亀裂 前編
わが恋は 知る人もなし もゆべき
下ゆく水の わきかへりつつ
――乳母(伊勢大輔の母)
さてさて、どうするか。
パン窯の改良はひとまず脇に置いて、失敗の原因ははっきりしてる。
酵母だ。
…いや、脇に置いておくべきは酵母だ。
現実から目を背けてはいかん。
あれ以来、明里さんを気遣うきーちゃんは毎日のように島原に通っているけど、やっぱり会ってもらえないみたい。
明里さんの愛した人、山南総長。
きいちゃんと同じく脱走を図って、その罪を問われて切腹したということだ。
…そんな話、軽々しく聞きたくなかった。
きいちゃんのあまりの落ち込みようにわたしも見てられなくなって、一度明里さんの様子を見にいってみようと思い立った。
島原への道中、雪がちらつきはじめた。
あ、吐く息が白くなってる。
なんてことを考えながら相国寺の土塀に沿って歩いていると、
お寺の門から飛び出してきた浪士に出くわした。
「わ!」
続いて、浅葱色の羽織を着た数人の新選組が、それを追って姿を現した。
「都中に網が張られてる。もう逃げられんぞ!」
「ここで大人しく掴まれ!」
張り詰めた空気。
追われている浪士がわたしの目の前で足を絡ませた。
背後の新選組が、刀を抜き放つのが目に入る。
「あぶない」
わたしは思わず小さな声を漏らし、
このあとに起きる場面を想像して目を覆いかけたそのとき、
赤松の影から現れた男が、その間に割って入った。
「…やめておけ。無抵抗の男に三人がかりなど、みっともないぞ」
「お、おまえ。ひょっとして、あの天狗か?」
新選組のひとりが叫んだ。
て、天狗?!
あっ!神出鬼没のイカ頭巾。
なんで、こんなに都合よく現れるの?
ひょっとして、あなた、本当に…
「…要造さん?」
すると、たくましい腕がわたしの肩をぐいと掴み、脇へと押しやった。
「危ないから下がっていろ」
背丈はともかく、こんながっしりしてたかなあ。
要造さんて、なんかもっとプクプクしてたような…
て、そんなこと考えてる場合じゃない。
天狗の動きは人間離れしていた。
三人もいる新選組の刃を、わずかな身のこなしで紙一重にかわしていく。
「その男を連れて逃げろ!」
え?え?それ、わたしに言ってる?
「早く!」
早くって、いま?
わたしは考えるまもなく、その男の人の手を引いて走っていた。
追っ手の姿が見えなくなってようやく気付いたけど、
…今来た道を、戻ってきちゃった。
仕方なく、わたしはその男の人を茶屋へ連れ帰ることにした。
「もう大丈夫だから、手を放してくれます?」
そう言うと、男の人は慌てて手を放して、頭を下げた。
「…ありがとうございます」
たぶん歳は藤堂さんと同じくらいで、穏やかそうな感じのひと。
吹きさらしの田圃道を早足で歩きながら、だんだん腹が立ってきた。
冗談じゃない。
なにをやったのか知らないけど、こんなことで新選組に目をつけられたら商売にも差し障る。
「てか、あなた、誰?」
「大谷良輔と申します。実は、わたしが襲われていたアレは新選組でして」
でしょうね。
「そんなの、見れば分かるけど、何をやったの?」
「実はわたしも新選組の一員なんですが、いや、だったんですが、脱走しまして」
それを聞かされたのが、ちょうど鴉茶屋に着いたときだった。
「…また?!」
わたしは大谷さんに詰め寄った。
「またなの?!」
「え?いや…」
「なんで脱走すると、うちに来るわけ?新選組には、なんかそういう決まりでもあるの?」
わたしは茶屋の裏まで大谷さんを引っ張っていって、きいちゃんの前に突き出した。
「お仲間よ!」
きいちゃんと大谷さんは、ぽかんと顔を見合わせる。
わたしは、目をすがめて二人を見比べた。
「え?…お互いを知らないの?」
「何がでしょうか?」
大谷さんが首を捻った。
「そのひとも脱走者なの」
きいちゃんは大谷さんの顔をまじまじと見つめた。
「じゃあ、あんたも?」
大谷さんは気まずそうに告白した。
「じつは私、つい先日入隊したばかりなんです。入ってすぐ、大幹部の方が切腹されたのを目の当たりにして…それで、急に怖くなって」
きいちゃんはそれを聞いて、また沈んだ顔になった。
「…そりゃ、ひょっとして山南総長のことか」
けれどそのとき、非常に不味いお客さんがやってきて、事態は急転した。
「おーい。お須磨ちゃん、いるかい?おれだ。永倉だ」
店先から声がする。
「やばい!新選組だ」
きいちゃんと大谷さんは慌てふためき、きいちゃんは裏口から店の二階に駆けあがった。
なんでこうなるの。
どうしよ。
どうすればいい?
わたしは、うろたえる大谷さんをパン窯の中に押し込み、鉄の扉を閉じた。
「いい?しばらくここに隠れてて。わたしがいいって言うまで絶対に出てきちゃダメですよ?」
そう言い置いて、早足で店に戻った。
「あ、ああ、いらっしゃい!永倉さん」
今日の永倉さんは、なぜか一人だった。
「どうだい。鬼一はしっかりやってるか?」
「え…ええ。今、永倉さんの声を聴いて、二階の、きっと押し入れに隠れちゃったけど。元気にやってますよ?」
「ああ、ビビらなくていいのに。今日はおれ一人だから。どうした?そんなに汗かいて?」
わたしは額の汗を拭った。
「え?あ、いや!いま買い物から帰ってきたばかりなので」
「あ、そうなの」
「今日はどうされたんですか…?」
「いやあ、実はまたひとり、脱走しちゃってさあ」
「そうなんですか。大変」
心臓が早鐘のように打った。
「あ、お茶もらえる?」
「あ!はい!少々お待ちを!」
冗談じゃない!
なんでわたしがドキドキしなきゃなんないの。
お茶を持ってくると、永倉さんは湯呑を包み込むようにして手を温めながら、話をつづけた。
「実はいま、屯所を引っ越すことになってバタバタしてるから、そいつがいなくなったことはまだ俺しか気づいてないんだ」
え?
「だから、ひとまず俺が遠方の仕事を言いつけたってことにして、時間を稼いでるんだけどさ」
え?え?
「けど、さすがにその言い訳もキツくなってきてな。そろそろ時間切れだ。早く連れ戻さないと」
それで、永倉さんはひとりで大谷さんを探しまわってたんだ。
「…いいとこありますね」
わたしは少し暖かい気持ちになった。
けど。
「わたし、その脱走したひとが、新選組の隊服を着た人たちに追われてるのを見ました」
「あちゃあ!見つかっちまったか。あのバカ」
わたしは思い切って、今日あったことを正直に永倉さんに話した。
「え?じゃあなに?あいつ、いま、この店の裏に隠れてんの?」




