1話 旅立ち
三人そろってたっぷりお説教を食らったあと、ヴァルトは父親がおいた一枚の古ぼけた写真を見つめていた。年季の入ったテーブルの上に乗せられた写真は、彼が生まれたときから置いてある家具と同じくらい歴史があるように思える。
色落ちしてかつての鮮明さを失ったその写真には若き頃の父親と、本で読んだ『女』らしき人と、それから赤ん坊らしい小さな子どもが抱きかかえられ写っていた。
写真の実物を目にするのは初めてだった。
街へ行って専門の店で撮影してもらわないといけない上に、いくらか値が張る代物なので、村の誰も持っていないと思っていた。
「これは家族写真だ」と父親は説明した。「この布にくるまって眠っているのが生まれたばかりのヴァルトだな。まだほんの二歳くらいだった。写真屋に行ったら大声で泣きじゃくって大変だったんだぞ。やっと泣き疲れて眠ってくれたときには、父さんも母さんもクタクタだった」
母さん。
その言葉を父親から聞くのもヴァルトにとって初めてのことだ。彼は滅多に過去の話をしようとしないので、息子が幼い時分の思い出を語るのも珍しいことだった。
「そして隣にいる女性――お前を抱いている人が母さんだ。ヴァルトを生んでくれた張本人だよ」
「この人が……おれの母さん」
いまいちしっくりと来ないというように首をひねる。ヴァルトをこの世に送り出した人だというのに、彼女と過ごした記憶がまったくない。
冗談だと言われれば素直に信じてしまいそうだ。
それほどまでに写真のなかの女性はヴァルトにとって馴染みのない人物だった。
「分娩がまた難産で、無事に赤ん坊を取り上げたときには村中の人たちが喜んでくれたよ。ほとんど同じ時期に生まれた君たちの両親も祝ってくれたものだ」
神妙な顔で話を聞いているドニとジョスランに向かって言う。ふたりはヴァルトよりもすこしばかり誕生日が早い。とはいえ、それを意識したことはほとんどなかった。年齢がどうであれ、三人はいつも対等な関係なのだ。
「じゃあ、僕のお母さんの写真もあるのかな」
ドニがつぶやく。
「……残念だけど君たちのお母さんの写真はないんだ。たまたま街に行く用事があったから記念に撮った写真でね、我が家にしか残されていない」
「そっか……」
「あまり落ち込むな。君のお父さんもひどく後悔していた。写真のひとつくらい、いつでも撮りに行けたはずなのに、とね。だがその反省を胸に、ドニを立派に育て上げた。実は君のお父さんも昔はもっと太っていたんだよ。君の子育てに熱中するようになってからは自分のぶんまで食事を与えてしまうから、いまでは農夫らしい痩身になったけどね」
「そうなんだ……」
がっくりと肩を落とすドニ。けれどもすぐに明るい表情になって、
「太ってるのは僕のせいじゃなかったんだね! それが聞けただけでも良かった!」
と新たな希望を見出したようだった。
「そうしておこう」ヴァルトの父は軽く笑って続けた。「ジョスラン、君のお母さんは村で一番の美人だった。村の男たちはみな彼女に憧れていたものだ。彼女が君のお父さんと結婚すると発表したときには、暴動が起きる寸前にまでなったよ。幸いけが人はたった一人で済んだけどね」
「……それって俺の父さんじゃないか!」
「仕方のない犠牲だったんだ、うん。彼は一発殴られなければこの村で生きていくことを許されない存在だった。それだけ君のお母さんは注目を集める人だったんだよ」
「母さんが――」
親のことを褒められて嬉しそうに口元を歪めながら、ジョスランは想像の母親を描いているようだった。村一番の美人と言われても、ほかに女性を見たことがないのだから基準がわからない。けどおそらくはジョスランに似て整った顔立ちをしていたのだろう。
ヴァルトは我慢しきれなくなって身を乗り出した。
「父さん、おれの母さんは?」
「素晴らしい人だったよ」即答だった。「たとえ街に行っても恥じるところのない、堂々とした女性だった。父さんが愛した唯一の人だ」
「でもジョスランのお母さんのことも好きだったんでしょ」
「彼女は村のアイドルだったからね。憧れと愛とは別物の感情だと、いつかヴァルトにも理解できる日がくる」
どこか遠い目をして説明する。
愛、とヴァルトは口のなかでつぶやいてみた。いまはそれがどのような感情なのかさっぱりわからない。女の人を好きになるという感覚さえしっくりこないのだ。
本当にいつか愛情なんて不確かなものが理解できるようになるのだろうか。
「――でも、どうして俺たちのお母さんはいなくなってしまったんだい?」
三人がひそかに抱いていた疑問をジョスランが代表して訊いた。かつては村にもたくさんの女性がいたのだろうが、いまは黙々と農作業にいそしむ男ばかり。まるで最初から女などいなかったというふうに振舞っている。
それはあまりに不自然な光景だった。
「連れ去られたんだよ」
ヴァルトの父親の答えは簡潔だった。ドニは首をかしげて質問する。
「だれに」
「それがわからないんだ」力なく首を振る。「お前たちは知りたいと思うかい」
「それは……」
もちろん、そうだ。
自分を生んだ母親が何者かに誘拐されたなら、その居場所を知りたいと願うのは当然のことだ。たとえ父親が拉致されてもヴァルトは同じ返事をしただろう。子どもにとって親がどれほど重要な存在か、少年は語るまでもなく承知していた。
「父さんは知りたくないの?」
「知りたいさ」ヴァルトの瞳は、父親が固くこぶしを握り締めているのを捉えていた。「母さんにもう一度だけでも会いたくて、ずっと密かに外部の情報を集めていた。ジョスランの家にある大量の書物も、なにか有益なことが書いてあるものと信じて手当たり次第に収集したんだ。残念ながらお前たちにとって有用だっただけで、我々にはなんら新しいことは発見できなかったがね」
「母さんが連れ去られていたなんて……」
「君たちの母親ばかりじゃない、村の女性がみんな連行された。子どもから老婆に至るまで、みんなだ。ひとりの例外もなく」
父親の言葉には熱い思いがこもっていた。
ヴァルトは母親たちが集められ、連れ去られていく光景を想像しようとしたが、あまり上手くいかなかった。剣術の練習は積んでいたものの実際に喧嘩をしたことなど、せいぜいドニやジョスランと取っ組み合いになったくらいしか経験していないのだ。
大人たちが入り乱れて闘いになったらどれほどの惨状が引き起こされるのか。ヴァルトが予想するにはいくらか難しすぎる光景だった。
「なにか悪いことをしたのかな」
ドニが納得のいかない表情でつぶやいた。
「我々は慎ましくこの村で生活していた。みな善良に暮らしていたよ」
「じゃあ、どうして――」
「それをお前たちに調べて欲しいんだ」と、父親は真剣な眼をして伝えた。「勝手な願いだとは思っている。けどお前たちに彼女たちの行方を追って欲しい。まだ子どもにこんなことを頼むのは大人として情けないが、もう頼れるのは三人しかいないんだ。頼む」
テーブルに額が付きそうなほど深々と頭を下げる。ヴァルト、ジョスラン、ドニの三人は困惑した表情で顔を見合わせると、弱々しく声を発した。
「父さんは一緒に来てくれないの?」
「我々が街に入ることは許されていない。虚偽の罪を被されたんだ。掟を破って街に近づこうとすれば、問答無用で殺すとね――これは無言の脅迫なんだ。この村で平穏に暮らしていれば命の安全は保証する、けれど真相を求めれば死を覚悟しろという圧力なんだよ」
「でも、俺たちも街に近づいたら危険なんだろう」
ジョスランが不安そうに、母親譲りなのだろう長い睫毛をしばたかせる。
「君たちは当時赤ん坊だったからリストには入っていないだろう。いずれにせよ男だらけの村に将来はないし、もう十年も昔の出来事だ、警戒も緩くなっている。街に入るくらい、なんとでもなるさ。首都にだって行けるはずだよ」
安心させるように穏やかな声音で説明する。
ヴァルトは胸に浮かんだ一抹の不安を捨て切れないでいた。都会を訪れてみたいという希望はある。だが急にいままで知らなかった母親の行方を捜索してほしいなんて頼まれて、おまけに父親の助力を得られないとなっては、街に対する憧れよりも憂慮がまさった。
「ねえおれたちがもし行くとしたら父さんたちはどうするの」
ふと再び家族に去られることになる父親の姿を思い浮かべて、ヴァルトは訊いた。子供たちが旅立てば、今度こそ本当に孤独になってしまう。それはきっと辛いことだろう。
「待っているさ、この村で」
「そしたら父さんは一人ぼっちだろ。きっと寂しいよ」
「旅の途中には楽しいことも辛いこともある。ときには村に帰りたくて仕方ないときもあるだろう。だからお前たちが辛くてどうしようもなくなったときに帰れる場所が必要だ。限界だと感じたら村に戻って来なさい。我々はずっと待っているから」
「……父さん」
「できれば母さんも一緒に連れて帰ってきてくれると嬉しいな。そうしたらまた家族三人で食卓を囲んで、笑いながら夜の日を囲んで、朝になったらまた楽しく食事をするんだ。ドニやジョスランの母さんも大歓迎だよ。息子たちの成長する姿を見守りながら話ができたら、どんなに幸せなことか――」
最後は涙ぐんで、ほとんど鼻をすするような音に変わった。ヴァルトが父親の泣いているのを見るのは初めてだった。
普段は決して弱さを他人に披露するようなことはしないのに。
ヴァルトはあふれ出る涙をこらえようと必死な父親から視線を逸らした。
本を読んで都会の素晴らしい生活を知ったときは村から出てみたくて、機会さえあればいつでも外の世界を旅するつもりだった。
それなのに、いざ村を離れろと言われると、たまらなく怖い。
大人たちが長年かけても解き明かせなかった謎を、たったの三人で追えるのだろうか。正体不明の敵から母親たちを助け出し、村に連れて帰るなんて無茶なことが本当にできるのだろうか。
覚えてもいない母親を探し求めることが幸せにつながるのだろうか。
だが、目の前で年甲斐もなく嗚咽する父親を見ているうちに、揺れていた心は固まっていた。
「わかったよ。母さんを見つけてくる」
最初に決意したのはヴァルトだった。続いて、ドニも力強く首肯する。ジョスランだけはしばらく迷っていたが、しばらくして覚悟を固めたように「行こう」といった。
「ありがとう……お前たちがいてくれて、本当に良かった……」
父親が恥も外聞もなく泣きじゃくるのを見ていたら、なんだか無性に悲しくなって、三人そろって泣いてしまった。はたからすればおかしな光景に思えたことだろう。けど、この村にはそんなことを思う人間はいないのだ。
欲求が収まるまでしばらく泣き続けて、気付けば夕方になっていた。
夕食の準備はヴァルトがすると親子のあいだで決まっている。だが今日は村にいる大人みんなを呼んで大宴会をするというので、三人の子どもたちは涙が乾く間もなく右へ左へと手伝いに駆り出された。
夜は村の中央で盛大に炎が焚かれ、薪の爆ぜる音をかき消すくらい大声で歌った。
大人たちは代わるがわる三人に激励の言葉をかけては、煌々と太陽のような明かりを発する炎の周囲にできた列に帰っていく。そこではしきたりも作法もない無茶苦茶な踊りが好き勝手に演じられている。
どこに溜め込んでいたのかというほど大量の酒が用意されていた。
樽いっぱいの酒は一晩で飲み尽くさんばかりの勢いで胃の中に消えていく。ヴァルトたちもこっそりとその場の雰囲気に紛れて口をつけてみたが、苦いばかりでちっとも美味だとは感じなかった。
その上、ほんの数口含んだだけなのに顔が火照って、急に眠たくなった。これが俗にいう酔っ払った状態なのかとヴァルトはひとり感心しながら、途切れることのない歌声に身を任せて、目をつむった。
――夢を見ていると、ときどき自分が眠っているのだと自覚することがある。
ヴァルトは誰かの腕に抱かれ、まどろんでいた。毛布にくるまれているみたいに暖かく柔らかな場所に収まって、ゆるやかに左右に揺れる。
ひどく安心できる空間。そこにいれば自分はゆっくり夢を見ていられるのだ。
聞こえてくるのはいつも決まった歌。優しい声はヴァルトを包み込むように流れ、徐々に眠りの世界へと誘ってくれる。誰が歌っているのだろう。村の男たちは、こんな風に穏やかに歌ったりしない。
ヴァルトは考えるのをやめた。
ここにいれば安全なのだ。自分はゆっくりと腕のなかで休んでいればいい。
「ヴァルト」
誰かが名前を呼んでいる。返事をするのも億劫なくらい心地が良い。
「――ヴァルト」
うるさいなあ。もっと歌声を聞いていたいのに。
「起きろよ、もう朝だぞ」
急にジョスランの不機嫌そうな顔が目に入った。日差しはもう地平線を乗り越えている。ヴァルトは目をこすりながら大あくびをした。
後頭部の奥の方からにじみ出てくるような痛みに顔をしかめる。
「――頭が痛い」
「俺も。へんなとこで寝たせいかも。俺の身体は繊細だから、自分の枕がないと体調を崩してしまうんだ」
「たんなる二日酔いだよ。ああ、こんなに痛いものだと思わなかった」
頭を二三度たたいて頭痛を治そうとするが、脳の中枢から響いてくるような鈍痛はしっかり居座ってしまっている。ヴァルトは父親がよくそうするように水を飲むため、家に戻ることにした。
「ジョスランもたっぷり水を飲んで眠るといいよ。一眠りすればかなり良くなるはずさ」
「ありがとうヴァルト。――お酒か。酒といえば都会にはぶどう酒というとても優雅な飲み物があるそうじゃないか。やっぱり高いお酒は二日酔いしないものなのかな」
「都会へ行ったって質の良いものは貴族でなければ飲めないよ。なんと言っても高級品だもの」
「わかってるさ」とジョスランはすこし拗ねたように言った。「なあヴァルト。俺たちは街に行って、どんな風に暮らすんだろうか。俺は大金持ちになって、色々な美しいものや珍味を食してみたい。高級な宝石を身にまとって、きらびやかな貴族の舞踏会にも参加してみたい。――そして、母さんにも会ってみたい」
「庶民が大金持ちになるには、すごく画期的な商売をはじめて大成功するか、迷宮で一稼ぎするしかないだろうね。もしかしたらジョスランには素晴らしい芸術の才能があって街の人々に認められたりするかもしれないけど、三人で一緒にお金持ちになるにはそれくらいしか思いつかないよ」
「お金持ちになったら、母さんとも会えるのか? また村に戻ってきて父さんたちと楽しいお祭りをして、二日酔いで頭が痛くなったりできるのか?」
ヴァルトの肩をつかんで尋ねるジョスランの表情はいつになく真剣だった。
村を離れるのが怖い。それはヴァルトにとっても同じことだ。
「できるさ。三人で力を合わせれば、どんな恐ろしいことも、どんな辛いことも乗り越えられる」
「ヴァルトの言う通りだよ」
いつの間に目覚めたのかドニがやって来て会話に加わった。昨夜はだいぶ調子に乗って酒を飲んでいたはずなのに、けろりとした顔をしている。ドニには大酒飲みの才能があるのかもしれないとヴァルトは思った。
「僕らはいつだって三人で悪戯してきたじゃないか。そのたびに大人たちに叱られてばっかりだけど、ヴァルトとジョスランがいれば、僕はなんだってできると思えるんだ。だからきっと、お母さんたちの行方もわかるよ。この村でまた幸せに暮らせるよ」
「……ドニ」
「そうか、そうだよな」ジョスランはこっそり目頭を拭った。「こんな素晴らしい友人がいるのに、俺はいったいなにを臆病になってたんだ。ドニの度胸と、ヴァルトの知恵と、俺の美貌があれば世界征服も夢じゃない!」
「言い過ぎだよ、ジョスラン」
三人は声を立てて笑った。旅立ちの不安をかき消すように、笑い声は残り火のくすぶる巨大な焚き火の上を風となって通り過ぎた。
それぞれの父親が事前に用意してくれていた荷物を持って村を離れたのは、二日酔いのなくなった翌朝のことだった。姿の見えなくなるまで大きく手を振って、三人は街へとつながる道を歩きはじめた。
「ここからは長い道のりになる」
ヴァルトは遠く最初の目的地のある方角をながめながら言った。
「約束しよう。おれたちはどんなときでも友達で、お互いに助け合うと」
「うん」
固く交わされた握手は昇りはじめたばかりの朝日に明るく照らしだされていた。