3章・【ザ・リーフ】-記憶-
昔------紫苑がまだ幼稚園に通っていた頃、一度だけ封使館に行った事があるらしい。
当時の記憶はぼんやりしていて、紫苑は途切れ途切れにしか覚えていない。
『おじいちゃん?』
源一郎の部屋の扉を紫苑は開ける。
初夏の頃だったのだろう、窓から煌めく陽光が差し込んでいたのが印象に強く残っていた。
源一郎はその窓に向かい合うように、扉に背を向けて座っていた。
大きな背中がくるりと椅子ごと回り、源一郎の血色のよい顔が紫苑の姿を認めて緩んだ。
『紫苑か------おいで』
腰をかがめて両手を伸ばす源一郎の胸に紫苑は飛び込んだ。
着古したクリーム色のカーディガンからは、焼きたてのシフォンケーキのような匂いがした。源一郎は紫苑の両脇に手を差し入れて、自分の膝に座らせた。背中から、紫苑より少し高い体温が伝わってくる。
『おじいちゃん、あれなぁに?』
『ん------?』
紫苑が指差したのは、大きな机の左端に置かれた写真立てだった。
一般的には、もちろん写真を入れるのだろうが、そこに入っていたのは、三行の文字が書かれた白い画用紙。
源一郎は朗らかな笑顔を浮かべながら、写真立てを手に取って紫苑に渡す。
『それはな、高杉晋作という昔の凄い人が言った言葉だよ』
『たかすぎしんさく?』
当時の紫苑の頭は、まだ漢字変換機能が作動しておらず、全てひらがなで発音された。
『なんて書いてあるの?』
『おもしろき
ことも無き世を
おもしろく』
『?どーいう意味?』
紫苑は首を傾げると、源一郎を見上げた。
源一郎は優しく微笑んで答えた。
『つまんないなーとか、楽しくないなーって事でも、別の見方から考えたら、楽しさが見つかるって事だよ』
『いい言葉だね。
僕も幼稚園嫌だけど、別の見方してみるよ』
源一郎はその返事の代わりに、紫苑の頭を筋張った手で優しく撫でた。
それはまるで“がんばれ”と言ってくれているようで、紫苑はその心地よさに甘えたのだった。
初夏の昼下がり、忘れられない記憶------。