プロローグ
後々、戦闘描写が出てきますがあまり過激にはしないつもりです。
念のためR15を設定してあります。
「父さん、赤ん坊はどこから来るの?」
少年が問うと、父親は目を丸くした。
うららかな陽射しの差しこむ午後のことだった。
いつものように朝から畑作業にいそしむ父親が帰ってくるのを見計らって不意打ちをかけた。
まだ先っぽに土がついたままの鋤を肩にかついだ父親は、純朴そのものの瞳で見上げる息子に対し、ぎこちない笑みを浮かべて聞き返す。
「どうしてそんなことを聞くのかな」
「誰も教えてくれないんだ。ジョスランの親父もドニの親父も、野菜がどうとか鳥がどうとかって誤魔化すから、信用できるのは父さんだけなんだよ」
「……それはヴァルトの求める答えではないんだね」
「うん。鳥が赤ん坊を運んでくるなんておかしな話、おれは信じないよ」
「あいつらめ……面倒なことを押し付けて……」
頭をかきむしって嘆息する父親を、少年はじっと見上げる。
無造作に切られた短髪にはちらほらと白いものが混じりはじめている。長年にわたって農業を営んできたために肌は真っ黒に日焼けして、そのぶん白髪が目立っていた。
まだ世間一般的には中年と呼ばれるはずの年齢だが、実際よりも老いて見られることが多い。そう評価するのは村の大人たちだけなので、妥当なのかどうかはわからない。
いわく苦労が多いからだという。まじめに畑を耕しているだけの生活のどこにそんな気苦労がひそんでいるのか常々ヴァルトは不思議に思っていた。
あちこちほつれた麻の衣服から伸びる腕には細いながらたくましい筋肉が備わっている。その指先は鍬を握るためにマメだらけで、しだいに白い髪の毛から無精髭へと動揺の矛先を移した。
雑草のように伸び放題のあごひげを撫でつけながら思案顔でヴァルトの頭のあたりをながめている。
少年は父親の悩ましげな表情を観察しつつ、彼の背後にちらつくふたりの友人の姿に注意を向けた。
ひとりはスラリとした体躯で窓枠に手をかけている。もうひとりはヴァルトたちよりもいくらか大きな体格をけんめいに隠そうとしゃがんでいる。
彼らは物心のついた頃からずっと一緒に育ってきた親友だ。
村に同世代の子どもは三人しかいないため、遊ぶときも怒られるときも、つねに隣にいて同じ経験をしてきた。
その友人たちはいま、計画通りに気配を悟られないようヴァルトの家に侵入しようと試みている。
幸い、少年の質問にどう答えたものかと思案している父親が気づく様子はない。
軽やかな動きでジョスランが窓枠を乗り越えて木の床に降り立つ。無事に潜入に成功した美少年は白い歯を見せ、親指をつきだした。
「ヴァルト、これは説明するのがとても難しい問題なんだ。おまえは賢いから理解してくれるだろう。世界には様々な疑問があり、そのすべてに完璧な回答があるわけじゃない。どんな知識人にだって答えに困ることが――」
「父さんも誤魔化すつもり? おれは真剣に聞いているんだよ。赤ん坊がどうやって産まれてくるのか、考えても考えてもさっぱり見当がつかないんだ。ジョスランやドニと何度も話し合ってみたけど、ちっとも答えがひらめきそうにない。父さんは知っているんだろう。だったらケチケチしないで教えてよ。それとも赤ん坊はおれたちに教えちゃいけないような禁忌なの」
「そういうわけではないが……」
父親の注意を引き付けるため心にも思っていない強気の言葉を並べ立てる。
実をいうと、赤ん坊がどうやってこの世に生を受けるのか、だいたいの知識はすでに有していた。というのもドニが自分の父親の部屋に隠されていた一冊の本を見つけてきたからで、それがすべての発端だった。
いつものように三人の秘密基地である大木のうろに集合をかけた昼のこと。
大人たちが入ってはいけないと口を酸っぱくして警告する森の小池のほとりでは小鳥たちがにぎやかに会話を楽しみ、水を飲みに来た小さな動物たちが水面を波立たせていた。
その一角にある古木には子どもがすっぽりと覆い隠せるほどのうろがある。
自然にできた隠れ家は、三人が森を探検して見つけ出した秘密基地だった。大人たちの目の届かない、まさに自分たちだけの王国。
周りにいるのは小さな動物たちだけ。彼らの会話に耳を傾けるのも、自分たちのお喋りに興ずるのも、あらゆることは自由だった。
ジョスランとヴァルトは昼間の手伝いを終えると一足先に秘密基地に到着し、その日の成果について話し合っていた。
鎖のようなツタに絡まれた巨木のうろが少年たちのお気に入りの場所だった。山で拾った宝物や、寝転がるための布が敷いてあり、心地よい陽射しを浴びながらくつろげる。
ヴァルトは膝の上で一冊の本を広げていた。「都会の技術」という題名だった。
子ども向けの本で、スケッチのような挿絵がいくつも挟まれている。都会の建物は大きく、素朴な村での生活からは想像できないほど高度な技術に満ちていた。
想像力をかきたてる壮大な絵と、隅に控えめに書かれた解説文に目を通していく。ヴァルトはいま得たばかりの知識をジョスランに教えることにした。
新しいことを見つけたら互いに教えあう。それが暗黙のルールだった。
「――都市には魔鉱石という不思議な石があって、それがいろんな物を動かしているらしい。火も焚かずに明かりを灯したり、手を触れずに物を動かしたり、とにかく街の生活は便利なんだって」
「へえ、そんな素晴らしいものがあるのかい。ひとつ欲しいね。アクセサリーにして首からぶら下げたら格好良いと思わないかい」
ジョスランがニヤニヤと笑いながらいった。なにを考えているのか聞かなくともわかる。色とりどりの魔鉱石を悪趣味につなげたネックレスをかけた自分の未来を妄想しているのだ。
たしかにジョスランの顔立ちは整っているとヴァルトも認めていたが、なにかと気取った言動をするのが彼の癖だった。昔からずっとそうなので、矯正する見込みもない。
自他共に認める美少年はうっとりとした表情のまま口を開いた。
「都会には素敵な物がたくさんあるね。早く行ってみたいものだよ」
「おれも。知らないことをいっぱい勉強して、数えきれないくらいのスゴイことを体験してみたい。ねぇジョスラン、街には図書館といって、家中に広げても足りないくらいの書物が保管されてる場所があるんだって。そこで一日ずっと本を読んでいられたら、どれだけ幸せだろうなあ」
「それは驚きだね。俺のパパが持っている本の何倍もある。こっそり隠し持ってきたんじゃ、いくら年月があっても足りないや」
ジョスランは眉のあたりまで伸びた金色の前髪をいじりながらつぶやいた。
ジョスランの父親は、村で唯一といっていい大量の本の持ち主だ。バレないように一冊ずつ書庫から抜き出しては返す。ヴァルトの秘密基地での主な活動は、そうしてジョスランが無断で借りてきた本を読むことだった。
色鮮やかに記される図像をながめながら遠い都会に思いを馳せると、それだけで実際に賑やかな街を歩いたような気分になれる。
「図書館かーーいつか必ず全部の本を読んでやるぞ。それで世界で一番賢い博士になるんだ。そしてありとあらゆることを研究して、この世に残る秘密を全部解き明かして、父さんに自慢するんだ。そこまですれば父さんも子ども扱いしないだろうからね」
「全ての謎を究明する――か。残念だけどそれは無理だね。俺という完璧な少年がなぜ存在するのか、それは永遠に謎のままさ。神様の気まぐれかな」
「はいはい。ジョスランが自信満々な理由を先に知らなきゃね」
「君も自分にもっと自信を持ったほうがいい。俺たちのなかで一番たくさんのことを知っているのはヴァルトなんだから」
「そんなの、大人たちに比べたら全然さ。あーあ、はやく村の外に出て、世界中を見聞きしてみたいなあ」
そのとき森の整然とした音を打ち破るようにドニの「おーい!」という声が聞こえてきた。ふたりが木のうろから顔を出すと、小太りの少年が重たげな足取りで走ってくるのが見えた。
ドニは右手に本を高々と掲げていた。いつも本を持ってくるのはジョスランの役割なのだ。ヴァルトは物珍しそうにドニの手元に視線をやった。
「どうしたの、それ」
「父さんの部屋に隠してあったんだ。簡単に見つからないようにベッドの下に置いてあった! 怪しいと思って中身を読んでみたら、もう、二人とも絶対にびっくりするよ!」
「落ち着きたまえ、ドニ。ただでさえ暑苦しいというのに、君が興奮していたら美しい小鳥たちが逃げてしまう」
「ほらほら、これ!」
ジョスランの小言を無視し、ドニは慌ただしい手つきで折り目のついたページを開いた。ヴァルトが上からのぞきこむと、そこには裸の人間が抱き合っている様子が克明に描写されていた。ページの下部には「男女が愛しあうことで赤ん坊が生まれます」と解説がそえられている。
三人は食い入るようにその奇妙な絵を凝視した。しばらくして、ジョスランが首をひねった。
「ヴァルト、この人は違う種族なのかい。なんだか変な体つきをしているね」
「胸やお尻が大きすぎるし、髪も長いよ。それにほら、ここ」
ドニが示す先は股間だった。
「僕らにあるはずのものがない。ヴァルト、どういうことなの?」
「記述によれば『女』って種族らしいけど――なにをしているんだろう。おれも初めて見たよ」
「ヴァルトでも知らないとなれば、大発見だね。ドニにしては珍しくお手柄だ。明日は大雪かな」
ジョスランは感心したように拍手を送った。
「素直に褒めてくれたっていいじゃないか。父さんが隠してたってことは、きっとすごい秘密なんだよ。他にはなにが書いてあるのかな」
ドニがページをめくっていく。
疑問なのは大人の男とむつみあっている「女」という存在だ。
ヴァルトたちがいままで見たことのない特徴をいくつも持っている。
裸体の男女のスケッチや、唇を重ね合わせている様子や、性器の詳細な説明。少年たちの知らないことが無数に書き記されていた。真剣な表情で読み進めていくうちにヴァルトはひとつの疑問を覚えた。
「どうやら人間の赤ん坊というのは、女という種族から産まれてくるものらしい」
足を大きく広げて辛そうに表情を歪める大きな腹の女の絵を指さして説明する。その人の股間から赤ん坊の頭部が出ようとしている。男の記述は一切ないから、女だけが新たな生命を宿すことができると考えていいだろう。
「けど、おれたちの村に女はいない。おれたちはどこから産まれてきたんだろう」
「たしかに……」
ドニが腕を組んでうんうんと唸りだす。ジョスランは生々しい裸体の絵から視線を上げると、木立の間からのぞく青い空を見つめた。
「どこかで見たことがあるような気がするな――どこだったか、すごく昔に」
埋もれた記憶を探るように難しい表情をしている。が、答えを発見することはできないようだった。
ヴァルトが次のページをたぐる。
そこには赤ん坊がどのような行為によって作られるものなのか、事細かに記述されていた。三人のなかで文字を読むのが一番早いヴァルトが素早く目を走らせる。書かれている内容を理解するのに何度か読み返す必要はあったが、どうにか知識を自分のなかで消化する。
つまるところ、男と女が交わって、しばらくすると赤ん坊が女の腹のなかで育ちはじめるらしい。
どのような理屈でそうなるのかまで記されてはいない。きっとまだ解き明かされていない謎なのだろう。
研究しなくてはならないことがひとつ増えた。赤ん坊がどこから来るのか、ということ。
最後のページに一般的な説明で使われるというおとぎ話のようなまやかしが載せられていた。鳥が運んでくるだとか、野菜畑のなかにいるだとか、子ども騙しの内容だ。
「畑にいるなら僕たちがとっくに見つけているはずだよね」
ドニがあまり強くない頭を働かせて反証する。
どうやらこれは、小さい子どもが知るべきことではないらしい。大人は隠し事をするときにデタラメを言ってしらばっくれるのだ。重大な秘密に触れたような心持ちになって、ヴァルトは胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「お昼の半分は畑の手伝いだもの。おかげで俺の美しい肌が黒く日焼けしてしまうよ。畑の真ん中に赤ん坊という不可思議な生き物がいたら、いまごろ大騒ぎになっているはずさ」
「ほんとだよ。それに鳥はこんな大きなものを運べないもんね。僕だってそれくらいわかるさ」
「――これ、ドニの親父のところから取ってきたんだよね」
ヴァルトが口の端を引きつらせたように笑う。その表情を敏感に察して、ドニとジョスランは勢い込んで額を寄せた。
「今度はどんないたずらを思いついたんだい」
「ヴァルトが悪そうな顔をするのは、面白い計画を練っているときだもんね」
いたずら心を我慢しきれないというようにふたりの頬は緩んでいる。ヴァルトは声を低くして、思いついたばかりの作戦を話しはじめた。
「いいかい、ドニ、ジョスラン、よく聞いてーー」
「父さん、赤ん坊はどこから来るの?」
ヴァルトの父親は外出時かならず部屋に鍵をかける。扉を封印する古びた金属製のかんぬきは丈夫で、扉を蹴破るのでもなければ入れない。
つまり部屋を物色するなら父親が在宅のときでなければならない。ヴァルトは一計を案じた。
ヴァルトが父親の注意を引きつけている間に、ジョスランとドニが部屋に侵入し、隠されている本がないか探すのだ。
いままでは好奇心を抑えて入るのを我慢していたが、ドニが持ってきた不思議な本のように重大な秘密が隠されているかもしれない。
そう思うと、いても立ってもいられなくなって、二人に協力してもらうことにしたのだった。
「――実は父さんもよく知らないんだ。こればかりは神様の思し召しに感謝するほかないんだよ」
白々しい嘘をついている、とヴァルトは思った。
大人たちは答えたくない質問には適当な返事をこしらえる。そういうとき、必ず目線が泳いだり、指先が落ち着かなそうに遊んでいるのをヴァルトはいままでの経験から知っていた。
「じゃあ、おれもジョスランもドニも、神様の気まぐれで生まれたっていうの。そんなのおかしいよ」
「……そうだな、そうかもしれないな」
父はヴァルトの言葉に、しばらく考えこむ素振りを見せた。
その間にジョスランが廊下をそろりと渡っていく。昔からお互いの家にはよく遊びに訪れているので、間取りは完璧に把握している。
とりあえずひとりは成功だ。あとはドニだが――開け放たれた窓の桟敷を乗り越えるのに苦労していた。まだ十三にもなっていないというのに、ドニの腹はぽっこりと膨らんでいる。
息子に甘いドニの親父が自分の分までご飯を食べさせたからだ。おかげで親父は痩せぎすなのに、息子は太っているという変な親子になった。
運動神経はそこそこなので、痩せればきっとジョスランと同じくらい俊敏に動けるようになるだろう。
「ヴァルトもそういうことに興味を持つ年齢になったものか……」
独り言のようにつぶやきながら腕を組む父の背後で、ドニが転びそうな姿勢でなんとか窓枠を乗りこえる。物音を立てないようにそろりと背を低くして廊下の方へ消えていく様子は、まるで太りすぎた子ネズミみたいだった。
これでふたりとも無事に部屋にたどり着いたはずだ。
あとは時間稼ぎをして、脱出するまで父親を釘付けにしていればいい。
「父さん、なにを迷っているのか知らないけど、早く教えてよ。おれだってもうすぐ元服なんだから、少しくらい大人扱いしてくれたっていいじゃないか」
「たしかになあ……」
もう一息だ。ヴァルトはここぞとばかりにまくし立てた。
「赤ん坊がどこから来るかってことが言いづらいなら、おれたちがどうやって生まれたのかだけでも聞かせて欲しい。おれは一体どうやって父さんの子どもになったんだ? 父さんは一体どうやっておれを子どもにしたんだ?」
「……待てよ」思案に迷っていた父の目つきが変わった。嫌な予感がして、ヴァルトは反射的に一歩後ずさった。「ヴァルト、おまえは人間の赤ん坊を見たことがないのか」
「うちで飼ってる動物のならあるけど……」
「そうか、すっかり忘れていた。おまえたちは赤ん坊を知らないんだな。だが、そうとなれば、どこで人間の赤ん坊なんて知識を手に入れたんだ」
「えっと……」
今度はヴァルトが答えに窮する番だった。まさかドニの親父の本を隠れて読んでいましたと素直に白状するわけにもいかない。
とりえあずなにかしら答えなければ。
頭をフルに回転させて言い訳を考えだす。耳のふちが熱くなった。
「動物たちは赤ん坊を生んで増える。同じようにおれたちも赤ん坊を生んで増えるんじゃないかと思って」
「それに関してはヴァルトが正しい。父さんが聞きたいのはどうして急に赤ん坊について知りたがったのか、ということだ。いまは家畜たちの出産時期でもないのに」
「……それは」
嘘をつくことにした。以前に嘘も方便ということわざを教わったことがある。父親が誤魔化そうとするなら、こちらだってすこしくらい真実でないことを言ってもいいはずだ。
「実はジョスランの親父が言ってたんだ。赤ん坊は女っていう人たちから生まれるって。でもおれたちの村に女はいない。ねえ父さん、おれはどこから来たの?」
「ジョスランの親父が? 本当にそう言っていたのか?」
「うん」ここまできたら最後まで隠し通すしかない。ヴァルトは虚勢を張って答えた。「女という種族しか赤ん坊は作れないんだって」
「種族?」
「あ、いや、そんな感じのこと。うん」
ヴァルトは横目で父親の部屋をたしかめた。ジョスランもドニもいやに仕事が遅い。一度はドニの父親から隠された本を発見したのだから、次もそう長い時間はかからないと思っていたのだが。
緊張すると時間が引き伸ばされたように感じられるのかもしれない。ヴァルトは頭の片隅で冷静に自分を観察しながら、会話を続けた。
「父さん、どうして秘密にするの? どうして大人たちは知っているのに、おれたちには教えようとしないの」
「しかるべき時期が訪れたらお前たちにも伝えようと思っていたことなんだ。ヴァルト、これは本当だよ。いつか我々の責任で明かそうと考えていた。想像していたよりも早くそのときが来たので戸惑ってしまっただけなんだ」
「おれはもう子どもじゃない」語調を強めてヴァルトはいった。「父さんたちはいつまでたっても子ども扱いするけど、大人たちが思ってるよりおれはたくさんのことを知っているんだ」
「たとえばジョスランの父親の部屋から本を抜き出して、森のなかで読んでみたり、ということだろう」
「え……」
目を大きく見開いてヴァルトは声を漏らしていた。どうして父親がそのことを知っているのだ。森で行われる秘密の勉強会は、三人だけの絶対の秘密だったはずなのに。
疑問があからさまに表情に浮かんでいるのを見て、ヴァルトの父親はやれやれと肩をすくめた。
「コソコソと怪しい会合を開いているのに我々が気づかないと思ったか? お前たちに文字を教えたのも、いつか本をたくさん読んで知識をつけて欲しいと思ったからだ。まさか赤ん坊のことまで勉強するとは想定していなかったがね」
「それじゃあ、おれたちが森にある池に行っているのも……」
「もちろん知ってるさ。あの池のほとりなら安全だ。それより奥に興味を示すようなら注意しようと考えていたが、賢明なお前たちはギリギリのところで留まった。あからさまに本を読むより、秘密基地で隠れて読んだほうが面白かったろう」
大人の余裕を見せつけるように笑う。
ヴァルトは継ぐべき言葉を忘れてしまったように言葉がでなかった。
まさか大人たちがすべてお見通しで、彼らの管理内で冒険させられていたなんて。色鮮やかに飾られていた秘密の思い出が、絵の具を洗い落としたように褪せていく気がした。
冒険は大人が関知しないところで行われるからこそ、意味があるのだ。ヴァルトはなんだか泣きたい気分になって、あふれそうになる涙を悟られないよう目尻をそれとなくこすった。
「――しかし、いつまでも父さんたちが見守ってあげるわけにもいかない。お前たちが元服し、この村で一人前の大人として認められるようになったあかつきには、自力で生き延びる術を体得しなければいけないんだ。お前たちに書物を与えて、外の世界でも暮らしていけるだけの知恵と教養を身につけさせようとしたのも、そのためなんだよ」
「外の、世界?」
意外な単語が飛びでたので、ヴァルトは無意識に反復していた。
大きく二度頷くと父親は、
「そうだ。ヴァルト、お前は外の世界に興味があるかい」
「それは――」もちろんそうだ。数多の本に記された外界がどれほど魅力的で活気にあふれているか、想像しただけでも興奮した。「父さん、おれを外の世界に行かせてくれるの?」
「お前が望むなら、ぜひそうしてほしい」
「行くよ! 図書館にも、都市にも、迷宮にだって行ってみたい! 世界中のありとあらゆるものを見聞して、おれは世界一の学者になるんだ!」
「そうか、ヴァルトが世界一の学者になってくれたら、迷宮の神秘もきっと明かされるだろうね」
中腰になってヴァルトの目線と同じ高さになると、父親は珍しく柔和な笑みを浮かべた。ヴァルトのぼさついた頭に手を乗せ、いくらか乱暴になでる。こんな仕草をするのは彼が十歳の誕生日を迎えたとき以来だ。
突然に優しさを見せられてヴァルトは固まった。父親はなにか決意したみたいに「よし」と呟くと、廊下の向こうにある自室へ足を向けた。
まだジョスランとドニは脱出していない。
慌ててヴァルトが声をかける。
「父さん、どこに行くの?」
「お前に見せたいものがあるんだ。そこですこし待っていなさい」
「あ、あとでいいよ。なんだか色んなことを聞かされて疲れちゃったし、晩御飯のあとにしよう」
「重大な話というのは先に済ませておくものだよ。大切なことほど、伝えたいときにすぐ伝えなくてはならない」
「ちょっとーー」
待って、という前に。
機敏な動きでドアノブに手をかけようとした父親の動きが止まった。奇しくもドアは彼が触れるよりも早く開き、ふたりの少年の姿をあらわにした。
「……君たちは、ここでなにをしているのかな?」
穏やかな口調の裏に明確な怒りを感じ取って、ヴァルトは首をすくめた。もう遅い。作戦は失敗に終わったのだ。
「……おじさん、どうも、おじゃましてます」
ドニが笑いながら誤魔化そうとする。ジョスランは諦めたように肩をすくめた。
「三人とも、そこに座りなさい!」
村中に響き渡るような怒号が、ヴァルトの家にこだました。
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