1章・封使館⑤
「失礼ですが、灯馬紫苑様でしょうか?」
ハープのように心地よく響くその声が、紫苑の名を紡いだ。
紫苑は目の前の美形執事が自分の名前を呼んだことなんて想像もつかない。
自分を見つめる碧の瞳を、しゃがみ込んだままポカンと見つめていた。
紫苑のその反応を見て、執事は優雅に腰を折って一礼した。
「私、灯馬家にお仕えしている執事で、相模と申します」
「僕は、灯馬紫苑といいます」
相模と名乗った執事に、紫苑は掠れた声で応じる。
行き交う通行人の女性からは熱い視線を、男性からは羨み視線の対象となっているのは自分だということに知らん顔しているのか、それとも気づいていないのか(おそらく後者だろうが……)、相模は笑顔で会話を続ける。
「お待たせしてしまったようで------まことに申し訳ございません」
九十度近く深々と頭を下げる相模に、紫苑は戸惑った。
周りの人々の目には、紫苑は執事を叱っている主人のように映っていることだろう。
「いやっ!あの……相模さん! お願いですから顔を上げて下さい」
周囲を落ち着きなくキョロキョロと見回しながら、手をぶんぶんと振る紫苑の姿は、不審だったに違いないが、そんなことを構ってはいられなかった。
相模はゆっくりと頭を上げる。
「長旅でさぞかしお疲れでしょう。
どうぞ、こちらへ。
車を待たせてありますので」
相模は紫苑の足元に置かれた大きなボストンバックをスッと持ち上げた。
「あっ、いいです!
自分で持って行きます!!」
慌てて紫苑は相模の手から鞄を奪い返そうとするが、伸ばした手をふいっとかわされた。
紫苑が驚いて相模を見上げると、碧色の瞳がすぐ近くにあって心臓が跳ねる。
「紫苑様、これが私の仕事なのです。
……持たせて頂けませんか?」
至近距離で微笑まれて、紫苑の体から力が抜ける。
(反則だろ------あの顔)
背筋をピンと伸ばして前を歩く自分より高い背中を見ながら、少し口を尖らせたのだった。