九、 聖地パラディン
小高い丘の上に一本の樹が立っている。
大人が十人手を繋いでも抱えきれない幹は、そのまま樹の歴史を表している。
草原を行く街道は丘を越えて伸び、樹の枝々が作り出す木陰は旅人の良い休憩所となっていた。
眩しい陽光が中天から差す今、そこに人の姿は無い。
代わりに樹の天辺――真っ直ぐ空を指した梢の一葉に、天使が立っていた。
翼を広げ、枝を揺らす風に金の長い髪を靡かせている。
『――良くない風だ』
天使は呟いた。
次の瞬間、ざわめきを残して他、そこには何も無くなっていた。
悪魔と孤児は町に着いた。
これと言って特色の無い、ごくごく普通の町だ。
家はレンガ造りで通りは石畳。日に何度か巡回馬車が行き来して、人や物を運ぶ。
こじんまりとした家々が並び、町で一番大きな建物は町役場。次が馬車駅と教会という、面白みのないのどかで素朴な町だった。
そんな町に一泊滞在するつもりで、まずは町を散策していた孤児は、そこらの家の軒先に下がる小さな看板に目を止めて、傍らの悪魔に尋ねた。
「ジョン、あれは何?」
盾の形をした小ぶりな看板には、杖を持つ老僧侶の横顔が描かれていた。
『あれは巡礼宿だな』
と悪魔は答えた。
「じゅんれい?」
『聖地を旅して歩く奇特な連中のことだよ。
ほら、居たろう?鼠色のマントを羽織って杖をついた、首から十字架を提げた連中が。
そういうのを安く泊める宿だよ』
孤児は街道で見かけた巡礼者の姿を思い出した。
成る程、確かに看板の僧侶は巡礼者の出で立ちをしている。
「じゃあ僕たちもそこに泊まろうよ」
金の心配など無用だが、安いという響きと物珍しさもあって、孤児はそんなふうに提案してみた。
が、悪魔はいつもの軽薄な笑みのままで、左右に首を振って見せた。
『残念だな坊や、巡礼宿は巡礼者しか泊めないんだ。
お前は巡礼者じゃないだろ?だから普通の宿だ』
孤児はやや不服そうに尋ねる。
「どうして?だって宿屋なんでしょう?」
『巡礼宿はな、普段は普通の店か普通の家をしてるのさ。
つまるところ、宿屋じゃなくて善意の輩ってところだな』
巡礼は、単なる観光ではない。聖典に記された奇跡の土地を自らの足で巡ることにより、信仰と魂を磨く修行の一つとされている。
だから、聖地を巡礼する者は、即ち修行者でもある。
それを手助けすることは、単なる善行でなく、徳を積むことにもなるのだ。
そう説明されては、孤児も文句の付け所が無い。
だから別のことを尋ねた。
「聖地って、どこにあるの?」
『町からちょっと北東に行った岩場だよ』
答えた後で、ふと悪魔は孤児に問う。
『行きたいのかい?』
「うん、行ってみたい」
頷いた孤児に、悪魔は少し考えるような素振りを見せて、
『いいよ。じゃあ明日な』
珍しく快諾の返事をした。
悪魔は気分屋だ。その行動の端々には、意味があるし無かったりもする。
その時々の機嫌次第で物事を決めるのだが、一度決めたことには誠実だ。
「約束だね」
『あぁ、約束だよ』
悪魔は約束を破らない。それが契約を重んじる悪魔の信条だ。
だから、悪魔が約束だと言った時は、孤児はそれを信用するのだ。
「じゃあ僕たちはどこに泊まるの?」
いつも通りの安宿さ。と悪魔は役場近くのこじんまりした建物を指差した。
軒先の木彫りの看板には、ベッドとランプが描かれている。
孤児はその前まで駆けて行った。
ベッドが二つある部屋を一室、一晩の約束で借りる。
案内された二階の角部屋は少し狭かったが、シーツは清潔でベッドは柔らかかった。
南向きで光もよく入るし、窓から通りも見下ろせた。
孤児は二つあるベッドの窓際の方によじ登って、外を見た。
悪魔はもう片方に腰掛けて、膝の上に古びた帳面を開いた。
「何それ?」
ぼろぼろの表紙を見て、孤児は首を傾げる。
『宿帳だよ』
悪魔の答えに、孤児は眉をひそめる。
「そんなの勝手に取ってきていいの?」
『ずっと昔のやつだし、ちゃんと返すさ』
そういう問題ではないが、孤児にはそれ以上問いただす言葉が見つからなかった。
「何でそんなもの持ってきたの?」
脆くなった紙をそっと捲る悪魔の手元を覗き込む。
ずらりと並んだ様々な名前、いろんな筆跡。
孤児の目には珍しくも映るが、悪魔が興味を示すような代物だろうか?
『珍しい名前がね、時々載っているんだよ』
さっと目を通しながら言う悪魔に、孤児は顔を向けた。
「ゲームの名前なんだね」
『そうさ』
悪魔は、相変わらずの薄っぺらい微笑。
『今日のゲームをしようか坊や。
私からだ。クライブ』
「ナイン(いいえ)」
『ユーディ』
「ニーテ(はずれ)」
『ニキータ』
「ファルシュ(違う)」
『アルム』
「ガンツフェアシーデン(全然違う)」
『クリストファー』
「残念でした。おしまいだよ」
毎日のゲーム。五つまで名前を挙げて、当てられた方の負け。
悪魔はもう五つ言ってしまったから、今度は孤児の反撃だ。
「ソリム」
『ナイン(いいえ)』
「ダゴン」
『ニーテ(はずれ)』
「ジェームス」
『ファルシュ(違う)』
「カルノス」
『ガンツフェアシーデン(全然違う)』
「う~ん、と……ウィリアム」
『はい、おしまい。残念でした』
どちらも当てられなかった。これで引き分け。
今日も引き分け。
悪魔は再び宿帳を読むのに戻る。
それを眺めていても退屈なだけの孤児は、外に出かけることにする。
いつものように悪魔が、銀貨の入った財布を渡す。
それをポケットに入れて、孤児は宿を出た。
時刻はじき夕方になるが、外はまだ明るい。
通りに出て、左は馬車駅からの道すがら通ってきたので、右に行くことにする。
直ぐ側の角を渡って左側に役場。ずっと先の右手には教会がある。
子供達がはしゃぎながら教会に駆け込んでいくのが見えた。
その後を、買い物帰りらしいお母さんが追いかける。
杖をついた老紳士とストールを羽織ったお婆さんが手を繋いで、聖堂に入る。
孤児はその様子を近寄って眺めた。
次々と、子連れのおばさんや仕事を終えたばかりのおじさんが教会へ入っていく。
尼僧がやって来て聖堂の扉を閉めようとしたところで、孤児に目を止めて手招きした。
「神父様のお話が始まりますよ。いい子で聞いていたら後でお菓子が貰えますよ」
「お菓子?本当?」
そればかりが理由ではないけれど、尼僧に連れられて孤児も聖堂に入った。
一番奥には丸十字が聳え立ち、その前に祭壇が設えられている。
教壇に立つ神父、両脇に並ぶ長椅子。窓は大きなアーチ型で、傾きかけた日が差し込む。
燭台の蝋燭が橙の光を投げかけ、その厳かな空間に人々が座っていた。
尼僧は孤児を前の方の席に案内した。
そこからは神父の姿がよく見える。説教もよく聞こえそうだ。
灰色の髪を後ろに撫で付けて、穏やかそうな顔立ちをした壮年の神父だった。
聖堂の戸が閉じられると、小さく話し声が聞こえていた堂内も静かになる。
教壇の上に聖典を開いて、神父は集まった人達を見回した。
「こんにちは皆さん。役場の花壇に白い花が咲きましたね。爽やかな季節になりました。
これからは巡礼に立ち寄られる方も増えるでしょう。その方の歩まれる一歩が皆さんの一歩ともなりますよう、どうか助力を差し上げて下さい。
今日は聖典の第十一章から巡礼者と乞食のお話を読みましょう」
しんとした聖堂の中に、神父の声は堂々と響く。
神父は聖典の栞を挟んだページを開いて、良く通る声でゆっくりと読み上げる。
それはこんな話だった。
――巡礼者が盗賊に襲われ、命からがら小さな町に辿り着く。
杖も荷も無く、身なりも汚れて草臥れ果てた巡礼者は、道行く人に助けを求めた。
しかし、通りかかる人々はみすぼらしい巡礼者を一目見て、逃げるように去った。
「水を一杯下さい、それだけで結構です」
そう巡礼者は訴えたが、足を止める者はいない。
息も絶え絶えになって倒れ伏した時、そこには乞食が座っていた。
乞食が言った。
「水の一杯くらい差し上げたいが、私にはそれを汲むコップ一つ無い」
巡礼者は顔を上げて、乞食に言った。
「その気持ちだけで十分です、慈悲深い方。
どうかあなたの安息を祈らせて下さい。
私には最後の修行になりそうですから」
恨み言一つ言わぬ巡礼者に感銘を受けた乞食は、天に叫んだ。
「父よ、あなたの子が苦しんでおります! どうかお慈悲を!」
途端、俄かに空が掻き曇り、真っ黒な雲の間から雨が降り始めた。
雷鳴と稲光、激しく打ち付ける雨に、人々は急いで屋根の下へと逃げ込んだが、
不思議なことに巡礼者と乞食だけは雨に濡れておらず、呆然と互いを見た。
巡礼者の前に忽然と、雨で満ちたカップがあった。
巡礼者はカップを持ち上げ、一息に飲み干した。
奇跡だ、と乞食が呟いた。
「あなたの祈りのおかげです。どうか、お礼をさせて下さい」
巡礼者は乞食の手を取った。しかし乞食はこう言った。
「お礼などいりません。ただ、もしこの先恵まれぬ者に会ったなら、
どうか一杯のスープを恵んであげて下さい」
ではせめてこれを、と巡礼者が乞食にカップを手渡した時、
そこには暖かいスープが満たされていた。
二人は驚いた。
空を見上げれば、眩い光が二人の頭上を横切って行った。
それが翼持つ天使だと気付いた時、二人は手を組んで深い感謝と祈りを捧げた。
――
「天の偉大な父はおっしゃいました。人はただ独りで生きるのではないと。
誰かのために差し伸べた手は、必ずあなたに差し伸べられることになるのです。
どうかそれを忘れなきよう。天と父の世が長く続きますように」
丸十字架を握って神父が祈る仕草をすると、聖堂に集った人々は一斉にそれを唱和した。
心優しい貧者が不幸な修行者のために救いを欲し、御使いが与える物語。
教会に行けば、いつだって似たような話が聞ける。
聖典にはこんな話はいくつでも転がっている。
悪魔ならそう言うだろうけれど、それでも孤児がそのよく似た話に感動を覚えるのは、多分孤児自身が救いを求めて、救われる善人を自分に重ねているせいだろう。
だけど、孤児は知っている。
修行者も、聖人も、預言者も、悪魔に屈した者はない。誘惑も甘言も振り払っている。
孤児は違う。悪魔に救われ、悪魔に生かされている。
それが物語の善人と孤児の決定的な違いで、だから孤児にとって物語は慰め以上にはならない。
聖堂の扉が開かれて、人々は順に帰り始める。
孤児は立ち上がったところで、丁度壇上から降りて来た神父に聞いてみた。
「神父さま、神父さまは悪魔の話はしないんですか?」
神父は孤児を見下ろして、それから孤児の目線の高さまでしゃがんだ。
「こんにちは、坊や。悪魔って言うのは、天使様が悪魔をやっつけたり追い払ったりするお話かな?」
優しげな神父の瞳に見返されて、孤児は頷いて答えた。
「そうだね、坊やくらいの子には今日のお話はちょっと退屈だったかな?」
神父は孤児の言葉を、少年特有の冒険嗜好だと思った。
「それじゃあ、明日のお話は悪魔をやっつけるお話にしよう。
そうしたら、明日も聞きに来てくれるかい?」
「明日も?来ていいんですか?」
尋ね返した孤児を、神父は肯定する。
「勿論。明日も、今日と同じ時間にお話をするからね」
神父は立ち上がって、孤児の手を取った。
振り返れば、聖堂に残っていたのはもう孤児と神父、扉の脇に控えた尼僧だけになっていた。
孤児は、神父に連れられて聖堂を出る。
そこで尼僧がクッキーの袋を手渡してくれた。
「どうぞ、坊や。いい子でお話を聞いていたご褒美ですよ」
お礼を言って、クッキーを受け取る。
「さぁ、気をつけてお帰りなさい」
神父と尼僧に見送られて、孤児は帰路に着いた。
空は夕暮れで、太陽も屋根の向こうに沈もうとしている。
通りには、家路を辿る人と馬車。
孤児は宿まで急ごうと、山積みの荷馬車の脇を通り抜けた。
と、折悪しく角を曲がってきた人影と正面からぶつかって転んだ。
『あ!大丈夫かい、坊や?』
女の人だった。すぐに手を伸ばして助け起こしてくれた。
「ごめんなさい、慌ててたから……」
『いや、私も不注意だった』
謝る孤児の膝小僧についた埃を払ってくれる。
長い金髪を頭の両脇で束ねた、まだ二十歳には届かないだろう少女だった。
孤児を見る宝石みたいな緑の目が、ふとクッキーの袋のところで止まる。
『お菓子、割れてしまったね』
見下ろせば、袋の中でクッキーが砕けていた。
『新しいのを買ってあげよう』
「いいよ!食べられなくなったわけじゃないし。教会でもらったんだ」
教会と聞いて、少女は微笑んだ。
『教会?お勉強かな?』
「神父さまのお話を聞いてたんだよ」
そう答えると、少女は更に笑みを深めた。
『君は良い子だ。だが日が暮れるとご両親が心配なさる。
もう大丈夫?怪我はないね?』
「うん、ありがとう。ごめんなさいお姉さん」
『いいえ。気をつけてお帰り』
孤児は手を振りながら少女と別れた。
小さな後ろ姿が人波に消えてから、少女はふと険しい表情を浮かべ、ぽつりと呟く。
『……あの子供から、良くない風……?』
孤児が宿に戻った時、悪魔はベッドに寝そべってくつろいでいた。
「ただいま、ジョン」
『お帰り、坊や』
孤児が財布を返すと、それを懐にしまいながら悪魔は怪訝そうな顔を見せた。
『お前、どこに行ってきたんだい?』
「教会だよ」
孤児の返答に、悪魔は片眉を上げて妙な顔を見せる。
『よくもまぁ、あんなつまらん所へ通うね。物好きな』
「放っておいてよ。そりゃジョンにはつまらないだろうけどさ」
悪魔にとって教会が好き好む場所でないのは知っているが、今まで特に文句をつけたことは無かったのに、今日に限ってというのは不思議だった。
『そんなに大きな教会なのかい?』
「ふつうの教会だったよ?」
『じゃあ何か珍しいものでもあるのかい?』
「神父さまのお話を聞いただけだよ」
『そんなに面白いお話だったのかい?』
「聖典のお話を読んだだけだよ」
あれこれ尋ねる悪魔に、ついに孤児が問い返す。
「何なのさジョン、何が聞きたいの?」
別に、と悪魔ははぐらかした。
『じゃあやっぱりこれが目当てだったのかい?』
悪魔は、孤児の手からクッキーを取り上げた。
袋から一つ摘んで、ぽいと口に放り込む。
「あっ!ズルいよジョン!神父さまのお話を聞かないと、お菓子はもらえないんだよ!」
孤児がむきになって取り返そうとしたので、悪魔は意地悪にクッキーの袋を頭の上に翳して逃げた。
『いいじゃないか、けちけちするなよ』
「もう!悪魔のくせに教会のクッキーなんか食べて、お腹を壊せばいいんだ!」
上着を掴んで引っ張る孤児に、悪魔は降参した振りをして素直に袋を返す。
『腹なんか壊すもんか』
愉快そうに笑う悪魔から、クッキーを背に隠しながら、孤児は膨れっ面を向ける。
「明日もお話聞きに行くから、また貰えたらそっちをあげるよ」
明日?と悪魔は首を傾げた。
『お前明日は聖地に行くんじゃなかったのか?』
「行くよ。でも夕方からは教会に行くんだ。
神父さまと約束したもの」
納得したのか理解したのか、
『約束じゃあ仕方ないな』
と悪魔は頷いた。
悪魔にとって、約束や契約はとても重要なことだ。
契約を守らない者は、最下層の下劣な屑であり、存在する価値のない、蛆虫にも蔑まれるべきカスだというのが地獄の常識だ。
『それじゃあ、明日はちょっぴり早起きだ。
朝から聖地に行って、帰って来て夕方に教会だ』
「うん、ごめんねジョン」
明日の予定を聞きながら、孤児は悪魔の手にクッキーを一つ渡した。
教会の約束がなければ、明日は次の町に向かうはずだったと知っていたから。
『別に私は急いでないさ。旅をしてるのはお前なんだから』
悪魔はクッキーを片手に、孤児の手を取る。
『さぁ、それはもう置いておおき。
今からそんなもの食べたら、晩飯が入らなくなるぞ』
孤児はベッドの上にクッキーの袋を置いて、悪魔と一緒に夕飯に出かけた。
朝になって、いつもより早めに起こされた孤児は、朝食もそこそこに町を出た。
聖地までは少し歩く。
街道を東に行って、丘の手前で北へ上がる道に入らなければならない。
孤児はピクニックに行くようなつもりで、パン屋でお弁当のサンドイッチを買って出かけた。
観光地にもなっているくらいだから道は整っているが、それでも子供の足には遠い距離だ。
段々細くなる道をずっと上っていけば、やがて草原の中に岩場が現れる。
時々休憩を挟みながらも、その頃には孤児はすっかり草臥れていた。
「待ってよジョン……!」
『どうした、もう疲れたかい?さっき休んだばかりじゃないか』
先を行く悪魔を呼び止めて、孤児は膝に手をつき、荒く息をついた。
「こんなに遠いなんて思わなかった……」
悪魔は振り返り、サンドイッチの袋を提げたまま肩を竦めて言う。
『そんなに歩いてないじゃないか。坂道は、まぁ辛いかも知れないがね』
「まだ遠いの?……聖地ってどこ?もう見える?」
目的地が見えたならまだ頑張れる、そう思った孤児に、悪魔は地面を指差して答えて見せた。
『ここだよ。聖地パラディン。もう着いてる。
ここからずーっと見える範囲の岩場全部がそうさ』
孤児は身を起こして、ぐるりと辺りを見回した。
草原の中を上ってくる道。途中で緑は途切れて灰色の砂利に変わり、それらは道の先で大きな岩の連なりになっている。
『もう少し先まで行けば見晴らしのいい所があるぞ。そうだな、あの岩くらいまでだ』
歩き出す悪魔に着いて行きながら、孤児は問う。
「ジョンは、ここに来たことあるの?」
『あるさ』
と悪魔は答えた。
『ずーっと昔にね』
それがいつ頃のことなのか尋ねようとした時、孤児の目に鮮烈な緑が飛び込んできた。
岩場は、丘の頂上にあたるらしい。坂の上から視界を遮るものは何もなかった。
遠くに山が見える。広い草原が広がっている。疎らに森が散らばっている。
空は青くて、天頂近くで輝く太陽が眩しい。
どんな絵画も敵わない景色が、そこに広がっていた。
「きれい」
麓から上がってくる風に吹かれながら、孤児は呟いた。
『お疲れ坊や。来てよかったかい?』
悪魔はいつのまにか大きな岩の上に腰掛けていた。
「うん!」
『それは良かった。私も着いて来た甲斐があると言うものだ』
悪魔は、よじ登ろうとする孤児の手をとって、引っ張り上げた。
岩の上から見る景色も格別だ。疲れた分、余計に価値があるものに思えた。
だけどその時、感動している孤児のお腹がぐぅと鳴いた。
『あっはっは!坊やには聖地なんかよりこっちの方がいいみたいだな!』
悪魔が大笑いしながらサンドイッチの袋を投げて寄越す。
「笑うことないじゃないか」
言い返しながらも、サンドイッチは受け取って、袋を開ける。
卵サラダの挟まったパンを齧っている間は、本当にピクニックに来たように思える。
悪魔は孤児を置いて、岩の上の方へ登って行った。
追い掛けたかったけれど、まだ食事が済んでないし、それに高いところは少し怖い。
綺麗な景色を眺めながら食事を終えた後、振り返れば、悪魔は岩の天辺に腰掛けていた。
そこは下よりも風が強いらしくて、悪魔のワイン色のリボンタイが靡いている。
水筒のお茶を飲みながら、孤児はしばらく景色を楽しんだ。
昼食を平らげてしまってから、悪魔の居る大岩に目を向けた時、ふと孤児は不思議なことに気付いた。
聖地は広い。岩山が聳え立って、草原の中にぽっかり空いた灰色の領域。
だけどそこに見える人影は、今は孤児と悪魔だけ。
孤児は悪魔に声をかけた。
「ねぇジョン、聖地には巡礼の人がいっぱい来るんでしょ?」
『そうだね』
「昨日も、巡礼の人は町にいたよね?」
『そうだったね。何人も宿に泊まってた』
じゃあ、と孤児は尋ねる。
「どうして、僕たちが来てから誰も巡礼の人は上って来ないの?」
悪魔は横顔ににんまりと笑みを浮かべた。
『いいところに気付いたね坊や』
それから真っ直ぐ太陽の方を指差す。
『それはきっとあいつのせいさ』
悪魔の示す先を見ようとして、空を仰いだ孤児は眩しさに目を眩ませた。
手を翳して透かし見た瞬間、降り注ぐ光の中にちらりと白い影が見えた気がする。
『降りて来いよ。黙って覗き見なんて失礼だろ』
悪魔が誰に言っているのか、最初孤児は分からなかった。
ヒュッと風を切る音と共に、悪魔の眼前に矢が飛んで来るまでは。
矢尻に炎がともった矢を、悪魔は片手で掴み取って見せた。
手の中でへし折って投げ捨てるところで、孤児はようやく空の上に何かがいるのだと察した。
『重ね重ね無礼な奴だ』
“黙れ!”
その声は、空のあちこちから降って来るように聞こえた。
孤児がもう一度、太陽を避けて空を見上げた時、白い衣の姿が見えた。
陽光に照らされて輝く金色の髪が、風に流れている。
白い翼を大きく広げ、光の輪を頭上に掲げて、弓をつがえた天使がいた。
天使だ。間違いない。
矢を悪魔に狙い定めながら、良く響く声で言う。
『不吉な風が吹いているかと思えば、汚らわしい悪魔が神聖なる地に何の用だ!
答え次第によっては、その心臓を貫くぞ』
鋭い声音で打たれながらも、悪魔は笑った。
『射抜くだと?その矢で?私を?』
おかしくってたまらないと言う様に声を上げる。
『笑止!たかが二枚羽の小鳥風情が、小枝を振り回して私とやり合うつもりか』
じりりと、急に温度が上がったような気がした。
夏場の日差しに炙られたように、岩の隙間から熱気が漏れ出してくる。
『身の程知らずの小雀め。羽根を毟ってローストにしてやろうか?』
『それが貴様の返事か。元より、薄汚い蝙蝠を捨て置く謂れなど無いわ!』
矢が放たれる。
悪魔の足元に突き立った瞬間、炎が渦巻いて立ち上り、悪魔の姿を火花が包んだ。
「ジョン!」
孤児の悲鳴を、炎の唸りが掻き消す。
だけど悪魔は平然としていた。
『ぬるい火だ』
上着についた火の粉をぱたぱたと払う悪魔のどこにも、火傷はおろか焦げ痕一つない。
『下級の羽虫ごときが、よくも私に弓引いたな』
悪魔の顔には、酷薄な笑みが浮かんでいる。
孤児は慌てて岩を登り始めた。
岩の上はもう汗をかくほど暑く、つんと鼻に硫黄の臭いが届く。
ちらちらと悪魔の周りを漂い始めた火の粉は暗く、炎の橙よりも寧ろ血の飛沫に似ていてぞっとした。
『神のマッチ棒で遊んでいる小鳥に、本物の焔をいうものを見せてやろう!』
言うや否や、岩山の割れ目から溶岩のような業火が噴出す。
宙を舐めるように這い登った炎は、悪魔の掌で丸い大きな塊になる。
天使が弓を引き絞り睨みつけ、悪魔が火球を振り翳したその瞬間、
「だめだよジョン!」
漸く天辺に着いた孤児は、悪魔の足に飛びついた。
肌は熱気を浴びて焼けるように熱いけれど、掴んだ悪魔の上着を離すまいと握り締める。
『オーウェン!邪魔だ、あっちへ行ってろ!』
悪魔が怒鳴りつけるが、孤児は頑として聞かない。
振り払われまいと、しっかり足にしがみ付く。
「だめだよ!だって僕のせいだもの!
聖地に行きたいって言ったのは僕じゃないか!僕のせいだよ!」
孤児は悪魔に精一杯言い返してみせる。
「だからケンカしないでよ!」
それから、天使に向かっても、空を仰いで叫んだ。
「ジョンを殺さないで!」
悪魔の暗い炎とは違う、眩い橙の天使の炎が目に入る。
孤児にとってはどちらも恐ろしい。
だけれど、悪魔と天使の争いを捨て置くこともできなかった。
「僕とジョンはゲームをしてるんだ!名前を当てるゲームだよ!
負けたら僕はジョンに食べられちゃうんだ!
ジョンが死んじゃったら僕の負けになるんだ!」
必死で言葉を考えた。何と言えば天使が矛を収めてくれるのか分からなかったから、本当に必死だ。
「だからジョンを殺さないで!」
天使は戸惑ったような表情を浮かべる。
それを尻目に、悪魔は孤児を睨み付けた。
『おい、お前!私があんな奴にやられるとでも思って……!』
思っているのか!と言い掛けて、悪魔が言葉を途切れさせたのは、天使が弓を下ろしたからだ。
「ジョンももうやめるよね?得にならないケンカなんかしないよね?」
孤児に言われて、悪魔は露骨に眉を顰めた。
見るからに不機嫌な顔で、大きく舌打ちしてそっぽを向く。
悪魔は得にならないことはしない。ただただ天使が気に入らないだけだ。
炎の塊も、漂う火の粉もいつの間にか消えていたけれど、むっとする熱気と硫黄の臭いだけは無くならない。
天使が舞い降りた。
岩の天辺の少し先。翼を閉じて、宙に留まっている。
『今の言葉、本当か?』
天使が問うた。
宝石みたいな澄んだ緑色の瞳が、孤児を見ていた。
「本当だよ。僕が負けたら、僕は食べられるんだ。
でも僕が勝ったら、ジョンは地獄に帰るんだよ」
そう答えながら、孤児は初めて天使の顔を見た。
「お姉さん、天使だったんだ」
驚きは、安堵の感情に埋もれてあまり感じなかった。
天使は、昨日路地でぶつかった少女だった。
『ケッ!だから嫌な予感がしたんだ』
悪魔が吐き捨てるように呟く。
『鼻持ちならない臭いがすると思ったら、こんなところまで出張って来やがって。
人払いの奇跡まで使ってちょっかい掛ける程暇なら、小間使いらしくちょろちょろ働いてろ』
びっくりするくらい冷たい目で、天使は悪魔を睨む。
『醜悪なる輩を排除するも、また神の使者の役目である。
神聖なる地に貴様の如き不浄を立ち入らせるは、我らが父とて許しはせぬ!』
『まるで自分のものみたいな面を……』
また一戦始まり兼ねないと、孤児は二人の間に割り込む。
「もう下りるよ。出てくよ!
ジョンだって戻るでしょ?教会に行く時間だもの!」
『……あぁ、そうだったな』
まだとても不機嫌ではあったけれど、約束を思い出した悪魔はとりあえず気勢を収めた。
と、天使が孤児へ尋ね返す。
『教会?』
「そうだよ。神父さまと約束したから」
不思議そうな驚いたような表情を見せた天使が、少し考えて言う。
『私も行こう』
今度は孤児が驚く番だった。
悪魔も、訝しい顔で天使を斜に見やる。
孤児が両者を見比べる僅かの間、どちらも口を利かず、互いにふいとあさっての方を向いて、さっさと岩山を下り始めた。
孤児も慌てて後を追う。
来る時も歩き疲れて草臥れたけれど、帰りは別の意味で草臥れそうだと思った。
幸い、孤児の心配は杞憂に終わった。
天使は歩かずに空を飛んだ。
それも聖地から離れた頃には姿が見えなくなり、町に戻るまで現れることはなかった。
悪魔はずっと不機嫌だったけれど、これは時たまあることだ。
教会の前に着いた時、いつの間にか隣に天使が並んでいたので、孤児は驚いた。
翼も光の輪も無く、普通の町の人のような格好をしていた。
集まってくる人達と一緒に入り、孤児と悪魔の腰掛けた入り口近くの長椅子に、並んで座った。
暫くして席が埋まり、扉が閉められて、神父が教壇に立つ。
「今日は皆さんにとても身近なお話をしましょう」
神父の声は、後ろの席にいても良く聞こえた。
「聖地のお話です」
と神父は言った。
聖地の物語は、きっと聖典を読んだことのある人なら誰でも知っている。
聖地とは、奇跡が起きたり、天使が現れたり、聖者が生まれたり没したりした土地のこと。
中でも、パラディン――“聖騎士”と名を受けたこの土地は、天使の兵隊が悪魔と戦って退けた、天使に守護された土地だという話だった。
物語は聖典にこう記されている。
――罪人が丘の上で縛り首になった。
首に縄が掛けられた直後、罪人は集まった衆人に叫んだ。
「俺は悪魔に魂を売った!俺は神になんか裁かれやしないぞ!
俺が死んだ瞬間、悪魔共が魂を奪いに来るんだ!」
執行官は構わず罪人を突き落とした。
縄が首に食い込み、罪人は死んだ。
衆人の間にさざめきが広がった瞬間、男の予言は事実になった。
突如死刑台の前に口を開けた大穴から、無数の黒い羽虫と小鬼が溢れ出した。
尻尾のある髭面の小男や、山羊の頭を持つ醜い鬼達だ。
それらは罪人の体を担ぎ上げて穴の縁へ運んだ。
人々は悲鳴を上げて逃げ惑った。執行官は死刑台の上で震えた。
骸になった罪人が、悪魔に大穴へ蹴り落とされようとする一歩手前。
今度は空が割れて、真っ白な光が降ってきた。
神に祈る者達が、世界の終わりだと叫んだ。
光の奔流の中から、白い衣の天使達が現れる。
天上から響く声で、天使は言った。
「悪魔よ退け、天なる父はお怒りである!
咎人を裁きの手に委ね、疾く地の底へと去るがいい」
天使は、天使達の軍団長であった。
天使の前に、黒衣の悪魔が進み出て言った。
「罪人は我等に魂を売った。これがその契約書だ。
罪深き魂は最早神の手に無く、我々の物である!」
交渉は決裂し、まず天使が矢を射掛けた。
天使の矢は、悪魔の掲げる契約の書を射て、燃やしてしまった。
悪魔は怒り狂った。
「契約を傷つけた!我らが王に対する侮辱だ!戦争だ!」
悪魔達は地獄を呼び出した。
地面から溶岩が噴出し、赤く焼けた大岩となって天使を打つ。
天使はこれに応戦して、悪魔の頭上に激しい雷を降り注いだ。
幾人かの天使が、真逆さまに墜落していった。
幾人かの悪魔が、雷に打たれて弾けて消えた。
人間はただ隅で怯えて縮こまっていた。
天使は、巨大な十字架を作り上げた。
悪魔は、魔王の片腕を借りた。
天使が空から振り落とした十字架は、大穴を塞ぎ、多くの悪魔を押し潰した。
悪魔が呼んだ魔王の片腕は、空を飛ぶ天使の軍団を、鷲掴みにして握り潰した。
大勢の悪魔が死に、大勢の天使が散った。
しかし、地獄へ通じる穴を塞がれては、悪魔は手も足も出ない。
黒衣の悪魔は忌々しげに罪人の体を放り投げ、真っ二つに切り裂いてしまった。
「禿鷹どもめ!半分はくれてやる!有り難く巣に持ち帰れ!
だが覚えていろ!残りの半分はこの土地の命から頂く!
草一本虫一匹逃さずだ!永遠に呪われろ!」
言うが早いか、魔王の腕は悪魔達を一斉に抱え込んだ。
直後、地が裂けたかと思うような轟音が轟き、天まで揺らすほどの大地震が起きた。
突然、草原を突き破って、大岩が生え聳えた。
岩は十字架と混ざり合って飲み込みながら、土くれと砂埃を天へと吹き上げた。
始まりと同じく唐突に地揺れが収まった頃、悪魔の群は魔王の腕共々消えていた。
「悪魔は去った!」
そう告げると共に、天使の軍団長は岩山の真上から、銀色に輝く剣を一本落とした。
銀の十字架にも似た剣は、大岩のどれかの裂け目に吸い込まれて見えなくなった。
「聖別された剣で地獄の穴を縫い止めよう。
この地は二度と穢れることはあるまい」
声が響くと同時に、天使達は半分に裂かれた罪人を抱えて天へと上っていった。
人は大地に膝をつき、天使の飛んでゆく光輝く雲の方へ、ずっと祈りを捧げていた。
それ以来、この土地を聖地パラディン――聖騎士の土地と呼ぶようになった。
――
神父の説教の間、悪魔は腕を組んで腰掛けたまま、大人しくしていた。
孤児も勿論、静かにお話を聞いている。
天使がぽつりと、孤児に尋ねた。
『ゲームをしている、と言ったな?』
囁くような小さな声。
多分周りの人間では、孤児にしか聞き取れなかったろう。悪魔はどうか知らないが。
孤児は頷くことで答えた。お説教の間にお喋りするのはいけないことだと教えられていたから。
『何故そんなことを?』
「ジョンが僕を食べるって言ったから」
孤児はできるだけ短く答える。神父のお話を邪魔しないように。
「パパとママが僕を置いて行っちゃった時、ジョンは僕に契約しようって言ったんだ。
でも魂を取られるのは嫌だから、僕はゲームをしようって言ったの」
天使が孤児を見下ろす。
『どうしてそんな方法を選んだ?』
その問いに、孤児は答えられない。
真っ暗な草原の夜を一人ぼっちで過ごしながら、孤児は神さまに祈っていた。
早くパパとママが帰ってきますように、と。
だけど両親は孤児を捨て、代わりに孤児に手を差し伸べたのは悪魔だった。
いつだったか、大きな教会のある大きな街で、魔眼の尼僧に同じことを話した時、孤児は神さまには助けてもらえないと思っていた。
孤児は悪魔に救われて生き長らえたから、きっと神さまは孤児を許してなんてくれないのだと。
それを、今目の前の天使に尋ねるのは恐ろしかった。
もし肯定されてしまったら、本当に神さまを信じられなくなる。
「だって……怖かったんだもの」
辛うじて、孤児は曖昧な答えを返した。
悪魔が怖かったのか、死んでしまうことが怖かったのか、捨てられたと認めることが怖かったのか、独りになることが怖かったのか。
どの意味にも取れるように、天使はどの意味にも取った。
『そうか』
とだけ、短く呟く。
神父の話が終わった。
祈りの言葉の唱和が終わると、集まった人々も各々席を立って帰り始める。
『子供よ、オーウェンと言ったな』
ささやかなざわめきの中で、天使が言った。
『私の名はマリオン。咎人に最後の慈悲を与える“罰を量る天秤”。
君が罪人なら私の職務と思ったけれど、その必要は無さそうだ』
すっくと立ち上がる。
最後に、毅然と悪魔を見下ろして言った。
『貴様が一刻も早く、永遠に地の底に封じられることを祈っているよ』
悪魔は憎憎しげに鼻で笑って見せた。
『今度会ったらローストチキンにしてやるよ』
皆まで聞かず、ふいと踵を返して、天使は教会を出て行った。
少し待って、孤児と悪魔も町の人に紛れて教会を出る。
と、扉のところで尼僧が孤児に話しかけた。
「こんにちは坊や。今日のお話はどうでした?」
今日は小さなキャンディの包みを渡してくれた。
「とても面白かったです。神父さまにありがとうございましたって伝えてください」
孤児は答えた。
そうですか、と尼僧はにっこり笑った。
「神様はいつも坊やを見守ってくださっていますからね。
もし坊やが悪魔と出会うようなことがあっても、何も怖がることはないのですよ」
尼僧の微笑みは、優しさと慈しみそのものに見えた。
だから、尼僧には笑んで答えた。
「はい、僕は悪魔なんかには負けません」
これは本心。
先に階段を下りた悪魔が、振り返って孤児を呼ぶ。
「おい、行くぞオーウェン」
夕方の日の光の中を、孤児は悪魔を追いかけて駆け下りた。
「ねぇジョン。マリオンは、天使の兵隊さんだったのかなぁ?」
日が暮れて宿に戻り、湯を浴び温まって布団の中に潜り込んだ孤児が問う。
『違うね。羽根が一対だったろう?あれはもっと下の、小間使いのような奴らさ』
悪魔はやけにはっきりと答えた。
「どうして分かるの?」
『名乗ったじゃないか。“罰を量る天秤”と。“天秤”は下から二番目の階級だ』
孤児は、悪魔が天使について詳しく知っているらしいことを不思議に思った。
『教会なんぞつまらんが、今日のお話は少し面白かった』
ぽつりと悪魔が零す。
『人間にはああいう風に見えるんだな』
その言い方が、孤児にはお話が間違っていると言われたように聞こえた。
「お話は違うって言うの?」
悪魔はふふ、と含み笑いを漏らした。
『あそこは聖地なんかじゃないのさ。人間の言う意味においてはな』
それは驚くべき言葉だ。
「違うの?!」
孤児は飛び起きた。
『お前達の言う意味では、だ。つまり聖なる土地と言う意味ではな。
天使と悪魔が喧嘩して、痛み分けした。どっちが勝った訳でもない。そういう土地だ』
「でも悪魔は追い払われたんでしょ?」
そう言うと、悪魔は分かってないなと呟いた。
『お話の悪魔は罪人を半分と、残りは土地からせしめただろう。天使はどうだ?
半分ぽっち持って帰っただけじゃないか。結局儲けたのは悪魔の方、大損こいたのは向こう側さ。
我々はどこにでも居る。どこへでも行ける。地獄はどことでも繋がっている。
あの岩山さえなければ、聖地にだって地獄まで穴を開けてやるさ』
「岩?岩がなんなのさ?」
孤児が首を傾げる。
悪魔は神妙な顔で言葉を紡いだ。
『突き出た岩は魔王様の牙。それと、奴らが落とした十字架の成れの果て』
だからあそこは寝所なのさ、と言った。
魔王様が眠る寝所の扉。そこに剣が突き立っている。迂闊に抜いて起こそうものなら、朝飯代わりにぺろりと食い殺されてしまう、と。
『確かに悪魔は退いた。だけどあそこは、天使が退いた土地でもあるんだ』
地獄の息吹を浴びて永く草木は実らず、聖剣に守護されて二度と地獄と繋がらない土地。
永遠に穢れず、永遠に祝福を受けられない土地。
その土地の名を、パラディンと言う。
孤児は思った。
もしかして、悪魔はその戦いを見ていたんじゃないかと。そこにいて、天使と戦ったのかも知れないと。
だけどそれを尋ねることはできなかった。
再び横になった孤児に、悪魔がそっと布団を掛けて囁いたから。
『もうお休み』
言いながら、悪魔はランプに手を伸ばす。
孤児は悪魔の方を向きながら、肩まで布団をかぶった。
ふと悪魔が問う。
『坊や、聖地は好きかい?』
「好き。景色がきれいだったもの」
その答えを聞くと、
『そうか。私も大好きさ』
悪魔は見たことない程晴れやかににっこり笑うと、
ふっとランプを吹き消した。
九、 幕 ――