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悪魔と孤児  作者: 黒衛
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序、 



お天道様が真上にある頃、真っ直ぐどこかへ向かう白い細い道以外は空と雑草しかない草っ原で、両親は子供にこう言った。

「いいかい、すぐに帰ってくるからね。必ず迎えに来るからね。

 だから決してここを動いちゃいけないよ、坊や。

 わかったね?」

子供はその言葉を信じて頷いた。

両親は連れ立って、白い細い長い道を真っ直ぐに歩いていった。二人は、一度も子供の方を振り返らなかった。

子供は両親の言いつけを守って、一歩もそこから動かずに待った。

お腹が空いたけれど我慢した。喉が渇いた時には、小さな水筒の水を飲んだ。

真夏でなかったことは幸いだ。

太陽が沈んでしまって、夜が来た。

寒かったけれど、子供はそこで丸まって眠った。

そろりそろりとお日様が昇りだす頃、子供は目を覚ましたが、見渡す限り両親どころか人っ子一人、野良犬一匹だって居やしなかった。

太陽がもう一度空の一番上に上った時、最後に一回だけ辺りを確かめて、ついに子供は諦めた。

両親は二度と帰ってこないのだと、心の底から認めた。

子供は立ち上がった。

両親が帰ってこないのなら、ここでこうしていても死ぬだけだ。

もう自分には親など居ないのだと理解して、何とかして生きる術を探さなければならなくなった。

まずは人の居る町に行かなくてはならない。

そう思って、両親が向かった白い道に一歩を踏み出した時、

『どこに行くんだい、おチビちゃん。もうママには追いつけないぜ』

背後からそんな声が聞こえた。

子供が振り返ると、一体いつの間にそこにやって来たのだろう。

黒い服を着た、多分まだ若い男が腕を組んで突っ立っていた。

真っ黒な髪を波打つように逆立てていて、背はひょろりと高い。上着の下の白いシャツには、子供の目にも上等なワイン色のリボンタイと、袖を止める金ぴかのカフスボタンが眩しかった 。

吊り上って狐みたいに細い目を更に細め、酷薄そうな薄い唇を三日月形に歪めて、男はニヤニヤと笑っていた。

その瞳はびっくりするほど真っ赤だった。

「おじさん、誰?」

子供の問いかけに、男は少なからずショックを受けたようだった。

『おじさん?!私はまだそんな年じゃないぞ!

 ちゃんと見ろよ、ほら!』

「僕から見ればおじさんだよ」

反論する要素を全く見出せなかった男は、口の達者な子供だとぶつぶつ呟きながら、気を取り直すと同時に腕を組み直して、

『私は“悪魔”だよ』

と言った。

今度は子供がショックを受ける番だった。

悪魔。

教会の神父さまが話す物語では聞いていたが、実物を見るのはこれが初めてだった。

そもそも、周りの大人達も誰一人、神父さまや尼僧達でさえ、悪魔を見たと言う大人は居なかったのだが。

子供は息を飲んで問うた。

「本当に悪魔なの?」

『本当も本当さ。何より、お前はもう私を悪魔だと信じているだろう』

子供は、男が突然背後に現れた訳を知った。

確かに、悪魔でもなければ足音一つ立てずに、突然その場に現れるなどという芸当はできないだろう。

男が現れる直前に、子供は周囲に誰も居ないことを確かめたのだ。

子供の膝より低い草しかない原っぱのど真ん中で、両親が帰ってくることを祈っていた子供が、人の姿を見逃すはずなどない。

とすれば、男はその時ここから見える範囲にはどこにも居なかった。

そして、一瞬後にはそこに居た。

「わかった。おじさんは悪魔だね。

 それで、悪魔が僕に何の用なのさ」

おじさん、という呼び方に悪魔は一瞬不服げな顔を見せたけれど、すぐにニヤリと笑みを浮かべ、

『古今東西、悪魔が人間に有る用なんて決まってる。

 だからお前も震えているんだろう、可愛い坊や?』

組んだ腕の片方で、子供を指差した。

教会で“悪魔に弱みを見せてはいけない”と教わっていた子供は、気丈に悪魔を見返していた。

けれど、悪魔ともあろう者が幼い子供の膝の震えに、気がつかないでいるはずもなかった。

子供の両手は、知らずの内に自分の上着の裾を強く握り締めていた。

勿論子供は怖かった。

悪魔の一部、髪の毛でも指先でもゆらゆら揺れるリボンでも、どこでもいい。とにかく悪魔の一部を見ていると、背筋がぞくぞくとして、こんなところにはもう一秒だって居たくないと思うのだ。

だけれど、何故か腰から下にちっとも力が入らなくて、子供は逃げ出すことさえできないでいた。

悪魔はまるで炎のように見えた。

お日様の光に照らされて、原っぱの中に突っ立っている様は、どこかの小金持ちの若造にしか見えないのだけれど、近くに寄ればわかる。

突然地面から噴き出した炎のようだ。

じりじりと焼かれるような、恐ろしい火の塊が近寄ってくるような、そんな風に感じるのだ。

そう思うと、子供は今にも悪魔が火を吐いて、自分を焼き殺してしまうのではないかと考えた。

さっと自分を捕まえて、頭からばりばりと齧られるのではないかと考えた。

一秒一秒どんどん恐ろしくなって、とうとう子供の目は涙で一杯になり、もう悪魔を見ていられなかった。

それを見て悪魔はとても楽しそうに言った。

『おやおや、可哀想なおチビちゃん。どうして泣くの?  わかった。ママが居ないからだね。

 だって私はお前を焼き殺したり、頭からぺろりと食ってしまったりはしやしないもの』

悪魔には子供の考えなどお見通しのようだ。

『お前が誰にどんな風に教わったかは知らないけどね、悪魔は人間を食べたりはしないのさ。

 悪魔がすることはたった一つ。人間の望みを叶えてあげるんだよ』

悪魔は子供の前にちょこんとしゃがんで言った。

丁度、子供と悪魔の頭の高さが同じになった。

「嘘だ。悪魔はとても邪悪だって神父さまが」

『その神父さまは悪魔と会ったことがあるのかなぁ?』

子供は答えられなかった。

子供が神父さまにそう尋ねた時、神父さまは笑って「幸いなことにまだ無いよ」と答えたのだ。

『そりゃ悪魔だってタダで願い事を叶えやしないさ。

 お前だってキャンディを買う時はお金を払うだろう?

 悪魔にだって、願い事と引き換えに何かを差し出さなきゃいけないのさ。

 それが邪悪なことなのかい?』

やはり子供には答えようが無かった。

子供はまだ経済の仕組みも知らなかったから。

悪魔はニコニコと笑って子供に言う。

『さぁもう泣くのはお止し、フェアリーちゃん。

 お前にはこの私がついている。

 お願い事をしてごらん。どんなお願いでも叶えてあげるよ』

俯いてしまった子供は、辛うじて答えた。

「でも、僕お金を持ってない」

それを聞いて、悪魔は声を上げて笑い出した。

悪魔は子供の顔を覗き込む。

しゃがんだ膝に両手を揃え、小首を傾げたのっぽの悪魔の姿は滑稽ですらあったけれど、子供にそれを笑う余裕はどこにもなかった。

『悪魔はお金でなんか取引しないのさ。

 人間は、人間なら誰もが持ってる一番綺麗なもので、悪魔に払わなきゃいけないんだ』

魂のことだ、と子供は察した。

途端、悪魔は何だか弁解臭い言葉を紡ぐ。

『だけれどね、別にお前が痛い思いをしたり、酷い目に会ったりするわけじゃない。

 お前がしなきゃいけないのは、「お前は私と取引する」。そう言うだけでいいんだよ。

 それだけで、お菓子もおもちゃもパパやママも、みんな思い通りになるのさ』

さぁ言ってごらん、と悪魔は言ったけれど、子供は口を噤んで頭を左右に振るだけだった。

『やれやれ。お前も頑固な子だね、野苺ちゃん。

 ここで私と取引しなきゃ、お前は死ぬんだよ?

 私はお前なんか食わないけれど、野犬や狼はお前を見てご馳走だと喜ぶだろうね』

そんなことは子供にも分かっていた。

だけれど、悪魔に魂を抜かれてしまうのも嫌だった。

『意地っ張りめ。しょうのない可愛子ちゃんだ。

 じゃあ、お前の名前を教えておくれ。そろそろ呼び掛けのネタも尽きてきた』

呆れたように言う悪魔に、子供は潤んだ目で見返して、言い返す。

「悪魔に名前を教えちゃいけないんだ。

 悪魔は、名前を知らない人間にはあまり悪戯できないんだ」

悪魔が初めて驚いた顔を見せた。

だからつい、子供は口を滑らせてしまった。

「悪魔は名前が大事なんでしょ?

 悪魔は名前を知られると、そいつの家来にならなきゃいけなくなるんだ」

それを聞いた途端、悪魔の顔色が変わった。

眉が跳ね上がり、赤くて細い目はぎらぎらと輝いて、始終浮かべていたニヤニヤ笑いは消え失せ、かっと耳まで裂けた口の間から鋭い牙が覗いた。

周囲に強い硫黄の臭いが漂い、悪魔の足に踏みつけられた草が見る見るうちに枯れていく。

『生意気な糞餓鬼め!』

悪魔の怒鳴り声は、目の前に雷が落ちてきたかのように、地面と子供を揺すぶった。

大きく開いた口の奥に、ちらちらと燃える炎が見えた。

『さっさとお前の名前を教えるんだ!

 さもないとお前を頭からばりばり食っちまうぞ!』

子供はここが踏ん張り所だと覚悟して、恐ろしい悪魔に必死で抵抗した。

「お前こそ消えろ!

 お前こそ、僕を脅かして名前を聞かなきゃ、僕に意地悪だってできないくせに!」

途端、ぷしゅりと空気が抜けるような音を立てて、悪魔の怒りはどこかに行ってしまった。

悪魔の顔にはまた、ニヤニヤ笑いが浮かんでいた。

『成るほど。お前は頭のいい子だね。

 それに悪魔について少しは知っている』

何かがひどく楽しくて仕方ないといった顔だった。

『それじゃあ、そのお前の良い頭に尋ねよう。

 お前が一体独りで、どうやって町まで辿り着くつもりだね?私の力も借りずに』

子供は言葉に詰まった。

それが、限りなく不可能に近いことは分かっている。

食べ物は無い。水も残り僅か。

太陽は既に中天で、今から出発して子供の足で日暮れまでに着ける距離には、町も村もないだろう。

子供にまだ両親が居た頃、歩きながら見せてもらった地図には、とても離れたところに、ぽつりと村が書かれているだけだった。

そこまでは、大人の足で丸二日かかると父だった男が言っていた。

「道はあるもの…。迷わずに歩けばきっと…」

力無く零した子供に、悪魔は容赦なく告げる。

『途中には森があるぞ。きっと狼が出てくるなぁ。

 お前、火は起こせるのかね?食べ物は探せるかい?水は?』

子供は泣き出しそうになった。

『ほぉら、やっぱり』

悪魔は勝ち誇ったように言う。

『さぁさぁ、可哀想なチェリーパイちゃん。

 お前は決めなくちゃいけないよ?

 ここで私と取引するか、それとも狼に食われて死ぬか』

悪魔は満面の笑みを見せた。

子供は涙を溜めた目で悪魔を見上げた。

「取引はしない。お前に名前も教えない」

『じゃあ死ぬんだね?』

悪魔の笑顔に、子供はきっぱりと首を左右に振って答えた。

「死なない。狼にも食べられない。

 僕はお前とゲームをするんだ」

『ゲームだと?』

悪魔はひどく訝しげに子供を見返した。

「そうさ、ゲームさ。悪魔はゲームが好きなんだろう?

 僕がお前の名前を当てたら、僕の勝ち。お前は地獄に帰って、二度と僕の前に現れない。

 お前が僕の名前を当てたら、お前の勝ち。僕はお前に魂をあげる」

『私が当てる前にお前が死んだら?』

「僕の勝ち」

子供はさも当たり前のように言ってのける。

『それは公平なゲームじゃないぞ』

「そんなことないよ。

 僕が当てる前にお前が死ねば、お前の勝ちだもの」

むむぅ、と悪魔は眉間にしわを寄せて唸った。

『いいだろう!その位のハンディはくれてやる!

 どうせお前に私の名が当てられるわけが無い!

 つまりこれは、私がどうにかしてお前から名前を聞き出すゲームなわけだ』

悪魔は子供の鼻先に長い指を突きつけて、言う。

『そのゲームに乗ってやる。

 見ていろ、すぐにお前の魂なんか引っさらってやるからな』

それを聞いて子供は、しめたと言った顔で頷いた。

「じゃあ、それまではとても僕を死なせるわけにはいかないね」

悪魔はふん、と鼻で笑った。

子供の狙いがそれであることはとっくにお見通しだったけれど、人間の子供からゲームを挑まれて逃げるなど、悪魔のプライドが許さない。

『いいか、小憎らしい汚れ子犬ちゃん。

 素直に取引していれば、お前は少なくとも寿命が来るまでは生きていられたんだ。

 それをわざわざ縮めたわけだ。すぐに悪魔にゲームを挑んだことを後悔するぞ』

「構わないよ」

と子供は言った。

「どうせもう、お前以外誰も僕のことを知っていてくれる人なんていないんだもの」

そう呟いて、子供は俯いた。

手の平が真っ白になるほど握り締めた拳を、悪魔の冷たい手がそっと広げた。

『さて、人里までは遠いからな。ジェリービーンズちゃん、ちょっとズルして歩こうか。

 ちゃんと捕まっていないとどこかに転げ落ちるぞ』

子供は、悪魔の白くて骨ばった手をぎゅっと強く握った。

その途端、子供の両目から、涙がぼろぼろと溢れて零れた。

悲しかったのではない。恐ろしかったのでもない。

寂しくて不安で堪らなかったのだと、子供自身が知るほどには、まだ子供は大人びてなかった。

『私の服に鼻水をつけるんじゃないよ、ハニーミルクちゃん』

悪魔が空いている方の手を一振りすると、眩しいほどに真っ白いハンカチが現れた。

それを子供の顔に押し付けると、子供は悪魔の手を払いながらも、ハンカチは有り難く受け取った。

「何で僕のこと、そんな変なふうに呼ぶの?」

鼻を啜りながら子供が尋ねると、悪魔は意地悪な笑みで答えた。

『お前の名前を知らないからだよ。

 お前が名前を教えてくれれば、お前の言う“変な”名前で呼ばなくて済む』

「オーウェン」

ぽつりと子供が告げた。

『オーウェン…なるほど、孤児オーフェンか。

 それじゃあ私のことは、オールド・ジョンとでも呼んでおくれ』

そう言って悪魔は、子供の手を握ったまま歩き出した。

有り得ない速度で目まぐるしく変わってゆく景色を、子供は不思議に思わなかった。

悪魔が何かしているのは分かりきっていたからだ。

体温を感じられない悪魔の手を握り締めながら、これでようやく死から逃れられたことを子供は確信した。

目下の問題は悪魔に魂を狙われていることだが、それもたった一人で生き延びてゆくことを思えば、ずっとマシなことだった。


こうして子供は孤児となり、悪魔と暮らすことになった。





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