十一、 次の町
旅を始めてまだ二日。
ゲームのルールを交わした最初の村から、大人の足で一日歩いたところにある小さな町に、孤児は悪魔と一緒に辿り着いた。
「ここはどこ?」
問うた孤児に、
『さぁてね?ただの辺鄙な町だろ』
悪魔はさも興味無さそうに答えた。
それは確かにその通りだった。
石壁のこじんまりとした家が並び、往来も活気こそあるが混み合ってはいない。
乗合馬車は止まるようだが、駅舎があるのではなく、役場の前が停留所になっている様子だ。
町の中心にあるちょっと開けた広場では、日曜日に市が開かれるらしい。
どうせなら市の日に来られればよかったと孤児は思った。
ぼーっと立っているのにも飽きた孤児は、ふと悪魔を見上げた。
悪魔は退屈そうに辺りを見回すばかりで孤児の様子には気付かない。
意を決して、孤児は尋ねてみた。
「ねぇ悪魔、これからどうするの?」
『はぁ?』
と悪魔は聞き返してきた。
『旅を始めたのはお前だろ?何で私に聞くんだ。自分で決めろよ』
だって、と孤児は言い返す。
「僕、旅のことなんて何にも知らないもの。一人で旅したことなんてないもの」
『知らないで言ってたのか?こいつぁ驚きだ!』
悪魔は仰々しく驚いた振りをして見せる。
孤児はむっとして悪魔を睨みつけた。
「じゃあお前は知ってるって言うの?悪魔なのに、人間の旅のしかたなんて」
悪魔はふんと鼻で笑った。
『当然だろう。私に知らないことなんて無いさ』
「なら教えてよ。知ってるんでしょ?」
尋ねる孤児に、悪魔は嘲るような薄ら笑いでそっぽを向いた。
『やなこった。何で私がお前に教えてやらなきゃいけないんだ?』
「教えてくれたっていいじゃない」
『教えて欲しけりゃ書面にサインだ』
懐に突っ込んだ悪魔の手が、契約の紙を引っ張り出して孤児の目の前に突きつけた。
孤児はそれを無視して、疑わしげな視線を向ける。
「ほんとは知らないんじゃないの?」
『そんな手には乗らないぞピーチパイちゃん。契約するなら教えてやるさ』
悪魔は頑として契約書を引き下げない。
「何だい、ケチ」
そう言って、孤児は明後日の方に歩き始めた。
『おい、こら、どこへ行く?』
「もっと親切な人に教えてもらうんだ。僕の旅なんだから、僕が好きにしていいんだろ?」
追いかけて来る悪魔に、孤児はなるべく冷たく聞こえるように答えた。
『そいつは全くご尤もで何の異論も御座いませんがね。
何かお忘れじゃないかい、ハニーミルクちゃん?』
横に並んだ悪魔が、孤児に問う。
孤児は足を止めて振り向いた。
「何を?」
『今日のゲームさ』
ゲーム。
悪魔と孤児の名前当てゲーム。悪魔が孤児と旅をしている理由。
孤児が悪魔の名を当てれば孤児の勝ち。悪魔が孤児の名を当てれば悪魔の勝ち。
一日に五個ずつ名前を出し合って、孤児が勝ったら悪魔は地獄へ帰る。悪魔が勝ったら孤児は魂を取られる。
二人は本当の名前を隠しているから、仮に孤児はオーウェンと名乗り、悪魔はオールド・ジョンと名乗っている。
『さぁ、そっちから始めろよ』
と悪魔は言った。
少し考えて、孤児は名前を問いかける。
「ルドルフ」
『ナイン(いいえ)』
「キース」
『ニーテ(はずれ)』
「ヴァン」
『ファルシュ(違う)』
「デミテル」
『ガンツフェアシーデン(全然違う)』
「ヘンリー」
『五つ聞いたね。坊やの手番はおしまいだ』
これで孤児は今日の解答権を使い切った。
一日に五個とは、悪魔の出した公正なルールだ。二人で決めて、書面にサインした。
悪魔がその気になれば一日に百個も尋ねられるだろうけれど、それでは孤児と公平ではない。
五個の内で嘘をつくことは許されない。破れば死をもって償う決まりになっている。
次は悪魔が聞いてくる番だと思った孤児に、悪魔は横から囁いた。
『ルドルフって誰だい?パパの名前かい?それとも弟?』
孤児は怪訝そうに首を傾げてみせた。
「そんなの関係あるの?」
『ただの興味さ。他意はないよ』
その言葉を真に受ける程孤児は悪魔を信用していないが、嘘だとも言い切れなかった。
「学校の友達だよ。キースもヴァンもデミテルもヘンリーも」
結局本当のところを教えた。
『学校に通ってたのか坊や』
「そうだよ」
両親と旅に出る前は。
それで納得したのかどうか、悪魔はそれ以上尋ねるよりゲームを続ける方を選んだ。
『さぁ今度は私の番だ。オーウェン』
「なぁに?」
『違うよ。ゲームの答えを尋ねたんだよ。
さぁ、合ってるかどうか答えろよ』
“オーウェン”が実は本当の名前ではないか、そう疑っていたのだと孤児は理解した。
だから、ゆっくりはっきりきっぱりとこう返事した。
「ナイン(いいえ)」
だけれど、悪魔はすぐには次の名前を言って来ない。
逆に孤児から催促してみた。
「次は?」
悪魔は取り澄ました顔で四本の指を立て、孤児の前に突きつけた。
『とりあえず今は一個だけだ。残りの四つは後にする。
一日にたったの五回だからな。慎重に行かなきゃ』
「そんなのいいの?」
口を尖らせる孤児に、悪魔は大袈裟に頷いて肯定して見せる。
『ルールは五個までとしか言ってないぞ。
いつ使ってもいいし、使い切らなくてもいい。でも明日に持ち越しは出来ない』
成る程、それならルール通りだ。と孤児は思った。
ルールでは、六個目以降の解答を規定していない。
つまり、答えても答えなくてもいい。もし当たっていても、知らない振りをしてもいい。
「なら、これもルール通りなら答えなくてもいいけど、聞くね。
お前の本当の名前は、オールド・ジョンじゃないんだろう?」
悪魔はにんまりと笑って言った。
『ルール通りなら、私は答えなくても嘘をついてもいいけれど、答えてやろう。
その通り、私の本当の名前はオールド・ジョンじゃないよ』
それは悪魔の余裕の現れ。回答一回分のプレゼント。
そのお返しを求めるかのように、悪魔は孤児に問うた。
『学校に行ってたって言ったね。お前が住んでたところってどこだい?』
「何でそんなこと聞くのさ?」
『ただの世間話じゃないか。お喋りだ。お前が聞きたいなら地獄のことを喋ってやってもいいよ?』
悪魔はそう言ったけれど、孤児は地獄のことなんて聞きたくなかった。
「いらないよ、そんなの。それよりゲームは終わったんだろう?
僕は旅のこと教えてくれる人を探すんだから、あっちに行ってよ」
おやおや、つれない子だ。と呟いて、悪魔はそっと退いた。
『まぁ好きにおし。どうせお前一人じゃどこにも行けないんだからな』
けらけらと嫌味な笑い声を立てて去って行く悪魔の背に向かって、孤児は思いっ切りあっかんべーをしてやった。
取りあえず誰か物知りの大人を探そうと思って、孤児は賑やかな商店街へと向かった。
荷車を運んでいるおじさんがいる。買い物をしているおばさんがいる。
山盛りのオレンジの篭の前で一個一個見定めているおばさんや、雑貨店のレジ横で新聞を読んでいるおじさんがいる。
旅人のことを知っていそうな人は誰だろうと考えて、孤児は広場に面した大きな酒場に目をつけた。
軒先に掛かった看板は酒瓶の形をしていたが、昼の間は喫茶店としても営業しているようだ。
入り口の側に立てば、賑やかな談笑と香ばしい豆の香りが漂ってくる。
意を決して、孤児は店の戸を潜った。
カラン、と澄んだ鐘の音に振り返った店主が、孤児の姿を見咎めてカウンターの奥から覗き込む。
「こら坊主、一人でこんなとこ来ちゃ駄目だろうが。
見ない顔だなぁ、どこの子だ?」
四十くらいで眼鏡を掛けた、黒髪に白髪の目立つ店主に、孤児はこう話しかけた。
「あの、このお店には、旅の人はよく来ますか?
僕、旅人になりたいんです。旅のしかたを教えてもらいたいんです」
店主は、不思議そうな顔をしてカウンターの向こうから出てきた。
「旅人って、坊主が旅に出るのか?お父さんかお母さんは?」
「……いません」
孤児は正直に答えた。
これには店主も一瞬同情めいた表情を見せたが、孤児の前にしゃがみ込むとこう言った。
「坊主、旅なんてそう簡単なもんじゃないんだぞ。
子供一人でできるようなもんじゃない。野宿したり、山賊に出くわすことだってあるんだ」
それは孤児も知っていた。両親と一緒にいた頃は、二人も獣や野盗を警戒していた。
だから、店主が心配してくれていることは分かったが、それでも孤児は両親を探すことを諦めるつもりはなかった。
「あの、でも、一人じゃないんです。ついて来てくれる大人ならいます」
これは本当だ。悪魔の年齢がいくつかは知らないが、大人と言って十分だろう、多分。
信用できるかどうかは別問題だが。
「そうなのか?」
「僕、パパとママを探すんです。そのためにはあちこちの町へ行かないといけないから……」
大人もいると聞いたからか、孤児が旅する理由に納得したのか、店主は記憶を頼りに旅人について思い出そうとしてくれた。
「うーん、どうだったかなぁ。
こんな田舎にゃ旅人なんて滅多に来ないし、宿だって三軒先のフォークスのとこぐらいだし」
そうですか、と呟いた孤児の表情は、あからさまにがっかりして見えた。
と、はたと思い出したように店主が手を打つ。
「そうだ、教会に行ってみればどうだ?
金の無い旅人は宿より教会を頼るし、確か神父様は昔巡礼で長旅に出たことがあると言ってたぞ」
ぱっと孤児の顔が輝いた。
「本当?!」
良いことが聞けたと思った。
知らない大人の人にものを尋ねるのはちょっと怖いけれど、教会の神父様なら怖くない。
礼拝にはよく連れて行ってもらっていたし、両親との旅の途中でも時々教会には立ち寄っていた。
「教会は、通りを右に真っ直ぐ進んで川と畑を越えた向こうだ」
「ありがとう、おじさん!」
店主に教えてもらった道順を忘れないように繰り返しながら、孤児は早速教会目指して駆け出した。
通りを抜けた先に小川が見えた。
橋を渡れば、一面の小麦畑が広がっている。
その間をうねる小道の伸びる先に、白壁の教会があった。
こじんまりした礼拝堂、扉の上には丸十字が掲げられており、天辺には鐘が吊るされている。
今はお祈りの時間ではないから、町の人はいないようだった。
孤児は教会の窓へ寄って、背伸びしながら礼拝堂の中を覗き込んでみた。
長椅子が二列並んで、奥に聖母像があるのが見えたけれど、神父の姿はない。
留守かな、と思ったその時、
「かくれんぼですか?」
突然声を掛けられて、孤児はびっくりして振り返った。
孤児がやって来た小道の向こうから、年は五十を越えたところであろう柔和な顔つきの神父が、にこにこ笑いながら歩いて来るところだった。
「ごめんなさい、神父さま」
怒られるのだと思って、孤児は慌てて謝った。
けれど神父は不思議そうな顔で言う。
「どうなさいました?御用でしたらゆっくり聞きましょう。
すみませんが、そこの戸を開けていただけますか?」
見れば、神父の両手には買い物袋が下がっている。
孤児は礼拝堂の扉を開けた。
「ありがとう」
礼を言って先に入る神父に、孤児も付いて行く。
礼拝堂の中は、しんと静かで少し涼しかった。
手近な長椅子に荷物を置いた神父は、孤児を振り向いた。
「すみませんね。さて、何の御用でしょうか?」
孤児は何と言おうかと考えながら、少しずつ説明し始めた。
旅をしたいと思ったこと。旅の仕方が分からないこと。
草原で両親に置いて行かれたこと。両親を探すための旅であること。
それから、付いて来てくれる大人はいること。
悪魔に拾われたことと、ゲームのことは話さなかった。
神父は途中で口を挟まず、黙って最後まで聞いてくれた。
「神父さまは長いこと旅をしてたって、酒場のおじさんに聞きました。
だから、神父さまに旅のことを教えてもらいたいと思ったんです」
エルネストさんのご紹介でしたかと神父は頷いて、孤児に椅子へ掛けるよう勧めた。
言われた通り、長椅子の一つに座った孤児の隣へ、神父も腰を下ろす。
「さて、何からお話しましょうか」
神父は思い出そうとするように、視線を宙にさ迷わせて話し始めた。
「私が旅に出たのは、二十歳頃でした。
修行のための巡礼に、この身一つで出かけました。
持ち物は、水筒と背に背負う布袋と杖。お金もありませんでしたので、よく野宿をしておりました。
水を飲み干して喉が渇き切った時に見つけた泉の有り難さ、土砂降りの雨の中を歩かねばならぬ時の鉛のような足の重さ、今でも覚えております。
反対に、通りかかった町で親切に泊めて下さった方、すれ違った旅人の方が分けて下さった一切れのパンへの感謝は忘れようとも忘れられません。
途中一緒になった巡礼の同輩と共に語った言葉も、初めて訪れた聖地の感動も、色褪せることなく私の中に残っています」
そうそう、旅の仕方でしたね。と前置いて続ける。
「まず一番大切なことから。水は大事です。お腹が空いても二三日は平気ですが、水を飲まないと一日で駄目になります。
その次に寝床。歩いて旅をするなら、きちんと眠れないと次の日とても疲れます。三番目が食事です。空腹ではしっかり歩けませんからね。
旅を始める前には、体力をつけたり必要なものを用意したり、準備をしなければいけません。
地図を見て道順を決め、危ないことを避け、獣から逃れたり、野宿のために火を焚いたり、水を集めたり食べ物を手に入れたり……」
孤児はそれを大人しく聞いていた。
一つ一つは孤児も知っていることの方が多かったけれど、果たしてそれを一人でできるかと言うと、難しいだろう。
火のつけ方を知らない。狼や盗賊が出るところを知らない。地図も持ってない。それどころか、水筒も毛布や食料を入れて運ぶ鞄も持ってないのだ。
孤児は己がどれ程浅はかだったかを知った。
悪魔は用意してくれるだろうか。それとも、やっぱり契約しろと言い出すだろうか。
神父が尋ねた。
「あなたは旅をどんなものだと考えていますか?」
孤児は何とも答えられずに、神父を見上げた。
「旅は、楽しいこともあります。でも辛いこともある。
まだ幼いあなたには、きっと苦しいことだと思いますよ?」
そんなことは分かっている。多分、分かったつもりで本当には理解していないのだろうけど。
「でも、パパとママを探すんだ。そう決めたんだ」
神父は、孤児に案ずるような視線を向けて問う。
「大きくなってからではいけませんか?
大人になってから、ご両親を探すのではいけないんですか?」
孤児は左右に首を振って、その提案を却下した。
「だって、そしたらいないかも知れないもの。どこにも、いなくなってるかも知れないもの。
僕が大人になる頃には、もっとずっと遠くに行ってるかも知れないんだもの!」
何故こんなに気持ちが逸るのかを、孤児自身が今ようやく理解した。
前の村で旅人の少年に出会って、孤児は自分にも旅ができるのではないかと考えた。
両親を追いかける旅が出来るのではないかと。
その少年は、自分には両親がいないと言っていた。
離れていてもパパとママが居てくれるのはいいね、とそう言っていた。
孤児はその時初めて、いつか両親もいなくなるのかも知れないと思った。
だから、急ぐのだ。今ならまだ確実に両親に会える。追いつける。
それを神父に説明しようとした。
「僕は、パパとママと旅をしてたんだ。置いていかれる前から。
どこに行くんだったかは知らないけど、パパは地図を持ってた。
この町に行くんだよ、って見せてくれたもの。ずっと遠くの町だった気がする。
だから追いかけるんだ。パパとママが行く町に着いたら、そこできっと会えるもの!」
神父はじっくり数秒考えた。
そうしたいと願う孤児の気持ちも理解した。
けれど、まだ年端も行かない子供を、長い旅路に送り出す気にはなれなかった。
「ご一緒してくださるという方は何と仰ってるんですか?
お止めになりませんでしたか?」
まともな大人なら止せと言うだろう。だけど、悪魔は違う。
「何にも。好きにしろって。僕の勝手だからって」
そんなことを知らない神父は首を傾げる。
「でも旅には同行してくれるのですね?不思議なほど物分りがよろしいですね」
「勝手なんだ。あいつだって。
僕が死んじゃうと困るからついて来るだけだもの」
孤児の言葉に、神父は少し厳しい顔をした。
「いいですか、旅をすることは大人でも大変なことです。
君の旅に付いて来てくれる人に、そんな言い方をしてはいけません」
それは全くその通りだと思えたので、孤児はごめんなさいと謝った。
孤児の言い分は実の所丸きり正しかったのだけれど。
「もう一度ゆっくり相談するのがよろしいかも知れませんね」
神父は、端的に言えば孤児に旅を諦めさせるつもりでいた。
親を慕う気持ちは分かるけれども、少なくとも働ける年齢になるまでは待つべきだと思った。例え大人が付いて行くにしても。
寧ろ、その同行者を説得すべきではないかとも。
「もしよろしければ、同行して下さるという方にも、私から旅のお話をさせて頂きたいと思います。よろしくお伝えください」
どうだろう。悪魔は教会なんかに来るだろうか?
そう考えながら、これでこの話はおしまいなのだと孤児は察した。
悪魔は来ないかも知れないなと思いつつ、椅子から立ち上がって、ふと神父に尋ねてみた。
「神父さまは悪魔って信じる?」
神父はきょとんと孤児を見返した。
「悪魔、ですか?」
「そう、悪魔っていると思う?」
少し笑う。
「そうですね、きっといるのだろうと考えておりますよ」
「僕が悪魔に会ったって言ったら、信じてくれる?」
「信じます」
毛程も揺るがぬ微笑のままで、神父は頷いた。
子供の戯言と侮ったのではない。本当に、孤児の言葉を信じるが故の返事だった。
その言葉を嘘だとは到底思えなかった孤児は、意を決してこう言った。
「あのね、僕、悪魔といるんだ。
旅について来るのは悪魔なんだよ」
神父は目を丸くした。
悪魔の存在を信じるかと聞いた時よりも、神父の顔には驚きが映っっていた。
「僕、悪魔とゲームをするって約束したんだ。
パパとママに置いていかれた時、悪魔が来てね、契約しないと僕を食べてやるって言ったの。
だから、じゃあゲームをしようって僕は言ったんだ。
名前当てっこ。悪魔が僕の名前を当てたら悪魔の勝ち、僕が悪魔の名前を当てたら僕の勝ち。
悪魔は僕とゲームをするためについて来るんだよ。悪魔が勝ったら、僕は魂を取られちゃうんだ」
それだけ聞いて、神父は神妙な顔色で孤児に問うた。
「その悪魔は今どこに?側にいますか?」
「知らない。でも広場までは一緒に来たよ。町のどこかにはいると思う」
その後は分からない。どこかで好き勝手しているのかも知れないし、そうでないかも知れない。
神父の表情には、半分戸惑いが、半分思案の色があった。
嘘とは言わないまでも、何かの勘違い、或いは本当のことなのか、判断つきかねている様子だった。
「神父さまは悪魔を追い払える?」
孤児が問う。
神父は、難しげな表情で首を傾げた。
「分かりません。私はまだ悪魔に出会ったことがありませんから」
「もし悪魔が来たら、追い払えると思う?」
「天なる父のお慈悲があれば恐らくは……」
神父の正直な答えに、孤児はぽつりと呟いた。
「じゃあ、悪魔が僕との約束を破って僕を食べようとしたら、助けてくれる?」
「えぇ、必ずきっと」
力強い口調で、神父は約束した。
孤児は少し安心したように笑った。
「ありがとう神父さま。ちょっと悪魔が怖くなくなったよ。
僕に旅が出来るかどうか、悪魔に聞いてみるね。あいつは意地悪だけど、僕よりはずっと物知りなんだ」
悪魔と旅をするのは怖い。いつ食べられてしまうか分からない。
ゲームも怖い。負けたら魂を取られてしまう。
でも、一人ぼっちは、もっと怖い。
寒い夜に怯えながら過ごすのも、孤独な草原で帰らない両親を待つのも、もうごめんだ。
だから孤児は旅をする。両親を探すため、いつか悪魔の手から逃れるため。
神父が礼拝堂の戸を開けてくれた。
「お邪魔しました」
丁寧に礼を言って出て行こうとした時、孤児は見た。細い小道の向こうから悪魔がやって来るところだった。
礼拝堂の側まで来て、悪魔は孤児に言った。
『迎えに来たよ坊や』
孤児は神父の服に縋りついた。
「悪魔だ!こいつが悪魔だよ神父さま」
悪魔を指差して叫ぶ。
悪魔は少し驚いた様子で、神父に向かって困ったように笑って見せた。
神父はまじまじと悪魔を眺めた。
「本当にあなたは悪魔なのですか?」
『まさか、そんな。私が悪魔に見えますか?』
冗談でしょう?とでも問うように、悪魔は否定した。
悪魔が悪魔だとは、一見しただけではとても分からない。
上等そうな服を着たひょろりと背の高い優男。そんな風にしか見えない。
神父の目にも、そんな風にしか映らなかった。
「嘘だ!そいつは悪魔だ」
そう言い張る孤児に、悪魔は言った。
『坊や、頼むから私を困らせないでおくれ。
お前は頭の良い子だから分かっているんだろうけど、お前みたいな小さい子がそう言うと、何もしてなくても私がお前を苛めてるみたいに思われるんだよ』
「何もしてないだって?嘘つきめ!」
『確かに大声でお前を叱ったのは悪かったけれど、それはこうしてお前が一人でどこかへ行ったりするからじゃないか。
私は心配して言ってるんだぞ?』
悪魔の嘘は巧みで、悪魔が孤児を叱ったことなどないけれど、まるでそれが悪魔への拒絶の理由のように聞こえた。
孤児はそれも嘘だと言ったけれど、悪魔の嘘は孤児の言葉より神父の信頼を得るに足りた。
孤児が子供で、悪魔が品の有る大人に見えたからというのもあるし、悪魔がどうこうという話より悪魔の言い分――子供が叱られて飛び出したという話の方が、分かりやすくて有りがちだったのもある。
神父は悪魔に尋ねた。
「貴方はこの子の保護者ですか?」
『そうです。この子の叔父にあたります。
今はこの子の両親のところに行く途中です』
叔父さんなんかじゃない、と言う孤児の言葉に、悪魔はわざわざ悲しそうな顔までして見せた。
更に神父は問う。
「ご両親の所へ?」
『えぇ、病気で療養所にいますので。この子と見舞いに行くのです』
「それはお気の毒に……。お二人の病が早く癒えますように」
神父は祈った。半ば以上悪魔を信用してしまったようだ。
無理もない。人間は信じたいものを信じてしまう。非常識な真実よりは、常識的な嘘の方を。
おまけに、人を騙すのは悪魔の仕事で、人を信じるのが神父の仕事なのだ。
「坊やは、ご両親に捨てられたと言っていました。だから自分の足で会いに行きたいと。
その気持ちは汲んであげるべきですが、年端も行かない子に旅は危険でしょう。心配だったのです」
『そんなことを言いましたか』
悪魔は驚いて呆れた顔で孤児を見た。
孤児にはもう、悪魔を睨み返すことしかできなかった。神父はすっかり懐柔されてしまったように見えたからだ。
『お父さんとお母さんは坊やを捨てたんじゃないよ。そう言ったろう?
病気を治すために遠い病院に行ってしまっただけじゃないか。
お前があんまり言うから、こうしてお見舞いに連れて行ってもあげてるじゃないか』
神父が止めに入る。
「どうか叱らないであげて下さい。きっと寂しいのでしょう。
子供が母や父を恋しがり会いたいと思うのは当然のことです」
孤児の背にそっと当てられた神父の手は、力強くて温かかった。
けれどその手は、孤児をそっと悪魔の方へと連れて行った。
孤児は悪魔の前に立って、黙って悪魔を見上げた。
悪魔は唇の端に笑みを浮かべながら、孤児の手を取った。
『さぁ、帰るぞ坊や。
お世話になった神父さんにお礼をしなさい』
「ありがとうございました、神父さま」
項垂れるように頭を下げて、孤児は神父に礼を言う。
礼拝堂から微笑みながら見守る神父に見送られ、悪魔に連れられて、孤児は細い小道を戻って行った。
「嘘つき」
孤児は傍らを歩く悪魔に言った。
「この嘘つきめ!ほんとは悪魔のくせに!
叔父さんじゃないくせに!パパもママも病気なんかじゃない!」
悪魔は哄笑を上げて答えた。
『そうさ!私は嘘吐きさ!悪魔は嘘をつくのが仕事なんだ、昔からそう決まってる』
けらけらと響く悪魔の声が耳障りだ。
『でもお前だって嘘吐きだ。
ズルをしようとしたな?あいつに私を追い払わせる気だったろう?無理だけどな、そんなこと!』
孤児はむっつりと黙り込んだ。図星だったからだ。
私は何でもお見通しさ、と悪魔が囁く。
「お前は嘘吐きだ。パパとママは病気なんかじゃない、僕を置いていなくなったんだ……」
呟く孤児に、悪魔は笑んだ。
『そうさ、おチビちゃん。よく分かってるじゃないか。
お前は捨てられたんだよ、可哀想な灰色子犬パピーグレイちゃん』
せせら笑う悪魔を、孤児は思い切り睨みつけた。
おぉ怖い、と肩を竦める悪魔の仕草が腹立たしい。
『睨んだって駄目さ。お前は私とゲームをするんだ。
旅をしながら。パパとママを見つけた後も。ずっとさ、私かお前が勝つまでね』
「そんなの分かってるよ」
と答える孤児に、悪魔は、
『じゃあ今日の二つ目だ』
とゲームの続きを持ちかける。
『ヴァン』
「ニーテ(はずれ)」
『ローレンス』
「ファルシュ(違う)」
二つ目、三つ目は外れ。少し考える素振りをして四つ目。
『ヤコブ』
「!」
突然、孤児の顔が強張った。
目を見開いて、青い顔色で、ぎゅっと唇を噛み締める。
『どうした?』
悪魔が聞き返す。
まさかもう当たったなんて思わない。そんなに簡単に当たるまい。
不思議そうに首を傾げた悪魔に、
「ガンツフェアシーデン!」
孤児は大声で怒鳴りつけた。
そして、悪魔がびっくりしてぽかんと立ち尽くしている間に、どこかへ走り去ってしまった。
啜り泣いている孤児の頭の上から、不意に影が落ちる。
目の前に悪魔が立っている。
小川の畔の草むらで、膝を抱えて座り込んでいた孤児は、あっさりと悪魔に見つかってしまった。
『どうしたね、おチビちゃん?何を泣いているんだい?』
孤児は涙と鼻水を拭って、気丈な目で悪魔を見た。
「何でもないもの……あっちへ行けよ」
悪魔はにやにやと愉快気に笑った。
『嘘はいけないなぁ、シュガーパイちゃん。何でもない訳ないじゃないか』
何でもない訳ない。
孤児はすぐ隣に悪魔が腰を下ろすのを、黙って見ていた。
『話しておしまいよ、可愛い坊や。私が味方になってあげるよ』
そんな言葉を信じたつもりはないけれど、孤児はそっぽ向いたままでこう零した。
「僕、旅のことなんて何にも知らない。
今までは……ずっと、パパとママがしてくれてたもの。
みんな、パパとママがしてくれてたんだ……」
それを聞いて、悪魔は呆れた声を出す。
『そんなことで泣いてたのかい?
だったら少しずつ覚えればいいじゃないか。だってお前はまだ小さいんだもの』
だけれど、孤児は暗い面持ちのままだ。
「僕、旅できないかもしれない……そしたら、パパとママに会えない」
これに悪魔は笑い出した。
『今更、何を、言い出すんだ?この小さな詐欺師の坊やは!
私を利用すればいいじゃないか。私はお前に死なれちゃ困るんだから、それを盾にして私にあれこれさせればいいじゃないか。
最初からそのつもりだっただろう、お前は?私を言い包めて上手く使ってやるつもりだったんだろう?』
それでいいじゃないか、全くそうすればいい!と悪魔は言う。酷く楽しそうに。
『私はね、お前のそういう小ズルいところが、ちょっと気に入ってるんだよ』
孤児は悪魔を見上げた。
波打った黒髪に鋭い赤い目、真っ黒な服を着て、尖った牙と爪を持つ恐ろしい悪魔。
だけどその恐ろしさは、今のところ孤児には向けられていないのだ。
「……お前は僕を食べるの?いつか僕のこと食べちゃうの?」
孤児が問うた。悪魔が答える。
『食べたりしないよ、今はまだ。ゲームが終わった後は知らないけどな』
それはとても正直な答えだったから。
孤児も正直に、怒鳴ったりした訳を教えてやることにした。
「……パパの名前だったんだ」
ぽつりと、孤児は言った。
『パパがどうしたって?』
「ヤコブって、パパの名前だったんだよ」
それだけ。ただそれだけのことが、とても寂しかったのだ、と。
悪魔が尋ねる。
『じゃあ、ママの名前は?』
「エヴァ」
『お前の名前は?』
じろりと、孤児は悪魔を睨みつけた。
「教えないよ」
『残念だ』
くつくつと、悪魔は笑い声を漏らした。
十一、 幕 ――