔は知っている。
だから、
『違うのさ。分からないだろうけどな』
そう言い置くだけにとどめた。
だけど、孤児は今悪魔の物言いの端々がちょっと気に入らない。
うっかり口を滑らせる。
「僕だって少しくらい悪魔のこと知ってるんだ。
悪魔はゲームが好きなんでしょ。それから、名前が大事で誰にも教えちゃいけない。
名前を知らない相手にはいたずらできないし、悪魔が名前を知られると言うことを聞かなきゃいけなくなるんだ」
それは多分失言だった。
悪魔と初めて会った時、あの草原で、孤児は悪魔にもそう言ったことがあった。
その時悪魔は驚いて、その後怒った。
孤児はすっかり忘れていた。
テーブルに片肘をついた老が、穏やかな笑顔を向ける。
だけどその灰碧の瞳は、まるで冬のように冷ややかに、孤児を眺めていた。
『坊や、悪魔に詳しいね?一体どこで教わったんだい?』
孤児は身震いした。
お茶もお菓子もおいしかったし、庭はぽかぽか暖かくて気持ちが良かった。
けれど。
そう尋ねられた瞬間に、冷や水を浴びせられたように寒くなった。
手足が冷たくなって、もう一秒だってここに居たくないと思った。
ずい、と菓子鉢とティーカップを老の方へ押しやる。
それは無言の拒否だったが、老は笑んでいるばかりでそれ以上追求しようとはしなかった。
恐ろしい思いは一瞬だった。老は孤児のカップに熱いお茶を注いでくれた。
だけどそれ以上、孤児はお茶に口をつける気にならなかった。
沈黙して、視線をテーブルの下、庭の隅の小さな花に落としていると、老は孤児の椅子を引いて、庭の花園の方に向けた。
『もうお腹が一杯になったかな?じゃあ遊んでおいで。
久しぶりのお客様にニーナが張り切ってアップルパイを焼いているから、よーくお腹を空かせてくるといい』
孤児が顔を上げれば、一面芝生で緑色の向こう、色とりどりの花が咲き並んでいる辺りに、ぴょこりぴょこりと跳ねる白い姿が見えた。
「わぁ!うさぎだ!」
孤児は椅子から飛び降りて掛け出した。
それを見送ってから、悪魔はカップをソーサーの上に置いた。
『いくらおじ様だってゲームにちょっかい出したら許さないよ?』
振り向いた老は、まるで悪戯っ子のような、楽しげな微笑を浮かべていた。
『そんなに怒るなよ、坊や。お前はいくつになっても気が短いね』
悪魔のことを坊やと呼んだ。
『怒らせてるのはおじ様じゃないか』
悪魔は不服気だが、老は意に介さない。
『お前の楽しみを邪魔したりするつもりはないよ。
ただ、お前の友達がどんな子か、ちょっと知りたかっただけさ』
友達?と悪魔は眉を顰めて聞き返した。
『友達だって?あの坊やが?馬鹿馬鹿しい』
にんまりと老は破顔した。
『甥っ子がどんな仲間と遊んでるか、気になるじゃないか。
悪い友達に騙されやしないかと心配なんだよ』
それはまるきり、悪魔をからかう皮肉だった。
『もういい年なんだから、いつまでも子供扱いしないでほしいね』
『私にとっちゃ、いつまでもお前は坊やだよ』
悪魔が何を言おうと、老の笑みは毛筋ほども揺るがない。
『甥っ子のお友達とお喋りしてみたかっただけさ』
『悪魔には友達なんていない。
悪魔は友情なんて持たないと、そう私に教えたのはおじ様じゃないか』
言い返す悪魔を、老はきっかり一秒見返して、にやりと笑った。
『そんなのまだ信じてたのか』
気分を害した悪魔は不機嫌に黙りこくる。
老は機嫌を取るでもなく、自分のカップに紅茶を注いで、懐かしむように勝手に喋り出す。
『お前と初めて会った日のことはまだ覚えているよ。
お前はこんなに小さくて、髪もちゃんと生え揃ってなかった。
言葉もろくに使えない、醜くて弱虫の子供だった』
『……おじ様、』
咎めるような悪魔の口調も、老は聞こえない振りだ。
『お前を私のところに連れて来たのは魔王様だったね。
地獄の釜の淵で一人で泣いていたのだっけ』
『おじ様、』
『正直なところ、直ぐに死んでしまうと思っていたのに、随分立派になったものだ。
角も尻尾も爪も牙もない、怖がりで一人ぼっちの……』
『おじ様!』
悪魔は鋭い目で老を睨み付けた。
『本当に怒るよ?』
老は悲しげに悪魔を見返した。
『私にとっては良い思い出なのだけれどねえ。お前が気に入らないならもう言わないよ』
ふと庭に目をやれば、孤児は兎と追いかけっこしていた。
それを微笑ましく眺めながら、老は呟く。
『いつになってもお前は私の坊やだよ。生意気で我侭で小憎らしい、可愛い私の甥っ子だ』
ふうと悪魔が浅く溜息をついた時、丁度孤児が一匹の兎を捕まえたところだった。
真っ白で毛並みのふわふわしたそれを抱きかかえて、孤児はテラスまで戻ってきた。
「見て見てジョン!可愛いでしょ?真っ白な兎だよ!」
孤児は森に住む野兎しか見たことがなかったから、ペット用に作られた白兎が珍しいのだろう。
『坊や、兎が好きかい?』
「うん!綿みたいに真っ白、すごく可愛い!」
『食べるのとどっちが好きだい?』
悪魔が尋ねると、孤児は慌てて兎を後ろに隠した。
『冗談だよ』
言っても信用しない。
悪魔を睨みつける孤児の前に、老は一本の葉巻を差し出して見せる。
『それじゃ坊や、もう一ついいものを見せてあげよう』
葉巻をカットして火を灯し、老は煙を一息吸い込んだ。
ふぅーっと細く吹き出すと、紫がかった煙は宙を漂って、王冠の形になった。
「すごい、冠だ!」
驚く孤児の真上で冠は留まる。
もう一息吸い込んで、今度は自分の頭の上に冠を作る。
『どうだい、似合うかな?』
無邪気に笑う灰色の冠をかぶった老紳士は、日差しに煌く銀色の髪と相まって、まるで灰色の王様のようだった。
日が傾き始めるより少し前、悪魔が、
『そろそろお暇しよう』
と言った。
兎と遊んで屋敷を探険して、孤児は存分に楽しんでいたけれど、一つ心残りがあった。
アップルパイだ。
散々お菓子をご馳走になったのに、それでも焼きたてのパイは殊更魅力的だった。
だけどそれを口に出すのは欲張りな気がして、何とも言い出せずに見上げた孤児に、
『お土産を持ってこさせよう』
と老が言った。
『坊やが楽しみにしてたみたいだからね。アップルパイは包んであげよう』
孤児の顔がぱっと輝いた。
「ありがとうございます!」
ちゃんとお礼も言った。
ご馳走様でした、と悪魔と一緒に頭を下げて、玄関まで見送られる。
エントランスには、何故かぽつんと置かれた小さな丸テーブルに、箱に入れられたアップルパイが用意されていた。
孤児が受け取った時にはまだ温かくて、シナモンの良い香りがした。
「お邪魔しました」
『またおいで』
別れ際、老は孤児と握手した。
『それじゃおじさま、また』
『あぁ、元気でな』
悪魔の胸ポケットには、何か細長いものを差し込んだ。
門のところで振り返った時、老は玄関のところから手を振ってくれた。
悪魔と孤児も手を振り返して、そして、お屋敷を後にした。
宿に戻るまで待ちきれないように、孤児はパイの箱を抱えて道を急ぐ。
数歩先を行く孤児の後ろで、悪魔は老に貰った何かを手にして眺めていた。
「それ何?」
ふと孤児が見やって問うと、
『葉巻だ』
悪魔はそれをよく見せてくれた。
老が吸っていた細身の葉巻だった。
「ジョンも煙草吸うの?」
『たまにね』
と悪魔は答えた。
「でも僕、ジョンが吸ってるとこ見たことない」
『そうだっけ?』
悪魔はポケットからシガーカッターを取り出した。
端を切り落として、口に咥える。
ぽっ、と自然に火が灯って、断面が赤く焼け出した。
絹糸のような煙が宙に棚引く。
悪魔は白い煙をほぅと吐き出した。
「ジョンも冠作れるの?」
『やってみようか?』
一服吸って、老を真似てふぅっと吹き出す。
けれど煙は王冠にはならず、輪っかになって悪魔の上に天使の光輪のように浮かんだ。
『失敗した』
「冠じゃないよ」
天使さまみたいだ、と笑ったら、悪魔は不服そうに口を尖らせた。
『私だってたまには失敗するさ』
「悪魔なのに?」
『悪魔だってさ』
お前なんてしょっちゅう転んだりカップを落としたり道に迷ったりするくせに、と言われて今度は孤児がむくれる。
「だって僕は子供だもの」
孤児の言い分に、悪魔はふんと鼻で笑った。
『私だって生まれた時は子供だったさ。丁度お前くらいの。
でもココアを零したり寝小便したりママを恋しがって泣いたことなんて一度もないね』
悪魔は勝ち誇ったが、しかし、孤児が気に留めたのは別のことだ。
「悪魔は、生まれた時赤ちゃんじゃないの?」
『悪魔は生まれた時から悪魔さ』
一人ぼっちで生まれて、最初から自分が誰かを知っている、と悪魔は言った。
けど、生まれたばかりではまだ何も出来ない。
『私を育ててくれたのはおじ様さ。
本を読むことも、人間を騙すことも、煙草を吸うことも、みんなおじ様から教わった』
「魔法の使い方も?」
『そうだよ』
「意地悪の仕方も?」
『そうだよ』
「じゃあ、」
ふと、孤児はこんな風に思った。
「おじさんじゃなくてパパみたいだ」
悪魔は一瞬きょとんと、意外そうに孤児を見返した。
それから、何とも言えない微笑のようなものを浮かべて、言った。
『そうかも知れないな』
もう一度、悪魔は天を仰いでふぅと煙を吐いて見せる。
今度もやっぱり輪っかになって、
『うまくいかないな』
苦笑いする悪魔の頭上で、灰色の輪っかは風に溶けた。
十二、 幕 ――